「オーディスト」という言葉に対して(その13)
言葉狩りをしたいわけではない。
山口孝氏はステレオサウンド 179号でオーディストを使われた。
山口孝氏はそのころ無線と実験での隔月での連載でも、よくオーディストを使われていた。
179号の後、二年ほど使われていたと記憶している。
でも無線と実験の編集部に、オーディストのことでメールをすることはしなかった。
無線と実験だから、というより、無線と実験はステレオサウンドではないからである。
言葉狩りをしたいわけではない。
山口孝氏はステレオサウンド 179号でオーディストを使われた。
山口孝氏はそのころ無線と実験での隔月での連載でも、よくオーディストを使われていた。
179号の後、二年ほど使われていたと記憶している。
でも無線と実験の編集部に、オーディストのことでメールをすることはしなかった。
無線と実験だから、というより、無線と実験はステレオサウンドではないからである。
ステレオサウンド 197号が書店に並んでいる。
3月に198号、6月に199号が出る。
200号までにあと二冊出る。
どちらかのステレオサウンドに、オーディスト(audist)についてけじめをつけるのか、
それともこのままだんまりを続けるのか。
オーディスト(audist)はステレオサウンド 179号に登場した。
山口孝氏の造語である。
山口孝氏には、そういう意図はなかったのだろうが、
オーディスト(audist)は、聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われている言葉である。
おそらく200号には五味先生のことが誌面に登場すると思っている。
五味先生が補聴器を使われていたことは知られている。
そのことについて、何度か書かれている。
つまりは、ステレオサウンドの読者をオーディスト(audist)呼ぶのであれば、
ステレオサウンドは、ステレオサウンドの読者を五味先生を差別する人と呼ぶことになる。
ステレオサウンドにとって五味康祐の存在、
ステレオサウンドの読者にとって五味康祐の存在、
いまのステレオサウンド編集部はどう考えているのだろうか。
200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている。
そういう編集部なのだから……、と思えるからだ。
けれどオーディスト(audist)についてだんまりを決め込んだまま、
200号に五味先生のことが載るのであれば、ステレオサウンド編集部に対して遠慮することをやめる。
何も編集長が責任をとって辞めるべきとは考えていない。
誌面で、言葉でけじめをつけるべきである、と考えているだけだ。
なぜ、オーディスト(audist)という言葉が載ってしまったのか、
しかも179号だけでなく、姉妹紙のHiViでも使われたし、リンの広告でもう一度ステレオサウンドにあらわれている。
こんなことになったことをどう思っているのか、考えているのか。
きちんと説明をしたうえで、200号を送り出してほしいと思うだけだ。
アクースティック蓄音器には、いっさい電気は使われていない。
機械仕掛けだけでSPレコードを回し、そこに刻まれている溝を音へと変換する。
ボリュウム調整も、だからできない。
いわば原始的な再生装置である。
周波数レンジも広くないし、ダイナミックレンジだって狭い。
ノイズも多い。
電気の恩恵が一切ないことが、こういうものなのか、とネガティヴな方向に感じる人がいる。
反対に、電気仕掛けが一切ないことは、こういう音なのか、とポジティヴな方向に感じる人がいる。
どちらが正しいのか、それについて書かない。
その人が過去に、もしくは現在でもいい、
どういうアクースティック蓄音器を聴いてきたかに大きく関係していることであるし、
それだけでなく、その人が聴く音楽によっても、どう感じるかはまるで反対の方向を向く。
それによって、「蓄音器的」という表現の受けとめ方(それに使い方)は異る。
phonogramの転換としてのgramophoneであり、
gramophoneは日本語で蓄音器、蓄音機、チクオンキだったりする。
蓄音器も、音を表現する言葉として使われることがある。
蓄音器的な音、といったりする。
この蓄音器的な音を、読み手はどう解釈しているのか。
私は、この「蓄音器的な音」は、誰が使うかにもよるが、
私が信頼している人の文章において、「蓄音器的」は、いわゆる褒め言葉である。
けれど、その同じ人の文章を読んでも、「蓄音器的」とあることで、
そう書かれたオーディオ機器は、むしろ貶されている、と受けとめている人がいることを知った。
そんなふうに受けとめてしまった人が、まだ10代であり、
ほんとうに優れた蓄音器の音を聴いたことがないのであれば、
「蓄音器的」という表現を誤解してしまうのもうなずけないことはない。
それまではそんなふうに思っていた。
でも、現実には逆なのかもしれない。
私より上の世代のほうが、「蓄音器的」という表現をそう受けとめる人が多いのかもしれない。
私は何度も書いているように「五味オーディオ教室」からオーディオを始めた。
そこにも「チクオンキ的」が出てくる。
*
ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
*
ここでの「蓄音機の音」「チクオンキ的」の蓄音器とは、
電気蓄音器ことではなく、その前のアクースティック蓄音器のことであるのはあらためていうまでもないことだ。
五味先生の本を読んだのか、と問えば、ほぼ間違いなく、読んだ、と返ってくるはず。
そこで、ただ読んだだけなのでは? と問えば、感動した、と返ってくるであろう。
だが感動とは、フルトヴェングラーの言葉が真理であるとすれば、
感動とは人と人の間にあるものであり、
同じ五味先生の本を読んでも、五味先生)(の本)と私の間にあるもの、
五味先生(の本)と別の人の間にあるものが、同じとは限らない。
同じところもあるだろうし、まったく違う感動なのかもしれない。
けれど、どう違っているのかははっきりとしない。
私と同じである必要はまったくない。
けれど、五味先生の本を読んで感動した、感銘を受けた──、
それがどの程度なのかは、「オーディスト」という言葉を誌面に載せてしまったあと、
ステレオサウンド編集部がどうしたのか(なにをしなかったのか)が、はっきりと語っている。
「オーディスト」は、ステレオサウンドに載せるべきではなかった。
けれど間違って載せてしまった。防ぐことはできたけれども、である。
その間違いそのものをいまさら否定しているわけではない。
その後のステレオサウンド編集部が、「オーディスト」を載せてしまったことに対し、黙りつづけていることに、
ステレオサウンド創刊から受け継がれてきた精神的支柱が喪失してしまっていることを指摘しているのである。
あと二年ほどでステレオサウンドは創刊50年を迎える。
これだけの期間本が出ているわけだし、五味先生が亡くなられてからもすでに30年以上が経っている。
いまではステレオサウンドの読者も五味康祐という名前を知らないか、
もしくは五味先生の音楽、オーディオについての文章を読んだこともない人がいるだろうし、
そういう人が増えてきているのは、時の流れなのだから、どうしようもできないことなのかもしれない。
そういう読者からすれば、私が山口孝氏の「オーディスト」について、
これほどこだわって書く理由は理解できないかもしれない。
読者でそうであるならば、ステレオサウンドの編集者もそうであっても不思議ではない。
五味先生の著作集「オーディオ巡礼」は復刊された。
ステレオサウンドの編集者なら、
ステレオサウンドに入社する前、もしくは復刊された時に一度は読んでいるのかもしれない。
おそらく、読んでいる、という答が返ってくるはずだ。
だが、彼らのいう「読んだ」は、どういうことなのだろうか。
ほんとうに「読んだ」のであるならば、
ステレオサウンドの特集記事に一回、広告に一回、
「オーディスト」という言葉が活字になってしまったことに、どうおもっているのか、
それを私は問いたい。
こんなことは書きたくはないが、
オーディスト(audist)は聴覚障碍者を差別する人・団体という意味をもつ。
つまりは、ステレオサウンドの読者を、そう呼ぶのであれば、
ステレオサウンドの読者は、五味先生を差別する人ということになるからだ。
だから、こうやって、傍からみればしつこいと思われようと、書く。
編集部のシステムとしての問題については、
おそらくこうではないだろうか、という想像はつくし、
二、三、そのことに関することを耳にしている。
とはいえ、ここでいくらぼかして書いても、迷惑をかけてしまうだろうから、書かないでおこう。
編集部のシステムとしての問題は、外部からいくら指摘されたところで、
本人たちが自ら気がつかないことには解決されることはないのも事実だから。
それでも、なお「オーディスト」についてこうやって書いているのは、
ステレオサウンドで、「オーディスト」が使われたからである。
しかも記事と広告とで、二回もである。
山口孝氏の「オーディスト」はステレオサウンド以前に、無線と実験で使われていた(とのことだ)。
ステレオサウンド 179号で使われたあと、
ステレオサウンドの姉妹誌であるHiViでも、「オーディスト」は使われていた。
亀山氏だったと記憶しているが、
読者数人を集めての記事で、オーディオマニアの読者を「オーディスト」と呼ばれていた。
もしステレオサウンドで「オーディスト」が使われなかったなら、
他のオーディオ雑誌で使われようと、そしてオーディスト(audist)の意味を知ったあとでも、
ここに書くことはしなかっただろう。
ステレオサウンドで使われたから書いているのだ。
ステレオサウンドは創刊のときから、五味先生が精神的支柱となっている。
そのステレオサウンドで「オーディスト」を使うということは、私はどうしても無視できない。
ともかく五味先生はオーディオ評論家ではない。
私は一度たりとも、これまで五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。
オーディオ評論をやる作家だとも思ったことはない。
こんな当り前過ぎることを、こうやって書かなければならないことに、
なんとも表現しようのない気持になってしまう。
安岡章太郎氏は書かれている。
*
本当のところ五味は、オーディオについての製品テストや消費者リポートの如きものをやっているわけではない。何々印のスピーカー、何々社製のアンプというのは、じつはキカイのことではなくて、音楽を語る言葉の代用としてつかっているにすぎない。五味には、それ以外に音楽を語る言葉がなかったのだ。いや、五味でなくとも、音楽そのものを直接語る言葉などというものがあるだろうか。──言葉が語ることができるのは、せいぜい演奏家の技術や、作曲家のプロフィールといったことぐらいではないか──。繰り返していえば、五味にとって音楽は宗教であり、〝音楽〟を信仰することで自分がよみがえったと信じているのである。音楽を語る言葉がありさえすれば、キカイをうんぬんしたりする必要もヒマもまったくなかったはずである。
*
いうまでもなく、「〝言葉〟としてのオーディオ」とは、このことである。
誰も「音楽そのものを直接語る言葉」はもっていない。
岩崎先生も瀬川先生ももっていない。
もっていないこと、もつことができないこと、
それを生み出すこともできないのであれば、「〝言葉〟としてのオーディオ」を意識せざるを得ない。
だが、どれだけの人が、そのことを意識しているといえるだろうか。
五味先生の他に、誰がいたのか。
瀬川先生、岩崎先生はそうだったと、私は思っている。
インターネットが普及し、匿名での発言が簡単に行えるようになったことも関係している、とは思っているが、
とにかく、驚いたことは、五味先生のことをオーディオ評論家、もしくはオーディオ評論もする作家、
そんなふうにとらえている人がいた、ということである。
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に、連載をもっていたからオーディオ評論家なのか。
その短絡的思考には驚くしかないのだが、
もっと驚くのは、五味先生をそう捉えている人がどうも少なくないことである。
五味先生とは直接関係のないことなのだが、
これに関連することで私が最近驚いたのは、ステレオサウンド 186号の特集だった。
タイトルは「ほしくなる理由、使いたくなる理由」であり、
サブタイトルとして「評論家11人のオーディオコンポーネント選択術」とついている。
11人が登場している。
だが、この11人すべてをステレオサウンドはオーディオ評論家としているのか。
そのことに意外な感を受けた次第だ。
確かに11人のうちの多くは、ステレオサウンドでオーディオ評論家として執筆されている。
彼らが、本当の意味でオーディオ評論家なのかどうかを、ここで問いたいわけでなく、
その人たちのことをステレオサウンドがオーディオ評論家とすることには、特に異論はない。
けれど数人の方たちは、ステレオサウンドにときどき執筆されているけれど、
私の認識ではオーディオ評論家ではない、音楽評論家であったり、オーディオ愛好家であったりする。
ステレオサウンド 186号の特集に、
オーディオ評論家ばかりでなく、音楽評論家、オーディオ愛好家が登場するのはいい、と思う。
けれど、オーディオ評論家とそうでない人たちの境界を曖昧にしてしまっている。
なぜ、こんなことを編集部はしてしまったのだろうか。
ここにも、編集部の「言葉」に対する感覚が滲み出ている。
この本の『オーディオ』巡礼という書名は、まことに言い得て妙である。五味康祐にとって、音楽は宗教であり、オーディオ装置は神社仏閣というべきものであったからだ。
*
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評は、この書き出しではじまっている。
この書き出しは憶えていた。
そして、どんなことを書かれていたのかも、今回読みなおしてみて、
割と憶えていることを確認できた。
にも関わらず、大見出しとなっている、〝言葉〟としてのオーディオ、
この部分だけをなぜだか見落していたのか、それとも記憶の片隅に追いやってしまったのか、
とにかく、大事なことにいままで気づいてこなかった……、
そういう気持をつよく感じた。
安岡章太郎氏の書評の中に、「〝言葉〟としてのオーディオ」がそのまま登場するわけではない。
この「〝言葉〟としてのオーディオ」が、安岡章太郎氏自身によるものなのか、
ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。
どちらでもかまわない。
「〝言葉〟としてのオーディオ」は、こうやって毎日ブログを書いている私にとって、
ほんとうに多くことを考えさせる。
だから、その意味では、今回、改めて「〝言葉〟としてのオーディオ」に出合えて、よかった。
ステレオサウンド 56号は1980年の9月に出た号だから、
私は当時17だった。
オーディオに夢中になっていたし、オーディオ関係の仕事につきたいと思うようになっていたころではあった。
でも、オーディオについての文章を書いていたわけではない。
そんなときの私には、まだ「〝言葉〟としてのオーディオ」の持つ意味を、
どれだけ理解できたか、はなはだあやしい。
そして、「〝言葉〟としてのオーディオ」は、
当時よりも現在において、その重みを増している。
それはなにも私だけにおいてにとどまらず、広い意味において、そうである。
ひとつ確かめたいことがあって、ステレオサウンド 56号を手にとった。
確認はすぐにできた。やっぱりそうだった、という感じだった。
せっかく手にとった、ひさしぶりの56号だから、
パラパラと頁をめくっていた。
56号は、かなり熱心に読んだ号である。
瀬川先生によるJBL・パラゴンの記事、
「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法 あるいはグレードアップ法」というタイトルの記事、
トーレンス・リファレンスの記事、ロジャース・PM510の記事の他にも、
黒田先生の「異相の木」が載っているし、
この他にも……、ひとつひとつあげていったらかなりの数になってしまうので、
この辺にしておくが、とにかく1980年に出た4冊のステレオサウンドで、
もっともくり返し読んだのは、56号であることは間違いない。
だから、この記事も読んでいた。
確かに読んでいた。
それでも、なぜか、この記事の大見出しは記憶から消えてしまっていた。
426ページに載っている。
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評である。
ここには大見出しとして、こうある。
〝言葉〟としてのオーディオ
この短い見出しに気づき、
いいようのない感覚におそわれた。
そして、なぜ、この、〝言葉〟としてのオーディオ、をいままで見落していたのか。
自分のうかつさを反省していた。
スイングジャーナル 1979年1月号に新春特別座談会として、
「ジャズを撮る」というタイトルで、石岡瑛子氏、操上和美氏、内藤忠行氏、武市好古氏らが、
映像の世界から見た、ジャズという素材について語っている。
新春特別座談会といっているわりにはわずか4ページしかないのがもったいない気もする。
きっと座談会そのものは、かなり濃い内容だったように感じられる、たった4ページの記事である。
おもしろい記事である。
機会であれば、ぜひ読んでほしい、とおもえる記事である。
この座談会で石岡氏の言葉が、私の心に、特にひっかかってきた。
*
ジャズというものが総体的に、時代に対してオープン・マインドな姿勢を失っていることを残念だと思ったんです。レコード・ジャケットに表われている面が、その時代の音楽のエネルギーを示しているとすれば、ジャズにはそれが欠けている。ジャズのアートワークを見るとほとんど80%近くがミュージシャンの写真であるわけです。そこには冒険とか実験の精神が欠如している。姿勢がオーソドックスなんですね。
(中略)
ジャズのフィールドの中のファンはあるいは、それでいいかも知れないけれど、もっとワイドレンジなオーディエンスに対してハッとさせる、聴いてみたいと思わせるためにはその時代を的確に把握した上でビジュアルな面で意識をクロスオーバーしていかなければならない。
*
石岡氏は「オーディエンスに対してリアリティのある関係」という表現も使われている。
そしてスイングジャーナルの将来を予言されているかのような発言もある。
このとき(1978年の11月ごろか)は、石岡氏もスイングジャーナルがどうなっていくのかなんて、
まったく想像されていなかったのかもしれない。
けれど、このときの石岡氏の発言こそが、スイングジャーナルがもっとも耳を傾けておくべき、
そしてこころに深く刻み込んでおくべき言葉になっている。
*
スイングジャーナルは自身で発想の転換を時代の波の中でやっていかなければならない。ゴリゴリのジャズ・ファン以外にもアピールする魅力を持たなければ表現がいつか時代から離れていってしまうでしょう。ジャズというフィールドを10年も20年も前のジャズの概念できめつけているのね。今の若い人たちの間で、ビジュアルなものに対する嗅覚、視覚といったものがすごい勢いで発達している今日、そういう人にとって、今のジャズ雑誌はそれ程ラディカルなものではありません。スイングジャーナルという雑誌の中で映像表現者が果せる力って大きいと想うし、時代から言って必要なパワーなのですね。時代の波の中で、読者に先端的なものを示し、常に問題提起を続ける。それを読者が敏感に感じとってキャッチ・ボールを続けるうちに、誌面はもっとビビッドなものになり得るんじゃないですか。
*
この座談会のあとのスイングジャーナルが、何をやってきたのかは、ここで私が書くことではない。
どんな本にも誤植が完全になくなるということは、ないのかもしれない。
大出版社であろうと小出版社であろうと、誤植のある本を一度も出したことはない、ということはまずない。
どんなに細心の注意を払って、何人もの人が何度も校正したとしても、
不思議とすり抜けてしまう誤植がある。
しかも、そういう誤植は、これまた不思議と本に仕上ってしまうと、
いとも簡単に見つかってしまうことも多い。
初版で見つけた誤植は、次で直せればいいけれど、
雑誌はそういうわけにはいかない。第二版、第三版などは雑誌にはない。
ステレオサウンド 185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
いわゆる誤植ではない。
これはすり抜けさせてはいけない間違いである。
過去のステレオサウンドに、間違いがひとつもなかったかというと、そうではない。
私がいたときも間違いはあった。
それ以前もあったし、それ以降もある。
でもそういう間違いと、185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」とでは、
少々事情が異る。
技術的な事柄に関しては、
特に海外製品の場合、ほとんど資料がないこともあるし、
資料があったとしても抽象的な表現で、何が書いてあるのか(言いたいのか)はっきりしないこともある。
またそこに投入された技術が新しすぎて、理解が不充分なこともある。
それでも新製品の紹介記事では、少しでも情報を多く読者に伝えようとするあまり、
間違いが起きてしまうことだってある。
そういう間違いを見つけても、ことさら問題にしようとは思わない。
185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
本来なら間違えようのないことで、編集部はミスを犯してしまっている。
なぜ「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けて活字になってしまったのか。
新製品ページの担当編集者は、高津修氏から原稿を受けとる。
そこで当然もらった原稿を読み、朱入れが必要ならそうする。
その原稿を編集長がチェックする。それで問題がなければ次の段階に進む。
以前は、この段階を「写植にまわす」といっていたけれど、いまはなんというのだろうか。
写植があがってきたら、コピーにとり、そのコピーを編集部全員が読み校正する。
そして青焼きが、次の段階であがってくる。
ここでも私がいたときは文章のチェックをしていた。
本来ならば、青焼き以前で校正はしっかりと終えておかなければならないのだが、
写植の段階の校正ですり抜けてしまう誤植やミスがあるから、ここでも校正する。
時にはけっこう大きなミスがあって、
バックナンバーの版下を取り出してきて、活字を切貼りしたこともある。
常に締切りをこえて作業していたから、自分たちで最後は手直しということになってしまう。
いまはパソコンでの処理が大半だろうから、
細部では違いがあっても、原稿を届いて青焼きを含めて、
編集部全員によって複数回の校正がなされるわけだ。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けてしまったのは、
考えられないことである。
これがトーレンスのプレーヤーではなく、
新進メーカーの、新技術を投入したアンプであれば、
技術的なことは触っただけではわからないのだから、仕方ない面もあるのだが、
何度も書くけれど、トーレンスのプレーヤーについては触ればわかることだし、
オーディオ雑誌に携わっている者、オーディオを趣味としている者ならば、
トーレンスのプレーヤーがどういう構造なのかは、すくなくとも言葉の上ではわかっているのが当然である。
ここに編集部のシステムとしての問題がある。
現在のステレオサウンドの編集部のオーディオの知識がどれだけのレベルなのかはわからない。
けれど、トーレンスのプレーヤーがフローティング型かどうかは、
よほどの初心者でない限り間違えようがない。
仮に勘違いで高津修氏の原稿を編集部が
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書き換えたとしよう。
そうなると編集部は高津修氏に断りもなく書き換えたことになる。
高津修氏に事前に、ここがおかしいと思うので書き換えたい、という旨を伝えたのであれば、
高津修氏が「TD309はフローティング型だよ、資料を見てごらん」といったやりとりがあるはず。
それで編集部が資料にあたるなり、TD309の実機にふれるなりすれば、すぐにフローティング型ということはわかる。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字となって、
ステレオサウンド 185号に掲載されている。
私がいたころは、その記事の担当者が試聴に立ち合うし、試聴記の操作も行う。
このシステムが、いまのステレオサウンドでは違うのだろうか。
試聴室で試聴に立ち合う人と記事の担当者が別とでもいうのだろうか。
だとしても、トーレンスのプレーヤーがフローティング型であることは、あまりにも当り前すぎることであり、
仮にフローティング型でなかったとしたら、高津修氏の原稿も、
トーレンスがフローティング型ではなくなったことから書き始めるのではないだろうか。
この件は考えれば考えるほど、ほんとうに奇妙なことである。
私が考える真相は、もう少し違うところにあるのだが、それについてはここで書くことではないし、
書きたいのは、なぜ
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字になってしまったかである。
ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
「季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。
そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。
185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。
このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。
校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。
でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。
つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。