毅然として……(その2)
「仮面の中のアリア」という映画を、もう20年以上前に観た。
1988年制作のベルギーの映画である「仮面の中のアリア」は、
著名なバリトン歌手の引退公演のシーンからはじまる。
歌い終ったバリトン歌手にむけられた観客の拍手には、観ていて圧倒された。
この拍手によって、バリトン歌手がどういう人物なのか、どういう歌手なのかを、
わずかな時間で、この映画の観客に伝えている。
一度新宿の映画館で観たきりで、その後、いちども観ていないためずいぶん記憶も薄れている。
それでも、このシーンだけは、いまでもはっきりと憶えている。
映画の大まかなストーリーほとんど忘れている。
この映画に対する、全体的な印象も忘れてしまっている。
それでも、冒頭のシーンだけは憶えているのには理由がある。
バリトン歌手におくられる拍手の音を聴きながら私が思っていたのは、
グレン・グールドのことだったからだ。
あぁ、グールドは、この拍手を拒否した世界で生きていたんだぁ……、
そう思った瞬間、目頭が熱くなった。
このことは直接、「仮面の中のアリア」という映画とは関係のないところで、
私はひとり勝手にじーんときてしまっていた。
グールドがコンサート・ドロップアウトをさずに、ずっとコンサートを行っていたとしたら、
「仮面の中のアリア」での拍手以上の拍手を、グールドはコンサートのたびに受けていたことだろう。
これだけの拍手を、ひとりで受ける感じとは、いったいどういうものなのか。
正直、まったく想像がつかない。
観客席からの圧倒的な拍手をステージ上で受けとめる。
われわれ観客は、つねにステージからの音を観客で受けとめてるわけで、
演奏者は観客からの拍手に対してのみ、受ける立場になり、
その受ける場所も観客が立ち入れない場所である。
すべての拍手が、ステージにいる演奏者に向けられている。
それは、おそらくある種の快感であり、幸福感に似たものがあるのかもしれない。
それをグールドは自らの意志で拒否した。
そこに、私は心うたれた、そして涙した。