JUDY(その5)
越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。
別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。
ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。
私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。
越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。
別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。
ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。
私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。
越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。
中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。
ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。
そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。
もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。
映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。
映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。
最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。
映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。
なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。
そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。
しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。
これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。
映画の最初には、制作に携わった会社のロゴがいくつも、
スクリーンに映し出される。
「JUDY」では、BBC Films、Pathéなどの映し出された。
ああ、そうだ、この映画はハリウッドの映画ではないんだ、思いながら眺めていた。
制作会社には20世紀フォックスを関っているから、
イギリスだけの映画ではないわけだが、
本編が始まると、イギリスの映画だ、と思う。
何も知らずに観ても楽しめる、といえば、そうかもしれないが、
ジュディ・ガーランドについては、ある程度のことは知っておいた方が、いい。
何もかも説明してくれる映画ではない。
ジュディ・ガーランドの最後の公演となったのは、ロンドンである。
ここはカーネギーホール(アメリカ・ニューヨーク)でないことを、
映像が淡々と伝えてくれる。
観ていて、越後獅子ということばが浮んできた。
ここでの「越後獅子」は、五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくるそれである。
*
少年モーツァルトはこういう父親に引き回されて、姉のナンネルと各地を演奏して回ったわけだ。むろん少年とは到底おもえぬハープシコードやヴァイオリンの演奏技巧をマスターしていたからなのは分っている。モーツァルトは神童だ、でも実利に聡い父の実像をおもうと、昔のたとえば越後獅子の姉弟が親方に連れられて旅から旅を稼いだのと実質どれほどの違いがあろうか。
伝記に即して今少し丹念に生い立ちをなぞってみよう——。
モーツァルトはこんな両親の間に生れ、父親はアウグスブルクの製本屋の出で、母はヴォルフガング湖畔の田舎娘だった。父は大司教(聖職者というよりは土地の領主ともいうべき存在)の宮廷管弦楽団の一員であるかたわら、作曲とヴァイオリンの個人教授をし、そのヴァイオリン教則本は数ヵ国語に翻訳され、非常な好評を博した。しかし息子が生れてからは、個人教授をやめ、宮廷の仕事以外はすべての時間を自ら二人の子の音楽教育に当てた。おかけで姉のナンネル(マリーア・アンナ)も、その後の演奏旅行で弟の才能が捲き起す称賛をともに分つ程になれた。この演奏旅行というのは、父親が、息子の才能は神には栄光を、わが家には利益をもたらすものであるという判断によって、思いつかれたものだとスタンリー・サディは書いている。
少年モーツァルトが六歳のとき、バイエルン選帝侯の前で演奏するため父に伴われて姉ともどもミュンヘンへ出発した。つまり最初の演奏旅行である。ついで同じ年の九月、今度は皇帝の御前で演奏するためウインへ赴き、シェーブルン宮殿で姉弟は演奏し、皇帝・皇妃に深い感銘を与えて、燦然たる宮廷着(もっとも王室の人たちが成人して不要になった)を姉弟は贈られた。父レオポルドには金銭が授けられた。この首都ウイン滞在中、二人の天才児出現に熱狂した貴族の音楽愛好家たちの家を訪問するのに姉弟は寧日なかったが、サディによれば、こんなお祭り騒ぎめく演奏旅行が、感受性のつよい少年にどんな影響を及ぼすかは当然勘考すべきことで、
「だからというわけではないが、モーツァルトの態度のうちには、単に抑制がきかぬというよりは増長した行動がいくつかあった。たとえば、皇妃の膝の上にとびあがって接吻したり、転んだ自分を助け起してくれたマリー・アントワネット王女に求婚したり、王女にくらべてやや見劣りのする妹姫を軽蔑したりした。」(小林利之氏訳より)
これは、子供っぽい『やんちゃ』で片付けられることだろう。しかし、立入って考えるなら、家庭の躾の問題になる。少なくとも父親レオポルドがヴォルフガング少年に注入したものは一にも二にもハープシコードやヴァイオリンの奏法であって、日常生活のマナーではなかった。母親もまたそういうマナーを我が子に躾けるような礼儀深さ、たしなみを、彼女自身の生い立ちに持っていなかった。そんな夫婦で(主としてむろん父親が)今様にいう天才教育をヴォルフガングにほどこした。事実ほどこすに足る彼は神童ではあった。しかし——従来の伝記作者は誰もこの点には触れていないが——モーツァルトが時に卑猥なことを平気で口走り、父とちがって経済的観念はまるで無く、行動に計画性が無く、およそ処世術といったものに無頓着で(あの大司教のもとを辞職して、パリへ職捜しに行くとき、モーツァルト——すでに二十一歳になっている——は、多分パリで役立つであろう多くの紹介状をすっかり家に置き忘れている)そのくせヴェルサイユ宮殿のオルガン奏者という「永続性のある地位」を世話されても、フランス音楽全体への嫌悪感もあったろうが、自分には宮廷のカペルマイスター(楽長)の地位こそふさわしいとの理由で断わっている。このときのモーツァルトは二十二歳だが、そんな若さで楽長の地位に就ける道理もないことさえ気がつかなかった——そういうモーツァルトを、いかにも〝天才肌〟という観点からのみ人は見すぎている。だがそこに、あまり身分のない夫婦がやった天才教育の〝歪み〟を看取するのは別にモーツァルトの天分を誹ることにはなるまい。かえって、この〝歪み〟を見過ごしては実生活で彼の味わわねばならなかった惨めさを見落しはしないか。
こんな話がある。
一七七一年の暮、当時十五歳のモーツァルトは父とともに二度目のイタリア旅行からザルツブルクに戻った。その日に父子のよき庇護者であったジギスムント大司教は他界し、後任としてかねて厳格な人物と噂のあるコロレード伯爵が任命されたが、新任のこの大司教は小心で俗物の父親と、おませで口やかましい息子への嫌悪の情を示しはじめたので、父親は、息子の才能が正当に評価されそうもない惧れから、ヴォルフガングのための永住の地をさがしはじめる。そこでフィレンツェのトスカーナ大公に斡旋を依頼するが、何ヵ月か待たされて届いた返事は悲観的なものだった。おそらくこれは、大公が母親マリア・テレジアに相談したら、次のような忠告を得たからだろうとスタンリー・サディは記している。
忠告はこうだ——「乞食みたいに方々をうろつきまわる、役にも立たぬ者に悩まされないように」(同右)
なんという冷酷さか。でもこれが処々を確かにうろつきまわる越後獅子親子への、上流人のもっとも至当な評言ではなかったのか? 彼女は女帝なのである。その後、父子がウインへ来て御前に伺候したときには、いかにも慈悲深げに振舞っているが、女帝なら、「慈悲深げな態度」、怪しむに当らない。レオポルドがこの時ウインへ来たのは矢張り息子のためなのだが、結局、なんの契約も得られぬままに空しくザルツブルクに帰っている。
*
だからだろう、モーツァルトと重なってしまうところが私にはあった。
昨晩、映画「JUDY」(邦題:ジュディ 虹の彼方に)を観てきた。
スマートフォンのアプリからの予約の段階でわかっていたとはいえ、
実際に映画館に行ってみれば、ガラガラだった。
「JUDY」はアメリカでは昨年9月に、イギリスでは10月に公開されている。
日本での公開は約半年遅れである。
これだけ遅れたのは、
アカデミー賞の発表を待って、という配給会社の思惑があってのことなのか。
主演のレネー・ゼルウィガーは、主演女優賞に輝いている。
派手な映画ではないのだから、受賞してから、というのもわかる。
けれど時期が悪かった。
新型コロナが流行っている。
電車に乗っていても、人が少ないように感じている。
月に二回ほど、東京駅から電車に乗る。
たいていは夜である。
エスカレーターで中央線のホームにあがると、人でいっぱいである。
それがいつもの光景であるのに、いまは人が少ない。
いつもなら、一本もしくは二本電車を待って乗るのに、
いまはそんなことしなくとも座って帰れるほどに空いている。
昨晩の映画館もそうだった。ロビーで待っている人が少ない。
人気のない映画を観てきているような感じでもあった。
3月7日、8日の映画ランキングで、「JUDY」は八位だそうだ。
私が観たのは9日だから、前日、前々日はそこそこ入っていたのか。
そんなガラガラの劇場で「JUDY」を観ていた。
6月のaudio wednesdayは、“Over The Rainbow”のCDを持ち寄って、だった。
映画「JUDY」の予告編をみたのが理由だった。
カナダで9月、アメリカは10月に公開されていた。
日本では? と思い出しては検索していたけれど、来春公開とあるだけだった。
昨日やっと日本での公開日が発表になった。
2020年3月6日からである。
邦題は「ジュディ 虹の彼方に」である。
ジュディ・ガーランドを演ずるのはレネー・ゼルウィガーである。
「JUDY」のサウンドトラック盤はすでに発売になっている。
レネー・ゼルウィガーの歌唱で、“Over The Rainbow”が聴ける。
映画の公開日が待ち遠しいとともに、
“Over The Rainbow”のCDの持ち寄りを、
もう一度audio wednesdayでやろうかな、とも考えている。
映画の予告編と本編は、
ここにきて、以前とは様相が変ってきた。
もう予告編で、映画本編のすごさをきちんと感じとることが無理になりつつある。
映画館での予告編ならばまだしも、
インターネットのおかげで、いまでは家庭で、映画館での予告編よりも早く見ることができる。
映画を観るのも好きだが、それと同じくらい、
もしかするとそれ以上に予告編を見るのが好きな私にとって、いい時代である。
ここでも書いてきているように、
いくつかの映画の予告編を見て、あまり期待できないかも……、と思っていたのが、
IMAXで観て、まったく逆であったことを体験してきている。
今日観てきた「ジェミニマン」の予告編もそうだった。
ジェミニマンというタイトルが、なんとなく古くさく感じられたし、
予告編を観ても、わさわざ映画館で観よう、とはそれほど思わなかった。
なのに、ハイフレームレートでの上映という、この謳い文句だけで観にいきたいに変った。
きっとIMAXで衝撃を受けた映画と同じであるに違いない、と思ったからだ。
映画の歴史は長い。
その長い歴史のなかで、いくつかのエポックメーキングなことがあって、
ここまで来ている。
いままたエポックメーキングなことが起っているのではないのか。
映画の技術的なことに詳しいわけではないが、
なんとなくそんなふうに感じている。
それゆえに家庭で見る予告編の印象と、
上映館を選んでの映画本編の印象は、大きく隔たりはじめている。
映画館の料金は、都内だと1,900円のところがある。
これは通常料金で、3Dやドルビーアトモス、IMAXだと追加料金が発生する。
一本の料金が3,000円前後になることもある。
私はauユーザーなので、TOHOシネマズは月曜日は安く観られるから、
月曜日は映画の日のようになってきている。
高いよ、という声もあるようだが、行けば納得できる。
一時期、映画館から遠ざかっていたのが、
映画館に行くのが楽しくなってきている。
いま、節目の時代なのかもしれない。
ほんとうに節目の時代なのかどうかは、しばらく経ってみないとなんともいえないが、
それにしても上映館を選ばなければならない時代になりつつあるのは確かなようだ。
ホームシアターを趣味としている人のなかには、
映画館よりも、わが家のホームシアターのほうがずっとクォリティが高い、
そういう人が少なからずいるようだ。
最新のホームシアターを体験したことはないが、
そういえるレベルにあるのだろうな、ぐらいには私だって思っている。
それでも「ジェミニマン」は、
しばらくはホームシアターでの再現は無理ではないか──、
そう思わせるほどに、120fpsのハイフレームレートでの上映は、
オーディオでのハイレゾとは一線を画している、といいたくなるし、
ハイフレームレートにあたる再生での条件とはなんだろうか、と考えさせられる。
単純に考えれば、サンプリング周波数が高くなれば、
ハイフレームレートと同じこと、となりそうではある。
けれどハイフレームレートの「ジェミニマン」を観ると、
そうとはいえない気持が強くなってくる。
なぜ、そんなふうに感じたのかは、うまく説明できないし、
理由もはっきりとはわからない。
それでも、サンプリング周波数がどんどん高くなることが、
映画における1秒間のコマ数が増えていくことと同じとは思えないのは、
聴覚と視覚の違いによるものだけとは考えていない。
なにか別の要素というか条件が、ハイフレームレートに相当する予感がしている。
映画「ジェミニマン」を観に、さいたま新都心駅近くにあるMOVIXさいたまに行ってきた。
わざわざ埼玉にある映画館にまで足をはこんだのは、
関東では、ここでしか120fpsのハイフレームレートの上映は行っていないからだ。
TOHOシネマズ日比谷もハイフレームレートで「ジェミニマン」を上映しているが、
60fpsである。
それでも通常の映画が24fpsなのだから、十分にハイフレームレートとはいえるけど、
それでもその二倍の120fpsで上映しているところがあれば、やはりそこで観たい。
これから先、120fpsでの上映が一般的になるのであれば、
それまで待つのも考えるが、そうすぐにはなりそうにない。
監督のアン・リーにいわせると、
「ジェミニマン」の理想の上映は、
4K/3D/HFR(High Frame Rate)であり、
これを満たす映画館はアメリカにもない、とのこと。
日本では埼玉県のMOVIXさいたまの他に、
大阪府の梅田ブルク7、福岡県のT・ジョイ博多が120fpsでの上映である。
アン・リー監督によれば、
4K/3D/HFRは、人間の目で見る感覚の再現だ、そうだ。
観れば、それが実感できる。
映画は内容だ、といって、
この手の映画を敬遠する人がいるのはわかっているが、
それでも映画を映画館で観るのが好きな人ならば、
120fpsのハイフレームレートでの上映を体験してほしい、
というよりも、体験すべきだ、といいたい。
Netflixオリジナル・ドラマ「マインドハンター」のオープニングは、
一台のポータブル型オープンリールデッキをアップで映し出す。
最初見た時、たいてい、こういうところに使われるのはナグラというイメージが、
私の中にすでにあったものだから、ついナグラ? と思って見ていた。
けれど、どうも違う。
だからといってステラヴォックスではないことは、
VUメーターの形状などからいっても明らか。
では、どこのメーカー? と思い、もう一度見たら、
ソニーのTC5550だとわかった。
ドラマ本編を何本かみていくと、主人公がTC5550を抱えていくシーンが出てくる。
そこでもはっきりとするわけだが、
オープニングのシーンは、実物のTC5550よりも魅力的に見える。
ポータブル型オープンリールデッキといえば、かっこいいのはナグラ、
そういう図式ができあがってしまっていただけに、
ソニーのTC5550の良さに気づかなかったともいえる。
とはいえドラマ本編に登場するTC5550は、デカいな、と思う。
そう思うと、もうかっこよく見えなくなってしまうけれど、
またオープニングを見てしまうと、なかなかいいなぁ、と思ってしまうから、
不思議といえばそうだけど、オープニングを演出した人、カメラマンの腕が見事なわけだ。
“STAR WARS episode I”もそうだったけれど、
本編よりも予告編の方が楽しめた、という映画は少なくない。
映画館で予告編を見て、公開されるのを楽しみにして、
いざ映画館で本編となると、観終って「予告編は面白かったのに……」ということが何度もあった。
私にとって、“STAR WARS episode I”は、まさにそうだった。
予告編では、あれだけ期待に胸ふくらませていたのに……、だった。
それほど予告編はよく出来ているものが多い。
すべての見せ場が、予告編に凝縮されていた、というものもあった。
予告編で首を傾げたくなる映画は、たいていそのとおりだった。
期待せずに観て、予告編を大きく上廻っていたというのは、記憶になかった。
それが“GHOST IN THE SHELL”から違ってきた。
“GHOST IN THE SHELL”の原作は、攻殻機動隊であり、
それだけに楽しみにしていた。
予告編の公開も、すぐさま見た。
見て、がっかりもした。
“STAR WARS episode I”の時とは違い、高精細で見られる。
ダウンロードの時間も、ほとんどかからない、といえるほどすぐに見れる。
別項「実写映画を望む気持と再生音(その4)」で書いているように、
“GHOST IN THE SHELL”はIMAXで観た。
予告編では、こんなものか……、と感じていたシーンが、
IMAXで観ると、こんなにもすごいのか、という印象に反転していた。
だから、いまでは予告編で、あれっ? と感じても、
IMAXで上映される映画ならば、観に行きたい、と思うようになった。
“Alita: Battle Angel”も、予告編では、あれっ? と感じていた。
けれど“GHOST IN THE SHELL”での経験がすでにあった。
IMAXでの上映もある。
本編がIMAXで上映されても、本編の前の予告編まではIMAXというわけではない。
でも、そろそろ予告編も IMAXで上映してほしい。
そのくらいIMAXでの上映を前提としている映画の予告編は、
そのおもしろさ、すごさを十分に伝えきれないようになっている、と感じているからだ。
昨年12月に公開された「私は、マリア・カラス(MARIA BY CALLAS)」。
DVDが、8月2日に発売になる。
(その6)でふれたTOWER VINYL SHINJUKUに行ってきた。
オープン告知のイラストには、アルテックのA7らしきスピーカーが描かれていた。
実際にあったのはA7ではなくA5だった。
JBLのスピーカーもイラストにはあった。
こちらは4429で、イラストにあったモデルよりも小型モデルである。
広い売場であっても、アルテックのA5ならば、一組で十分な音量ですみずみまで音を届けられよう。
そんなことをすると、スピーカーの間近ではけっこうな音量となるから、
売場全体を均一の音量に揃えるためだろう、A5がメインで、
サブ的(補助的)に4429が離れて配置されている、という感じである。
配置的にはそんな印象だが、実際に4429の音を聴いているのかも──、
という印象が残る。
A5は音的には不要か、といえば、
現状の鳴らし方だとそうともいえる。
それでもA5がエスカレーターを降りて、すぐに目につくところにある。
人によっては黒くて異様な物体という印象を受けるかもしれない。
武骨なA5である。
いまのところひっそりとしか鳴らされていない。
「丸善ジュンク堂に住んでみる」ツアーというのがある。
今年も行われるであろう。
こういうツアーをタワーレコードもやってくれないだろうか。
TOWER VINYL SHINJUKUで一泊する。
A5がひっそりとではなく、堂々と鳴る音で、アナログディスクを朝まで聴く、というツアーである。
「アリータ: バトル・エンジェル」のことを書こうと思うと、
予告編について書いておきたい。
映画館では、必ずといっていいほど本編の前に予告編がある。
本編を観に来ているのだから、予告編など見せるな、という客がいることは知っている。
でも私は本編だけでなく、予告編も映画館で映画を観る楽しみだと捉えている。
1998年ごろからだったか、インターネットでも映画の予告編が見られるようになった。
といってもアメリカの映画の予告編だから、音声は英語、字幕もなし。
それでも新しい予告編が公開されるのを、楽しみにしていた。
そのころ56kbpsのアナログモデムを使ってインターネットに接続していた。
予告編をストリーミングで見ることは、ほぼできなかった。
ダウンロードして見るしかなかった。
そのころの予告編は、ちいさなサイズだった。
横幅480ピクセルだったはずだ。
予告編の容量は20数MB程度だった。
それでもダウンロードするのに二時間程度かかっていた。
しかも20%くらいでダウンロードが終るという時に、接続が切れることもあった。
そういう時は最初からダウンロードし直しだ。
STAR WARS episode Iの予告編もそうやってダウンロードした。
映画が上映されるのは数ヵ月以上先だった。
何度も、ダウンロードした予告編を見ていたし、
友人、知人にも何人かに見せていた。
そのころはPowebook 2400cを使っていた。
小さな液晶サイズだし、予告編はさらに小さなウィンドウで再生される。
フルスクリーンにはできなかったはずだ。
それでもみな「スゴい」といって見ていた。
「アリータ: バトル・エンジェル」を公開三日後に観に行ったのは、
IMAX 3Dで観たかったからにほかならない。
もちろんいまもIMAX 3Dで上映している。
けれど上映回数は先週よりもかなり減っている。
私が観たTOHOシネマズ日比谷では、9時10分の回だけになってしまっている。
そう、IMAX 3Dで観たいと思った映画は、早めにいったほうが確実である。
これまでIMAX 3DはTOHOシネマズ新宿で観ていた。
今回TOHOシネマズ日比谷で観て、新宿より日比谷のほうがいいのでは? と感じた。
同じ映画を観ての比較ではない。
なのでいいかげんな印象といわれればそうである。
それでも映画本編の前に流れるIMAXのデモ(短い時間のもの)が、
これまで以上に鮮明で、すぐ目の前まで迫ってくる。
TOHOシネマズ日比谷で観て、こんなにすごかったかな、と感じていた。
TOHOシネマズ新宿よりもTOHOシネマズ日比谷のほうが新しい。
設備がどの程度違うのか詳細は知らない。
まったく同じではないと思う。
とにかくTOHOシネマズ日比谷で「アリータ: バトル・エンジェル」を観てよかった、と思っている。