Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(その2)

“A CAPELLA”が、私にとってシンガーズ・アンリミテッドの最初の一枚だったし、
それも自分のシステムではなく、友人のシステムで聴いている。

ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる」で、
黒田先生が取り上げられているの、テクニクスのコンサイス・コンポである。

音質追求、性能追求のあまり、大型化してきていたアンプにおいて、
パイオニア、テクニクス、ダイヤトーン、それにオーレックスが、
コンパクト化を図ったアンプ、チューナーがほぼ同時期に登場したのが、ちょうどこの時期である。

黒田先生はテクニクスのコンサイス・コンポに、
ビクターのS-M3という、小型スピーカーを組み合わせてのシステムを、
キャスターつきの白い台にセッティングして聴かれた五時間について、書かれている。
そのなかに、こうある。
     *
 それぞれの装置の呼ぶレコードがある。カートリッジをとりかえた、さて、どのレコードにしようかと、そのカートリッジで最初にきくレコードは、おそらく、そのカートリッジを選んだ人の、そこで選ばれたカートリッジに対しての期待を、無言のうちにものがたっていると考えていいだろう。スピーカーについても、アンプについても、同じことがいえる。ともかく、あのカートリッジを買ってきたら、このレコードをきこうと、あらかじめ考えていることもあり、カートリッジを買ってきてしまって、後から、レコードを考える場合もある。いずれにしろ、最初のレコードをターンテーブルにのせるときは、実にスリリングだ。
     *
黒田先生にとってテクニクスのコンサイス・コンポとS-M3の組合せの呼ぶレコードが、
シンガーズ・アンリミテッドのレコードだったわけだ。

私がシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を最初に聴いたのは、
ロジャースのLS3/5Aで、だった。
偶然にも、小型スピーカーで聴いている。

黒田先生は最後に、こうも書かれている。
《オルネラ・ヴァノーニの歌を、スクリーンにうつすのではなく、ビューアーでみるように、キャスターのついた白い台の前で、きくことにしよう。》と。

Date: 4月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(その1)

“A CAPELLA”はシンガーズ・アンリミテッドのアルバムの一枚。
1971年に出ている。

オーディオマニアなら、シンガーズ・アンリミテッドを知らなくとも、
彼らの歌とは知らなくとも、
彼らの歌を一度くらいは聴いているのではないだろうか。

“A CAPELLA”を、というより、シンガーズ・アンリミテッドのCDを、
写真家の野上眞宏さんに、今年のはじめに奨めた。
ぽっ、と口から出たシンガーズ・アンリミテッドの名前だった。

SICAの10cm口径のフルレンジユニットで、スピーカーを作りはじめた時期と重なる。
すすめたときには特に気にしなかったけれど、いまごろになって、
なぜ、シンガーズ・アンリミテッドをすすめたのだろうか、と考えるようになってきた。

私がシンガーズ・アンリミテッドの名前を知ったのは、
ステレオサウンド 47号掲載の黒田先生の文章で、だった。
「ぼくのベストバイ これまでとはひとあじちがう濃密なきき方ができる」に、
シンガーズ・アンリミテッドと、そのレコードのことが登場する。

そこで書かれているのは、1975年録音の“Feeling Free”である。
     *
 その数日前、輸入レコード店で買ってきた、シンガーズ・アンリミテッドのレコードだった。それには、「フィーリング・フリー」というタイトルがついていた。フィーリング・フリーという言葉も、この場合、マッチしているように思った。シンガーズ・アンリミテッドのレコードは、好きで、大半のものはきいているはずたったが、ジャケット裏の説明によると、一九七五年の春に録音されたという、その「フィーリング・フリー」は、それまできいたことがなかった。ベオグラム4000のターンテーブルにのせたのは、ドイツMPS68・103というレコード番号のレコードだった。
 A面の最初には、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」という、スティービー・ワンダーのすてきな歌が、入っていた。音楽がはじまると、パワーアンプの、星のまたたきを思わせるあかりは、それぞれのチャンネルに二つか三つずつついて、右方向への動きを示した。
 シンガーズ・アンリミテッドの声は、パット・ウィリアムス編曲・指揮によるビッグ・バンドのひびきと、よくとけあっていた。「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」は、アップ・テンポで、軽快に演奏されていた。しかし、そのレコードできける音楽がどのようなものかは、すでに、普段つかっている、より大型の装置できいていたので、しっていた。にもかかわらず、これがとても不思議だったのだが、JBL4343できいたときには、あのようにきこえたものが、ここではこうきこえるといったような、つまり両者を比較してどうのこうのいうような気持になれなかった。だからといって、あれはあれ、これはこれとわりきっていたわけでもなかった。どうやらぼくは、あきらかに別の体験をしていると、最初から思いこんでいたようだった。
 もし敢て比較すれば、たしかに、クォリティの面で、JBL4343できいたときの方が、格段にすぐれていたというべきだろう。しかし、視点をかえて、JBL4343で、そのキャスターのついた白い台の上にのっていた装置できくようなきき方ができるかといえば、ノーといわざるをえない。
     *
1978年の夏に、読んでいる。
シンガーズ・アンリミテッドのことを知った。

Date: 4月 2nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その5)

“Hotel California”だけではない、と(その4)で書いた。
ここでは“Hotel California”だけだ、と書く。

“Children of Sanchez”、「孤独のスケッチ」、「火の鳥」、
その他にも“THE DIALOGUE”、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”もそうだ。

“THE DIALOGUE”は4343、さらには4350Aで聴いた音が、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ステレオサウンドの試聴室でアクースタットのModel 3で聴いた音が、
リファレンス(基準)として残るほどに、印象深い音を聴かせてくれた。

そしてこれらのディスクは、LPやCD、SACDで買って聴いている。
けれど“Hotel California”だけは、LPもCDになってからも買うことはなかった。

ここに挙げたディスクのなかでは、“Hotel California”が圧倒的に売れているし、
音楽好きの人ならば、どんなジャンルの音楽を好きであっても、
“Hotel California”は聴いたことがあるだろうし、知られているということでは、
他のディスクの比ではない。

売れているから買わなかった──、
そんな理由ではない。
なぜ買わなかったのか、いまでは憶えていない。

買わなかったから、自分の音で聴いていない。
そうなると、あの時聴いた音(リファレンスとなる音)のイメージが、
他のディスクのように確固たるものではなくなっている。

最初に出たCDの音は、いま手に入るリマスター盤の音とはずいぶん違うようだ。
まずレベルが違う、らしい。

Date: 3月 29th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その4)

“Hotel California”だけではない。
チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez”もそうだ。

私にとって“Children of Sanchez”も“Hotel California”も、
JBLの4343で聴いた音こそが、リファレンス(基準)となっている。

“Hotel California”はステレオサウンドの試聴室で聴いた音、
“Children of Sanchez”は、熊本のオーディオ店で瀬川先生が鳴らされた音が、
そうである。

これまで聴いてきたすべてのディスクがそうなのではない。
それほど数は多くはないが、そのディスクを最初に聴いた音が圧倒的であったり、
強烈であったりしたら、どうしてもその音がリファレンスとして焼きつけられる。

特に10代のころの、そういう体験は、いまもはっきりと残っている。
バルバラの「孤独のスケッチ」も、そういう一枚だ。

これも瀬川先生がセッティングされたKEFのModel 105の音を、
ピンポイントの位置で聴いた音が、いまも耳に残っている。

コリン・デイヴィスの「火の鳥」は、トーレンスのReference、マークレビンソンのLNP2、
SUMOのThe Gold、JBLの4343という組合せで聴いた、
文字通りの凄まじい音が、私にとってリファレンスであり、
この音が、瀬川先生が熊本で鳴らされた最後の音であり、
瀬川先生と会えたのも、この日が最後だった。

最初に聴いた音がリファレンスとなっているのは、
私の場合、いずれも自分のシステム以外での音である。

Date: 3月 26th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その3)

いまも“Hotel California”のディスクは持っていない。
そんな私にとっての、記憶の中にある“Hotel California”の音は、
つまりはJBLの4343で聴いた“Hotel California”である。

黒田先生の文章には、
《ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい》、
それから《ドラムスが乾いた音でつっこんでくる》、
《声もまた乾いた声だ》とある。

それに《12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと》とも書かれている。
音が重く引きずらずに、乾いて爽やかに鳴ってくれるのが、
私のなかにある“Hotel California”の音のイメージであり、
それは一般的な4343の音のイメージとも重なってくるだけに、
よけいに“Hotel California”の、そんなイメージを相乗効果で植え付けられた、ともいえる。

それに曲名が“Hotel California”である。
カリフォルニアに行ったことはないが、湿った空気のするところではない。

それがこの二年のあいだに聴いた“Hotel California”は、ずいぶんと印象が違ってくる。
もちろんスピーカーは、JBLの4343ではない。
けれど、そのことだけが、“Hotel California”の音の印象が違ってくる理由にはならない。

昔4343で聴いたことのある他のレコードを、
いま別のスピーカーで聴いても、音のイメージはそう大きくは変らない。
ところが“Hotel California”は、そうではない。

自分のCDではないので、こまかなところまで見ているわけではないが、
私が耳にした“Hotel California”は、2000年ごろにリマスタリングされたもののようだ。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その2)

それまで耳にしたことがなかったわけではないが、
“Hotel California”を聴いて、なるほど、たしかにそうだ、と感じたのは、
1982年になっていた。

録音が必ずしもモニタースピーカーの音と逆の傾向に仕上がるわけではないことは知っている。
モニタースピーカーの性格を熟知しているレコーディングエンジニアならば、
そのへんのことも自動的に補正しての録音を行う。

おそらくゲーリー・マルゴリスもそのへんのことはわかったうえでの、
ステレオサウンド 51号の発言なのだろうし、
確かにハイ上りといえばそうだし、
黒田先生が指摘されているように重低音を切りおとした、とも聴こえる。

重低音がそうだから、ハイ上りに聴こえるのかもしれない。
といって、いまとなっては確認のしようがない。
“Hotel California”は、何度か試聴室で聴いていたけれど、
自分でレコードを買うことはしなかった。

“Hotel California”を聴いたのは、もう36年ほど前であり、
“Hotel California”の音がどうだったのか、なんとなくの全体の印象は残っていても、
細部がどんなふうだったのか、そこまで記憶が残っているわけではない。

audio wednesdayで音を出すようになって、
“Hotel California”を聴く機会が、これまでに何度もあった。
別の場所で、ヘッドフォンでも聴いている。
つい先日もそうだった。

そこで疑問が湧いた。
こんな音だったかな? と。

私の中にかすかに残っている“Hotel California”の印象は、
当時のLPによるものである。
そのディスクが国内盤だったか、輸入盤だったかも、記憶は定かではない。

それでも聴いていると、かすかとはいえ記憶はよみがえってくる。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その1)

イーグルスの“Hotel California”のことを知ったのは、
ステレオサウンド 44号だった。

ロック小僧でなかった私は、イーグルスの名前は知っていても、
どのレコードもきいたことはなかった。

ステレオサウンド 44号の特集はスピーカーシステムの総テストで、
黒田先生が使われた十枚の試聴レコードの一枚が、“Hotel California”だった。

なので、当り前のように優れた録音のレコードだ、と思うようになっていた。
黒田先生は、こう書かれていた。
     *
 イーグルスの、レコードできける音は、重低音を切りおとした独特のものだ。そのために、ベース・ドラムなどにしても、決して重くはひびかない。そういう特徴のあるサウンドが、あいまいになっては、やはり困る。そして、ここでとりあげた2分の、前半の50秒は、インストルメンタルのみによっているが、その後、ヴォーカルが参加するが、そこで肝腎なのは、うたっている言葉が、どれだけ鮮明にききとれるかだ。なぜなら、「ホテル・カリフォルニア」はまぎれもない歌なのだから。
     *
さらに試聴ポイントして、五つあげられてもいた。

冒頭:左から12弦ギターが奏しはじめるが、この12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと、イーグルスのサウンドが充分にたのしめないだろう。

冒頭から025秒:ツィン・ギターによって、サウンドに厚みをもたせているが、その効果がききとれるかどうか。イーグルスの音楽的工夫を実感できるかどうかが問題だ。

冒頭から37秒:ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい。ギターによるひびきの中から、すっきりとハットシンバルの音がぬけでてきた時に、さわやかさが感じられる。

冒頭から51秒:ドラムスが乾いた音でつっこんでくる。重くひきずった音ではない。ドン・ヘンリーのヴォーカルがそれにつづく。声もまた、乾いた声だ。

冒頭から1分44秒:バック・コーラスが加わる。その効果がどれだけ示されるか。”Such a lovely place, such a lovely face” とうたう際の、言葉のたち方も問題になる。

“Hotel California”は、ステレオサウンド 51号にも登場している。
この号から始まった#4343研究で、
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンのゲーリー・マルゴリスとブルース・スクローガンが、
ステレオサウンド試聴室にて4343をセッティングしていく際に使ったレコードの一枚でもある。

“Hotel California”についてのマルゴリスの発言が載っている。
     *
イーグルスのホテル・カリフォルニアについては「このレコードはアルテックの604でモニターした音がしていますね。データは書いてありませんが、おそらくそうでしょう。」という。どうしてわかるのかと尋ねると「アルテックは帯域を少し狭めて、なおかつ中域が少し盛り上がり気味の周波数特性をしていますから、ミキシングのバランスとしては中域が引っ込みがちになることがあります。モニターの音と逆の傾向になることがあるのです。その分、高域が盛り上って聴こえます」と教えてくれた。そう思って聴くとたしかにハイ上りの音に思えてくる。
     *
私が“Hotel California”をきちんとしたかたちで聴くのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。

Date: 3月 17th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ソング・オブ・サマー

ソング・オブ・サマー」が出ていたのを、
つい先日知った。

エリック・フェンビーによるディーリアスの本だ。
ディーリアスの名前だけは知っていた。
けれど、まだきいたことがなかった高校生のころ、
ケイト・ブッシュの三枚目のアルバムに「Delius」があった。

その歌詞に、フェンビーの名が出てくる。
フェンビーの名前を初めて知ったのは、ケイト・ブッシュの「Delius」のおかげだ。

とはいえフェンビーのことについて、すぐに何かを知ることができたわけではない。
二、三年して、やっとフェンビーのとディーリアスの関係について知った。

それでもフェンビーによるディーリアスを聴けたわけではない。
そのころの日本では、ビーチャム、バルビローリによる演奏が、
ディーリアスの定番となっていた。

どちらも聴いた。
でも、私は、ビーチャム、バルビローリによるディーリアスの音楽を聴く前に、
ケイト・ブッシュの「Delius」を聴いている。
その影響があるのは自分でもわかっている。

もっと違うディーリアスがあっていいのではないか──、
そんなふうに感じるところがあった。
何かもどかしさを感じていたともいえる。

フェンビーによるディーリアスのCDが出たのはいつだった。
1985年、もう少し前だったか、
六本木のWAVEで見つけたときは、嬉しかった。
やっとフェンビーの演奏でディーリアスが聴ける。

一方的な期待を持ちすぎて、初めてのディスクを聴いてしまうのは、おすすめしない。
フェンビーのディーリアスは、よかった。

ケイト・ブッシュの「Delius」で、私の中になにかが出来上っていたディーリアス像、
それにぴったりとはまるような感じを受けた。

正直にいおう、フェンビーのディーリアスを聴いて、
初めてディーリアスの音楽がいい、と思えた。

フェンビーの「ソング・オブ・サマー」は、評価も高いようだが、
残念なことにフェンビーによるディーリアスのCDはほとんどないのが現状だ。

CD-Rの七枚組を見つけた。
20代前半に聴いたフェンビーのディーリアス、
30年後に、もう一度聴けるだろうか、どう感じるのだろうか。

Date: 3月 14th, 2018
Cate: ディスク/ブック

針と溝 stylus&groove

本の雑誌社から齋藤圭吾氏の「針と溝 stylus&groove」が出ている。

写真集だ。
「カートリッジとアナログディスク」ではなく「針と溝」の書名があらわしているように、
カートリッジの針とアナログディスクの溝をマクロ撮影した写真がおさめられている。

Date: 3月 4th, 2018
Cate: ディスク/ブック

椿姫

私がステレオサウンド編集部にいたころは、
編集顧問をされていたYさん(Kさんでもある)がいた。

Yさんは、熱狂的なカルロス・クライバーのファン(聴き手)だった。
聴き手というだけでなく、カルロス・クライバーについての些細な情報についても、
すべてを知りたい、という人だった。

私よりずっと年上(父よりも上のはずだ)で、ほんとうに教養のある人だ。
そのYさんも「椿姫」といっていたな、と思い出したのは、
昨晩引用した黒田先生の文章を読み返したからだ。
     *
「椿姫」は、このオペラの原作であるデュマ・フィスの戯曲のタイトルであって、ヴェルディのオペラのタイトルではない。
 ヴェルディのオペラのタイトルは「ラ・トラヴィアータ」という。にもかかわらず、日本では昔から、慣習で、「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきオペラを「椿姫」とよんで、したしんできた。ことばの意味に即していえば、「ラ・トラヴィアータ」を「椿姫」とするのは、間違いである。
 デュマ・フィスの戯曲「椿姫」とヴェルディのオペラ「ラ・トラヴィアータ」とは、別ものであり、同一の作品とはみなしがたい、ということで、ヴェルディの作曲したオペラに対する「椿姫」という呼称をもちいない人がいる。その主張は正しい。オペラ「ラ・トラヴィアータ」は、正確に「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきであって、「椿姫」とよばれるべきではないとする考えは、正論である。
 正論であるから、つけいるすきがない。にもかかわらず、ここでは、正論より、慣例に準じる。「ラ・トラヴィアータ」という呼称より「椿姫」という呼称のほうが、より多くの方に馴染みがある、と考えられるからである。せっかく「椿姫」という呼び方でしたしんでいるのに、いまさら「ラ・トラヴィアータ」と、わざわざいいかえるまでもあるまい、というのがぼくの考えである。このオペラを、インテリ派オペラ・ファンの多くが正確に「ラ・トラヴィアータ」とよぶのに反し、素朴なオペラ好きたちは「椿姫」とよぶ傾向がある。ちなみに書きそえれば、ぼくは「椿姫」派である。
     *
「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)」は、堕落した女、道を踏み外した女であり、
椿姫とするのは、確かに間違いということになる。

そんなことはYさんも知っていたはず。
それでもYさんは、「椿姫」派だった。

ずっと以前、ある人と話していた時に、「椿姫」と言ったことがある。
「あぁ、ラ・トラヴィアータね」とわざわざいいかえられた。

インテリ派オペラ・ファンが、ほんとうにいた、と思って聞いていた。

Date: 2月 24th, 2018
Cate: オーディオ入門, ディスク/ブック

オーディオ入門・考(マンガ版 オーディオ電気数学・その1)

オーディオ関連書籍のコーナーには、数ヵ月に一回くらいの割合で行く。
いくつかの書店の、そのコーナーをざっと見て、面白そうな本が出ていたら手にとる。

今日行った書店には、「マンガ版 オーディオ電気数学」があった。

奥付には、2013年8月20日発行とある。
四年半以上前に出ていた本に、今日初めて気づいた。
あまり期待していなかったが、「オーディオ電気数学」が示すように、
虚数の説明から始まる。

ここ数年、オーディオ入門書として発売されている本からすれば、
マンガ版とはいえ、数式はけっこう出てくるし、回路図ももちろん出てくる。

マンガ版と謳っているが、マンガとしての出来はそれほど高いとはいえないし、
そのせいで、本としての出来を少しスポイルしているかな、と感じなくもないが、
それでも、ここで紹介したいと思うだけの内容はもっている。

すべての説明がわかりやすい、とはいわないが、
この本を読んで、「あれって、そうだったのか」と気づく人はいるはずだ。

私も、この本に書かれていることをすべてを知っていたわけではないし、
知っていることでも、こういう説明の仕方もあるのか、と感心するところもある。

マンガ版だからといって偏見をもたずに、一度手にとって見てほしい、と思う。

Date: 2月 20th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Claudio Arrau (Complete Philips Recordings)

岡先生がクラシック・ベスト・レコードで、
アシュケナージに次いでよく取り上げられていたのが、クラウディオ・アラウという印象がある。

実際に数えたわけではないが、
あまりにも頻繁に、つまりアラウの新譜が出るたびに、高い評価をされていたから、
このころからアラウのレコードを集中的に聴くようになっていった。

ベートーヴェンの後期のソナタ、バッハ、モーツァルト、シューベルト、
どれも素晴らしかった。

けれどそれらのディスクは、以前書いているように、
切羽詰った時に、オーディオ機器をまず手離し、そしてディスクの大半も……、というときに、
私は手離した。

そのときは、これだけの名演なのだから、
しばらくして余裕ができたら買いなおそうと思っていた。

ところがいざ買いなおそうとしたときに、
アラウのCDは古い録音がいくつか出ているぐらいになっていた。

私がもっとも聴きたい、1980年代に入ってからの録音のほとんどが廃盤になっていた。
いつ再発売してくれるのか、と思い続けてきた。
もう諦めかけていて、中古CDを探そうか、と思ってもいた。

先週の金曜日(2月16日)、帰りの電車でfacebookを見ていたら、
クラウディオ・アラウ全集発売の投稿があった。

いまはもうフィリップス・レーベルはないから、デッカから80枚ボックスで出る。
やっと登場した。
ベートーヴェンも、モーツァルトもバッハもシューベルトもある。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

「かくかくしかじか」

かくかくしかじか」というマンガがある。
東村アキコの作品だ。

「かくかくしかじか」」の二話目の最後のページ、
     *
今の私には
分かります。

今さらもう
遅いよね

怒らないでね
先生
     *
というセリフ(独白)がある。
ここで直感した。

「先生」はもう亡くなっているんだ、と。

恩師と呼べる人をもち、
返事がないのはわかっていても、問いかけている人ならば、
すぐに気づくことだ。

三話目の最後のページにも、ある。
     *
そうだよ

最初から
お人好しだったんだよ
先生は

そうじゃなきゃ
バカなんだよ

大バカだよ

ねえ
先生
    *
作者の東村アキコ氏の気持がわかる人は、
恩師がいた人だ。

Date: 1月 11th, 2018
Cate: ディスク/ブック

超画期的木工テクニック

特に用事がなかったけれど、ぶらっと新宿の東急ハンズに行っていた。
六階に上ったら、「木工、やられてます?」と声をかけられた。

毎週木曜日、15時から六階の工具売場で行われている木曜木工という実演販売だった。
電動工具がなければ、正確な木工は難しいと思いがちである。

けれど木曜木工の人は、手引鋸でいとも簡単にまっすぐに角材を切っていく。
鋸が特殊なわけではなく、ノコギリガイドを使っていた。
といっても、このノコギリガイドも特殊なものではない。
ただ側面にマグネットシートが貼られているだけである。

マグネットシートに鋸がくっつく。
だから刃が湾曲することもなく、まっすぐに切ることができる。
たったこれだけのことなのに、効果は確かですごい。

いままでスピーカーの自作を考えながらも、切断のことで二の足をふんでいる人は、
一度、木曜木工の実演を見たら、いい。

実演されていた方は、杉田豊久氏で、
「超画期的木工テクニック」と「杉田式・ノコギリ木工のすべて」の筆者でもある。

Date: 1月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

NEW YORK-HOLY CITY

NEW YORK-HOLY CITY」は写真集だ。
どんな写真が、そこに収められているかは、タイトルが示している。

オーディオとはなんの接点もないように思えるだろう。
音楽とは……、
細野晴臣氏が「ニューヨークは聖地」というエッセーを寄せられているし、
「NEW YORK-HOLY CITY」の写真家、マイク野上(野上眞宏)さんは大の音楽好きで、
オーディオマニアだから、接点がないわけでもない。

それでも、ここで「NEW YORK-HOLY CITY」について書いているのは、
別項「情報・情景・情操(8Kを観て・その7)」で、
8×10(エイトバイテン)についての瀬川先生の文章を引用したのと関係してのことだ。

大型カメラとしか書いてないが、8×10で撮られた写真が、
「NEW YORK-HOLY CITY」にはおさめられている。

写真集だからカバーがついている。
カバーの端が内側に折れているところに、野上さんの文章がある。
     *
 この写真集は、私が1978年ヴァージニアにいるときに思いついた「趣味の写真」のアイデアをもとに、79年から94年までのニューヨーク在住中に撮った写真のうち、大型カメラで撮ったものから選んだ「ニューヨークの秘境案内」の写真集です。
 19世紀後半、アメリカ東部のフォトグラファーが大型カメラを馬車に積み込んで、当時の東部人にとってはまだまだ未知の世界だった西部を撮るためにオレゴンやカリフォルニアを旅して回りました。同じ頃、ヨーロッパのフォトグラファーは、汽車や船に機材を積んで遠い中国の宮殿やインドの虎狩りやアフリカのジャングルの巨大な滝などを撮りました。当時の人達はまだみぬ世界を一枚の写真の中に驚きをもって発見していたのです。時代は変わり、東洋人の僕が西洋文明の秘境の風景を大きなエキゾシズムをもって撮ってみたのがこの写真集です。かといって西洋文明を批評する気はなく、見る楽しみ、ディテールとテクスチャーの快楽の写真であります。参考に、地図も載せておきましたので興味のある方は各自の責任で行ってみるのも一興でしょう。
     *
《ディテールとテクスチャー》とある。
まさにそうだ、とおもった。
瀬川先生が、「いま、いい音のアンプがほしい」で書かれていることも、まさにそうである。
と同時に、《ディテールとテクスチャー》が、
私のなかでは、1976年12発行「ステレオのすべて」で、
黒田先生が《瀬川さんはプレゼンスだと。全くそうだと》につながっていく。