十分だ、ということはあり得るのか(その2)
クラシックにおいて、この「十分だ」が使われる例として、
以前よく見かけたのには、次のようなものがあった。
マーラーの交響曲を聴くのにも十分だ、というものだった。
この表現が意味するのは、クラシックの交響曲といっても、
モーツァルトの交響曲とマーラーの交響曲とでは、同じには語りにくいところがある。
編成にしてもそうである。
モーツァルトの交響曲とベートーヴェンの交響曲にも、そういうところがある。
そのベートーヴェンの交響曲とマーラーの交響曲とでも、同じには語れないところがある。
モーツァルト、ベートーヴェンよりもマーラーは後の時代を生きた。
そのこととマーラーの交響曲が、ベートーヴェンの交響曲と違うことと無関係ではない。
そしてレコードの時代になってからでも、
マーラーの録音が積極的に行われるようになったのは、
モーツァルトやベートーヴェンよりも後の時代になってからである。
モノーラルの時代にもマーラーの交響曲の録音はあった。
けれどモーツァルトやベートーヴェンの交響曲が録音されるのとくらべると、ずっと少なかった。
マーラーの交響曲が積極的に録音されるようになり、
同時にマーラーのレコード(録音)の聴き手が増えてきて、積極的に聴かれるようになるのは、
ステレオ時代を迎え、さらに録音・再生、
その両方で、いわゆる音の分解能(解像力)があるレベルに達してから、といえる。