JUDY(その3)
映画の最初には、制作に携わった会社のロゴがいくつも、
スクリーンに映し出される。
「JUDY」では、BBC Films、Pathéなどの映し出された。
ああ、そうだ、この映画はハリウッドの映画ではないんだ、思いながら眺めていた。
制作会社には20世紀フォックスを関っているから、
イギリスだけの映画ではないわけだが、
本編が始まると、イギリスの映画だ、と思う。
何も知らずに観ても楽しめる、といえば、そうかもしれないが、
ジュディ・ガーランドについては、ある程度のことは知っておいた方が、いい。
何もかも説明してくれる映画ではない。
ジュディ・ガーランドの最後の公演となったのは、ロンドンである。
ここはカーネギーホール(アメリカ・ニューヨーク)でないことを、
映像が淡々と伝えてくれる。
観ていて、越後獅子ということばが浮んできた。
ここでの「越後獅子」は、五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくるそれである。
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少年モーツァルトはこういう父親に引き回されて、姉のナンネルと各地を演奏して回ったわけだ。むろん少年とは到底おもえぬハープシコードやヴァイオリンの演奏技巧をマスターしていたからなのは分っている。モーツァルトは神童だ、でも実利に聡い父の実像をおもうと、昔のたとえば越後獅子の姉弟が親方に連れられて旅から旅を稼いだのと実質どれほどの違いがあろうか。
伝記に即して今少し丹念に生い立ちをなぞってみよう——。
モーツァルトはこんな両親の間に生れ、父親はアウグスブルクの製本屋の出で、母はヴォルフガング湖畔の田舎娘だった。父は大司教(聖職者というよりは土地の領主ともいうべき存在)の宮廷管弦楽団の一員であるかたわら、作曲とヴァイオリンの個人教授をし、そのヴァイオリン教則本は数ヵ国語に翻訳され、非常な好評を博した。しかし息子が生れてからは、個人教授をやめ、宮廷の仕事以外はすべての時間を自ら二人の子の音楽教育に当てた。おかけで姉のナンネル(マリーア・アンナ)も、その後の演奏旅行で弟の才能が捲き起す称賛をともに分つ程になれた。この演奏旅行というのは、父親が、息子の才能は神には栄光を、わが家には利益をもたらすものであるという判断によって、思いつかれたものだとスタンリー・サディは書いている。
少年モーツァルトが六歳のとき、バイエルン選帝侯の前で演奏するため父に伴われて姉ともどもミュンヘンへ出発した。つまり最初の演奏旅行である。ついで同じ年の九月、今度は皇帝の御前で演奏するためウインへ赴き、シェーブルン宮殿で姉弟は演奏し、皇帝・皇妃に深い感銘を与えて、燦然たる宮廷着(もっとも王室の人たちが成人して不要になった)を姉弟は贈られた。父レオポルドには金銭が授けられた。この首都ウイン滞在中、二人の天才児出現に熱狂した貴族の音楽愛好家たちの家を訪問するのに姉弟は寧日なかったが、サディによれば、こんなお祭り騒ぎめく演奏旅行が、感受性のつよい少年にどんな影響を及ぼすかは当然勘考すべきことで、
「だからというわけではないが、モーツァルトの態度のうちには、単に抑制がきかぬというよりは増長した行動がいくつかあった。たとえば、皇妃の膝の上にとびあがって接吻したり、転んだ自分を助け起してくれたマリー・アントワネット王女に求婚したり、王女にくらべてやや見劣りのする妹姫を軽蔑したりした。」(小林利之氏訳より)
これは、子供っぽい『やんちゃ』で片付けられることだろう。しかし、立入って考えるなら、家庭の躾の問題になる。少なくとも父親レオポルドがヴォルフガング少年に注入したものは一にも二にもハープシコードやヴァイオリンの奏法であって、日常生活のマナーではなかった。母親もまたそういうマナーを我が子に躾けるような礼儀深さ、たしなみを、彼女自身の生い立ちに持っていなかった。そんな夫婦で(主としてむろん父親が)今様にいう天才教育をヴォルフガングにほどこした。事実ほどこすに足る彼は神童ではあった。しかし——従来の伝記作者は誰もこの点には触れていないが——モーツァルトが時に卑猥なことを平気で口走り、父とちがって経済的観念はまるで無く、行動に計画性が無く、およそ処世術といったものに無頓着で(あの大司教のもとを辞職して、パリへ職捜しに行くとき、モーツァルト——すでに二十一歳になっている——は、多分パリで役立つであろう多くの紹介状をすっかり家に置き忘れている)そのくせヴェルサイユ宮殿のオルガン奏者という「永続性のある地位」を世話されても、フランス音楽全体への嫌悪感もあったろうが、自分には宮廷のカペルマイスター(楽長)の地位こそふさわしいとの理由で断わっている。このときのモーツァルトは二十二歳だが、そんな若さで楽長の地位に就ける道理もないことさえ気がつかなかった——そういうモーツァルトを、いかにも〝天才肌〟という観点からのみ人は見すぎている。だがそこに、あまり身分のない夫婦がやった天才教育の〝歪み〟を看取するのは別にモーツァルトの天分を誹ることにはなるまい。かえって、この〝歪み〟を見過ごしては実生活で彼の味わわねばならなかった惨めさを見落しはしないか。
こんな話がある。
一七七一年の暮、当時十五歳のモーツァルトは父とともに二度目のイタリア旅行からザルツブルクに戻った。その日に父子のよき庇護者であったジギスムント大司教は他界し、後任としてかねて厳格な人物と噂のあるコロレード伯爵が任命されたが、新任のこの大司教は小心で俗物の父親と、おませで口やかましい息子への嫌悪の情を示しはじめたので、父親は、息子の才能が正当に評価されそうもない惧れから、ヴォルフガングのための永住の地をさがしはじめる。そこでフィレンツェのトスカーナ大公に斡旋を依頼するが、何ヵ月か待たされて届いた返事は悲観的なものだった。おそらくこれは、大公が母親マリア・テレジアに相談したら、次のような忠告を得たからだろうとスタンリー・サディは記している。
忠告はこうだ——「乞食みたいに方々をうろつきまわる、役にも立たぬ者に悩まされないように」(同右)
なんという冷酷さか。でもこれが処々を確かにうろつきまわる越後獅子親子への、上流人のもっとも至当な評言ではなかったのか? 彼女は女帝なのである。その後、父子がウインへ来て御前に伺候したときには、いかにも慈悲深げに振舞っているが、女帝なら、「慈悲深げな態度」、怪しむに当らない。レオポルドがこの時ウインへ来たのは矢張り息子のためなのだが、結局、なんの契約も得られぬままに空しくザルツブルクに帰っている。
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だからだろう、モーツァルトと重なってしまうところが私にはあった。