Archive for category 会うこと・話すこと

Date: 12月 14th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その15)

火曜日は、別項「実感した電源事情」で書いているように、
渋谷のギャラリー・ルデコに行っていた。

4Fで24日まで開催されているSUBTERRANEAN HOMESICKは、
金村修、小松浩子、マイク野上、三人の写真家による展示である。

SUBTERRANEAN HOMESICKで音楽を鳴らしているシステムは、野上さんのモノである。
12日の夜は、野上さんと渋谷で飲んでいた。

ライカの話が出た。
ライカの話をされるときの野上さんの手つきは、
そこにライカのカメラがあるかのような手つきである。
ライカのカメラが、そこにスポッとおさまっているかのようである。

野上さんのライカの話を聞いていて、
瀬川先生の文章を思い出してもいた。
     *
 カメラについて、私の知るかぎり最もその扱いの見事な人は、故人となった木村伊兵衛先生だった。写真に凝ったあげく「ライカ倶楽部」の会員の端くれに入れて頂いた私にとって、木村先生は雲の上のような存在だったが、その木村先生のカメラさばきの見事さについては、いくつもの〝伝説〟が残っている。だが、それを最もうまく言いあてているのは、「まるで呼吸すると同じように」カメラを扱った、という大倉瞬二氏の表現だろう。木村伊兵衛氏が写真を「撮っている」ところを、しかと見た人は少ない。つまり、カメラを「構えた」という感じを周囲の人にまったく気づかせない。首からぶら下げたライカが、時折、顔のところまでスっと引き上げられ、スっと元のところにおさまる。居合抜きもかくやという雰囲気で、確かにそれはもう、呼吸すると同じくらい、身体の一部になってしまっていた。
(「音の味覚学(ガストロノミー)」より)
     *
ライカこそ、そういうカメラなんだ、と野上さんの話を聞きながら思っていた。

楽しい三時間は、あっという間だった。
帰宅して布団の中に入って、ふと気になったことがあった。

iPhoneで「木村伊兵衛」で検索してみた。
木村伊兵衛氏は、1901年12月12日の生れだった。

その場に居合わせなかった人にとって、どうでもいいことなのだろうとわかっていても、
12月12日に、ライカについての野上さんの話を聞けたことは、
私にとっては単なる偶然ではない意味をもつ。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その14)

夕方、オーディオ仲間、友人のAさんの家に行っていた。
数年前までアメリカに住んでいたAさんは、アメリカに倉庫を借りていて、
そこにいろいろ保管している。

その一部を今夏アメリカで整理して、日本に送っている。
その中に、JBLのユニットがあり、それを見に行っていた。

075、375+537-500、N800である。
そのどれも何回となく見ているし、音も聴いている。
人によっては、ただ見に行くだけなの? と思うかもしれない。

音は聴いていない。見に行っただけである。
いまではスマートフォンで、そこそこきれいな写真が簡単に撮れ、
すぐに送信できるし、してもらえる。

行って直接見ることは、触れることでもある。
ひさしぶりに触った375+537-500。
見る・聴く機会はけっこうあっても、触れるのは20数年ぶりだろうか。

2441+2397の組合せよりも、375+537-500の方が重い。
ホーンが木製か金属製かの違いがある。
それに537-500にはスタンドも付属している。

375も2441も、重量は変らないが、
ホーンシステムとしての重量バランスは、
2441+2397は悪い。アンバランスである。

375+537-500はホーンが重たい分、重量バランスはずっといい。
トータル重量と重量バランスに関しては、
カタログに記載されている数値を見れば、想像がつくことではあっても、
こうやって自分の手で持ち上げてみると、思い出される感覚がある。

大切にしたい感覚だと思う。

Date: 7月 26th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その13)

2月に大分から来られたUさんと会って飲んでいた。
数日前には、兵庫からのTさんと会っていた。

Uさんと初対面だった。
facebookで知りあった。

Tさんとは30年ぶりだった。
元同僚である。彼も短い期間ではあったが、ステレオサウンドで働いていた。
お互いの連絡先は知らないままだったけれど、facebookのおかげでまた会うことになった。

facebookがなければ、UさんともTさんとも、今年会って飲むことはなかったかもしれない。
facebbokがなくともインターネットはあるわけで、
audio sharingを公開しているし、ブログも毎日書いていて、メールアドレスも載せているので、
facebookがなくとも知りあったり、再会したりという可能性はまったくないわけではない。

でもfacebookがあったから、と感じている。

UさんもTさんもオーディオマニアだ。
2月も数日前も、オーディオの話がほとんどだった。

Tさんと再会する二日前には、友人のAさんと飲んでいた。

会って話すということは、目の前に相手がいる、ということである。
私の前に、誰かが坐ってくれている、ということだ。

Date: 3月 10th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その12)

今日は飲み会(パーティか)だった。
表参道にあるとある事務所での、それは行われていた。

私としては、まあまあの量飲んだので、いまもほどほどに酔っている。
酔っている状態で、今日は書いている。
このブログを書くために途中で抜け出して帰ってきた。

30人以上の人が来ていた。
すごいにぎわいだった。

何人かの方と話した。
あるメーカーの人がいた。
このブログを読んでいる人ならば、みな知っているメーカーである。

そのIさんが、
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」
といわれた。

まったく同感である。
オーディオ業界は、若い才能が育ってきているか疑問も残るが、
他の分野では確かに若い才能は育ってきている、といえるだろう。

けれど贅沢な環境は失われつつある、のもまた事実である。

オーディオの場合、特に失われつつある、といえるかもしれない。

いろんな人が集まる場になれているわけではない。
今夜は、とある女性に「気弱にならない」ともいわれた。
そういうタイプの私でも、誘いがあると出掛けていくのは、
やはり人と会って話すのは楽しいからである。

ステレオサウンドにいたら、多くの人と会えたであろうが、
それはすべて仕事が関係してのことであり、ステレオサウンドという看板があってのことである。

そういうこととは関係なく、会って話せるというのは楽しい。

Date: 1月 27th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その11)

ひとりで酒を呑むことは、もう30年ほどやっていない。
誰かといっしょに呑むのは楽しい。
だから親しい人からの誘いがあれば、極力出掛けるようにしている。

今日も出かけていた。
友人で、オーディオ仲間のAさんと会って、あれこれ話して帰ってきたところである。

オーディオの話も、もちろんした。
それ以外の話のほうが多かったけれども。

オーディオの話で驚いたことを聞いた。
オーディオの話というより、オーディオマニアについての話である。

Aさんは私よりも、多くのオーディオマニアを知っている。

AさんがSNSに、あるオーディオ機器を買った、と書いたとする。
それが高額なモノであれば、彼を知っているオーディオマニアの方から連絡が来るそうだ。
聴かせてほしい、と。

ところが、新しいモノを何も買わずにいると、
まったく連絡がなくなるそうだ。
そういう人の中には、Aさんから連絡をしても無視する人もいるとのこと。

なんだろう、と思う。
そういう人は、Aさんに会いに来るのではなく、
Aさんが購入したオーディオ機器に会いに来ているのか。

そんな人も「音は人なり」というのだろうか。
だとしたら、Aさんが購入したオーディオ機器を聴きに来るということは、
Aさんの音を聴きに来ると同義であるのに……、とも思う。

Date: 12月 25th, 2016
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その10)

人はいつか死ぬ。
死を避けることのできる人なぞいない。

そんなことみなわかっている。
にも関わらず、死ぬということをわすれてしまいがちでもある。

いつでも会える。
そう思っていないだろうか。

たしかにお互いが生きていれば、いつでも会える。
でも人は死ぬのだ。

いつか死ぬ。
こんなことを書いている私だって、いつ死ぬのかはわからない。
20年後かもしれない。もっと後かもしれない。
でも、もしかしたら明日、事故にあって……、ということだって、
可能性としてはあるわけだ。

会って話すことは、互いが生きているからだ。
相手が生きていて、私が生きていてこそ、会って話せる。

このことを忘れないでほしい。
憶えていても、つい先延ばしにすることがある。
そこでの後悔は、どうしようもない。

岩崎千明氏のこと(その5)」に書いた。
年明けにでも、と思っていたから、急ぐ気持はなかった。

人はある日突然いなくなる。
会えなくなる。

Date: 12月 24th, 2016
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その9)

昨晩は忘年会だった。
明るいうちからひとつ目の忘年会があり、夜は次の忘年会に移動していた。

20数年ぶりだろうか、始発電車で帰ってきた。
この時期、ブログを書くペースを増しているのは、
大晦日までに7000本目(年に千本)を書くためである。

なので早めに帰宅してブログを書きたい、という気持は強い。
それでもひょこひょこ出掛けていた。
昨晩のブログは、忘年会の最中にiPhoneで書いていた。

昨晩の忘年会は、どちらも、どこかの飲食店に出掛けて、というものではなかった。
最初の忘年会は、
毎月第一水曜日にお世話になっている四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記での、
常連の人たちを集めてものだった。

次に行った忘年会は、とある事務所でのものだった。
そこにはホワイトボードがあり、
途中からホワイトボードにそれぞれがテーマについて書きながらの忘年会になっていた。

いまや連絡ツールはいくつもある。
しかも手軽になっている。
話すこともできれば、文書で、絵文字、写真などで伝えることも手軽にできる。

それでも移動して会って話す。
面倒だな、と思う気持がまったくないわけではない。
上に書いているように、この時期はブログを書く時間を優先したい気持もある。
それに出不精なところもある私であっても、
やっぱり会って話すことは、楽しいと感じる。
会って話してわかることもある。

Date: 12月 16th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その8)

今回のジャズ喫茶・名曲喫茶めぐりには、30代・40代・50代・60代の方が参加された。
いちばん若い人は34歳。

私はその年代のころ、あることを思っていて口にしていた。

「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」

こんなことをいっていた。
ある知人が、せっかくの才能なんだからオーディオの仕事をしたらどうですか、
何か書いたらどうですか、
そんなことを何度もいっていたから、
それに対して、こう言って返した。

けっこう本気でそう思っていた。
これこそがいちばん贅沢かもしれない、とも思っていた。

もし、このときに、MAC POWERを手にしていなければ、
川崎先生のDesign Talkと出逢っていなければ、読みつづけていなければ、
ずっとこのままきていたかもしれない。

大人とは──、と問われれば、
誰かのために自分の時間の一部を使うことにためらわないことだ、と答える。

残り時間は短くなっていくばかりなのだから、
お金にもならないことのために自分の時間を費やすなんて……、
そう思う人がいても、それはそれでいいじゃないか、と思っている。

私自身もそうなっていたであろうから。

Date: 12月 14th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その7)

一時に中野駅に集合して、中野・渋谷・新宿とまわってナルシスを出たのは七時をまわっていた。
今回決めていたのは一軒目にロンパーチッチに行くということだけで、
次にどの店に行くのかを、はっりきと決めていたわけではない。

そうやってまわったあとに大久保に移動して忘年会。
ここでは当然アルコールがはいる。

話すことはあれこれある。
音楽とオーディオのことばかり話していたわけではない。

最後の店を出たのは十時をまわっていた。
audio sharing例会を毎月行って、そこで話しているわけだから、
こんなふうに集まっていくつかの店をまわって呑みながら話すこともないだろう、とは思っていない。

今回参加されていた方はひとりをのぞいてみなfacrbookをやっている。
それでも、会って話すのは楽しい。

いまは会わなくともやりとりはスマートフォンがあれば、頻繁に、どこででも行える。
今回のことにしても、どの店をまわるのか決めてなくともスマートフォンがあったから、
途中参加の人もすんなり合流できている。

便利にはなっている。
それでも直接会って話す。
一対一で会って話すのもいいし、こうやって何人もが集まって話すのもいい。

歳をとれば、いままで生きてきた時間よりも残り時間は確実に短い。
短いからこそ、自分のためだけに使いたい、好きなように使いたい、という気持はわかる。
けれど、その短くなった時間の一部を、
自分のためだけでなく、好きなようにではなく使うのも大切なことではないのか。

Date: 12月 14th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その6)

今回まわった四軒の店のシステムを書き出すことはしないが、
ナルシスのシステムは、ほとんどのオーディオマニアの関心をひかない内容である。

五時開店のナルシスに、われわれはこの日最初の客だった。
私は、四軒の音で、ナルシスの音がもっとも印象に残っている。

インターネットで検索すれば、ナルシスは古くからの店で有名なことを知る。
渋谷のライオンも古い店なのだが、私にはナルシスの方が驚きもあった。
歌舞伎町の真ん中に、こういう店がずっと存在している。
しかも、そこで聴ける音は、なかなかのもの。

今回のジャズ喫茶・名曲喫茶めぐりに参加したのは私もふくめて八名。
途中参加の人、最初参加して途中抜けてまた合流という人もいたので、
八人がいっしょにいたわけではないが、五人だったり六人だったりしていた。

ロンパーチッチの音が気に入った、という人もいたし、
ライオンの音はダメという人もいれば、ここが良かった、という人もいる。
ナルシスの良かったけれど、JBSの方が印象に残っている人もいた。

どこがいちばんの音なのかを決めるために廻っていたのではないから、これでいい。
これを読まれた方の中には、
なにも一緒に行かなくとも、どれも東京都内の店なのだから、ひとりで行けばいいじゃないか、というかもしれない。

たしかにそうだ。
でもこうやって数人で一緒に廻ることで気づくことがある。
それにナルシスは今回のことがなければ、ずっと知らないままだったと思う。

Date: 12月 14th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その5)

ロンパーチッチは開店三周年ということだった。
若い店主による、明るい雰囲気のジャズ喫茶である。
店内には書棚がふたつあった。

片側の書棚には菅原正二氏の「聴く鏡」があった。
もうひとつの書棚には岩崎先生の「オーディオ彷徨」(復刊のほう)があった。

ジャズ喫茶華やかなりしころのジャズ喫茶のイメージをもって行く人には、
ものたりないと感じるかもしれないが、私はいい感じの店だと思っている。

二軒目のライオンは、参加している人のリクエストがあった。
ここは多くの人が知っている店。
JBSとライオンは近い。

かけている音楽、店の雰囲気、オーディオ機器はずいぶんと異る。

ロンパーチッチとライオンは今回が最初ではなくひとりで行ったことがあったが、
JBSは今回が初めてだった。
店の評判をすこしは聞いていた。

JBSにいて感じたのは、ロンパーチッチの店主とJBSの店主。
歳の差はけっこうあるのだろうが、雰囲気が似ているように感じた。
ロンパーチッチの店主がJBSの店主ほどの年齢になると、こんな感じになるのかな、と思っていた。

最後のナルシスは、喫茶茶会記の店主、福地さんのすすめだった。

ナルシスに関しては何も知らなかった。
場所的にはすごいところにある。
こんなところに……、と誰もがおもうところにある古びた雑居ビルの二階にナルシスはある。

Date: 12月 14th, 2014
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その4)

昨日(12月13日)は、ジャズ喫茶・名曲喫茶めぐりをやった。
毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記でおこなっているaudio sharing例会で、
ジャズ喫茶、名曲喫茶のことが話題になった。

それでは、みんなでそれらをまわろうということになり、
10月下旬に予定したのが延び延びになり、昨日になった次第。
12月になったこともあり、ジャズ喫茶・名曲喫茶巡りのあとは忘年会ということにもなった。

廻った店は四軒。
最初が中野にあるロンパーチッチ、次が昔から知られている渋谷のライオン
渋谷ということでライオンの次にはJBSに行った。
最後は新宿・歌舞伎町にあるナルシスだった。

最初にロンパーチッチを選んだのは、中野にあったからである。
中野駅北口には1970年代前半に、ジャズ・オーディオがあった。
岩崎先生がやられていた店だ。

ジャズ・オーディオがはいっていたビルは、名前は変っているがいまもある。
このビルを、スタート地点としてジャズ喫茶・名曲喫茶めぐりをやりたいという私の勝手なおもいからである。

ロンパーチッチはジャズ・オーディオがはいっていたビルから徒歩五分ほどのところにある。
ほぼまっすぐ北に向えばある。
スピーカーは、JBLのD130と075をおさめたモノ。

偶然なのだろうが、中野でD130ということが、また嬉しい。

Date: 9月 6th, 2013
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その3)

四谷三丁目の路地裏にひっそりとあるジャズ喫茶、喫茶茶会記。
店の奥に、大小ふたつのスペースがあり、おもに小さなスペースの方で毎月第一水曜日に、
audio sharingの例会をやっている。

つまり私にとって、最低でも月一回は人と会ってオーディオ、音楽のことを話すことになる。
話していると気づくことがある。

今回もいくつかあって、その中のひとつは驚き、とまではいかないものの、
こんなにも捉え方が違ってくるのか、というおもいがした。

ある人のブログに、アナログプレーヤーの調整を六時間かけておこなった、という記述があったそうだ。
私はその人のブログを知らないから読んではいない。

そのことを話してくれた人は、アナログプレーヤーの調整に六時間かけた、
ということに、ブログを書いている人のことを、プロだなぁ、と思った、ということだった。

前後の文章を私は読んでいない。
アナログプレーヤーの調整に六時間かけた、ということだけから、そんな私が思うことは、
この話をしてくれた人とは反対のことで、熱心なアマチュアの方だなぁ、だった。

アナログプレーヤー調整に六時間かける──、
このことをひとりはプロのやることだ、と受けとめ、ひとり(私)はアマチュア的だ、と受けとめる。
正反対の感じ方をしている。

ブログを書かれている人が、どう思って書かれたのかはわからない。
でも、確実にいえるのは、読み手によって受けとめ方がまるで違うことがある、ということだ。

Date: 6月 18th, 2009
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その2)

以前書いたように、早瀬さんとだけでなく、傅さんとも、今年はよく電話で話している。
なのに直接会って話す。かならずしも、そこで出てくる話は新しいことばかりではない。
電話で話したことをくり返す。何度かくり返し話すことがある。

時間の無駄と思う人もいてもいいが、私は、くり返し口から自然と出てくる言葉は、
なにかわけがあって、くり返すことですこしずつはっきりとくっきりと、
輪郭が描かれていくようにも感じている。

くり返しといえば、昨夜の話の中でも「ルーティンワーク」という言葉が出た。
いい意味で使われたわけではない。
けれど、ルーティンワークがそういうふうに受けとられがちなのは、
日常生活の中でくり返すことで、安易に馴れてしまい、悪い意味で要領よくなってしまい、
いつのまにか楽をしたいがために手抜きができるところは、いつのまにか、
ときには無意識のうちにそうしてしまうおそれがある。

「細部に神は宿る」と、よく言われるように、ルーティンワークにおいて決して手を抜くことなく、
細部に、隅々にまで神経を行きとどくようにしていれば、ルーティンワークは必ず何かを生み出していくはずだ。

Date: 6月 18th, 2009
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その1)

17日は、傅さん、早瀬さん、友人のAさんとKさんの五人で集まって、食事をしながら、あれこれ話していた。
終電ぎりぎりまでそんなことをやっていたので、帰宅したのは、もう18日に、とっくになっていた。
だから、ひとつ前のブログは、日付こそ、17日になっているけど、
実は、これを書く、ほんのすこし前に書いたところ。

早瀬さんは、この集まりのためだけに、わざわざ京都から来られた。
早瀬さんとは、よく電話で話している。
16日も、かなりの時間話していたし、日曜日も長電話だった。
まぁ、とにかくよく話している。それでも、こうやって顔を合わせて、
しかも傅さん、Aさん、Kさんが加わると、よく話すことがあるなと思うくらい、なんだかんだと話していた。

電話は便利だし、メールはさらに気楽という面も加わり、ついつい使ってしまう。
人と会うためには、移動の時間も必要になる。これを億劫と思う人がいるのも理解できなくはない。

メールで済むのに、電話で済むのに、と思ってしまったら、
その人とのコミュニケーションは、わずかずつではあるが、確実に希薄になっていくだろう。

自分の時間を大切にするということは、心の贅沢なのかもしれない。
けれど言いたい、人のために時間を割くことこそ、心の贅沢だと。