Archive for category 「オーディオ」考

Date: 3月 17th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その1)

オーディオの世界は豊かになっているのか。

オーディオにのめり込んで30年以上が経つ。
1970年代後半と、世紀が変り2014年となった今とでは、
ずいぶんとオーディオをとりまく状況に変化があるのはわかっている。

1970年代後半に当り前のように身の回りにあったモノのいくつかはいまでは消えてしまっているし、
当時は、こういうモノが登場するのはずっと先──、
そんなふうに思い込んでいたり、想像もしなかったモノが当り前のように身の回りにある。

それらのモノ自体の変化もそうだが、モノの値段も昔の価値観ではいまの価格は理解できないところもある。
携帯電話、スマートフォンの価格は、1970年代の人にはそうであろう。

なぜ、こんな値段で買えるのかの理由は知ってはいても、
ほんとうのところを理解しているとはいえないところもある。

それが高度に発達した資本主義なんだよ、といわれても「そうなんですか」としかいえない私は、
結局のところ、資本主義の世の中がよくなるには、
ほんとうにいいモノが増えていくこと以外にないのでは、とも思う。

スティーヴ・ジョブズがAppleに復帰したころだったか、
「世の中が少しだけまともなのはMacがあるからだ」と言っていたのを思い出す。

これは裏を返せば、「世の中がこんなにひどいのは……」ということになるわけだ。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その4)

(その1)にこう書いた。

癒されたいから、この音楽を聴く、
元気になりたいから、そういう音楽を聴く、
そういった、ある種のはっきりとした目的意識をもって、
音楽家にはっきりと求めるものを意識して──

ここでの「ある種のはっきりとした目的意識」は、はっきりとしているだけに限定的でもある。
限定的な聴き方をしてしまうと、
聴きのがしてしまう「何か」がおきるし、それが大きくなってしまう怖れが常にある。

だから私は音楽を聴くという行為に関しては、
「ある種のはっきりとした目的意識」は極力持たないようにしている。

とはいうものの、必ずしも音楽を聴くという行為について、
まったく目的意識をもっていない、かというとそうとも言い切れない。

ここでの「音楽を聴く」には、オーディオの存在がつねにある。
コンサート会場に行っての音楽を聴くではなく、オーディオを通しての音楽を聴くわけで、
オーディオという媒介するモノに対しては、態度が違ってくるからだ。

この点において、オーディオマニアだと自覚してしまうのだ。

Date: 10月 4th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その3)

具体的な何かを、意識的に音楽に求め得たいがために、音楽を聴いているわけではない。
モーツァルトにしろ、ベートーヴェンにしろバッハにしろ、
彼らの音楽を聴きたいとおもったり、何かで感じたりしたから聴いてきた。

その結果として、そこで鳴ってきた音楽を受けとめて、
何かを感じたり、何かを得たりすることがある。

同じ音楽(ディスク)をかけたからといって、常に同じものを感じたり得たりできるわけではない。

ヒーリングミュージックというのが、ほんとうに存在するのであれば、
いついかなる時も、ヒーリングミュージックと呼ばれる音楽を鳴らしさえすれば、
どんな人であっても、どんな時であって癒しが得られなければならないわけだが、
決してそんなことは起り得ない。

ある人にはヒーリングミュージックと呼ばれるものが癒しを与えてくれたとしても、
別の人にとっては、なんてことのない音楽でしかなかったりするだろうし、
同じ人であっても、癒しを感じる時もあれば、そうでない時もあってふしぎではない。

音楽のもつ力を信じてやまない。
音楽の効能を信じてもいるし、感じてもいる。
だから別項で、「wearable audio」を書き始めた。

音楽を聴き続けていくうえで大事なことは、
己が何を聴きたいのか、欲しているのかを、きちんと感じとれるかどうかである。

身体が欲しているものを食べること──、
このことだってそう簡単なことではない。

われわれはどれだけ素直に聴きたい音楽を選んでいるのだろうか。

Date: 10月 4th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その2)

モーツァルトの音楽を聴きたくなる。
モーツァルトの曲ならば、なんでもいいという時もあれば、
ピアノ協奏曲が聴きたい時、交響曲が聴きたい時、オペラが聴きたい時などがあり、
さらにピアノ協奏曲の第20番が聴きたい、とか、交響曲の第40番が、「魔笛」が聴きたい時がある。

ピアノ協奏曲にしても、他の曲にしても、一枚しかディスクを持っていないということは、まずない。
あまり頻繁に聴かない曲に関しても、数枚のディスクがあり、
好きな、よく聴く曲に関しては、もっと多くの枚数のディスクを持つのは、
音楽好きの人ならばいうまでもないことであり、
数あるディスクの中から、同じ「魔笛」にしても、誰の演奏にするか決めていくこともあれば、
「魔笛」のディスクの置いてあるところを見て、この人の演奏にしよう、と決めることだってある。

さらにはこの作曲家の、この人の演奏によるディスクを聴きたい、と思い、
そのディスクを探す過程で目についた、まったく違う作曲家の、違う演奏家のディスクをかけてしまうこともある。

そうやって鳴らした音楽によって、結果として癒されたり、元気を得たりすることはもちろんある。
思わぬ感動を得られることもあるし、なにがしかの啓示といいたくなるものを感じることだってある。

だからといって、癒しを得たいからモーツァルトのディスクを選んでいるわけではない。
モーツァルトの音楽を聴きたい、と思った時、
無意識のうちに癒しを求めていたのかもしれない。

だが、ここが大事なのだが、癒しを欲しいから、そこでモーツァルトのディスクを選んでいるわけではない。
あくまでも聴きたい、と思える曲が先にあり、
その曲を自分のオーディオで聴いた時に、結果として癒しがあったり、
他のことが起ったりする──、
そういうふうに音楽を聴いてきた(選んできた)ような気がする。

Date: 10月 3rd, 2013
Cate: 「オーディオ」考

なぜオーディオマニアなのか、について(その1)

もう10年ほど経つのだろうか、
音楽に癒しの力がある、とかいわれ始め、
ヒーリングミュージックという言葉が急に目につくようになったことがある。

笑い話なのだが、
ある大型レコード店で、この手のヒーリングミュージックのCDばかり集めたコーナーをつくっていた。
でも、そこには大きく、ヒアリングミュージック、と書かれていたことがあった。

たしかに音楽は聴くものだから、ヒアリングミュージックは間違ってはいないのだろうが。

──という話をしてくださった菅野先生とふたりで大笑いしたことがある。

ヒーリングミュージックを聴く人は、
なにかしらの癒しを、そこでの音楽に求めているわけだろう。

癒されたい、音楽から元気をもらいたい、刺戟が欲しい、とか、
何かを、音楽に求めて、その音楽を聴く、という行為は、一般的なのだろうか。

まぁ一般的だから、ヒーリングミュージックという言葉が流行ったともみてもいい。

それでも、ヒーリングミュージックと呼ばれる音楽に関心のない私は、
ほんとうにそうなのか……、というおもいを捨てられない。

音楽は好きである。
あまり聴かない(好まない)音楽もあるけれど、
ずっとながいこと聴き続けている音楽がある。

けれど、いま振り返ってみると、
癒されたいから、この音楽を聴く、
元気になりたいから、そういう音楽を聴く、
そういった、ある種のはっきりとした目的意識をもって、
音楽家にはっきりと求めるものを意識して──、
そんなふうにして音楽は聴くものだろうか……、と思うし、そういう音楽の聴き方をしてきただろうか。

Date: 9月 21st, 2013
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その2)

クラシックにおいて、この「十分だ」が使われる例として、
以前よく見かけたのには、次のようなものがあった。

マーラーの交響曲を聴くのにも十分だ、というものだった。

この表現が意味するのは、クラシックの交響曲といっても、
モーツァルトの交響曲とマーラーの交響曲とでは、同じには語りにくいところがある。
編成にしてもそうである。

モーツァルトの交響曲とベートーヴェンの交響曲にも、そういうところがある。
そのベートーヴェンの交響曲とマーラーの交響曲とでも、同じには語れないところがある。

モーツァルト、ベートーヴェンよりもマーラーは後の時代を生きた。
そのこととマーラーの交響曲が、ベートーヴェンの交響曲と違うことと無関係ではない。

そしてレコードの時代になってからでも、
マーラーの録音が積極的に行われるようになったのは、
モーツァルトやベートーヴェンよりも後の時代になってからである。

モノーラルの時代にもマーラーの交響曲の録音はあった。
けれどモーツァルトやベートーヴェンの交響曲が録音されるのとくらべると、ずっと少なかった。

マーラーの交響曲が積極的に録音されるようになり、
同時にマーラーのレコード(録音)の聴き手が増えてきて、積極的に聴かれるようになるのは、
ステレオ時代を迎え、さらに録音・再生、
その両方で、いわゆる音の分解能(解像力)があるレベルに達してから、といえる。

Date: 9月 18th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その9)

自分で鳴らすスピーカーシステムの選択において、
とにかく大事にしたいのは、そのスピーカーシステムに惚れ込んでいるかどうか、であるわけだが、
これは人によって異ってくる。

必ずしも惚れ込んだスピーカーシステムを、人は選ぶとは限らない。
もちろん、常に予算という制約がほとんどの人にあるわけだから、
惚れ込んだスピーカーシステムはあっても、
いまはまだ手が届かない、だからいまのところは別のスピーカーシステムを……、という例は少なくない。

私だって、JBLの4401という、比較的小型のブックシェルフの2ウェイ・スピーカーを欲しかったのは、
そのころ惚れ込んでいた(そしていまもその気持は継続している)4343は学生には手が届かない存在だったから、
4343への到達までの道のりのスタート点として、欲しかった、ということがあった。

4301がまともに鳴らせなければ、
つまり、このことは私にとってクラシックがある程度聴けるように鳴らせなければ、
4343を手にしたところで、まともに鳴らせるわけがない、
そういうふうにも思っていた。

とにかく、これまでスピーカーに関しては、惚れ込んだモノだけを買ってきた。
けれど、オーディオをながく続けていると、
惚れ込むことなくスピーカーシステムを選択する人がいることを知る。

Date: 9月 16th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その8)

スピーカーシステムが変らなければ、音は変らない、と主張する人は、
スピーカーシステムの「顔」、それも基本的なところを聴いていて、
その「顔」がつくり出す、表情のこまかい違いには注意がいかない、
いったとしても、表情が変ったとしても、「顔」そのものは変らない、と判断するのだろう。

ここまでは、前回までに書いたことのくり返しである。
いま「複数のスピーカーシステムを鳴らすということ」を書いていて気がついたことがある。

スピーカーシステムを変えないかぎり、音は変らないという主張する人は、
もしかすると、いま使っているスピーカーに惚れ込んでいないのかもしれない──、ということだ。

スピーカーが相手ではなく、人が相手だった、その人に惚れ込んでいたら、
わずかな表情の差にも気がつくし、
そういう表情が積み重なっていくことで、人の「顔」はつくられていくこともわかるはずだ。

惚れてなければ(関心が持てないのならば)、
対象そのものが変化しないかぎり、その対象そのもののわずかな変化には気がつかないのと同じように、
スピーカーシステムから鳴ってくる音の表情の変化にも、気がつかない──、
そうなのではないのか。

「音は変らない」のではない、
変化に聴き手が気がつかないだけのことだ。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

オーディオとは……(その3)

この時代にフルレンジユニットで音を聴く、
古き良き時代の高能率のナロウレンジのスピーカーシステムで音を聴く、
これらの行為も、私には「確認」でもある。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その6)

ジュリアードの演奏盤はなかなかCDにならなかった。
国内盤が最初に出た。1990年ごろだったはずだ。

1GBのメモリーを用意して、そこに一端A/D変換したデータを記憶させて処理を行った、
とブックレットの最後には書いてあった。
いまでこそ1GBのメモリーの価格はそう高価ではないけれど、
いまから20年以上前における1GBのメモリーの価格がどれだけしていたのか、想像がつかない。

気合のはいったCD化だったようだ。

このジュリアードの演奏盤のCDを、ある友人に貸したことがある。
私よりひとつ年下、音楽の仕事(作曲、編曲、演奏など)をしている女性である。
彼女はクラシックの聴き手ではなかった。
彼女の夫(彼も友人)も、クラシックは聴かない。

そんな友人の感想は、
「暗い森の中の妖精」──、たしかそんなことを彼女は言っていた。

1990年にはバルトークの音楽は、もう現代音楽ではなかった。
バルトークについても、ジュリアード弦楽四重奏団についても、
それにこの演奏盤についても、なんの知識(先入観)をもたずに聴いた人の感想がそれだった。

これはひとつの例にしか過ぎない。
けれど、これほど聴き手によって、その音楽の在り方は変ってくることは頭ではわかっていても、
実際に身近でそういう例に接すると、音楽の抽象性の深さ、広さに驚くだけでなく、
ときとしてとまどうことすらある。

五味先生には「精神に拷問をかけるための音楽」であったバルトークの演奏盤が、
年齢も性別も仕事もまるで違う聴き手にとっては、そういう要素はかけらもない音楽となっているし、
私にとっても、すくなくともこれまでは「精神に拷問をかけるための音楽」とまではいえなかった。

だが、もう10数年以上(20年近いかもしれない)、
ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の演奏盤は聴いていない。
それだけ歳をとった。
いま聴くとどうなのか──、これはもう聴いてみるしかない。

最初にバルトークの演奏盤を聴いたときとスピーカーも、システム全体もまるっきり違う。
出ている音も同じといえば同じところはあるけれど、違うといえば違ってきている。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その5)

こうやって毎日、複数のテーマで書いていると、
書き始めたころには意識していなかった事柄がつながっていくときがある。

はだしのゲン」というタイトルで書き始めた項で、
バルトークの弦楽四重奏曲と五味先生のことについて書いているところである。

五味先生にとって、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤こそは、
そういう一枚──つまり己の愚かなところ、醜いところを容赦なく映し出す──だった、
いまそう思えてならない。

だから「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」と書かれた。
いまはそう思っている。

音楽の聴き手すべての人にとって、ジュリアード弦楽四重奏団による1963年録音のバルトークが、
「精神に拷問をかけるための音楽」ではないはず。

ジュリアード弦楽四重奏団のバルトークの演奏盤をはじめて聴いたとき、
その気魄に圧倒されはしても、
残念ながら、というべきかどうかはわからなかったが、「精神に拷問をかける音楽」ではなかった。

聴き終えるのにものすごいエネルギーを要求される感じはあったけれど、
それは精神の拷問とまではいかなかった。

Date: 8月 29th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その4)

オーディオから(スピーカーから、と置き換えてもいいのだが)音を出すには、
なんらかのプログラムソースがいる。

アナログディスクでも、CDでも、FM放送、AM放送、インターネットによる配信、
とにかく種類は問わず、音源となるソースがなければ、
電源をいれたところでスピーカーから音は鳴ってこない。
(レベルを上げていけば、システム全体のノイズは多少なりとも聞こえてくるだろうが)

こんな当り前すぎることを書くのは、
己のオーディオから愚かな音、醜い音を出すのにも、
なんからのプログラムソース、つまり音楽が必要となる、ということであり、
愚かな音、醜い音を出す上で、実は最も重要で、注意深くならなければならないのは、
そういう音を求めるとき、出すときにかける音楽が、なんなのか、ということである。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その3)

愚かな音、醜い音を出すことは、
それも意図的に出すことはできるのだろうか。

意図せずに、そのオーディオの聴き手である己の愚かさや醜さが音として出てしまうことはあるだろう。
でも、それすらも、オーディオとのつき合いが長く、
それなりに使いこなしのテクニック、スキルを身につけてしまうと、
表面的には覆い隠してしまうことはできる。

意図せずに表面化してしまった愚かさや醜さを感じさせる音を、
いわゆる悪い音と判断してしまえば、それをどうにかすることはできないわけではない。

意図せずに出てきてしまった、そういう音だけに聴き手の意識としては、
悪い音、ひどい音と判断してしまう。
そういう音はどうにかしたい、ということになる。

だからこそ、意図的に愚かな音、醜い音を出すことができるのだろうか──、
と考えている。

性能の低いオーディオ機器を集めて組み合わせたところで、
そんな音が出るわけではない。それは悪い音、ひどい音である。
そうではなく、いまのメインのシステムから、愚かな音、醜い音を出さなければならない。

となると、何が愚かな音なのか、醜い音なのかをはっきりと把握しなければならない。
そうすることで、美しい音も、またはっきりと姿をあらわしてくれそうな気がする。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

オーディオとは……(その2)

演奏会場に出向いて聴く音楽と、
オーディオを介して聴く音楽、
このふたつをわれわれは楽しめる時代に生きている。

どちらも同じ音楽なのだが、
聴き手の聴き方は、演奏会場に出向いて聴くときとオーディオを介して聴くときとでは、
同じところもあれば、そうでないところもある。

オーディオを介して聴くという行為は、
確認という行為でもある、と思う。

Date: 5月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その7)

音は一時たりとも静止しはしない。
つねに表情を変えている。
その表情の変化を、いいスピーカーならば敏感に音として感じさせてくれる。

ほんのわずかな表情の差に、はっとすることだってある。
案外、こういうところに音楽の美は隠れていることだってある。

結局、そういう音の表情の違い、差を明瞭に聴き分けようとしている人ならば、
明瞭に、そういう音の表彰の違い、差がスピーカーから出てくるようにシステム全体をチューニングしていく。

そういう過程でケーブルを変えてみたり、インシュレーターなどのアクセサリーを試してみたり、
そんなこまごまとしたことをやっては、その音の違いに気づいていく。

すべてはスピーカーから少しでも表情豊かな音を出したいがため、ともいえよう。

システムの「顔」といえる音を支配しているのは、スピーカーであり、
「顔」を変えるにはスピーカーを替えるしかないとも、いおうとおもえばいえなくもない。
だからといって、スピーカーを替えない限り、音は変らないわけではない。

くり返しになるけれど、音の表情の豊かさを求める人にとっては、音は変っている。
そのことに気づくわけであり、「顔」は変らないから……、と決めつけている人の耳には、
表情の違い、差は届いていないのか、届いていたとしても感知していないのかもしれない。

はじめのころは、そんな人のシステムも音の違いを出していたであろう。
けれど、そのシステムの持主は、表情に目(耳)を向けることなく、
単なる「顔」の美醜・容姿しか聴かないのであれば、いつしかそのシステムの音も表情の乏しい音になっていく……。

「音は人なり」であるのだから。
「顔」もまた一瞬たりとも静止しはしないのだから。