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Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その7)

スチューダーのデジタル出力はAES/EBUのみである。
同軸75Ω出力はない。

今回感じられた音の良さは、接続方法もあったのだろうか、と考えている。
D731に同軸出力があれば、AES/EBSとの比較試聴ができ、
デジタル伝送の仕方によって、どれだけの音の違いがあるのかを確認もできるのだが、
残念ながら、ついていないものは仕方ない。

AES/EBUの良さもあったのだろうか──、
と12月のaudio wednesdayが終ってからずっと考えている。

もしかしたら同軸75Ωによる接続のほうが音が良かったりするかもしれない。
それでもAES/EBUが頭から離れなくなっている。

オラクルのCD2000 mkⅢに興味を持つ理由のひとつが、ここである。
AES/EBUの存在がある。

それからCD2000 mkⅢは、アルミ製のフタがある。
このフタをするのかしないのかでも、音は変化する。
した方がいいという人もいれば、しないほうがいいという人もいる。

どちらが良くてどちらがダメという聴き方よりも、
うまく使い分ければいい。

メリディアンのULTRA DACには、通常のCD再生時に、三つのフィルターが選択できる。
CD2000 mkⅢとULTRA DACとの組合せでは、ここにフタをするかしないかが加わり、
計六通りの音の変化が得られる。

どれがいいと決めつけるのではなく、
音楽に対する「想像と解釈」で柔軟に使い分けていけばいいではないか。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その6)

フィリップスのスイングアームのピックアップ。
こんなことをいまいったところで現行製品は存在しない。

程度のいい中古を手に入れるしかない。
それも趣味のうちといえば確かにそうだけれど、
それでも古いCDプレーヤーは、いつディスクを読み込めなくなるか、という不安がある。
それに修理も可能かどうか、あやしい。

いまはまだどうにか修理が可能でも、
五年後十年後はどうなるか、はっきりとしない。

もうディスクを読み込んで再生する時代ではなくなってきている。
確かにそうではある。
CDをリッピングして、という時代への変化を迎えている。

それでもCDトランスポートには、メカニズムのおもしろさがあって、
それに伴ってくる再生のおもしろさもある、といえる。

そんなことを考えながら、
現行製品でULTRA DACと組み合わせておもしろくなりそうなトランスポートは何があるのか。

以前書いたように47研究所の4704/04 “PiTracer”には非常に興味がある。
けれど、製造中止にはなっていないが、現在は製造を休止している。

何人かのオーディオマニアの方からは、エソテリックのVRDS方式こそ、
現時点での理想ではないか、といわれるが、
個人的にはディスクにわずかとはいえストレスを与えている、あの方式には疑問がある。

P0くらいになると、それでも独特の説得力をもった音になって、認めないわけではないが、
とっくに製造中止になっているし、P0とULTRA DACの組合せがいい、とは思いにくい。

CDトランスポートの現行製品の数は、いまでは多くはない。
ULTRA DACと組み合わせてみたいといちばんに思うのは、
オラクルのCD2000 mkⅢである。

スイングアームではないけれどフィリップスのメカニズムを搭載し、
デジタル出力には同軸出力のSPDIFだけでなく、AES/EBU出力も備えている。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その5)

CDプレーヤーが世に登場し、
フィリップスのピックアップメカニズムを搭載した海外製のCDプレーヤーがいくつか登場し始めた時、
フィリップスのピックアップの方が、国産のピックアップよりも音がいい傾向がある──、
そんなことがいわれるようになった。

このことが広くいわれるようになったようには感じていなかったが、
少なくともステレオサウンドの試聴室に持ち込まれる各社のCDプレーヤーの新製品を聴くうちに、
なんとなく誰もが感じとっていたことのように思っている。

アナログプレーヤーではリニアトラッキングアームが理想のようにいわれている。
国産のCDプレーヤーのピックアップはリニア方式だった。
フィリップスは、当時はスイングアーム方式だった。

だからスイングアームの方がいいのかもしれない、ともいわれたし、
いまはどうなのか知らないが、当時の国産のピックアップは、いわゆるMM型だった。
フィリップスはMC型だった。

カートリッジと同じで、MM型のほうがレンズを含めた実効質量は軽くできる。
MC型はその点では不利である。

けれど、音を聴けば、
カートリッジにおけるMM型とMC型に通ずる音の差があるのではないか──、
そんなこともいわれていた。

さらにいえば、当時は国産はプラスチックレンズ、フィリップスはガラスレンズということもあった。
ここでもプラスチックよりもガラスの方が……、
これらのことが厳密な比較試聴で実証されているわけではない。

ただ感覚的にそう捉えられていた。

今回ULTRA DACと組み合わせたスチューダーのD731は、
フィリップスのスイングアーム方式の最後のメカニズムCDM4Proを搭載している。

ピックアップメカニズムだけで、トランスポートとしての性能がすべて左右されるわけではない。
そんなことはわかっていても、
D731と接続したULTRA DACの音を聴いていたら、
そんな昔にいわれていたことを思い出していた。

Date: 12月 22nd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(ウォルター・レッグのこと)

レッグ?
いったい何者なの?

そう思う人も、いまでは多いのではないか、と書いていて気付いた。
レッグとはウォルター・レッグ(Walter Legge)のことである。

クラシック音楽の録音について少しでも関心のある人ならば、
ウォルター・レッグについての説明は不要でも、
クラシック音楽を聴いてきていても、録音にまったく無関心な人、
そして世代によっては、レッグって? となるかもしれない。

レッグは1906年6月6日生れで、1979年3月22日に亡くなっている。
「レコードうら・おもて」の訳者あとがきには、こうある。
     *
 本書はON AND OFF THE RECORDの全訳である。主体となっている文章は、世紀のソプラノとして知らぬ人のないシュヴァルツコップさんの亡くなられたご主人、故ウォルター・レッグ氏のものである。生前、EMIのプロデューサーとして、ヨーロッパのクラシック音楽界にその人ありといわれた人である。いわば舞台裏の指揮者であり、名伯楽であった。クレンペラーもカラヤンもカラスも、レッグ氏がいなかったらひょっとして今日の名声を持てなかったかもしれない。シュヴァルツコップさん自身についても(それは彼女自身が本書の冒頭のワーグナーの一節を引いて認めているところだ)。
     *
それからEMIのレコーディングのためのオーケストラとして、
1945年にフィルハーモニア管弦楽団を、1957年にはフィルハーモニア合唱団を創立もしている。

ステレオサウンド 68号の「プロデューサーとディレクターの仕事③)でも、
レッグのことが取り上げられている。

「レコードうら・おもて」の扉に、
1974年のラジオインタヴューでの一節がある。
「そうですね、いったい私って何なのてしょう?
 音楽の産婆役ですね」

最後にシュヴァルツコップが引用したワーグナーの一節を書き写しておこう。
     *
あなたの愛がなかったなら
私はどうなっていたでしょう、
いつまでも子供のままでいたでしょう
あなたが私の眼をさまして下さらなかったなら。
あなたによって知ったのです、
善悪の判断のつけ方を。
あなたによって分かったのです、
心が何かということを。
あなたによって目覚めたのです
あなたによって学んだのです、
清らかに、自由に、勇敢に考えることを。
私はあなたによって花開いたのです!
 〈ニュルンベルクのマイスタジンガー〉第三幕より

Date: 12月 22nd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その10)

「レコードうら・おもて」で、レッグはカラスの声・歌について、こう書いている。
     *
基本的な特徴は豪華の一語であり、テクニックは驚嘆すべきものだった。実際、カラスは三つのコロラトゥーラ技法、豊潤な声、輝かしい(そして必要とならば深いかげりを帯びた)声、驚嘆すべき軽快な歌声。最もむずかしいフィオリトゥーラ[旋律装飾]でさえ、カラスが驚くべきかやすさでというか、本当に楽々と歌いこなすことができないような声域でも、音楽的にもテクニックの上でも問題なくやり遂げた。彼女クロマティックは、特に下降の場合、実に美しく滑らかで、スタッカートは、この上なくやりにくいインタヴァルであっても、傷一つなく正確であった。十九世紀のハイ・ソプラノ用の曲には、持続する高音ではかん高くなったり強引に歌ってしまうことが時にあったにせよ。彼女の能力をの限界を試すようなものは、ほとんどただの一小節もなかった。
 カラスの声の中心部は基本的には深いかげりのある音色だが、ここが最も表現の幅の広いところで、一番滑らかなレガートをふんだんに歌えるところだった。特に、彼女のきわめて個性的な音色を持っている部分であり、まるで瓶の中に向けて歌っているような感じのすることが多かった。これは、私の信ずるところでは、上口蓋の形を普通とはまるで違う、ゴチック・アーチの形にすることから来ていることだった。普通の形は、ロマネスク・アーチである。彼女の胸部も、その背丈の女性としては異常に長かった。このことが、訓練を積んだに違いないと思われる肋骨間の筋肉の発達と相まって、長いフレーズを一息で、しかも見た眼に楽々と歌って音楽を形作る、尋常ならざる能力を彼女に与えた。彼女は胸声をドラマティックな効果を出すために主として使い、台本や状況がそれによって効果を上げると感じると、同じような声域の他の歌手たちよりも高い音域で胸声へ滑らかに移行した。三つの、ほとんど比類ない声を一つの統一した全体へ合体させる技術を完全に修得したのは、テンポの速い音楽、特に下降音階の時だけだったのは残念だが、一九六〇年頃までは、巧妙な技法で、このギア・チェンジを目立たせずにやり遂げていた。
 カラスのレガートは他の誰よりも素晴らしかった。レガートは電信あるいは電話線のように、走っている線の形が見えなければならず、子音はその線の上に雀の足のように軽く乗るだけでなければならないということを、よく知っていたからだ。子音をきわめて効果的に使ったが、基本的にはレガートを、その流れがはっきり聴き取れるように、そしてドラマティックな効果を上げる時を別にすれば子音が間に入るのを気付かせないように歌うのが、カラスのやり方だった。
 ただ美しいだけの歌唱を、カラスは頭から軽蔑した。生涯、ベル・カント、つまり美しい歌唱が頭から離れなかったカラスだが、一つのシラブル、あるいは一つの子音でさえも──時には劇的意味を伝える長いフレーズの──意味やドラマティックな緊迫感という重要な色づけを意図的に行った、私の記憶では数少ないイタリア人アーティストだった。カラス自身よくいっていた──「結局、私たちの歌わされるテキストの中にはさほど詩的でないものもあります。聴衆、そして私自身に、ドラマティックな効果を伝えるためには、美しくない音を出さなければならないのです。真実でありさえすれば、汚くともかまいません。」
     *
まだまだ引用したいところはあるけれど、このへんにしておく。

レッグは《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》と書いている。
これはカラスの声を歌を聴いた時から感じていたことだ。
なんとも不思議な感じがするものだ、と感じたし、
「レコードうら・おもて」を読んで、的確な表現だとも思った。

《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》は、
コンサートでのカラスならば、そうでもないだろうが、
録音を再生装置を介して聴くとなると、ネガティヴへと向いてしまう。
そんなふうに感じたことのない人は、どれだけいるのだろうか。

Date: 12月 20th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その9)

「レコードうら・おもて」は1986年に出ている。
32年前に読んでいるわけだ。

そのころの私は23歳。
それほどマリア・カラスの録音を聴いていたとはいえなかった。

「レコードうら・おもて」はそんなころ読んでも面白い本だった。
けれど、今日、改めてマリア・カラスの章だけを読みなおして、
こんなにもおもしろい内容だったのか、と驚くとともに、
マリア・カラスの章に書かれいてることに深く頷くばかりだ。

読みながら、まったくそのとおり、そのとおり、心のなかでつぶやいている。
ようするに、「レコードうら・おもて」を最初に読んだ時、
私はマリア・カラスの熱心な聴き手とはいえなかっただけでなく、
マリア・カラスのほんとうのところをどれだけ聴いていたのか、
それすらも疑問であるような未熟な聴き手だったわけだ。

32年のあいだに、どれだけマリア・カラスの録音を聴いてきたかというと、
熱心に聴いてきた時期もあれば、まったく聴かなかった時期もある。
そうやって32年がすぎて、二週間ほど前にメリディアンのULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた。

そして今日「レコードうら・おもて」を読んだ。
ULTRA DACで聴いていなければ、これほど頷かなかったかもしれない。

Date: 12月 20th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その8)

トゥリオ・セラフィンのことばを、三浦淳史氏の文章を読んだ記憶がある──、
そう書いておきながら、今日帰宅してふと書棚のなかの一冊に偶然目が行った。

あっ、これだ、この本だ、と確信をもって手にしたのは、
「レコードうら・おもて(原題:On and Off the Record)」である。
音楽之友社から出ている。
レッグ&シュヴァルツコップ回想録である。

この本に、ローザ・ポンセルの章とマリア・カラスの章がある。
そのどちらにもセラフィンのことばは出てくる。

マリア・カラスの章から引用しておこう。
     *
 自分をごまかしたり早死したりすると、短い時間に流星のように輝かしいキャリアを築いて早々に引退してしまった一人の有名なオペラ歌手に対する判断を誤ることになる。カラスという名前は、文明社会の到る所で日常的に耳にする言葉の一つだ。聴けばすぐそれと分かる声、人を引きつける個性、夥しい数のレコード、そしてひっきりなしに流されるセンセーショナルなニュースやゴシップ欄の話題のお陰で、カラスの名声は絶頂期のカルーソーすら及ばぬほど大きかった。だが、トゥリオ・セラフィンの慎重な判断を持ち出してバランスを取る必要がある。今世紀最高の歌手たちと六十年にわたって仕事をしてきた人の発言である。──「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる。」カラスの最も重要な教師であり、父親の役目も果たし、彼女の比類ないキャリアを築き上げたセラフィンであるのに、彼女を三つの奇蹟に入れなかった。カラスは「数人の素晴らしい歌手」の一人だったのだ。セラフィンの言葉は、本人は気付かなかったに違いないが、アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した言葉を繰り返していたことになる──「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない。」
     *
だが、それでもマリア・カラスは女神(ディーヴァ)である。
それは「レコードうら・おもて」の目次からもわかる。

 序文 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 はじめに エリーザベト・シュヴァルツコップ
 1 ウォルター・レッグ讃/ドール・ソリア
 2 自伝
 3 フィルハーモニー管弦楽団
 4 回転盤の独裁者──スタジオのレッグ/エドワード・グリーンフィールド
 5 ティッタ・ルッフォ
 6 ロッテ・レーマン
 7 ローザ──八十歳の誕生日を迎えたローザに敬意を表して
 8 エリーザベト・シュヴァルツコップ
 9 トマス卿
 10 オットー・クレンペラー
 11 女神──カラスの想い出
 12 アーネストニューマンとフーゴー・ヴォルフ
 13 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 14 引退後の日々
 エピローグ

ローゼ・ポンセルのところにないことばが、マリア・カラスのところにはある。
「女神」だ。

Date: 12月 19th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その7)

いつのころからか、Diva(ディーヴァ)、もしくは歌姫という表現を、
頻繁に見かけるようになった。

この人(歌手)もディーヴァなのか、と思ってしまうほどに、ありふれてしまった。

私はグラシェラ・スサーナの歌が心底好きでも、
グラシェラ・スサーナのことを一度もディーヴァとおもったことはない。

それはディーヴァと呼ばれるにほんとうにふさわしい歌い手を知っているからだ。
マリア・カラスは、ほんとうにディーヴァである。

それでもトゥリオ・セラフィンは、
人生における三つの奇蹟として、カルーソー、ルッフォ、そしてポンセルの名を挙げている。
これも三浦淳史氏の文章で読んだと記憶している。

ポンセルとはソプラノ歌手のローザ・ポンセルのことだ。
マリア・カラスではなかった。

奇蹟といえる三人にはマリア・カラスは含まれていない。
マリア・カラスのことは非常に優れた歌い手の一人──、
そんなふうに記憶している。

ローザ・ポンセルの名を知ったのも、この時だった。
ポンセルのCDが、発売にもなっていた。
聴いたけれど、なにしろ録音が古すぎる。

ポンセルは1920年代から30年代にかけて活躍していた。
なので録音も少ないし、当然古い。

セラフィンのことばを疑うわけではないが、これではポンセルの凄さを、
私は感じとることができなかった。

ローザ・ポンセルこそディーヴァだ、とすれば、
マリア・カラスもディーヴァとは呼べない──、
そんなこともいえるのだろうが、
1963年生れの私にとっては、ポンセルもカラスも録音だけでしか聴けない。

これは私だけではない。
ほとんどの人にとっても同じはず。

ポンセルの実演を聴いたことがある人は、どれだけいるのか。
カラスでさえ、そうである。

ポンセルはほんとうに素晴らしいのであろう。
けれど聴けないことには、もう想像するしかない。
ならば、私にとって、そして私だけでなく多くの人にとって、
マリア・カラスこそディーヴァであろう。

もちろんディーヴァは一人だけなわけではない。
それでせ私にとって、ディーヴァと呼べる最初の歌い手は、
ふりかえってみても、マリア・カラスだった。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その6)

黒田先生は、「オペラへの招待」のカルメンの章の冒頭に、こう書かれている。
     *
「恋って、いうことをきかない小鳥のようなもの、飼いならそうとしたって、そんなこと、誰にもできない」
 カルメンは、そのようにうたう。カルメンがその登場の場面でうたう「ハバネラ」の冒頭である。この歌であきらかにされるのは、カルメンの、大袈裟にいえば人生観、あるいは恋愛観である。
「掟なんて、しったことではない。わたしを好きになってくれなくったって、わたしのほうで好きになってやる。わたしに好かれたら、気をつけたほうがいいよ!」
 カルメンは、「ハバネラ」で、こうもうたう。
 では、カルメンとはなにものか?
     *
カルメンとはなにものなのか?
マリア・カラスによる「ハバネラ」は、この問いへの答を見事に表現している。
今回、ULTRA DACでマリア・カラスの「ハバネラ」を聴いて、実感できた。

マリア・カラスの名前は、クラシックに興味を持つ以前から知ってはいた。
名前だけではある。
カラヤンの名前よりも先に知っていた。

マリア・カラスの録音で最初に買ったのは「カルメン」である。
それでも「カルメン」の録音で、マリア・カラスの「カルメン」よりも、
アグネス・バルツァの「カルメン」の方を聴いた回数は多かった。

「オペラへの招待」でも、
黒田先生は「カルメン」の推薦ディスクとしてあげられているのは、
バルツァによるカルメン、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによる録音と、
ベルガンサ、アバド指揮ロンドン交響楽団による録音である。

マリア・カラスの録音ではない。
私はロス・アンヘレス、ビーチャム指揮フランス国立管弦楽団による録音も好きなのだが、
バルツァ盤を20代のころ聴いていたのは、録音のよさも関係してのことだ。

そのころの私は、カラスの「カルメン」をそれほどうまく鳴らせていなかった。

そういえばアグネス・バルツァはギリシャ人である。
マリア・カラスはギリシャ系アメリカ人である。
ギリシャの血をひく歌手が、カルメンには向いているのか。

それはともかくとして、今回ULTRA DACで、カラスの「ハバネラ」を堪能できた、とさえ感じている。
これは私だけではなかったようだ。

それでも、まだマリア・カラスをMQAで聴いたわけではない。
e-onkyo musicのサイトでは、マリア・カラスのスタジオ録音がMQAで配信されている

通常のCDとMQA-CDの違いは、すでに知っている。
まだ先がある。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その5)

なぜオーディオショウではマリア・カラスがかけられないのか──、
こんなことを書いている私も、ここ十年ほどマリア・カラスを聴いていなかった。

それがここに来て急にマリア・カラスのことが気になってきたのは、
9月のaudio wednesdayで、メリディアンのULTRA DACを聴いたからである。

マリア・カラスのCDを聴いたわけではない。
なのに帰りの電車のなかで、マリア・ラカスを聴きたい、とふと思った。
ULTRA DACで聴いてみたい、と思った。

自分でもULTRA DACの音が、なぜ突然マリア・カラスと結びついたのかはわからない。
とにかくマリア・カラスだ、とおもった。

12月のaudio wednesdayで、マリア・カラスの「カルメン」をかけたのは、
その1)で書いているとおり。
これだけの音で鳴るのならば、
オーディオショウでも頻繁にかけられるようになるのでは──、とおもうほどに鳴った。

「カルメン」ならば、クラシックに関心のない人でも耳にしているだろう。
特にハバネラは聴いたことがない、という人のほうが少ないだろう。

ビゼーの「カルメン」には、「ハバネラ」だけではない。
お馴染みの音楽がかわるがわる登場してくる。
そのお馴染の音楽は、くり返すが、クラシックをさほど聴かない人にとってもそうである。

「カルメン」はオペラの数多い作品のなかでも、とびきりの知名度をもつ。
その意味で、まさにオーディオショウ向きともいえるのに、
不思議なことに、私の知る範囲では「カルメン」も聴いていない。
マリア・カラスの「カルメン」を含めてだ。

Date: 12月 13th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その4)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれている。
     *
もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。
     *
アンプの音についてのことだが、同じことは今回トランスポートにも当てはまる、と感じた。
スチューダーD731のトランスポートとしての音はヴィヴィッドだ、と書いた通りだ。

表現を変えるならば、ストレスがないように感じる。
音の出方にストレスを感じないのだ。
だからこそヴィヴィッドに感じるのかもしれない。

それまでのラックスのD38u、パイオニアのPD-D9をトランスポートとして聴いたとき、
ストレスといったものを特に感じることはなかった。

けれどD731とULTRA DACの音を聴くと、
D38u、PD-D9の音には、どこかしらストレス的なものがあったように感じてしまうから、
瀬川先生の書かれていたことを思い出してもいた。

こういう音を聴いていると、EMTの930stの音も思い出してしまう。
EMTのアナログプレーヤーの音が、どこか体に染み込んでしまっているのか。
どこか共通する、ストレス的なものを感じさせないヴィヴィッドな音を聴いてしまうと、
あぁ、これなんだ、と確信に近いものを感じてしまうところが私にはある。

別項「JUSTICE LEAGUE (with ULTRA DAC)」で書いたこと。
JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)のサウンドトラックの23曲目、
“COME TOGETHER”の抜群のかっこよさは、ストレスフリーといいたくなる音ゆえかもしれない。

こういう音を聴いてしまうと、
ULTRA DACが魔法の箱のようにおもえてしまうし、
思慕の情みたいなものが湧いてくる。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その3)

メリディアンのULTRA DACについて、あれこれ試してみたいことがある。
そう思いながらも、前回もそして今回も聴くと、そんなことをやるよりも、
いろんなディスクを聴く方を優先してしまう。

ずっと、聴いていたい、と思う。
だからチェックしたいことは後回しになる。

前回もやや感じていたことだが、
今回聴いて、そうなのかも、と思っているのは、
ULTRA DACの目覚めの時間がややかかることだ。

ULTRA DACの電源スイッチはリアパネルにある。
ということは基本的に電源を入れっ放しにしておくことが前提なのだろう。

今回ULTRA DACの電源を入れたのは18時ごろだった。
アンプの電源を入れたのは、その少し前。

なので、どちらかがとははっきりいえないところを残しているわけだが、
D731、D38u、PD-D9、もう一度D731とトランスポートを替えていったときの音の変化、
特に二度目のD731との組合せの音は、
48kHzと44.1kHzという違いがあるし、
48kHzの場合は、アップサンプリングの回路を経由しているわけだし、
その違いもあることは考慮しなければならないが、
それでもULTRA DACのウォームアップは、短くはないと感じる。

二度目のD731の時には21時をまわっていた。
これまでのことからアンプのウォームアップはすでに終っている時間だ。
となると、やはりULTRA DACは電源を入れてから本領発揮まで、やや時間を要するのか。

他の機器のウォームアップを終らせてからでないと、
ULTRA DACがほんとうにそうなのか、とははっきりといえない。

それでも、いまのところウォームアップには十分な時間をかけてほしい、と、
これからULTRA DACを試聴する機会がある人にはいっておきたい。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その2)

パイオニアのPD-D9の動作は問題なかった。
安心して、いろんなディスクがかかる。

特に不満もなかったけれど、
スチューダーのD731との組合せの音が耳に残っている。
やはりD731と組み合わせてみたい、とどうしても思ってしまう。

D731のオーナー、Kさんによると、
内部をいじることでデジタル出力を44.1kHzに変更できるはず、ということだった。

D731の内部は、今回初めて見た。
Kさんによると、
メイン基板の横にある小さな基板の電源供給を止めれば変更される──、
ということだった。

その状態ではULTRA DACがロックしない。
メイン基板をよく見ると、44.1kHzという表示がある。
ジャンパーを差し替えることで、48kHzから44.1kHzへの変更が可能になる。

このへんはプロ用機器だな、と感心する。
マニュアルが手元になくても、基板を見ればわかるようになっている。

ジャンパーを入れ替えて、もう一度ULTRA DACと接続すると、今度は44kと表示された。
これでD731とULTRA DACの組合せでMQA-CDが聴けるようになった。

この音は、やはりいい。
KさんにD731をお願いしてよかった、と思える音が鳴ってくる。
それに厳密な比較を行ったわけではないが、
通常のCDを聴く場合でも、デジタル出力は48kHzよりも44.1kHzのほうがよく感じる。

D731のトレイは安っぽい。
国産の、いまどきの高価なCDプレーヤーの造りを見慣れた目には、
ほんとうに安っぽく映る。
もうそれだけでいい音がしそうにないと思う人も少なくないだろう。

それにD731のシャーシーもまた安っぽい。
薄い鉄板だし、ネジの数も少ない。
高剛性の筐体や、アルミの削り出しの筐体ばかりに見ている人には、
もうこれだけでいい音は絶対にしないはず、と決めつけるであろうほどだ。

それでも、不思議と音はいい。
とにかくヴィヴィッドなのだ。

Date: 12月 11th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(ステレオサウンド 209号)

今日発売になったステレオサウンド 209号は、ほんの少しだけ楽しみにしていたことがある。
特集のベストバイを楽しみにしていた。

メリディアンのULTRA DACの評価が気になっていた。
前回のベストバイの号(205号)はほとんど見ていない。
ULTRA DACは、確かに登場していたはずだが、どういう評価だったのは知らない。

なのでベストバイでのULTRA DACは、どの程度の評価なのか。
そう高くはないだろうことは予想していた。
たぶん、あの人とあの人は点数を入れないだろう、とも予想していた。
この予想は当っていた。

けれど、こんなに評価されていないのか、と驚いた。
点数(一点)を入れていたのは、黛健司氏だけだった。

だから写真もコメントもない。
ただブランド名と型番と点数(評者)があるだけだった。
小さな小さな扱いである。

とはいえ別に落胆はしない。
そういうものか、と淡々と受け止めるだけである。

9月のaudio wednesdayでULTRA DACを聴いた人はみな驚いていた。
12月のaudio wednesdayで聴いた人たちは、もっと驚いていた。

私も12月のaudio wednesdayでのULTRA DACの音に、より驚いた。

ULTRA DACは、だからおもしろい存在になりそうだ。

Date: 12月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(12月のaudio wednesday)

急に寒くなってきた。
12月のaudio wednesdayが先週でよかった、とあらためて思っている。

12月5日は12月とは思えないほど暖かだった。
前日ほどではなかったにしろ、とりあえずエアコンもガスファンヒーターも使うことなく終った。

喫茶茶会記を午前0時ちかくに出たころにはさすがに冷え込んでいたけれど、
それでも音出しの時間は、暖房なしで済んだ。

寒さや暑さを我慢しながら聴くことを、
来てくれている人たちに強要はできない。
それに寒すぎては、スピーカーが特にうまく鳴ってくれない。

人が快適な温度がオーディオにとっても快適である。
それでもエアコン、ガスファンヒーターの動作音は、どうしても耳障りだ。

耳障りな音なしで、ULTRA DACの音が聴けたのは、やっぱりよかった。