あるスピーカーの述懐(その28)
いまあなたの目の前にあって、音を鳴らしているスピーカーは、
あなたにとって良友なのか、それとも悪友なのか。
悪友といえるスピーカーを鳴らしてきた人と、
悪友といえるスピーカーとは無縁のオーディオを送ってきた人。
どちらがしあわせなのだろうか。
いや、どちらが不幸なのだろうか。
いまあなたの目の前にあって、音を鳴らしているスピーカーは、
あなたにとって良友なのか、それとも悪友なのか。
悪友といえるスピーカーを鳴らしてきた人と、
悪友といえるスピーカーとは無縁のオーディオを送ってきた人。
どちらがしあわせなのだろうか。
いや、どちらが不幸なのだろうか。
1980年ごろ、トリオがΣドライブという方式を、
プリメインアンプ、パワーアンプに採用していた。
リモートセンシング技術を応用したもので、
スピーカーケーブルを二組使うことで、NFBループ領域を拡大するものだった。
この時、トリオはスピーカーの逆起電力を測定するために、
特殊なユニットを開発していた。
二組のボイスコイルと磁気回路をもつユニットである。
一つのボイスコイルは通常のボイスコイルで、パワーアンプと接続されている。
その後方にもう一つのボイスコイルがある。
もちろんボイスコイルボビンは同じである。
二つのボイスコイルは連動している。
このボイスコイルが逆起電力の検出用である。
当時の日本のメーカーは、こういうことまでやっていた。
いま思うと、さらにもう一歩突っ込んで、
磁気回路を対称磁界と非対称磁界の両方で作り、
対称磁界と非対称磁界で、逆起電力に変化が発生するのか、
発生するとしたら、どういう変化を示すのか、
そこまで測定してほしかった。
非対称磁界と対称磁界のユニット、
それぞれで、どういう音の違いが生じるのか、
スピーカーの開発者でなければ聴く機会はない、といっていい。
私も聴いたことはない。
どれだけの音の違いがあるのかは、正直わからない。
もしかするとそれほどの音の違いはないのかもしれない。
なのにJBLのSFGのアピールがうまくて、対称磁界でなければ──、
そんなふうに思い込んでいるだけなのかもしれない。
ただボイスコイルの種類によっても、
対称磁界と非対称磁界の音の違いのあらわれ方には差が出てくるであろうことは、
容易に想像できる。
ボイスコイルの幅がトッププレートの厚みよりも短く、
しかも最大振幅においても、
ボイスコイルの端がトッププレートからはみ出さない、
つまりショートボイスコイルであれば、
対称磁界と非対称磁界の音の違いは、それほど大きくないはずだ。
トッププレートの厚みと同じ幅のボイスコイルであれば、
振幅が大きくなれば、ボイスコイルの端がはみ出すことになり、
ボイスコイルの一部が非対称磁界に中におかれることになる。
となるとショートボイスコイルよりも、音の違いが大きくなるだろうし、
同じ考えでいけばロングボイスコイルであれば、より大きくあらわれるはずだ。
実際はどうなのだろうか。
1980年前後に、コバルトの世界的な不足により、
アルニコマグネットからフェライトマグネットへの変更が、
各スピーカーメーカーで行われた。
タンノイもアルテックもJBLも、アルニコからフェライトへという流れに逆らえなかった。
この時、JBLだけが、対称磁界ということを謳った。
アルニコとフェライトでは、磁気特性の違いにより、最適な形状が違ってくる。
そのためスピーカーユニットの磁気回路の設計も、当然変更になる。
JBLは、SFGということを積極的にアピールした。
SFGとはSymmetrical Field Geometryである。
フェライトマグネットはドーナツ状であり、外磁型となる。
フェライトマグネットをはさみこむようにトッププレートとバックプレートがある。
磁気回路のセンターポールピースがあり、
このポールピースとトッププレートのあいだに磁界が発生する。
ここで重要になるのはポールピースの形状である。
通常のフェライトマグネットのユニットが円筒状であるのに対して、
JBLのSFGユニットはT字状になっていた。
ポールピースがただの円筒状だと、非対称磁界になってしまう。
ポールピースがT字状であり、
T字の横棒の部分がトッププレートと同じ厚みであるSFGユニットでは、
対称磁界となる。
JBLは特許を取得していたはずだ。
だから他社はマネすることができなかった。
けれど、それからずいぶん時間が経っている。
特許は切れている(はず)。
振動板やフレームとか、外側から見えるところに関しては、
各スピーカーメーカーが、積極的にアピールしている。
マグネットについても同じである。
けれど磁界が対称であるのかそうでないのか。
このことに触れているメーカーはどれだけあるのだろうか。
二十年ほど前には、
ベートーヴェンの交響曲もブラームスの交響曲も立派に演奏できる指揮者が大勢いた──、
そんなことを1980年代の後半に、
福永陽一郎氏がレコード芸術に書かれていたと記憶している。
全面的に賛同するわけではないが、
福永陽一郎氏がいわんとされているところには共感するだけでなく、
スピーカーにおいても、いえることのような気がする。
スピーカーの進歩は確かにある。
その進歩によって、ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が、
立派に鳴ってくれるようになったとはいえない。
昔のスピーカーには、
ベートーヴェン、ブラームスの交響曲を立派に鳴らしてくれるモノが、
ひしめていた──とはいえないものの、
立派に鳴らしてくれるスピーカーが確かにあったことは、はっきりといえる。
いまはどうだろうか。
ここでも、耳に近く(遠く)、心に近く(遠く)がいえる。
心に近い音のスピーカーがあってこそ、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれる、ともいえるし、
ベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲が立派に鳴ってくれるからこそ、
心に近い音のスピーカーといえる。
福永陽一郎氏は、確かに「立派」とされていた(はず)。
この「立派」をどう解釈するかでも、心に近い(遠い)が変ってこよう。
トロフィーオーディオとして選ばれたスピーカーは、
いかなるモノであったとしても、
そして、そのスピーカー(トロフィースピーカー)で聴く人がどういう人であったところで、
心に近い音は、絶対に聴くことはできない。
心に近い音がある。心に遠い音もある。
耳に近い音がある。耳に遠い音もある。
耳に近く、心に遠い音がある。
耳に遠く、心に近い音がある。
耳に遠く、心に遠い音と耳に近く、心に近い音ならば、
耳に近く、心に近い音を、誰もが選ぶだろう。
まさか耳に遠く、心に遠い音を選ぶ人はいないはずだ。
耳に近く、心に遠い音と耳に遠く、心に近い音。
どちらをとるのかは、人によってわかれるように思う。
この選択が、パッシヴな聴き手とアクティヴな聴き手の別れ道なのかもしれない。
アクティヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択、
アクティヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択。
この四つのマトリクスがある、と考える。
どの選択が幸せなのかは、なんともいえない。
アクティヴ同士がいい、とは思っていない。
アクティヴな聴き手なら、パッシヴなスピーカーを選ぶことが多いのではないだろうか。
パッシヴな聴き手は、パッシヴなスピーカーではなく、
アクティヴなスピーカーを選ぶ傾向があるようにも感じる。
悪友。
辞書には、よくない友人。親しみをこめて、親友や遊び仲間にもいう──、
とある。
良友。
辞書には、よい友達。つきあってためになる友達。益友──、
とある。
(その18)で、バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人に、
ある人が、その欠点をそれとなく指摘した人がいた、と書いた。
それまでの友達関係がそれで崩れてしまった──。
欠点を指摘した人は、
指摘するまではバーンスタインのマーラを聴いて、ひどい録音だと、言った人にとって、
良友だったのだろうか、そして指摘後は悪友になったのか、それともどちらでもなくなったのか。
私にも同じ経験はある。
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人とは、
なんだかんだ二十五年のつきあいだった。
割と頻繁に会うことも多かったので、周りからは友達関係だと思われていたはずだ。
けれど、別項で書いているようにあまりにもひどくおかしな音を出していた。
そのことを指摘した途端に、友達関係は終った。
指摘したことをまったく後悔していない。
そのことをまた書いているのは、知人にとって私は、当時良友だったのか悪友だったのか。
指摘後は、どうだったのか。そのことを、この項を書いていて思ったからだ。
知人は、いまでは良友との関係を大事にしているようである。
互いの音の良さを認め合う(褒め合う)、そういう関係を築いているようでもある。
良友しか求めない、良友しか周りにいないオーディオマニアがいる。
悪友と呼べる仲間がいるオーディオマニアがいる。
ここで、しつこいぐらいに、伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
を引用しておく。
自作スピーカーで聴いて、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人を知るまでは、
私は伊藤先生の言葉を、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
というふうに受け止めていた。
《良否は別として》のところを抜きにして、受け止めていた。
もっといえば、いいスピーカーは選ぶ人を試していた、という認識であった。
それがバーンスタインのマーラーをひどい録音だ、という人と会って、
確かに伊藤先生のいわれるとおりだ、と再認識したわけだ。
《良否は別として》、ここのところの意味を初めて実感できた。
ダメなスピーカーも、また選ぶ人を試していることを知ったわけだ。
別項で「598というスピーカーの存在」を書いている。
このテーマを書こうと思ったことの一つに、
伊藤先生の言葉がベースにあり、
バーンスタインのマーラーの録音を一刀両断で、
ひどい、と切り捨てた人の存在がある。
自分が試されている、とは微塵も感じない人がいる。
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った人は、
その自作スピーカーで長いこと音楽を聴いてきている。
彼にとっては、もっとも信頼できるオーディオ機器なのだろう。
そのことは理解できる。
けれど雑共振という、かなり大きい欠点も最初から抱えていた。
彼と、私よりもずっと以前から親しかったある人は、
その欠点を、それとなく指摘したそうだ。
その結果、彼との仲は気まずくなったそうだ。
そうだろう。
そうなることは明白だし、だからあくまでもさりげなく、
彼を傷つけまいとしての助言であったそうなのだが、
そうであっても彼はまったく受けつけなかった。
雑共振の発生はやっかいである。
すぐに雑共振が収束すればいいのだが、そうはいかない。
雑共振がおさまらないうちに、次の、エネルギーの大きな信号が加わる。
音楽を鳴らす、ということは、そういうことの連続である。
それでも自作した本人が満足して聴いていれば、
周りがとやかくいうことではない──、という考えもある。
実際、彼は大満足で聴いていた。
彼なりに不満点というか、もっとよくしていきたい、と考えていたのだろうが、
自作スピーカーをまるごと交換することは考えていなかった。
くり返す、それはその人の選択なのだから、それでいいのだ。
けれど、それでは録音について、とんちんかんなことをいうことになる。
雑共振が顕になりにくいプログラムソースでは、
ある程度の判断はできても、そうでないプログラムソースでは、
バーンスタインのマーラーに対しての発言のようになってしまう。
そこに、彼はまったくの疑問をもたない。
彼は一刀両断でバーンスタインのマーラーの録音を切り捨てたことは、
彼にとっては、けっこうな快感なのだったのだろう。
(その12)で、スイングジャーナルからの録音評の仕事をことわった人のことを書いた。
録音評は、オーディオ機器の試聴とは少し違うところがある。
オーディオ機器の場合は、その出版社の試聴室で聴くことが主である。
自宅試聴もないわけではないが、総テストならば、試聴室ということになる。
同じ聴くということ、試聴するということでは録音評に関することも同じであっても、
こちらは自宅で、ということが多い。
いまもレコード芸術では録音評があるけれど、
これを担当している人たちが、レコード芸術の試聴室に集まって試聴しているとは思えない。
それぞれ自分のシステムでの試聴のはずである。
(その12)でのくり返しになるが、このことにさほどの違いはなかろう、と思っている人は、
聴くことの難しさと怖さを理解していないし、
録音評こそ、自分の音について語っている、ということに気づいていない。
これまでに何度か引用している伊藤先生の言葉──、
《スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。》
これを改めて、ここで書いているのは、「良否は別として」のところである。
もう二十年近く前のことだが、ある人のところで、
バーンスタインのマーラーの五番を聴いていた。
ドイツ・グラモフォン盤である。
そのスピーカーの主(自作スピーカーだった)は、
バーンスタインのマーラーを聴いて、ひどい録音だ、と言った。
当時、ラウドネス・ウォーということが頻繁に語られていた時でもあった。
彼は、ひどい録音だね、のあとに、ラウドネス・ウォーだね、とも言った。
彼がそういうのも理解できなくはなかった。
彼の自信作であるスピーカーで聴くと、そう聴こえるからである。
トランペットだけの出だしはまだよかった。
けれどオーケストラが総奏で、しかもフォルティシモで鳴り出すと、
もうひどい。耳を蔽いたくなる。
スピーカーのあちこちが雑共振をおこしているからだ。
バッフル板にとりつけることで共振をおさえる設計のホーンを、そうしないで、
しかも雑共振を附加する取り付け方をやっている。
これではホーンが受け持つ帯域に、エネルギーの強い音が入ってくると、もうひどい。
似合うスピーカーを、オーディオマニアは選んでいるのだろうか。
音が良ければ、似合わないスピーカーを選んでもいいものなのか。
世評の高いスピーカーならば──、価格の高いスピーカーならば──、
似合わなくてもいいのだろうか。
なにをもってして、似合う、というのか。
それを考えずのスピーカー選びはないのかもしれない。
聴き手しか求めないスピーカーがあるような気がしている。
鳴らし手を求めているスピーカーが、一方にある。
弾き手を求めるスピーカーも、あってほしい。
スピーカーはしゃべってくれない、何かを話してくれるわけではない。
スピーカーは音を鳴らす器械ではあっても、具体的な言葉で、
こうしてほしい、とか、もっとうまく鳴らしてほしい、とかを、伝えてくれるわけではない。
スピーカーから聴こえてくるのは、音である。
その音は歌であったり、ピアノの音であったり、電子楽器の音であったりする。
アンプから送られてきた信号を、振動板の動きに変換して、音を出すだけである。
100円程度で買えるスピーカーであっても、
一千万円を超えるスピーカーであっても、そのことにかわりはない。
つまり100円で売られているスピーカーも、
一千万円を超えるスピーカーであっても、
自分の意志を、具体的な言葉で伝えてくれるわけではない。
スピーカーは、その音しか伝えてくれない。
だから、その音を翻訳して、
スピーカーが何を要求しているのかを感じとれなくては、
そのスピーカーの聴き手は、そのスピーカーの鳴らし手にはなりえない。
そのスピーカーを買ってきて、設置して、
アンプに接いで音を鳴るようにする。
それだけでは、そのスピーカーの鳴らし手とは、まだ呼べない。
時にはアンプを替えたり、ケーブルを交換したり、
置き場所も変えてみたりして、音を良くしようとする。
良くなった、そうでもなかった、悪くなった──、
と一喜一憂しただけでも、スピーカーの鳴らし手とは、まだいえない。
目の前にある、そのスピーカーがどう鳴らされたがっているのか、
それを感じとって鳴らすことが出来て、はじめて鳴らし手といえる