Archive for category ディスク/ブック

Date: 3月 1st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その4)

聴くのが少し怖い、というディスクは、
誰かのところで聴くのがそうだということではなく、
自分のシステムで鳴らすのが怖い、という意味である。

人によって、それは違ってくるだろうが、私にとっては、
聴くのが怖いディスク・イコール・自分のシステムで鳴らすのが怖いディスクである。

といっても、そんなに怖いディスクが何枚もあるわけではない。
かなり少ない。

その少ない一枚が、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番である。

その理由は、菅野先生のリスニングルームで聴いているからである。
その時の音が、十年以上経っても、鮮明に残っている。

残っているのは、その時の経験そのものであり、感動である。
「まさしくベートーヴェンなんだよ」、
菅野先生のことばは、まさしくそうだった。

すでに書いているように、同じCDが発売になったので買った。
もちろん菅野先生の音と私の音とでは大きく違うのだから、
同じようにはならないのはわかっている。

それが怖かったわけではない。
怖かったのは、今回のSACDでのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集である。

昨年12月に発売になった。
ほぼ同時に手に入れながら、つい先日まで封も切らなかった。

菅野先生のところで聴いたのは通常のCDである。
その時はSACDはなかった。

今回はSACDである。
SACDで鳴らすことが怖かった。

Date: 2月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その6)

薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」の三番の歌詞は、
聴く度に、それに思い出す度にいいな、と思う。

 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

ここでの「希望」とは、「私一人」の希望ではないのではないか。
まわりの人、いろんな人の希望(つまりは想い)なのだから、
その希望をいっぱいにつめこんだスーツケースは、重いはずだ。

それを重そうに持ってしまったら、もう荷物でしかない。
軽々と持ちあげてこそ、推進していくための燃料のようなものになっていく。

重荷と感じてしまった時点で、推進していく燃料とは、もうならない。
それができない人は、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》とはならない。

そんなふうにきこえてくる。

Date: 2月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その3)

宿題としての一枚、ときいても、
すぐには何も思い浮ばない人もいることだろう。

すべてこなしてしまった、と断言できる人なのだろう、きっとそういう人は。
それはそれでいい、と思う。

関係のない私がなにかいうことでもない。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その4)

クリュイタンスのステレオ録音では、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスが歌っている。

ロス・アンヘレスは好きな歌い手の一人だ。
ビゼーのカルメンならば、マリア・カラス(プレートル指揮)、
それからアグネス・パルツァ(カラヤン指揮)、
それぞれの役どころのカルメンに惹かれるとともに、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ビーチャム指揮)も好ましい、と思っている。

ファリャの三角帽子。
名盤といわれるのはアンセルメ/ベルガンサのそれだが、
私としてはフリューベック・デ・ブルゴス/ロス・アンヘレスのほうが、ずっと好ましい。

ロス・アンヘレスは歌曲シェエラザードも忘れてはならない一枚である。

ロス・アンヘレスを熱心に聴き続けてきたとは胸を張ってはいえないけれど、
ずっと好ましい歌手だと思っている。

そのロス・アンヘレスがクリュイタンスのステレオ録音では歌っている。
でも、モノーラル録音のマルタ・アンジェリシの歌唱を聴いたあとでは、
黒田先生がいわれていた、音楽の身振りが大きくなっていることを感じてしまう。

特にMQAで聴くマルタ・アンジェリシの歌唱のあとでは、より強く感じてしまう。

クリュイタンスのモノーラルのほうを、
フォーレのレクィエムの名盤中の名盤というつもりはない。

私が聴いているフォーレのレクィエムはそう多くない。
私よりも、ずっと多くのフォーレのレクィエムを聴いている人は多くいることだろう。

そういう人は、もっとよい演奏をご存じかもしれない。
その演奏と、私はもうであわないであろう。

それを残念だな、とは思わないし、
これから先、これまで聴いてこなかったフォーレのレクィエムの多くを聴いていこうとも思っていない。

堕落した聴き手といわれればそうである。
それでもクリュイタンスのモノーラルでの第四曲の美しさを、
MQAでほんとうに聴けた、といまはそうおもえている。

このことこそが勘違いなのかもしれない。
それでもいい──、
そういいたくなるほど、美しいのだから。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その3)

e-onkyoで、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”の配信は、
2018年に開始になっている。

でも、そのころはMQAのことは知ってはいても、まだ聴いていなかった。
e-onkyoの存在は知っていても、アクセスすることはなかった。

2019年秋に、メリディアンのULTRA DACを聴く機会があった。
このとき、はじめてMQAの音を聴いた。
このときのことは別項で書いているので、ここではくり返さないが、
そのときの昂奮はいまも続いている。

ULTRA DACの日からほぼ一年後に、218で自宅でもMQAの音を聴けるようになった。
そうなるとe-onkyoへのアクセスが、日課のようになってきた。

いまではほぼ日課といってもいいぐらいだ。

クリュイタンスのモノーラル録音のCDボックスがMQAで配信されているのに気づいたのは、
昨年の終りちかくだった。
フォーレのレクィエムのモノーラル録音が、MQA(96kHz、24ビット)で聴ける。

このことの嬉しさを、どれだけの人がわかってくれようか。
そうおもいつつも、一人でも多くの人が、クリュイタンスのレクィエムのモノーラルのほうを、
MQAで聴いてくれるようになったら、ともおもう。

第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)だけでもいい。
オーケストラがソプラノ独唱によりそうように奏でる三分ほどの、
この短い曲を、MQAで聴いてみるといい。

マルタ・アンジェリシというソプラノ歌手を、
クリュイタンスのモノーラルのレクィエムで知った、というよりも、はじめて意識した。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その2)

フォーレの作品にかぎったことではないが、
レクィエムと呼ばれる作品は、あれこれ聴き比べするようなものではないと感じている。

よりよい演奏を求めて、発売される録音をできるかぎり集めて聴いていく──、
クラシックの聴き手としての、その楽しみは十分わかっているつもりだ。

それでもレクィエムだけは、であえた録音(演奏)だけでいいのではないだろうか、
最近はとくにそうおもうようになってきた。

フォーレのレクィエムは、これまでクリュイタンスのモノーラルとステレオ、
それからジュリーニの三枚だけしか買っていない。

これら以外の録音(演奏)はもちろん聴いている。
友人・知人のところで聴いている。
それでもいままで聴いたフォーレのレクィエムは、十指に満たないかそのぐらいでしかない。

ほとんど聴いていないに等しいではないか、といわれれば、そうである、と認めるしかない。
でも、それでいい、と正直なところおもっている。

これら三枚のディスク、
もっといえばクリュイタンスのモノーラルのほうとジュリーニがあれば、ともおもう。

クリュイタンスのステレオ録音のほうはSACDにもなっている。
エソテリックとEMIから出ていた。

モノーラル録音のほうは、テスタメントによる復刻もあるが、通常のCDでしかなかった。

二、三年前にクリュイタンスのモノーラル録音のボックスCDが、65枚組で出た。
オリジナルのマスターテープから96kHz、24ビットでマスタリングがなされた、とあった。

そのころから期待はしていた。

Date: 1月 31st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Pletnev plays Schumann(その1)

ミハイル・プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)。
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームで聴いている。

《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
これは「五味オーディオ教室」で出合った。

とはいえ、実際に、このような音を聴くことがかなったのは、
菅野先生のリスニングルームで、いまから十五年前のことである。
「五味オーディオ教室」から二十九年経ってのことだ。

この録音のすごさを理解しない人がけっこういる──、
そんなふうに嘆かれていた菅野先生のことも思い出す。

プレトニョフのシューマンの交響的練習曲のCDをすぐに買った──わけではなかった。
このCDはすごい、と会う人にすすめはしたけれど、なぜだか自分では買わなかった。

シューマンがあまり好きでないことが、その理由かもしれない。
自分でも買わなかった理由がよくわからない。

数年経ち、買おうかな、と思ったときには廃盤になっていた。
買っておけばよかった、とは思わなかった。

なにかきっかけがあったわけではない。
なのに、今日、ふとプレトニョフの交響的練習曲のことを思い出した。

あいかわらず、いまも廃盤のままだった。
けれどSACDが出ていたことを、今日知った。

あの日、菅野先生のリスニングルームで聴いたのはCDだったはず。
菅野先生が見せてくれたCDのケースは、SACDのそれではなかった。

こうなると欲しくなってくる。
ヤフオク!にはあるかな、とチェックしていたら、偶然にもあった。
しかもあと三十分ほどで終了。誰も入札していなかった。

落札できた。
まだ手元にはない。

SACDだから、といって、
あの日の菅野先生のリスニングルームでの音が再現できるとは思っていない。

それでも、最近、無性に、ピアノのいい録音を聴きたいという気持が高まっている。

Date: 1月 28th, 2020
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その3)

一年前の(その1)で書いたマリア・ラカスのホログラムコンサートが、
ようやく日本でも行われることが決った。

主催はエイベックス・クラシックス・インターナショナル。
5月16日、17日に行われる。

2018年秋から、世界各国で行われているコンサートが、やっと日本に来る。
もう行われないのかな、と思っていただけに、嬉しいし行きたいコンサートだ。

つい最近、NHKが、美空ひばりをAI技術とホログラムで甦らせる、という番組をやっていた。
といっても、テレビを持っていないので見ていない。
紅白歌合戦も見ていない。

このことについては、ここでは語らないが、
マリア・カラスのホログラムコンサートは、美空ひばりのそれとは違う。

比較して語ることなのか、という疑問もないわけではない。
実際にマリア・カラスのホログラムコンサートを体験すれば、
あれこれ考えることが出てくるように思っている。

それに、これがマリア・カラスだから、というのもある。
たとえばグレン・グールドだったら、とも考える。

Date: 1月 26th, 2020
Cate: ディスク/ブック

HIGHLIGHTS FROM BERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS

ステレオサウンド 213号の附録である「HIGHLIGHTS FROM BERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS」。
このSACDの収録曲は、
 ドヴォルザーク:スラブ舞曲 第八番 作品46/サー・サイモン・ラトル
 シューベルト:交響曲 第七番《未完成》 第一楽章/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
 メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』 序曲/クラウディオ・アバド
 ブルックナー:交響曲 第七番 第四楽章/クリスティアン・ティーレマン
 プッチーニ:歌劇《マノン・レスコー》第三幕・間奏曲/サー・サイモン・ラトル
 チャイコフスキー:交響曲第6番《悲愴》 第三楽章/キリル・ペトレンコ

二曲目のフルトヴェングラーのシューベルトだけが、モノーラルである。
けれど、収録曲で別格なのが、このフルトヴェングラーのシューベルトである。

オーケストラはすべてベルリンフィルハーモニーなのはいうまでもない。
聴けば、ほんとうにすべてベルリンフィルハーモニーなのか、と思うほど。

フルトヴェングラーのすごさは、いうまでもない。
音が、ほかの指揮者とはまるで違う。

モノーラルで、真空管の録音器材でアナログ録音なのだから、
そうとうに違って当然──、
そういう次元の違いではない。

もう別格としかいいようがない。
けっして優秀録音ではない。
ほかの五曲は優秀録音といっていい。

優秀録音だから、必ずしも名録音ではない。
フルトヴェングラーのシューベルトを聴いていると、そんなことをおもってしまう。

Date: 1月 23rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Biko [Live At Blossom Music Centre, Cleveland](その1)

2019年11月に、
ピーター・ガブリエルの全アルバムがMQAでの配信が始まったことは、すでに書いている。

そのなかに「Flotsam And Jetsam」がある。
LPもCDも発売されていないアルバムだ。

CDシングル、サウンドトラックに収録されていた曲を集めている。
「Biko」が二曲おさめられている。
Remix版とLive At Blossom Music Centre, Cleveland版である。

「Biko」はピーター・ガブリエルの三枚目のアルバムの最後の曲である。
そこでの「Biko」は静かに歌われていた。
だからこそ聴き手の胸に響く、ともいえる。

ライヴでの「Biko」は、違う。
ライヴでの「Biko」は、CDシングルで、ずいぶん前に聴いている。

私は基本的にはライヴ録音よりもスタジオ録音、という男だ。
それでも「Biko」は、圧倒的にライヴだ。

武道館での「Biko」は、その場で聴いている。
Live At Blossom Music Centre, Cleveland版は、もっと熱い。そして重い。
もっと顕になっているものが、ここにははっきりとある。

Bikoとは、スティーヴン・ビコだ。
映画「遠い夜明け」では、デンゼル・ワシントンがビコを演じている。

ライヴでの「Biko」を聴いたとき、12インチ・シングルで聴きたい、とも思った。
1980年代、12インチ・シングルの音に夢中になっていた。
ケイト・ブッシュの12インチ・シングルの大半は買って聴いた。

ケイト・ブッシュほどではないが、ピーター・ガブリエルの12インチ・シングルも集めていた。
でも「Biko」は持っていなかった。

CDシングルで聴いたとき、すでにアナログプレーヤーを手離していた。
その日から三十年以上。

昨晩、“Biko[Live At Blossom Music Centre, Cleveland]”を聴いた。
e-onkyoからダウンロードしたMQAで、聴いた。

ハイレゾといっても、サンプリング周波数は48kHzである。

「Flotsam And Jetsam」というアルバムの性格上、
こういうサンプリング周波数に統一されたのだろう。

でも、48kHzというサンプリング周波数は、もうどうでもいい。
12インチ・シングルでは、きっとこんなふうに鳴ったんだろうな、と思える音がしたからだ。

Date: 1月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

倍賞千恵子 全曲集2020

今日、東京は雪だった。
でかける用事がない日の雪は眺めているだけでいいから、好きである。

雪が降っている情景をうたった曲はいくつもある。
ここでも私はグラシェラ・スサーナの「雪が降る」を真っ先に思い浮べるのだけれど、
「雪の降る街を」も、こんな日は、ひとりでいると口ずさむ。

「雪の降る街を」は四十二年前、中学三年の音楽の教科書に載っていた。
ちょうどいまごろの季節、音楽の授業で歌っていた。
音楽の実技の試験も「雪の降る街を」だった。

小学校、中学校の音楽の授業でいろんな歌を習ってきたけれど、
いまも口ずさむことがあるのは、「雪の降る街を」ぐらいである。

いい曲だから、ということもあるけれど、ほかの人にはどうでもいい他愛ないことが、
「雪の降る街を」と絡んでの個人的感傷のようなものからである。

降る雪を眺めながら、「雪の降る街を」を検索してみた。
いろんな人が歌っているのが、いまでは簡単に聴ける。

インターネットがなかったなら、
レコード店に足を運び、自力で探すしかない。
しかも誰が歌っているのかも見当がつかない場合は、手当たりしだいか、
店員に尋ねるか。

それでも小さなレコード店では見つからないこともある。
そうなると何軒ものレコード店をまわる。
それで見つけた「雪の降る街を」が、
求めていた「雪の降る街を」に添うかどうかは聴くまでわからない。

求める「雪の降る街を」にであえない可能性もある。
いまは、ほんとうに便利になった。

倍賞千恵子の「雪の降る街を」を聴いていた。
収録されているCDを探した。注文した。
一歩も外に出ることなく済む。

Date: 1月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その6)

1月1日のaudio wednesdayでも、ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”はかけた。
その5)で、11月のaudio wednesdayでの“FAIRYTALES”は、
それまでとは大きく違った鳴り方をした、と書いた。

今回もよかった。
ラドラ・トネフの声の表情は、より濃やかになっている。
これがほんとうに初期のデジタル録音なのか、と疑いたくなるほどのみずみずしさで鳴る。

それ以上に、今回はピアノの音の繊細さに耳がいく。
メリディアンの218が、version 6から7に変ったことによって得られた音である。

こういう変化が得られるから、
面倒だな、と思いつつも、218に手を加える。

Date: 12月 23rd, 2019
Cate: ディスク/ブック

ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!

波動という言葉が使われると、
いまでは眉に唾をつけて疑いたくなるものがあふれている。

今日見つけた本のタイトルにも波動が使われている。
ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」(鈴木茂夫・著 日刊工業新聞社)だ。

でも、この本は、眉に唾をつけなくともいい、と感じた。
とにかく興味深い。

ページをめくると、いたるところに数式が出てくる。
それらの数式を、私はすべて理解しているわけではない。
多くは理解していない。

それでも、この「ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」はおもしろい。
リンク先に、目次が紹介されているから、そこだけでも目を通してほしい。

別項で書いているが、SPDIF用とライン用ケーブルとでは、
前者ではデジタル、後者ではアナログ信号が通るわけだが、
おもしろいもので、音の変化においては共通するところがある。

なぜだろう、と考えていくと、結局は振動なのか、と最近では思っている。
振動だとすれば、共振があるはずだし、そこには定在波も存在しているはずだ。

これも別項で書いたことだが、電源回路はまさしく電気的共振回路である。
だからこそ、電源インピーダンスをむやみに低くすることは弊害も大きいと考えられる。

それから電子回路のループについても別項で触れている。
電子回路には大小さまざまなループが存在する。
しかも、それぞれのループに電気的共振が発生しているとしたら……。

私は電子工学を専門的に学んでいるわけではないから、
これらの考えは、さまざまなオーディオ機器に触れて音を聴いての経験から、のものだ。

だからこそ、「ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」を手にして、
書店でパラパラとめくっていくと、
私のこれらの考えが間違っていなかった、と確信するとともに、
より発展した考え方が、そこにある、と感じた。

amazonのレヴューでは、なぜだか、この本の評価は低い。
でも、この本は、これまでの経験から導き出してきた考えを発展させてくれる、と予感している。

Date: 12月 18th, 2019
Cate: ディスク/ブック

百年の孤独

「百年の孤独」で検索してみたら、
上位に表示されるのは麦焼酎の「百年の孤独」ばかりだった。

ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」が最上位に表示されるものと思い込んでいただけに、
この結果は意外というよりも、時代を反映してのものなのか、と受け止めた。

こんなことを書いている私も、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」は知っているだけで、
読んではいない。

六年前、岩崎先生のお宅に伺った時に、そこの書棚に「百年の孤独」があった。
岩崎先生が読まれていた「百年の孤独」である。

その日から、読もう読もうと思いながら、つい遠ざけてきた。
ようやく今日、読みはじめた。

「百年の孤独」を読み終っても、
岩崎先生と同じ音楽の聴き方、音の聴き方ができるようになるわけではないし、
岩崎先生のような表現ができるようになるわけではないのはわかっていても、
そろそろ「百年の孤独」を読んでおかないと、
なにか手遅れになってしまいそうな気がした。

読み終ったら、少なくとも岩崎先生に関するなんらかの気づきはあるはず、と思っている。

Date: 12月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

音のかたち

昨日取り上げた「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」。
この本のデザイナーの有山達也氏の本が「音のかたち」である。

音のかたち」は書店でみかけて知ってはいた。
知っていただけで、それ以上のことに興味を抱くことはなかった。

「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」へfacebookでコメントがあった。
そのコメントで、
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」と「音のかたち」に、
ある種の結びつきがあるのを知った。