Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Cherokee Morning Song

ここ数日、スキャン作業をずっとやっている。
昼から夜までやっている。

ただただスキャン作業ばかりなので、退屈しのぎにSpotifyをBGMにしている。
聴くのに集中してしまうと、スキャン作業のほうがおろそかになるので、
耳あたりのよさそうなジャンルから適当に選んで聴いていた。

気分をかえようと、少し検索してみる。
検索結果に応じて、おすすめも表示される。

そこになつかしい名前があった。
リタ・クーリッジだった。

10代のころ、一枚だけアルバムを買って聴いていた。
肌に合わなかったわけではないが、強烈に好きになるということもなく、
それから自らすすんで聴くことはしなかったし、
そうなると不思議なものでどこかで聴く機会もなかった。

なつかしいなぁ、だけで、リタ・クーリッジを選択した。
最初に鳴ってきたのが、“Cherokee Morning Song”だった。

こんな歌を歌っていたとはまったく知らなかった。
ロビー・ロバートソンの“Music for the Native Americans”に収録されている曲ということも、
さきほど知ったばかりだ。

1994年に発売されているCDで、
今日の時点で注文可能だったのはamazonだけだった。

もちろん注文した。

Date: 4月 20th, 2020
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その1)

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか。

グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。
グレン・グールドは演奏家として、コンサート・ドロップアウトをした。

こういう状況下は、聴き手がコンサート・ドロップアウトしている、ともいえる。
もちろんコンサートが中止、もしくは延期になっている。

主体的なコンサート・ドロップアウトとはいえないかもしれないが、
こういう状況下が続く、もしくはくり返すことになれば、
聴き手の、主体的なコンサート・ドロップアウトもあたりまえのことになっていくのか。

こういう状況下で、どういう音楽を聴くのか──、
ひとによって違っていることだろう。

耳あたりの良い音楽を、こういう状況下だから聴く機会が増えた、という人もいるだろう。
不安を癒してほしい、そういう音楽を選ぶ人もいるだろう。
それまでとかわりなく──、という人もいよう。

カザルスのモーツァルトを聴いた。
指揮者カザルスのモーツァルトを聴いた。

ぐいぐいと押しだしてくるカザルスによるモーツァルトの音楽を聴いていると、
こういう状況下だからこそ、カザルスによる音楽を聴きたい、という、
裡なる声に気づく。

優美な音楽、優美な表現、優美な音、
優美さこそ──、という音楽の聴き手には、
カザルスによる音楽は、野暮に聴こえてくることだろう。

いまどきのオーディオは、カザルスの剛毅な音楽を鳴らせなくなりつつあるのかもしれない。

優美な音楽、優美な表現、優美な音は、
ほんのいっとき、聴き手をなぐさめてはくれよう。
けれど、そこに祈りはない。

Date: 4月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Solo

菅野先生の録音によるセシル・テイラーの「Solo」。
amazonでは中古盤が、そこそこの値段で出品されている。

5月20日に、リマスター盤が出る。
amazonの中古盤の約半分の値段である。

「Solo」に関しては、菅野先生からおもしろいエピソードをきいている。
いつか書こうと思っている。

Date: 4月 16th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その6)

リヒテル、グールド、グルダがあればいい──、
というのは私の本音だ。

それでもマルタ・アルゲリッチ、内田光子の平均律クラヴィーア曲集が、
今後出ることがあれば、ぜひ聴きたい──、
というのも本音である。

この二人の、ピアノによる平均律クラヴィーア曲集が聴ける日は、来るのだろうか。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その5)

ピアノで弾かれた平均律クラヴィーア曲集ならば、
私はリヒテル、グールド、グルダがあれば、いい。

他にもいくつかのディスクは聴いている。
といっても、市販されたディスクの半分も聴いていないはずだ。

リヒテル、グールド、グルダの演奏よりも、もっと素晴らしい演奏がすでにあるかもしれないし、
いまはなくとも今後登場してこないとは言い切れない。

それでも、私は、もうこの三組の平均律クラヴィーア曲集で充分である。

クラシック、ジャズ好きの人に多いように感じているが、
グールド一番だ、とか、コルトレーンは金メダル、とか、
そんな表現をしがちな人がいる。

演奏は競技ではないのに、なぜ、一番とか金メダルとか、
そんな表現をするのだろうか。

グールドは素晴らしい、コルトレーンは素晴らしい、でいいではないか。
なぜ、そこに順位をつけるようなことをいうのだろうか。

結局、これは、自分は一番いいものを知っている、
その良さを理解している──、
そんなふうに主張したいだけなのか。

そんな人は、平均律クラヴィーア曲集に関しても、
私なんかよりももっともっも多くの録音を聴いて、
これが一番! というのだろう。
そこには、自分はこれだけの枚数を聴き込んできた、という自慢も含まれているのか。

満たされる、ということはないのか。
満たされる、ということがないまま音楽を聴き続けていくのだろうか。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その4)

それにしても、なぜ、このSACDは限定発売だけだったのか。
私の探し方がヘタだったのか、タイミングが悪かったのか、
ディスクユニオンで、中古盤をみかけたことがない。

だからヤフオク!で入手した。
けっこう強気の値段で出品している人もいる。
2012年当時の価格は、12,000円(税抜き)である。

ぜひ再販してほしい。
SACDが無理ならば配信してほしい。
そうすれば、廃盤ということはなくなる。

SACDだから、DSDでの配信もいいが、
ライナーノートによれば、
オリジナルのマスターテープからは96kHz、24ビットでデジタルに変換され、
マスタリング作業を行う日本に送られている。

ならば96kHz、24ビットのfalcかWAVでの配信でもいい。
でも私がもっとも望むのは、MQAでの配信である。

SACDになんら不満があるわけではない。
それでも、96kHz、24ビットでのデジタル変換の文字をみると、
MQAだったら、と思ってしまう。

リヒテルのピアノの音色以上に、
録音現場の響きの濃さが違ってくるように思う。

聴ける日がきてほしい。

Date: 4月 15th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その3)

ライナーノートによれば、
SACD化にあたって、
《真のオリジナル・アナログ・マスター・テープにさかのぼって真の音を探し出すことを第1の目標》
とする、とある。

かなり大変な作業だった、ようだ。
このへんのことはライナーノートにある。

そして、こうも書いてある。
     *
トランスファー本番ではリヒテルの弾く「平均律」の音から、これまで気づかなかったいろいろなことが見えてきました。何といっても、真のオリジナル・マスターの音は非常に柔らかい天国的な音です。以前のCDではシャープに聴こえていた爪の音が意外に小さいこと、前奏曲とフーガにおける右手と左手に微妙なバランスの違いがあること、そして3回のセッションにおける音の違いが手に取るようにわかります。
     *
リヒテルの平均律クラヴィーア曲集が、教会で録音されたことは知っていたが、
今回のSACDで、第一集が、クレスハイム宮とエリーザベト教会、
第二集がクレスハイム宮とポリヒムニア・スタジオでの録音だったことを知る。

「3回のセッション」とは、そういうことである。
ライナーノートにあるように、セッションによる音の違いがよくわかる。

そして《非常に柔らかい天国的な音》という表現も、誇張ではない。

私が聴いたLPは、日本ビクターのだった。
それ以外のLPは聴いていない。
それらの音が、どんなだったのかはわからないが、
少なくとも2012年発売のSACDは、もう.これでいい、と思わせる。

1978年に発売されたLPのタスキには、
《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》
という吉田秀和による推薦辞があったのは、よく知られているし、
CDにもそのまま使われてもいた。

《一生持っていて繰り返し聴くに足る演奏》である。
けれど、これまでは繰り返し聴くに足る音とは、言い難かった。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その2)

バッハの平均律クラヴィーア曲集は、名盤・名演奏が少なくない。
どうしてもリヒテルの平均律クラヴィーア曲集が聴きたいという渇望はなかった。

そんな感じだったから、2012年にSACDが限定で出たことを、ずいぶん経ってから知った。
もうどこにも在庫はなかった。

なんとなくだが、縁がないのか、というふうにも感じていた。
それでも、ときおりふとリヒテルの平均律クラヴィーア曲集の断片が、
頭の中に響いてくることがある。

ほんとうに断片である。
ソニー・ミュージックから出ていたSACDを手に入れたいな、と思うようになったのは、
ここ一年ほどのことだ。

moraから配信があるかも、と期待もしていたが、
リヒテルのハイレゾリューションでの配信は、
ベートーヴェンのピアノソナタとシューマンの幻想曲のカップリング、
クライバーとのドヴォルザークのピアノ協奏曲、
ベートーヴェンの三重奏曲だけである。

平均律クラヴィーア曲集は、そこにはなかったし、いまもない。
e-onkyoにもない。

ないから急に聴きたくなったわけではない。
でも、ここにきて、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を、
きちんと聴いておきたいという気持が強くなってきている。

CDも、私が買ったもの意外にもいくつか発売になっている。
そのうちのどれかは、ある程度の満足がえられるかもしれない。

でもSACDが出ているのだから、どれを買ったとしても、SACDの存在が気になってくるはず。
結局、ヤフオク!で手に入れた。

Date: 4月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

バッハ 平均律クラヴィーア曲集(その1)

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集を聴いたのは、
ステレオサウンドの試聴室でだった。

誰かが試聴レコードとしてかけたわけではなく、
試聴室後方のレコード棚に、それはあった。

といっても存在に気づいてかけたわけではなかった。
サウンドボーイの編集長のOさんの「聴いてみろ」というすすめがあったからだ。

日本ビクターから発売されていたLPだった、と記憶している。
そのころの私にとって、平均律クラヴィーア曲集といえば、
グレン・グールド、ほぼ一択に近かった。

リヒテルの平均律クラヴィーア曲集は、大きく違っていた。
演奏については、いまさらいうまでもないだろう。
素晴らしい、と思いつつも、その音が気になる、といえば、そうだった。

何も知らずに聴いていたものだから、スタジオ録音で、
たっぷりとエコーをかけている、と思ってしまった。

まさか教会で録音したものとは思わなかった。
少なくとも、私がその時聴いた音は、教会の長い残響によるものとは感じられなかったからだ。

でも演奏は素晴らしいから、輸入盤を見つけたら買おう、と思っていた。
日本ビクターのLPを買おうとは、そんな理由から思わなかった。

そんなに熱心に探していたわけではなかったこともあって、
輸入盤とであうことはなかった。
そんなことをしているうちに、CDで出たのを買った。

日本ビクターのLPを、まず買っておけばよかったかなぁ、とちょっとばかり後悔した。

Date: 4月 13th, 2020
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その2)

めったに聴かないのだが、
十年に一度くらい無性に聴きたくなることがある。

そういうときは、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団による、
1984年のライヴ録音のオルフェオ盤をひっぱり出して聴く。

クーベリックは、バイエルン放送交響楽団の前に、
ボストン交響楽団と1971年に録音したものが、よく知られている。
いまも名盤として、SACDにもなっている。

私がクーベリックの「わが祖国」を聴いたのは、
バイエルン放送交響楽団のものが最初だった。

それからしばらくしてボストン交響楽団との録音も聴いた。
どちらがいいとか悪いとか、そういうことではなく、
私にはバイエルン放送交響楽団との演奏(録音)が、印象深い。

その後、チェコフィルハーモニーとの録音も出ている。
世評は、ひじょうに高いけれど、私は聴いていない。

私にとって「わが祖国」は、バイエルン放送交響楽団のがいい。
このバイエルン放送交響楽団との「わが祖国」は、
ステレオサウンドの試聴室で、であった。

山中先生が試聴ディスクとして持参されたのを聴いたのが、最初である。
「モルダウ」をかけられた。

試聴ということを忘れそうになるくらいに、熱いものを感じた。
クーベリック晩年のチェコフィルハーモニーとの「わが祖国」は、
聴けばきっと素晴らしい、と思うであろう。

そうであっても、うまく説明できないのだが、
私にとって「わが祖国」はクーベリック/バイエルン放送交響楽団がいい。

Date: 4月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

THE DREAMING(青春の一枚・その2)

人と会って話すのも好きだけれど、
人と会わずに独りきりでいるのも、また好きであるから、
誰とも会わず誰とも話さずに一日を過ごしていても、まったく苦にならない。

時間だけはあるから、ケイト・ブッシュを、ずっと聴いていた。
MQAで聴いていた。

すべてiPhoneに入れてある。
メリディアンの218に接いで、
一枚目の“THE KICK INSIDE”から順に聴いていた。

高校生のころ、FMから流れてきたケイト・ブッシュの“THE KICK INSIDE”に、
背筋に、文字通り電気が走ったような衝撃は、もうない。
もう四十年経っているのだから。

二枚目、三枚目と続けて聴いていく。
四枚目の“THE DREAMING”を聴く。

やっぱり、“THE DREAMING”は私にとって青春の一枚だ、と実感する。

“THE DREAMING”を、最初に聴いた時は、困惑した。
どう受け止めていいのか、わからなかった。
それでも何度も聴いた。

とまどいは減っていく。
少しずつ見えてきた(聴こえてきた)ように感じ始めた。

そういう“THE DREAMING”だから、“THE KICK INSIDE”とは第一印象からして違う。
違うからこそ、いま「青春の一枚」と感じているのかもしれない。

Date: 4月 10th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Walls

バーブラ・ストライサンドの「Walls」。
2018年12月に出ている。

発売から数ヵ月してから買った。
この一年、何度か聴いてきている。
audio wednesdayでもかけている。

今日、ひさしぶりに聴いた。
初めて聴いた時よりも、
audio wednesdayでかけた時よりも、
ずっとずっと美しくきこえてきた。

他に表現の語意を持たないのかといわれようと、
美しいものは、美しいとしかいいようがない。

タイトル曲の「Walls」は、四曲目である。
三曲目は「Imagine / What a Wonderful World」である。

続けて聴くからこそ、さらに美しく感じる。

Date: 4月 10th, 2020
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その4)

5月16日、17日に行われる予定だった“CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR”。
中止もしくは延期になりそうだなと危惧していたら、中止が正式に発表になった。

延期ではなく中止である。
マリア・カラスのホログラムが歌うところをみたかったが、
おそらく日本では行われないのだろう。

コンサートは死んでいくのか。

Date: 3月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その12)

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。

聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。

誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。

それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。

まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。

青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。

若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。

そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。

いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。

彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。

一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。

でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。

青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。

Date: 3月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その11)

青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。

具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。

そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。

多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。

ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。

とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。

青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。

目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。

どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。

そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。

むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。