Archive for category 再生音

Date: 5月 1st, 2016
Cate: High Fidelity, 再生音

ハイ・フィデリティ再考(現象であるならば……)

High Fidelity Reproductionは高忠実度再生であり、
何に対して高忠実度なのかというこで、原音に、というこで原音再生でもある。

ここでの原音の定義は人により違うこともある。
高忠実度再生とは原音に高忠実度であることを目指しているわけだが、
高忠実度再生とは原音の追求なのだろうか、それとも原音を模しているだけなのか。

そんなことを考える。
原音を高忠実度に模す──、
高忠実度再生ではない、とはいえない。

ならば……、と考える。
音楽の理想形ということを。

音楽の理想形を追求しているのか、それとも模しているのか。
音楽の理想形を模すこともまた高忠実度再生といえるのではないのか。

このブログを始めたころに「再生音とは……」を書いた。
そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」とした。
直感による結論であり、この結論が間違っていなければ、
再生音は現象であり、それは模すことのはずだ。

Date: 3月 6th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(音の修復とは)

KK塾、六回目の講師、澤芳樹氏が語られた再生医療。

ここでの「再生」と再生音の「再生」とでは、同じではないことはわかったうえで、
それでも同じ「再生」ということ、
そして四回目の講師、長谷川秀夫氏の話に出てきた、修理、修繕。

これらのことにこだわって考えてなければならないことがあるような気がしている。

ハートシートは心臓を修復する。
まさに再生医療である。

ハートシートは魔法のようにも思える。
がハートシートは死んでしまった細胞は修復できない。
そんなことを可能とするのは魔法でしかない。

ここで考えるのは、再生音の元となるものは、どういう状態なのか。
死んでしまっているものなのか、仮死状態なのか、それとも別の状態なのか。

音の修復といっても、それによって意味が違ってくる。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(CBSソニーのピアノロールLPについて)

CBSソニー「世紀の大ピアニストたち」の七枚のLPは1977年に発売になり、
ステレオサウンドでは44号に広告が載っている。

広告にもあるように、当時のソニーの会長だった盛田昭夫氏のコレクションをレコード化したものだ。
45号の記事とあわせて読むと、盛田氏のコレクションは録音時点で998本で、
録音に使われたのは約100本、コレクションの一割がレコードになったわけである。

監修は岡先生であり、
第一巻がヨーゼフ・ホフマン、第二巻がイグナツ・ヤン・パデレフスキー、
第三巻がアルフレッド・コルトー、
第四巻は伝説の巨匠たちというタイトルで、ゴドフスキー、パハマン、フリートハイム、ガブリロヴィッチなど、
第五巻は若き比の巨匠たちで、ホロヴィッツ、バックハウス、ルービンシュタイン、フリートマンなど、
第六巻は女流ピアニスト名演集で、ランドフスカ、エリー・ナイ、ノヴァエスなど、
第七巻は大作曲家、自作自演集で、ガーシュイン、プロコフィエフ、サン=サーンス、グラナドスなど、
となっていて、この企画はCSBソニー創業10周年記念でもあり、
エジソンが蓄音器を発明した1877年からちょうど100年目ということで、実現になった、とある。

録音は盛田氏の自宅で行なわれている。
ピアノはスタインウェイで、フォルセッサーはアメリカ・エオリアン社のデュオ・アート。

録音場所がスタジオやホールではなく、個人の住宅ということから、
スタインウェイの調律は、この条件下でピアニスティックに響くように、
調律師の枡渕直知氏が、一日半かけて行われている。

CBSソニーにとって、この「世紀の大ピアニストたち」が初のデジタル録音である。
テスト録音はすでに何回を行っていたが、当時のデジタル録音には、まだ編集の問題が残っていた。

45号の記事では、76cmのアナログ録音では2mmきざみ(約1/400秒に相当する)の編集をやっていたけれど、
同レベルでのデジタルでの編集はできなかったため、
こまかな編集を必要とする録音は避けようということで、
ピアノロールによる自動ピアノがデジタル録音第一段に選ばれている。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その26)

正月休みに何をやっていたかというと、
Huluで、スタートレックの映画版を一作目から順に観ていた。

全部で十本ある。
TOS(The Original Series)が六本、
TNG(The Next Generation)が四本。
すべて映画館で観ている。それをあらためて観ていた。

TOSにはスポック、TNGにはデータが登場する。
スポックはバルカン人と地球人のハーフであり、
スポックの口ぐせ「船長、それは非論理的です」からもわかるように、感情を表に出すことはない。
バルカン人の設定が、感情を完全に抑制できるためであり、スポックは地球人とのハーフのため、
この部分が完全なバルカン人とはちがう。

データはアンドロイドであり、当然のことながら感情をもたない。
けれど感情チップを装着している。

くわしいことは映画スタートレックを観ていただきたいのだが、
スポック、データの存在は、人間とは何かを問いかけてくる。

特にアンドロイドのデータがそうだ。
映画版だけでなくテレビ版のTNGをみていた人ならば、
データの変化、進化が描かれることで、人間とは何者なのかを考えることになる。

人と限りなく近い存在であり、
人よりも優れた能力をスポックもデータももっている存在でありながら、
感情という点に関して、人とははっきりとちがう。

だからこそスポックとデータは、スタートレックにおける重要な存在といえる。

私にとって、オーディオを考えるうえで、再生音とは何かを考えるうえで、
このふたりの存在といえるのが、
アンドロイドのピアニストであり、ピアノロールによる自動ピアノなのだ。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その25)

ピアノロールによる自動ピアノの再現性とは、いったいどの程度なのだろうか。
ステレオサウンド 45号では、インタヴュアーの坂氏の、
「巨匠たちの演奏スタイルがかなりのところまできくことができる」を受けて、
京須氏と半田氏は次のように語られている。
     *
京須 ええ、まずそれがいえると思います。それから、強弱が16段階までコントロール出来るといっても、ある範囲内での16段階で、おのずと限界はありますけれど、SP録音とくに一九三〇年代初頭以前のものは、感覚的には演奏がおしはかれるような気がするが、本当のところは分らないのに対して、こちらのほうが骨格ははっきり分ります。たしかに微妙なところは出ないかもしれませんが、演奏の骨組みはひじょうにはっきり出ます。ですから、SPあるはSP復刻盤をきいて、情緒的に描いていたピアニストのイメージと、ややちがったものが出てきているように思うんです。もちろん、ぴったり一致するところもあるけれど、全部が全部一致しない。
 われわれがSPの復刻盤などをきいてムード的に描いていた、今世紀初頭のピアニストの演奏スタイルに対する認識を変えるひとつのきっかけになるのではないか、そんな気がしています。このことは、実際に音をきいてみてはじめて気がついたことなんですよ。
半田 ぼくなんかはもっと単純に、機械がピアノを弾くんだからどれも同じ音がするだろうなどと、最初は思っていたんですね(笑い)。ところが実際に録音してみると、たとえば女流ピアニストはやっぱり女性の音なんですよ。そのちがいが出てくるんでびっくりしたんです(笑い)。
京須 リストの弟子なんかは、やっぱりものすごく豪快に弾いたり……(笑い)。ホフマンとパデレフスキーはぜんぜんちがうし、そういうところがちゃんと出てくるんですね。
     *
1977年当時は気がつかずに読んでいたのは、
京須氏も坂氏も「演奏スタイル」といわれているところだ。

ピアノロールによる自動ビアノが、同時代のSP盤録音よりも優れていたといえるのは、
この演奏スタイルの記録かもしれない。

京須氏が、そのことについて、もう少し詳しく語られている。
     *
京須 ピアノ・ロールの再生というのは、たしかに実際の演奏とは多少ちがっているのでしょうから、厳密にはいえないのかもしれないんだけれど、さっきもちょっとふれましたように、コルトーにしてもホフマンにしても、SPをとおして語られているほど情緒的でも崩れてもいないような気がするんですね。べつないいかたをすれば、過度にロマンティックではないのではないか、と思う。もちろん現代のピアニストの演奏に比較すれば、そうだったのかもしれないけど、一般に語られているほど気分のままに弾いているとは思えないんです。いわゆる耽溺的な演奏とばかりはいえないような気がします。
 たとえば、コルトーやバウアーのものでとくに思ったんですが、テンポ・ルバートをぼくたちはひじょうに心情的に受けとめているんだけれど、ピアノ・ロールでこのひとたちのテンポのゆれをきいていると、かならずしも心情的な表現のためにテンポを動かしているとは思えないんです。カラッと、あっけらかんと弾いていて、ただ、たとえば歌舞伎や踊りのきまりの手と同じように、こういうところはテンポを落とすんだといった、即物的といってもいいような意味での、ひとつのスタイルとして、テンポを変えているのではないかという気がします。だからこちらが、そこにあまり心情的なものをのっけてきくのは、むしろまちがっているようにも思うんです。
     *
今回、ピアノロールのことを思い出して、45号を取り出して読み返した。
これが約40年前の記事なのか,と思い読んでいた。

40年前のステレオサウンドだからこそ、というおもいももちながら読んでいた。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その24)

五味先生が、「ピアニスト」(新潮社刊「人間の死にざま」所収)で、
ホフマンについて書かれているところがある。
     *
 私はげんなりし、暫く、音を出さぬスピーカーを眺めていたら「これはどうですか?」社長が、物故せる作曲家の自作自演のピアノ・ロールから録音したレコードを取出してきた。マランツ・ファー・イーストが米スーパースコープ(ステレオ)のシリーズとして出したもので、マーラー自身のピアノ譜に改編した『第五交響曲』第一楽章、ドビュッシーの自ら弾く『子供の領分』と『前奏曲』から〝沈める寺〟〝パックの踊り〟〝野を渡る風〟、ラベルの『高雅にして感傷的なワルツ』、スクリアビン『前奏曲』、マックス・レーガー『間奏曲』変ホ長調、プロコフィエフ作品十二から〝行進曲〟〝前奏曲〟〝スケルツォ〟〝ガヴォット〟及び『三つのオレンジの恋』間奏曲など十二枚である。もっともわかり易いラフマニノフ自身の『前奏曲』嬰ハ短調、ト短調から聴かしてもらった。わかり易いというのは似たピアノ・ロール・シリーズの米エヴェレスト盤でヨーゼフ・ホフマンの弾いた同じ『前奏曲』嬰ハ短調、ト短調を私は聴いているからだが、念のために言えば、ヨーゼフ・ホフマンはアントン・ルービンシュタイン門下でラフマニノフ、レヴィンと並ぶ三羽烏と称され、中でももっとも頭角をあらわした天才少年だった。岡俊雄氏の解説によれば、ある日カーネギー・ホールでホフマンのリサイタルを聴いたラフマニノフが、ショパンのロ短調に至って「これで私のレパートリーがひとつ減ってしまった。ルービンシュタイン先生以来、こういう演奏はきいたことがない。もうやりようがない。あれは音楽そのものだし、唯一のやり方だ。ああ弾けるのはほかに誰もいない」と長嘆したそうである。ホフマンが今日ほとんど知られていないのは、岡氏の説明では、アコースティック時代の音がひどすぎるのですっかり彼はレコード不信になり、つまりその名演をレコードで知る機会が吾人にはなかったからだろうという。ホロヴィッツあたりは、でもホフマンにあこがれ彼をもっとも畏敬していたそうである。
     *
この時代のすべての演奏家がホフマンと同じだったわけではないだろう。
ピアニストはピアノロールとSP盤のどちらかを選択、もしくは両方の録音を残すことができたが、
他の楽器の演奏家、指揮者、声楽家には、この選択肢はなかった。

聴き手側にもいえる。
ピアノロールによる「録音」とSP盤による録音の両方を残しているピアニストもいる。
なのに、なぜピアノロールの「録音」を軽視してきたのか、と私は反省している。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その23)

ステレオサウンド 45号で、
CBSソニーの京須氏と半田氏が語られているくだりがある。
     *
半田 日本では自動ピアノというと、なんとなくオモチャ扱いでしょう。
京須 仕掛けものというか、からくりといった印象が強いんですね。
半田 いずれにしてもニセモノだということでしょう。
京須 だから、どんなに雑音のかなたからきこえてくる演奏でも、SPだったら本物だということになって……(笑い)。このピアノ・ロールでも、そのひとが演奏したものを再生してるんだけど、どうもニセモノ扱いをされるんですね。
     *
ここのところを当時も読んでいた。
それでも、私の中には、ピアノロールによるものは、どこかニセモノというに感じていた。
しかも聴いてもいないのに、である。

ピアノロールは仕掛け、からくり、とあるが、
オーディオも仕掛け、からくりであることに変りはない。
そのころの蓄音器にしても、そういえる。

けれどピアノロールの全盛時代は1920年代であり、
これはSP盤の初期と重なっているし、ピアノロールは1950年代まで存在していた。

45号ではインタヴュアーの坂氏が語られている。
     *
広い意味での録音・再生装置としての価値を、少なくともLPレコードの出現までは認められていた、といえますね。事実、このシリーズにも収められているホフマンという巨匠などは、SPにはほとんど録音が残っていなくて、むしろピアノ・ロールのほうに数多く残っているほどですから。
     *
つまり、このことはホフマンは、当時のSP録音よりもピアノロールによる「録音」のほうが、
自身の演奏を正確に伝えることができる、という判断だった、ともいえよう。

もちろん当時のピアノロールに「録音」も、
いまの録音技術からみれば未熟であっても、
それでもホフマンにとってはSP録音はもっと未熟ということだったのではないか。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その22)

アンドロイドのピアニストはまだ実現していない(まだいないというべきか)。
けれど、ことピアノに限れば、19世紀後半から自動ピアノが存在している。

ピアノロールと呼ばれる穿孔された巻紙(これが演奏の指示を出す機構)と、
ピアノを弾くフォルセッサーという機構から構成される。

フォルセッサーはピアノ内部に組み込まれるタイプと、
外部から鍵盤を叩くタイプとがあり、どちらもコンプレッサーと穿孔による気圧差で弁を動かしている。

自動ピアノによる記録は、古い時代から行われてきた。
SP盤には残っていない演奏家の演奏も、ピアノロールには記録され、いまも聴くことができる。

ピアノロールによる自動ピアノの録音は、昔から各レコード会社が行ってきた。
日本ではCBSソニーが1977年に「世紀の大ピアニストたち」という七枚のLPを出している。
マランツからも出ていて、このレコードについては五味先生が「ピアニスト」で触れられている。

CBSソニーの「世紀の大ピアニストたち」が発売されたとき、
ステレオサウンドは「ピアノ・ロールのレコードをめぐって」という記事を、
45号に7ページ掲載している。

CBSソニーの京須偕充、半田健一の二氏を、坂清也氏がインタヴューしている。

45号が出た時、私は中学生だった。
なんとなく、この七枚のLPに興味はもったものの、
レコードはいつでも買える、という気持と、他に買いたいレコードが数多くあったこともあって、
それ以上の興味をもつことはなかった。

それに、そのころは、いまこうやって再生音について、あれこれ書くことになるとは思っていなかった。
いまごろになって、自動ピアノのレコード(LP、CDに関係なく)は、
きちんと聴いておくべきだった、と反省している。

もちろん、いまも自動ピアノのCDは、いくつかのレーベルから出ているし、
2007年には、グレン・グールドの1955年のゴールドベルグ変奏曲を、
まったく新しい自動ピアノによって再現したSACDが出ている。

この自動ピアノをつくりあげたメーカーは、re-performanceと、その仕組みを呼んでいる。

ステレオサウンド 45号の記事を読み返してみると、興味深い。

Date: 12月 28th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その21)

再生音とは何かについて考えていくうえで、再生音の定義もはっきりさせていく必要がある。

再生音の定義とは? と問われ、はっきりと答えられるだろうか。
そんなの簡単じゃなないか、という人もいるが、
その人たちが再生音の定義について答える。

それに反論がある。また答える。
さらなる反論がある……。そういうことをくり返していって、どこまで答えられるだろうか。

再生音の定義。
ひとつには、記録されたものを元に出した音がある、とする。
アナログディスク、CD、カセットテープなどに記録されているものを元にして、
アンプで増幅しスピーカーを鳴らす。これも再生音であるなら、
作曲家が残した楽譜を元に演奏家が音を出すのもまた、再生音といえないだろうか。

音符という記号を使い、作曲家が作曲したものを残している。
それを演奏家が楽器を使い、自分の声によって、音にする。

それは実演であって、再生音とはいえない、と反論があるだろうが、
厳密に考えていくと、ほんとうにそういえるのだろうか……、と私は自信を失っていく。

そんなことまで考えていく必要があるのだろうか。
そういう疑問も持たないわけではない。
けれども、再生音について考えていくとは、そういうことだと私は思っている。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その20)

桂米朝師匠の米朝アンドロイドのニュースは何かで読んだ記憶がある。
そのときはさほど関心をもてなかった。
石黒浩氏の名前もそのときに目にしているはずだが、記憶していなかった。

11月、12月たてつづけて石黒浩氏の講演をきいて、自らの不明を恥じた。

いまこの項でアンドロイドのことを続けてい書いている。
読まれた人の中には、意味のないことを書いていると思われている人もいるはずだ。
私だって、「再生音とは……」というテーマで書いていて、
石黒浩氏の講演をきいたからこそ、そうなっただけであって、
以前のままであったならば、意味のないことを書いている、と思ってしまうだろう。

これまで私は再生音とは、
スピーカー(もしくはヘッドフォン、イヤフォン)から発せられた音について語ることだと考えていた。
けれど、それだけで考えていては、再生音の正体をはっきりと捉えることはできないように思うようになった。

考えてみれば、最初の再生音はエジソンの蓄音器だとすれば、
その音はいわゆるスピーカーから発せられた音とはいえない。

にも関わらず、再生音をスピーカーから発せられた音という制約を、
いつのまにか自分でつくってしまっていたことに気づいた。

別項で「2015年をふりかえって」というタイトルで書いているところだが、
私にとって2015年でもっとも大きなできごとといえば、
アンドロイドによる再生音について考えるきっかけを得たことだ。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その19)

オーディオは2チャンネルのシステムが基本になっている。
録音も再生も、基本的には2チャンネルであり、
ステレオといえば2チャンネルによる録音再生システムということになる。

2チャンネルシステムは、聴き手の錯覚を利用している(錯覚に頼っている)ものである。

この錯覚があるからこそ、家庭という限られたスペースで、
ときにはナマをこえているのではないだろうか、と思える音で音楽を聴けることもある。

人間は錯覚をする動物なのだろう。
グレン・グールドそっくりのアンドロイドのピアニストが、
ステージにあらわれピアノを弾く──、
そういうコンサート(コンサートと呼べるのかどうかは便宜上省く)を聴いている(観ている)人たちには、
どういう錯覚が起っているのだろうか。

錯覚は起っていない、とは私は思わない。
錯覚の科学については専門家ではないから、詳しいことは何も書けないが、
なんらかの錯覚は、この場合でも起るような気がしている。

KK塾三回目の講師、石黒浩氏によると、
桂米朝師匠の米朝アンドロイドによる寄席のチケットは、約一時間ほどで毎回売切れになるとのこと。
落語の人気がそれほどあると思えない。

それはやはり米朝アンドロイド見たさに来る人が多いからなのだろうが、
それでも米朝アンドロイドによる落語が始まると、皆聞き入っている、とのこと。

来る人は皆、米朝アンドロイドによる落語だということはわかっている。
それでもそういう状態になるということは、ほぼすべての人が錯覚を起している、ということなのだろう。

この錯覚はいったいどういうものなのか。
2チャンネルのシステムで起る錯覚と、どこまでが同じで、どこからが違うのか。
素人頭で考えている。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その18)

こんなことも考えている。
もしグレン・グールドが生きていたら、と。

アンドロイドのピアニストに最も強い関心を示すのは、やはりグールドのはず。
グールドは、アンドロイドのピアニストを、自分の分身として捉えるのではないだろうか。

だとしたら、グールドはアンドロイドのピアニストで何をするのか、
アンドロイドのピアニストに何をさせるのか。

スタジオでグールドが「録音」する。
そこでの演奏を、アンドロイドのピアニストに再現させる。
コンサートホールにおいて、アンドロイドのピアニストに、スタジオでのグールド自身の演奏を再現させる。

こんなことを考えている。
これは、そのコンサートホールに集まった人たちにとっては、何なのか。

グレン・グールドとそっくりの外観をもつアンドロイドのピアニストが、
グールドが「録音」した演奏を、同じピアノを使って再現している。

コンサート・ドロップアウトしたグールドが、コンサートホールに戻ってきた、と受け取るのか。
とすれば、そこでの聴衆はコンサートホールで実演と認識していることになる。

けれど、グールド自身はどう認識しているのだろうか。
スタジオでの「録音」を再現しているのだから、レコード・コンサートのつもりかもしれない。

Date: 12月 20th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その17)

こんな状況を考えてみる。
自分のリスニングルームにピアノを用意する。
そのピアノで、あるピアニストに演奏してもらう。

同じピアノを使って、アンドロイドのピアニストにさきほどの演奏を再現させる。
これは原音再生となるのだろうか。

ピアニストの演奏をアンドロイドのピアニストに再現させるためには、
おそらくそうとうな数のセンサーが必要となるだろう。
ピアニストにもセンサーがいくつも取りつけられ、ピアノにもいくつものセンサーが取りつけられる。

精度を高めるためにはセンサーの種類と数、小ささ、軽さが要求される。
ここで演奏を捉えるのはマイクロフォンではなく、各種センサーとなる。

これまでは音によって演奏を記録してきたが、
こういうアンドロイドが可能になれば、音ではなくピアニストの動きそのものの記録であり、
ピアニストの動きによって演奏を記録することになる。

これもオーディオなのだろうか。

KK塾での講演で石黒浩氏は、
「コピーされた直後から、それはオリジナルとは別のものに成長していく」と話された。
とすれば演奏をこうやって記録(コピー)したアンドロイドは、
元のピアニストとは別物に成長していくのだろうか。

このことと同時に考えるのは、演奏者から演奏家へ、である。
成長することで、アンドロイドのピアニストは演奏者から演奏家になっていくのだろうか。

Date: 12月 19th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その16)

昨晩はKK塾の三回目だった。
講師の石黒浩氏は、人間国宝の落語家、桂米朝師匠の米朝アンドロイドをつくられている。

これから先、さらに技術が進歩すれば、ピアニストやヴァイオリニストのアンドロイドも可能になる。
現役のピアニスト、ヴァイオリニストのコピーをつくりあげる。
外観だけでなく、その演奏テクニックも完全にコピーできるようになる。

そうなったときに、このアンドロイドがピアノを弾く、ヴァイオリンを弾く。
これも録音・再生といえる。
ならば、アンドロイドによる演奏の再現は、オーディオなのだろうか。

スタインウェイのピアノで演奏されたものを、
そのピアニストのアンドロイドで再生する。

再生する際のピアノはスタインウェイを使う。
けれど元の演奏で使われたピアノそのものを使うことができるのは、ごく限られた場合となる。

このアンドロイドのピアニストを個人で購入し、どのピアノで鳴らすのか。
スタインウェイでも、まったく同じスタインウェイのピアノは用意できない。
同じ型番のピアノであっても、一台一台微妙に違う。

その違いをどう考えるのか。
さらに別メーカーのピアノを持ってくることも考えられる。
ヤマハやベーゼンドルファーのピアノを、そのアンドロイドに弾かせる行為は、どういうことなのか。

──こんなことをあれこれ考えている。

Date: 11月 27th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その15)

今日はKK塾の二回目だった。
五反田のDNPホールに行ってきた。

DNPはいうまでもなく大日本印刷のこと。
大日本印刷に関してのことは書く必要はないだろう。

昔、印刷といえば紙にインクで刷っていくものだった。
いまでも印刷と聞けば、紙への印刷を思い浮べがちだが、
印刷の領域は拡がっている。
LSIの製造も、一種の印刷技術であり、
DNPホールのある建物の一階には、さまざまな印刷物が展示してある。

そしてホログラフィックの展示もある。
ニケの女神像があり、その周囲にホログラフィックによる説明が映し出されている。

これは空気に光で印刷している、といえる。

今日はKK塾の開始前に、
大日本印刷の方による大日本印刷とルーヴル美術館との共同取組みについての説明があった。
ここでも光による印刷技術が表示された。

光による空気への印刷。
印刷領域はここまで拡大していることを感じていると、
オーディオの世界も、音による空気への印刷と捉えることができることに気づく。