なぜオーディオマニアなのか、について(その2)
モーツァルトの音楽を聴きたくなる。
モーツァルトの曲ならば、なんでもいいという時もあれば、
ピアノ協奏曲が聴きたい時、交響曲が聴きたい時、オペラが聴きたい時などがあり、
さらにピアノ協奏曲の第20番が聴きたい、とか、交響曲の第40番が、「魔笛」が聴きたい時がある。
ピアノ協奏曲にしても、他の曲にしても、一枚しかディスクを持っていないということは、まずない。
あまり頻繁に聴かない曲に関しても、数枚のディスクがあり、
好きな、よく聴く曲に関しては、もっと多くの枚数のディスクを持つのは、
音楽好きの人ならばいうまでもないことであり、
数あるディスクの中から、同じ「魔笛」にしても、誰の演奏にするか決めていくこともあれば、
「魔笛」のディスクの置いてあるところを見て、この人の演奏にしよう、と決めることだってある。
さらにはこの作曲家の、この人の演奏によるディスクを聴きたい、と思い、
そのディスクを探す過程で目についた、まったく違う作曲家の、違う演奏家のディスクをかけてしまうこともある。
そうやって鳴らした音楽によって、結果として癒されたり、元気を得たりすることはもちろんある。
思わぬ感動を得られることもあるし、なにがしかの啓示といいたくなるものを感じることだってある。
だからといって、癒しを得たいからモーツァルトのディスクを選んでいるわけではない。
モーツァルトの音楽を聴きたい、と思った時、
無意識のうちに癒しを求めていたのかもしれない。
だが、ここが大事なのだが、癒しを欲しいから、そこでモーツァルトのディスクを選んでいるわけではない。
あくまでも聴きたい、と思える曲が先にあり、
その曲を自分のオーディオで聴いた時に、結果として癒しがあったり、
他のことが起ったりする──、
そういうふうに音楽を聴いてきた(選んできた)ような気がする。