Date: 5月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考
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十分だ、ということはあり得るのか(その6)

このテーマを書く気になったのは、twitterで、
私のシステムでも、マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たからだった。

私がフォローしている人が書いたことではなく、
私がフォローしている人がリツイートしたもの。

それを見た時に、いまも、こういうことを書く人がいるのか、が正直な気持だった。
いったいどういう人なのだろう、と、リツイート先の人のところを見てみた。

だが、マーラーを聴くにも十分だ、ということに関係するツイートはなかった。

まったく面識のない人の書き込み。
それも短い書き込み。
それゆえにあれこれ想像してしまい、このテーマを書くことにした。

マーラーを聴くにも十分だ、という人は、いったいどこまでのマーラーを聴いているのだろうか。

1947年録音のワルターのマーラーぐらいまでなのか、
1963年のバーンスタインのマーラーぐらいまでなのか、
1973年のカラヤンのマーラーぐらいまでなのか。
それとも最新録音のマーラーを含めての、「マーラーを聴くにも十分だ」なのかがはっきりしない。

おそらくこの人のいわんとしていることは、
自分は音ではなくマーラーの音楽を聴いている、だから最新の、大がかりなシステムでなくとも十分である、
そういうことを主張したいのだとは思う。

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