Date: 12月 22nd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC
Tags:

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その10)

「レコードうら・おもて」で、レッグはカラスの声・歌について、こう書いている。
     *
基本的な特徴は豪華の一語であり、テクニックは驚嘆すべきものだった。実際、カラスは三つのコロラトゥーラ技法、豊潤な声、輝かしい(そして必要とならば深いかげりを帯びた)声、驚嘆すべき軽快な歌声。最もむずかしいフィオリトゥーラ[旋律装飾]でさえ、カラスが驚くべきかやすさでというか、本当に楽々と歌いこなすことができないような声域でも、音楽的にもテクニックの上でも問題なくやり遂げた。彼女クロマティックは、特に下降の場合、実に美しく滑らかで、スタッカートは、この上なくやりにくいインタヴァルであっても、傷一つなく正確であった。十九世紀のハイ・ソプラノ用の曲には、持続する高音ではかん高くなったり強引に歌ってしまうことが時にあったにせよ。彼女の能力をの限界を試すようなものは、ほとんどただの一小節もなかった。
 カラスの声の中心部は基本的には深いかげりのある音色だが、ここが最も表現の幅の広いところで、一番滑らかなレガートをふんだんに歌えるところだった。特に、彼女のきわめて個性的な音色を持っている部分であり、まるで瓶の中に向けて歌っているような感じのすることが多かった。これは、私の信ずるところでは、上口蓋の形を普通とはまるで違う、ゴチック・アーチの形にすることから来ていることだった。普通の形は、ロマネスク・アーチである。彼女の胸部も、その背丈の女性としては異常に長かった。このことが、訓練を積んだに違いないと思われる肋骨間の筋肉の発達と相まって、長いフレーズを一息で、しかも見た眼に楽々と歌って音楽を形作る、尋常ならざる能力を彼女に与えた。彼女は胸声をドラマティックな効果を出すために主として使い、台本や状況がそれによって効果を上げると感じると、同じような声域の他の歌手たちよりも高い音域で胸声へ滑らかに移行した。三つの、ほとんど比類ない声を一つの統一した全体へ合体させる技術を完全に修得したのは、テンポの速い音楽、特に下降音階の時だけだったのは残念だが、一九六〇年頃までは、巧妙な技法で、このギア・チェンジを目立たせずにやり遂げていた。
 カラスのレガートは他の誰よりも素晴らしかった。レガートは電信あるいは電話線のように、走っている線の形が見えなければならず、子音はその線の上に雀の足のように軽く乗るだけでなければならないということを、よく知っていたからだ。子音をきわめて効果的に使ったが、基本的にはレガートを、その流れがはっきり聴き取れるように、そしてドラマティックな効果を上げる時を別にすれば子音が間に入るのを気付かせないように歌うのが、カラスのやり方だった。
 ただ美しいだけの歌唱を、カラスは頭から軽蔑した。生涯、ベル・カント、つまり美しい歌唱が頭から離れなかったカラスだが、一つのシラブル、あるいは一つの子音でさえも──時には劇的意味を伝える長いフレーズの──意味やドラマティックな緊迫感という重要な色づけを意図的に行った、私の記憶では数少ないイタリア人アーティストだった。カラス自身よくいっていた──「結局、私たちの歌わされるテキストの中にはさほど詩的でないものもあります。聴衆、そして私自身に、ドラマティックな効果を伝えるためには、美しくない音を出さなければならないのです。真実でありさえすれば、汚くともかまいません。」
     *
まだまだ引用したいところはあるけれど、このへんにしておく。

レッグは《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》と書いている。
これはカラスの声を歌を聴いた時から感じていたことだ。
なんとも不思議な感じがするものだ、と感じたし、
「レコードうら・おもて」を読んで、的確な表現だとも思った。

《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》は、
コンサートでのカラスならば、そうでもないだろうが、
録音を再生装置を介して聴くとなると、ネガティヴへと向いてしまう。
そんなふうに感じたことのない人は、どれだけいるのだろうか。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]