Archive for category 孤独、孤高

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その10)

「西方の音」の中に「死と音楽」がある。
五味先生は書かれている、ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムについて。
     *
 ケネディが死んだとき、葬儀がモーツァルトの『レクィエム』で終始したのは知られた話だが、この時の実況レコードがビクターから出ている。ラインスドルフの指揮でオケはボストン交響管弦楽団だった、といった解説がこれほど無意味なレコードも珍しい。葬儀の厳粛さは、ケネディが大統領だったことにそれ程深い関わりはあるまい。ましてそれが暗殺された人だった暗さは、この大ミサの荘厳感の中ではおのずと洗われていた。しかし、夫を喪った妻ジャクリーヌの痛哭と嘆きは、葬儀のどんな荘厳感にも洗われ去ることはない。当日の葬儀には数千人の参拝者が集まったそうだが、深いかなしみで葬儀に列し、儀式一切を取りしきっていたのはジャクリーヌという女性ただ一人だ。ケネディを弔うためのレクィエムではなく、彼女のための鎮魂曲だった。私はそう思ってこのレコードを聴いてきた。
 こんど、私がレクィエムをもとめねばならぬ立場になって、さとったことは、右の実況録音のレコードは妻ジャクリーヌのためだけのものであり、これを商品化し、売り出すことの冒瀆についてである。たしかに、売り出すことで葬儀に参列せぬ大勢の人は、たとえば私のように彼女の胸中をおもい、同情し、ケネディの冥福を祈りはするだろう。しかしそれがケネディ自身にとって一体何なのか。彼女の身にとっても。死者を弔う最も大事なことをアメリカ人は間違っている。私の立場でこれは言える。レクィエムを盛大にするのは当然なことだ。録音して永く記念するのもいい。当日の参列者がこのレコードを家蔵するなら微笑ましいだろう。しかし、何も世界に向って売り出すことはない。死者を弔うとは、のこされた妻のかなしみに同情の涙を流すことなどであるわけはないが、その業績を褒め称えることが、未亡人へのいたわりになるなら、飼い猫に死なれた人にあれは可愛い猫でしたと褒めるよそよそしさと、どれだけ違うか。しかも、死者に対し、その遺族への思いやりを示す以外の弔い方など本当はあるわけはないのである。葬儀の実況レコードを売って、その利益金で家族を補助しようというなら話は別である。世の中はもう少し辛辣にできている。そういう補助の必要ない大統領のレコードだから、売れる。けっきょく、アメリカ人はケネディを暗殺したことで間違い、未亡人をいたわることでもさらに大きな誤りを犯した。アメリカという国は、モーツァルトのこの『レクィエム』一枚をとってみても誤謬の上を突っ走っている国だとわかる。
     *
ラインスドルフのモーツァルトのレクィエムも、だからライヴ録音である。
私は「死と音楽」をハタチのころには読んでいたから、
いまにいたるまでラインスドルフの、この実況録音は聴いていない。
おそらく聴くことはない。

数年前に、この録音のことで電話してきた知人がいる。
このときの実況録音はいまもCDで入手できる。

このCDのことを、すごいCDを見つけた、という感じで知人は話してくれた。
かるく興奮しているのは電話越しにもわかった。

私は彼に「知っている」と答え、聴くつもりはない、とつけ加えた。
五味先生が書かれているのを読んでいないのか、とも、
「西方の音」を読んでいる、という彼に言った。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その9)

バーンスタインのライヴ録音といえば、1961年のグレン・グールドとのブラームスのピアノ協奏曲がある。
このディスクが出る以前から、バーンスタインとグールドのテンポの解釈の相違があり、
バーンスタインが演奏前に、今回はしぶしぶグールドのテンポに従う、といった旨を話した──、
そのことだけが伝わってきていた。

だから、このディスクには、バーンスタインのその部分も収録されている。
英語で話しているわけだが、ライナーノートには邦訳がついていてた。
それを読んでもわかるし、それがなくともバーンスタインの口調からも、
決してしぶしぶグールドのテンポにしたがったわけではないことは伝わってくる。

一部歪曲された話が伝わり広まっていたことが、このディスクの登場ではっきりした。

ブルーノ・ワルター協会から、このディスクが発売される時、
このバーンスタインのコメントがことさら話題になっていた。

もしこのライヴ録音が、バーンスタインのコメントを収録せずに、
バーンスタインがそういったことを話したことを知らない聴き手が聴くのと、
前説が収録されたディスクを、そういったことを承知している聴き手が聴くのとでは、
このライヴ録音のドキュメンタリーの意味合いはかなり違ってくるだろう。

ライヴ録音におけるドキュメンタリーについて考えていくと、いくつかのレコードのことが浮んでくる。
たとえばラインスドルフのモーツァルトのレクィエムのことも。

Date: 6月 23rd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その8)

レナード・バーンスタインがドイツ・グラモフォンから1980年に出したベートーヴェンの交響曲全集は、
ライヴ録音ということも話題になった。

このライヴ録音については「バーンスタインのベートーヴェン全集(その7)」でふれているのでくり返さないが、
一般的なライヴ録音とは違っている。

バーンスタインのベートーヴェンの「第九」には、もうひとつ、ライヴ録音がある。

1989年12月25日に、東ベルリンのシャウシュピールハウスで、
ベルリンの壁崩壊を記念して行ったコンサートをおさめたライヴ録音である。
オーケストラはバイエルン放送交響楽団とドレスデン・シュターツカペレの合同を主として、
ニューヨークフィハーモニー、ロンドン交響楽団、レニングラード・キーロフ劇場オーケストラ、
パリ管弦楽団といったオーケストラのメンバーも加わってのものだ。

このふたつのバーンスタインの「第九」の意味合いは同じとはいえない。

1979年のウィーンフィルハーモニーとの「第九」は、
録音のために聴衆が集められてのライヴ録音であり、
いわばスタジオからコンサートホールに場所を移して、聴衆をいれての公開スタジオ録音ともいえる。

1989年の混成オーケストラによる「第九」は、文字通りのライヴ録音であり、
演奏終了後の拍手だけでなく、開始前の拍手もCDでは聴ける。

つまり、1989年のバーンスタインの「第九」は、通常の音楽CDとは少し違う側面もある。
「第九」の終楽章のFreude(歓喜)をFreiheit(自由)に変えている点からして、
1979年の「第九」よりドキュメンタリーとしての側面が色濃くなっている、ともいえよう。

そういう録音をおさめたCDだから、
輸入盤には、ベルリンの壁のカケラがついてくるヴァージョンもあった。

Date: 6月 22nd, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その7)

グレン・グールドがコンサート・ドロップアウトした理由については、本人が語っているし、
これまでにも多くの人が言ったり書いたりしてきている。

コンサート・ドロップアウトするということは、
コンサートを行わない、ということであり、ライヴ録音を残さない、ということでもある。

この、ライヴ録音を残さない──、
このことがグールドのコンサート・ドロップアウトに関係していると考えることはできないのか。

音楽の録音にはスタジオ録音とライヴ録音とがある。
コンサート・ドロップアウトしたグールドの演奏を伝えるのはスタジオ録音されたものによる。

スタジオ録音もライヴ録音もマイクロフォンがありテープレコーダーがあって成り立つ。
ライヴ録音ではないという意味のスタジオ録音には、
文字通り録音スタジオでの録音も含まれるし、どこかのホール、教会を借りての録音も含まれる。

つまりスタジオ録音とライヴ録音は、録音される場所の違いで分けることはできず、
聴衆の存在が、このふたつをわけている。

聴衆のいるいないに関係なく、録音はひとつの記録である。
スタジオ録音もライヴ録音も音の記録である。

同じ記録であるものの、ライヴ録音にはドキュメンタリーとしての側面が強い場合がある。

Date: 2月 6th, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その6)

こんなことを考えながら書いていると、ルートヴィヒ二世のことが頭に浮ぶ。

ワーグナーを宮廷に招き、
ワーグナーのためにバイロイトに、ワーグナーの作品の上演のためだけの劇場、
バイロイト祝祭劇場の建築を全面的に援助する。

バイロイト祝祭劇場で最初に上演されたのは「ニーベルングの指環」。

バイエルン国王だからできたことであるけれど、
ルートヴィヒ二世たったひとりのためだけの上演をワーグナーが行ったという話はきいたことがない。

ルートヴィヒ二世は、たったひとりでワーグナーを聴きたかったのだろうか。
ワーグナーはどうおもっていたのだろうか。

Date: 2月 4th, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その5)

グレン・グールドが一人で演奏しているピアノの録音(レコード)を聴いている時、
グールド(演奏者)と聴き手とは、一対一である。

グールドは、ピアノ協奏曲も録音しているし、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタなども録音しているから、
そういったグールドのレコードを聴く時には、
聴き手がひとりであるならば、演奏者の数の方が多くなる。

オーケストラの規模が大きくなり、演奏者の人数がさらに増しても、
マーラーの「千人の交響曲」を聴いている時でも、聴き手はひとりである。

演奏会場では、まずこういったことはおこり得ない。
それこそ想像のつかないほどの資産をもつ者であれば、
コンサートホールを貸し切り、そこで演奏者を招いて、
観客はひとりだけということも実現できるであろうが、
私を含めて多くの人(ほとんどの人)は、そういった夢物語とは無縁のところで生活しているし、
その生活の場で音楽を聴いている。

たったひとりの観客のためのコンサート。
そこでどれだけ素晴らしい演奏がなされたとしても、観客から返ってくるのは、
たったひとりの観客による拍手だけである。

がらんとした広い空間に、ひとりの観客だけの拍手が響くだけである。
それがどれほど力のこもった拍手であっても、ひとりの拍手はひとりの拍手でしかない。

Date: 3月 22nd, 2013
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その4)

グレン・グールドはある時期以降、録音の中だけの存在と、自らなっていった。
グレン・グールドによる演奏を聴くには、いかなる人であろうとも、
レコードを買ってきて、オーディオ機器で再生して聴く、
もしくはラジオから流れてくるのを待つ、ということになる。

自分の意思で、グレン・グールドの演奏を聴きたいと思ったときに聴くのであれば、
レコードを買ってくるしかない。
そして、自分専用ともいえるオーディオ機器の存在かなにがしか必要となる。
それは、どれほどの大金持ちであろうとも、権力者であろうとも、
何人もグレン・グールドによるバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、
その他の演奏を聴きたいのであれば、レコードとオーディオがどうしても必要となることには、
かわりはない。

そして、グールドが望んでいた(と書いていいのだろうか、すこし迷うところもある)、
もしくは思い描いていた、彼自身の聴き手は、
彼のレコードを、誰かといっしょに聴く、というのではなく、
あくまでもスピーカーの前にいるのは、
グレン・グールドの演奏が聴きたくて、グレン・グールドのレコードを買ってきた人ひとり、
という状況なのではないだろうか。

グレン・グールドのレコードは必ずひとりで聴かなければならない、
というものではないにしても、
グールドの演奏の性格からして、
そしてコンサートをドロップアウトしたグールドの録音への取り組み方を思えば、
おのずと、グールドのレコードはひとりで聴くのが望ましい。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その3)

映画「仮面の中のアリア」の冒頭の拍手のシーンで気づかされるのは、
観客席に大勢の聴衆がいるから、
これだけの拍手が、このコンサートを最後に引退するバリトン歌手に対して送られるのであって、
これがもし会場にまばらにしか聴衆がいなかったとしたら、
そこでバリトン歌手による歌がどれほど素晴らしかろうと、拍手の数は少なく、
そこでの拍手は、引退するバリトン歌手をみじめな気持にさせてしまうことだって考えられる。

これはコンサートというものは、ある一定数以上の聴衆が集まるからこそ成立するところがある。
100人以上の奏者がステージの上にいるオーケストラのコンサートでも、
ピアニストひとりによるコンサートであっても、
観客席には、その席を埋めつくすだけの人(聴衆)が必要だというところに、
コンサートでの音楽を成立させるものがある。

つまり原則としてコンサート会場では、
演奏者の人数よりも聴衆の人数が常に多い、ということになる。
この多数は、小ホールでは数百人、大ホールでは千人をこえる

どんなに聴衆が集まらず、がらがらだとしても、
ステージ上の演奏者の人数のほうが聴衆よりも多い、ということは、まずない。

演奏者の人数と聴衆の人数、
これが逆転するのが、グレン・グールドが選択した(求めた)音楽の聴かれ方(聴き方)ということになる。

Date: 9月 30th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その2)

「仮面の中のアリア」という映画を、もう20年以上前に観た。

1988年制作のベルギーの映画である「仮面の中のアリア」は、
著名なバリトン歌手の引退公演のシーンからはじまる。

歌い終ったバリトン歌手にむけられた観客の拍手には、観ていて圧倒された。
この拍手によって、バリトン歌手がどういう人物なのか、どういう歌手なのかを、
わずかな時間で、この映画の観客に伝えている。

一度新宿の映画館で観たきりで、その後、いちども観ていないためずいぶん記憶も薄れている。
それでも、このシーンだけは、いまでもはっきりと憶えている。
映画の大まかなストーリーほとんど忘れている。
この映画に対する、全体的な印象も忘れてしまっている。

それでも、冒頭のシーンだけは憶えているのには理由がある。
バリトン歌手におくられる拍手の音を聴きながら私が思っていたのは、
グレン・グールドのことだったからだ。

あぁ、グールドは、この拍手を拒否した世界で生きていたんだぁ……、
そう思った瞬間、目頭が熱くなった。

このことは直接、「仮面の中のアリア」という映画とは関係のないところで、
私はひとり勝手にじーんときてしまっていた。

グールドがコンサート・ドロップアウトをさずに、ずっとコンサートを行っていたとしたら、
「仮面の中のアリア」での拍手以上の拍手を、グールドはコンサートのたびに受けていたことだろう。

これだけの拍手を、ひとりで受ける感じとは、いったいどういうものなのか。
正直、まったく想像がつかない。

観客席からの圧倒的な拍手をステージ上で受けとめる。
われわれ観客は、つねにステージからの音を観客で受けとめてるわけで、
演奏者は観客からの拍手に対してのみ、受ける立場になり、
その受ける場所も観客が立ち入れない場所である。

すべての拍手が、ステージにいる演奏者に向けられている。

それは、おそらくある種の快感であり、幸福感に似たものがあるのかもしれない。
それをグールドは自らの意志で拒否した。
そこに、私は心うたれた、そして涙した。

Date: 9月 9th, 2012
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その1)

6年ほど前のことだと記憶しているが、
NHKで美空ひばりのドキュメンタリー番組をやっていたのを、最後の方だけ見たことがある。
番組の流れからして、最後に「川の流れのように」を流すのだろうとは誰もが思うだろうし、
そのとおりに「川の流れのように」が流れた。

美空ひばりの写真が次々と映し出されていくのを見ているうちに、
唐突に映画「スパイダーマン2」でのセリフが浮んできた。

映画の中盤以降、主人公のピーター・パーカーに、メイおばさんが語るセリフがある。
このセリフを、最後のシーンで、今度はピーター・パーカー(スパイダーマン)がオクタビアスに語る。

このセリフが浮んできたとき、美空ひばりもそうだったのかもしれない、と思った。
才能と夢についても思っていた。

美空ひばりの才能は、歌にある。
美空ひばりの「夢」は、歌にあったのだろうか。
違うところにあったのように、その番組のエンディング「川の流れのように」を聴いていて思っていた。

ゆえに「スパイダーマン2」でのセリフが思い出されてきたのかもしれない。

才能は夢を実現するためのものなのだろうか。
才能は天からの授かり物だとしたら、
その才能が大きければ、強ければ、
毅然としてあきらめなければならないものがある──、それが夢であっても。

「川の流れのように」は、この時、そう語っていた。

Date: 9月 1st, 2010
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その1)

ここここで、スミ・ラジ・グラップのことばを引用した。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」

またここで引用するのは、
オーディオからの音楽でこのことばを実感するには、孤独(ひとり)でなくてはならないということ、
この、音楽を聴くうえであたりまえすぎることが、不可欠だということを言いたいがためである。

結局、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

それには,まわりに親しい友人や家蔵がいようとも、孤独とは無縁のように思える場にいたとしても、
スピーカーが鳴らす音楽に対して、その瞬間、たったひとりで、そこでの音楽に没入できなければ、
音楽はスミ・ラジ・グラップのことばからとおいところに行くのではなかろうか。

ひとりきりで音楽に向かうことこそが、実は「孤独」そのものなのではなかろうか。