終のスピーカーがやって来る(余談)
ウォルシュドライバーを採用したオーム・アコースティックスは、
いまも活動しているブランドである。
伊藤忠が取扱いをやめてからどこもやらなかった。
情報も入ってこなかったので、つぶれてしまったと勝手に思い込んでいた。
けれど今もニューヨークにある。
細々と──、とではなく、製品数もけっこうある。
古いモデルのスペアパーツも、古いモデルのアップグレードも行っているようだ。
ウォルシュドライバーを採用したオーム・アコースティックスは、
いまも活動しているブランドである。
伊藤忠が取扱いをやめてからどこもやらなかった。
情報も入ってこなかったので、つぶれてしまったと勝手に思い込んでいた。
けれど今もニューヨークにある。
細々と──、とではなく、製品数もけっこうある。
古いモデルのスペアパーツも、古いモデルのアップグレードも行っているようだ。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーを聴いたのは、
2002年のインターナショナルオーディオショウでのタイムロードのブースであった。
Unicornが鳴っていた。
DDD型ユニットの原型といえるウォルシュドライバーの音は、
1980年代後半、オームのスピーカーシステムが、伊藤忠によって輸入されていたので、
ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
動作原理に関しては、
ステレオサウンド別冊のHI-FI STEREO GUIDEに載っていた用語解説で知ってはいた。
なのでUnicornを初めて見ても、特別奇妙なスピーカーとは思わなかった。
けれど、その音には驚いた。
オームのスピーカーとは完成度がまるで違っていた。
そうなのだ、今年はジャーマン・フィジックスのUnicornを聴いて、ちょうど20年目である。
傍からすれば、単なる偶然でしかないし、20年というきりのよい数字に何の意味があるのか、
そう問われれば、何もない、と答えるのだけれど、それは本心からではなく、
やっぱり何かあるんだろうな、とおもっている。
そういうことを含めての、私にとっての終のスピーカーである。
「2021年をふりかえって(その3)」で、こう書いている。
*
2020年が、五味先生没後40年、
2021年の今年が、瀬川先生没後40年。
2020年には、タンノイのコーネッタを、ヤフオク!で手に入れた。
ステレオサウンドがキット販売したのを、誰かが組み立てたモノではなく、
別項で書いているように、はっきりと専門とする職人の手によるコーネッタである。
今年になって、そのことがわかり、いい買物をしたな、と実感している。
2021年には、SAEのMark 2500を手にいれた。
これもヤフオク!であり、ヤフオク!の相場よりも半分以下で落札できた。
こちらも程度はいい。
五味先生の没後40年の2020年にタンノイ、
瀬川先生の没後40年の2021年にMark 2500である。
不思議な縁が二年続いた。
*
ほぼ一年前に、これを書きながら、さすがに来年(つまり今年、2022年)は、
こんなことはもう起らないだろう……、と思っていた。
今年、2022年はグレン・グールド没後40年である。
だからといって、グールドになにがしか関係のあるオーディオ機器が、私のところにやって来る、
そんなことは起りようがない。
だいたいにして、グールドに関係のある(深い)オーディオ機器って、
いったいなんだろう──、そういう状況なのだから、
不思議な縁といえるオーディオ機器がやって来ることはない、そう思っていた。
今年、別項で書いているようにGASのTHAEDRAがやって来た。
これも不思議な縁からやって来たモノといえる。
それでもグールド没後40年とはまったく関係ない。
THAEDRAがやって来たことは、嬉しかった。
ジェームズ・ボンジョルノ設計(基本設計)のアンプのペアが実現したからだ。
夏にはこれも別項で書いているように、
ラックスキットKMQ60と自作の真空管アンプがやって来た。
今年も、もうこれで充分じゃないか、
グールド没後40年ということとはどれも関係なかったけれど。
10月26日、夕方に、一通のメールが届いた。
そのメールの内容は、ほんとうに夢のようなことだった。
そして一週間後の11月20日に、私にとっての終のスピーカーがやって来る。
グレン・グールドを、このスピーカーで聴けるだけでなく、
自分の手で鳴らし、グールドを聴くことができる。
グールド没後40年の2022年に、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40がやって来る。
エラックのリボン型トゥイーターとともに、やって来る。
11月20日まであと十日。
時間にすれば240時間を切っている。
(その3)で、記録のような、と書いた。
書いた後で、すぐに記録のような、ではなく、最近のオーディオ機器のなかには、
記録そのもののような、そちらの方向に進んでいるモノ(音)が少なくない。
録音技術から再生技術のすべてが完璧なモノ(技術)で構成されるようになれば、
記録そのものといえる音が家庭で聴けるようになるであろう。
それでも、それはあくまでも録音に関しても完璧なモノ(技術)でなされていなければならない。
そういった完璧な録音しか聴かない、と断言できる人は、それでいいい。
けれど何を聴くのか。何を好んで聴くのか。
そのことを考えれば、なにも完璧な録音ばかりではない。
完璧どころか、完璧に近いともいえない録音を聴いている。
だからこそ記録ではなく記憶のような、ということが大切にしなければならないことのはずだ。
私にとって、終のスピーカーとはなんなのか。
もうここに書きたくて書きたくて、その衝動を抑えているところ。
終のスピーカーがやって来る日まで、あと二週間。
カウントダウンが始まった、という感じがしてくる。
一週間後には、あと一週間! と言っているはず。
あと一週間! になってからの一週間は、ほんとうにながく感じられるだろうし、
そのころになっていると、あと何日ではなくて、あと何時間と、時間の経過を捉えているはずだ。
グレン・グールド生誕九十年、没後四十年の今年に、
終のスピーカーがやって来て、十年後のグールド生誕百年、没後五十年を、
このスピーカーから鳴ってくる音で迎えている──、もうこんなことまで想像している。
11月20日にやって来る終のスピーカーのことを、
ちょっとでも時間があると、ついつい考えている。
ステレオサウンド 130号、勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の最後に、こうある。
*
そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
*
フェデリコ・フェリーニの、この言葉が映画の本質を見事言い表しているとすれば、
記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、映画は必要としていない、となるし、
記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しかオーディオは必要としていない──、
となるのだろうか。
そして記録のような物語、記録のような光景、記録のような音を、
オーディオは必要としていない、といえるのか。
私にとって、今回やって来る終のスピーカーは、
記録のようなではなく、
記憶のような、である。
こんなことを思いながら、11月20日を待っている。
11月20日に、やって来る。
とにかく待ち遠しい。
こんなに待ち遠しくおもえるのは、ほんとうにひさしぶりのことだし、
数えるほどしかこれまでない。
あと何年生きていられるのか、
いいかえれば、あと何年、音楽を聴いていられるのか。
いまのところは健康といえる。
あと二十年くらいは大丈夫かな、と根拠なく、そうおもっているわけだが、
いつぽっくり逝くかもしれない。
何が私にとっての「終のスピーカー」となるのか。
明日、ぽっくり逝ったとしたら、いま鳴らしているタンノイのコーネッタがそうなるわけだ。
それはそれでいい。
コーネッタが終のスピーカーとなったのか……、と死の間際でそうおもうだけだ。
それでも鳴らしてみたいスピーカーが、やはりある。
まだはっきりしたことはあえて書かないが、11月中旬にあるスピーカーがやって来る。
このスピーカーこそが、私にとっての「終のスピーカー」になる。
シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。
ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。
ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。
ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。
何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。
フルトヴェングラーとエーリッヒ・クライバーである。
この項のタイトルは「最後の晩餐に選ぶモノの意味」であって、
「最後の晩餐に選ぶ曲の意味」ではない。
最後の晩餐に聴きたいスピーカー(というよりも、その音)がある。
その音で聴きたい音楽がある。
そのことを書いているだけである。
本末転倒なことを書いているのはわかっている。
聴きたい曲が先にあって、
最後の晩餐として、その音楽を聴くのであれば、
どういう音(システム)で聴きたいかが、本筋のところである。
それでも私の場合、最後の晩餐から連想したのは、
まずシーメンスのオイロダインというスピーカーだった、というわけだ。
だから「最後の晩餐に選ぶモノの意味」というタイトルした。
(その1)を書いたのは六年前。52歳のときだ。
いまもまだシーメンスのオイロダインを、最後の晩餐として聴きたい、というおもいがある。
それはまだ私が50代だから、なのかもしれない、とつい最近おもうようになってきた。
十年後、70が近くなってくると、オイロダインではなく、
ほかのスピーカーで聴きたい、と変ってきているかもしれない。
その時になってみないと、なんともいえない。
書いている本人も、変っていくのか、変らないのか、よくわかっていないのだ。
最近では、ヴァイタヴォックスもいいなぁ、とおもっているぐらいだ。
それでも、今風のハイエンドのスピーカーで聴きたい、とは思わないはずだ。
五味先生が、「オーディオ愛好家の五条件」で、こう書かれている。
*
むかしとちがい、今なら、出費さえ厭わねば最高級のパーツを取り揃えるのは容易である。金に糸目をつけず、そうした一流品を取り揃えて応接間に飾りつけ、悦に入っている男を現に私は知っている。だが何と、その豪奢な応接間に鳴っている音の空々しさよ。彼のレコード・コレクションの貧弱さよ。
枚数だけは千枚ちかく揃えているが、これはという名盤がない。第一、どんな演奏をよしとするかを彼自身は聴き分けることが出来ない。レコード評で「名演」とあればヤミクモに買い揃えているだけである。ハイドンのクワルテット全八十二曲を彼を持っている、交響曲百四曲のうち、当時録音されていた七十余曲を揃えて彼は得意だった。私が〝受難〟をきかせてくれと言うと、「熱情? ベートーヴェンのか? ハイドンにそんな曲があるのか?」と反問する。そういう人である。ハイドンとモーツァルトの関係が第四十九番のこのシンフォニーで解明されるかも知れないなどとは、夢、彼は考えもしないらしい。
*
ハイドンの交響曲第49番は、La passioneであり、受難である。
なのに、「音痴のためのレコード鑑賞法」では、「情熱」(交響曲四九番)となっている。
「音痴のためのレコード鑑賞法」を入力したのは三十年近く前のことだ。
その時も気になっていた。
五味先生が、間違えるはずはない、と。
今回、引用する際も、やはり気になった。
「情熱」を「受難」と訂正しておこうか、とも考えたが、
引用なので、そのまま「情熱」とした。
ここを読まれている方のなかには、気づかれる人もいると思っていた。
気づいても、何もいわない人もいるし、コメントかメールしてくる人もいるはず。
そう思いながら公開した。
昨晩、ある方からメールがあった。
タイトルには、「ハイドンの交響曲四九番について」とあった。
情熱と受難についての指摘だろう、と思いつつ読んでみると、果たしてそうだった。
その方は、「オーディオ愛好家の五条件」のくだりも記憶されていた。
「オーディオ愛好家の五条件」を読んでいない人でも、
クラシックを聴いている人ならば、「情熱」ではないことに気づく。
気づいた方からのメール、
しかも五味先生の文章をしっかりと読まれている方からのメールは、
もらって嬉しいものである。
「音痴のためのレコード鑑賞法」がおさぬられている「いい音いい音楽」は、
読売新聞社から出ている。
五味先生が受難を情念とされるはずはない、と信じているので、
編集者のミスなのだろう、と私は思っている。
五味先生が、「音痴のためのレコード鑑賞法」で、こんなことを書かれている。
*
ハイドン(一七三二—一八〇九)もバッハにおとらず沢山の作品がある。ことに交響曲と弦楽四重奏曲はモーツァルト、ベートーヴェンなどに多くの教化を与えたもので、秀作も多い。だが、初心者には交響曲を聴くことをすすめる。一般には「軍隊」や「時計」「驚愕」「玩具」など標題つきのものが知られているが、もし私が、百五曲のハイドンの交響曲で何をえらぶかと問われれば、躊躇なく「情熱」(交響曲四九番)と第九五番のシンフォニー(ハ短調)を挙げるだろう。この二曲には、ハイドンの長所がすべて出ているからで、初心者にも分りやすい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」
と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
*
無人島に流されることになったら、ハイドンに関しては、
私は交響曲も弦楽四重奏もいらない。
グレン・グールドのハイドンがあればいい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」はそのとおりだ、と思う。
けれど、ここでの「朝」は毎日訪れる朝だけでなく、
別の意味の「朝」もあるように、入院している時に感じていた。
退院間近になって、治り始めていることを実感できるようになったときに、
グレン・グールドのハイドンを口ずさんでいた、ということが、そうなのだろう。
来年、五味先生の享年と同じになるのだが、
特に病気を患っているわけでもないし、健康状態はいい。
あとどれだけ生きられるのかはわからないけれど、まだまだ生きていられそうである。
二十年くらいは生きてそうだな、と思っている。
あと二十年として、その時77になっている。
身体は、そのころには、けっこうぼろぼろになっていよう。
ぼろぼろになっているから、くたばってしまうのだろう。
ここで書いているシーメンスのオイロダインも、そのころにはぼろぼろになっていることだろう。
劇場用スピーカーとして製造されたモノであっても、もとがかなり古いモノだけに、
二十年後に、よい状態のオイロダインは、世の中に一本も存在していないように思う。
そんなことがわかっているのに、音の最後の晩餐に、何を求めるのだろうか──、
そんなことを書いているのは、無意味でしかない、といえば、反論はしない。
非生産的なことに時間を費やす。
愚かなことであろう。
悔いがない人生を送ってきた──、とそのときになっていえる人生とはまったく思っていない。
最後の晩餐を前にして、悔いが押し寄せてくるのかもしれない、というより、
きっとそうなる。
最後の晩餐に食べたいものは、私にはないのかもしれない。
あったとしても、それを食べることよりも、一曲でいいから、
聴きたい(鳴らしたい)音で、それを聴ければいい。
でも、そこでも悔いることになる。
私がくたばるころには、まともなオイロダインはなくなっているのだから。
おそらく、これが最後の悔いになるだろう。
それまでのすべての悔いが吹き飛ぶくらいの悔いになるかもしれない。
フルトヴェングラーの音楽は、そのころも健在のはずだ。
オイロダインなんて、古くさいスピーカー(音)ではなくて、
そのころには、その時代を反映した音のスピーカーが登場してきているはずだ。
それで聴けばいいじゃないか、と思えるのであれば、こんなことを書いてはいない。
ただただオイロダインで、フルトヴェングラーを最後の晩餐として聴きたいだけなのだ。
いまでこそ、グレン・グールドのハイドンは、
私にとってなくてはならない一枚なのだけど、最初からそうだったわけではない。
20代の前半は、ハイドンもいいけれど……、といったところがあった。
やっぱりグールドはバッハ、ブラームス、モーツァルトと思い込もうとしていたフシがある。
以前書いているように27のときに左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。
当時はiPhoneなどなかった。
CDウォークマンも持っていなかった。
音楽を聴けるわけではなかった。
入院して一ヵ月ぐらい経ったころだったか、
ハイドンのピアソナタを口ずさんでいるじぶんに気づいた。
松葉杖をついて歩いている時に、口ずさんでいる。
もちろんグールドの演奏を口ずさんでいた。
ハイドンを、私はグールドの演奏で初めて聴いた。
その後、ブレンデルを聴いている。
ブレンデルの演奏を聴いていて、なんて変った演奏なんだろう、と感じるほど、
グールドのハイドンは聴いていた。
そうやって聴いていたグールドのハイドンを、
退院が近くなったころに、口ずさんでいた。
まだまだリハビリは必要だったけれど、治りつつあるのを感じていたのかもしれない。
そのときのハイドンである。
ハイドンよりも、バッハは、もっと多く聴いていたのに、
バッハを口ずさむことは退院するまでおとずれなかった。
グールドのハイドンの置き位置が、変った。
フリードリヒ・グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集について以前書いている。
録音は決してよくない。
それでもthe GULDA MOZART tapes のI集とII集で聴けるモーツァルトは、ほんとうに素晴らしい。
聴いていて、ふと思ったことがある。
グルダのハイドンを聴いていないことに気がついた。
グルダ、ハイドンで検索してみても、ほとんどヒットしない。
私がグルダの聴き手として怠慢ゆえに聴いていないだけでもなさそうである。
(その7)を書く数ヵ月前に、the GULDA MOZART tapesを聴いていて、
グルダのハイドンを聴いてみたい、と思っていた。
と同時に、the GULDA MOZART tapes のI集とII集にあたる録音は、
グレン・グールドだと、どれなのか、とも思った。
すぐに、ハイドンだ、と思った。
そう思ったからこそ、グルダのハイドンを無性に聴きたくもなったわけだ。
グールドもモーツァルトは録音している。
黒田先生は《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》と書かれていた。
そういえるし、五味先生もグールドのモーツァルトは高く評価されていた。
*
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
*
そのとおりだとおもう。
それでも、グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集を聴いていると素直になれる。
録音がよくないこともあって、これでいいだろう、と素直におもうところがある。
グールドのモーツァルトだと、そうはいかないところが、私にはある。
もっと何かを求めようとしている自分に気づく。