Vocalise(余談)
e-onkyoのサイトでは、
ジャンル関係なしのアルバムランキングとシングルランキング、
ジャンル別のアルバムランキングとシングルランキングが載っている。
クラシックの、今日現在のシングルランキングの五位に、
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”が入っている。
どれだけ売れての五位なのかまだはわからない。
そう多くはないのかもしれないが、この結果は嬉しい。
e-onkyoのサイトでは、
ジャンル関係なしのアルバムランキングとシングルランキング、
ジャンル別のアルバムランキングとシングルランキングが載っている。
クラシックの、今日現在のシングルランキングの五位に、
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”が入っている。
どれだけ売れての五位なのかまだはわからない。
そう多くはないのかもしれないが、この結果は嬉しい。
4月30日に購入したオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”を、
さっき聴いた。
最初の音が鳴ってきて、えっ、と思った。
モノーラルだったからだ。
私がこれまで聴いてきたのはステレオ録音だった。
どういうことなの? と調べてみると、
オーマンディは1954年11月28日、1967年10月18日に“Vocalise”を録音している。
ということは、五味先生が聴かれていた“Vocalise”は、モノーラルのほうである。
今回e-onkyoで購入したほうである。
私がこれまでCDで聴いてきた“Vocalise”はステレオだから、
同じ演奏ではなかったわけだ。
五味先生はステレオ録音のほうは聴かれていないように思う。
五味先生は《こんなにも甘ったるく》と表現されていた。
今回聴き較べてみると、ステレオのほうがさらに甘ったるい。
キャサリン・フンカ(Katherine Hunka)のピアソラを聴いた。
キャサリン・フンカ、今日初めて知った。
Googleで“Katherine Hunka”で検索すると、
「もしかして:Katherine 噴火」と表示されたりする。
ロンドン生れのヴァイオリニスト/指揮者であることぐらいしか、結局わからなかった。
“Piazzolla, Schubert, Schittke”は、
日本では「ピアソラ:ブエノスアイレスの四季」とつけられている。
一年前に発売になったCDであるけれど、
今日、TIDALであれこれ検索して出逢うまで、まったく気づかなかった。
“Piazzolla, Schubert, Schittke”も、
ピアソラ生誕百年ということで企画されたアルバムなのかもしれない。
TIDALで、Piazzollaで検索すると、けっこうな数のアルバムが表示される。
すべてを聴いているわけではないし、聴きたいと思ってもいない。
でも、まあまあ聴くようにはしている。
初めて知る演奏家によるピアソラを、けっこう聴いている。
彼・彼女らが弾いているのは、確かにピアソラの曲なのだが、
聴いて、ピアソラだ、ピアソラの音楽が! とすべてに対して感じているかというと、
むしろ少ない。
誰とは書かないが、けっこう名の知られている演奏家であっても、
しかもレコード会社が推していても、聴いて、これがピアソラ? と感じることのほうが、
残念ながら多い。
別項「正しいもの」で、吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」について触れた。
まったく同じことを、ピアソラに関して感じる。
「ピアソラの音って?」ということだ。
エッシェンバッハのブラームスの四番を聴いて、驚いていた。
聴き終ってから、その驚きは何を孕んだ驚きなのか、ということを思っていた。
つい最近聴いたエッシェンバッハの演奏は、
一ヵ月ほど前の「バイエル」、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」などである。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)である。
つまりピアニスト・エッシェンバッハである。
今回は指揮者・エッシェンバッハである。
ずいぶん違う、というよりも、まったく違う。
同じ人とは、まずおもえない。
“Piano Lessons”での演奏は、
ピアノを練習している子供たちの手本となるものだから、
そこで個性の発揮となっては、手本として役に立たない。
ブラームスの四番は、手本とかそういところから離れての演奏である。
比較するのがもともと間違っているわけなのはわかっていても、
聴いてそれほど経っていないのだから、どうしても記憶として強く残ったままでの、
今回のブラームスの四番であり、
それも“Piano Lessons”はスタジオ録音、ブラームスの四番はライヴ録音である。
エッシェンバッハのブラームスの四番は、
ミュンシュ/パリ管弦楽団のブラームス 交響曲第一番に近い、というか、
そこを連想されるものがある。
宇野功芳氏は、このミュンシュ/パリ管弦楽団の一番を、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーと、高く評価されていた。
宇野功芳氏ばかりでなく、福永陽一郎氏も、最上のフルトヴェングラーという、
最大級の評価をされていた、と記憶している。
フルトヴェングラーの録音にステレオはない、すべてモノーラルだけである。
ミュンシュ/パリ管弦楽団は、ステレオである。
エッシェンバッハ/シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団の四番も、
あたりまえだがステレオだ。
ミュンシュの一番は、たしかにすごい。
完全燃焼という表現は、この演奏にこそぴったりであり、
特に最終楽章の燃焼は圧巻でもある。
エッシェンバッハの四番は、そこまでとは感じなかったけれど、
フルトヴェングラー的なのだ。
オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団によるラフマニノフの交響曲第二番が、
一週間前に、moraとe-onkyoで配信が始まった。
そろそろ交響曲第三番と“Vocalise”のカップリングが出るころかな、と思っていたら、
今日、やはり配信が始まった。
ソニー・クラシカルだから、MQAは期待できない。
flac(96kHz、24ビット)である。
それでもいい。
さっそく“Vocalise”だけを購入した。
交響曲第三番を聴きたいとは思わないからで、
どうしても聴きたければTIDALで聴ける。
TIDALで、ラフマニノフの“Vocalise”を検索すると、意外とあった。
ラフマニノフ自演の“Vocalise”もあった。
アンドレ・プレヴィンによる“Vocalise”もあった。
こちらはMQA Studio(96kHz、24ビット)である。
五味先生の文章と一切関係ないところで“Vocalise”のことを知って聴いたのであれば、
プレヴィンをとったかもしれないが、
管弦楽曲版“Vocalise”のことは五味先生の文章で、なのだから、
もうどうしてもオーマンディの“Vocalise”のほうを、私はとる。
とる──、そう書いているけれど、
どちらが名演といったことではない。
そういえば、あの、ちょっと憶えるのが難しい名前の人──、
そんなふうに思い出した。
Zuzana(ズザナ)だけは憶えていた。
これだけで、検索は可能だった。
けっこうな数のアルバムが表示される。
バッハがやはり多い。
黒田先生の文章の冒頭にも、
ズザナ・ルージィチコヴァのバッハのチェンバロの全集のことがある。
ほかにもいくつかあった。
そのなかで、なんとなくモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を選んだ。
ヨセフ・スークとの協演である。
きいた瞬間に、ぐいぐいひきこまれる演奏ではない。
黒田先生は《誠実なルージィチコヴァ》と書かれている。
モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、
黒田先生の文章をもういちど読みたくなって、だから、今回書いている。
黒田先生のズザナ・ルージィチコヴァの文章を読んでなかったら、
ズザナ・ルージィチコヴァを聴くことはなかったかもしれない。
思い出すこともなかっただろうし、TIDALがなければ、また聴きのがしていただろう。
ならば、もっと早く聴いておけば、と後悔しているかというと、
そうでもない。
三十年前は、いまほどズザナ・ルージィチコヴァのよさがわからなかったかもしれない。
出逢うべき演奏とは、いつかきっとそうなるようになっている──、
私はそう思っている、というより信じている。
黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァと表記されているが、
いま日本ではズザナ・ルージチコヴァが一般的なようである。
そしてe-onkyoに、バッハ全集(Bach: The Complete Keyboard Works)がある。
MQA Studio(96kHz、24ビット)である。
ズザナ・ルージィチコヴァの答は、次のようなものだった。
*
「わたしも、子供の頃にはピアノをひいていました」は、淡々とはなしはじめ、さらに、こうつづけた。「でも、戦争中、私は強制収容所にいれられていたので、食事も満足にあたえられず、わたしの手はこんなに小さいんです。このように小さな手ではピアノをひくのはとても無理ですが、チェンバロならひけますから」
そのようにいいながら、ルージィチコヴァは両手をひろげてみせた。考えてもみなかったルージィチコヴァのことばに、ぼくはひどくうろたえた。尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、と思い、心ない質問をしたことを反省しないではいられなかった。しかし、いいわけになるが、ぼくは、それまでに、ルージィチコヴァについて書かれた文章で、彼女が幼児期を強制収容所ですごしたことについてふれたものを読んだことがなかった。それで、不覚にも、彼女の心の傷にふれるようなことを尋ねてしまった。
ぼくは、はなしの接穂をうしなって、おそらく、茫然としていたにちがいなかった。ルージィチコヴァは、(当時はまだ若かった)インタビュアの狼狽を救おうとしたのであろう、にっこりと笑って、「いいんですよ」といいながら、ブラウスの袖をめくりはじめた。ルージィチコヴァは、いったい、なにをするつもりか、ぼくは目をみはらないではいられなかった。
これが、そのときの認識番号です。ルージィチコヴァの細い腕には強制収容所で記されたにちがいない刺青の文字があった。
*
黒田先生のルージィチコヴァへのインタヴューは、おそらく1970年代の終りごろのようだ。
その時のインタヴューの記事が、どの雑誌に載っているのか知らないし、
なので読んではいない。
ルージィチコヴァが強制収容所にいたことは、その記事にあったのだろうか。
1988年の音楽之友社のムックのルージィチコヴァのページには、
そのことは載ってない。
黒田先生の文章を読んで、ズザナ・ルージィチコヴァの演奏を聴いてみたい、と初めて思った。
おもったけれど、当時は、ルージィチコヴァのCDがどれだけ出ていただろうか。
私の探し方が足りなかっただけなのかもしれないが、
ルージィチコヴァのCDを見つけることはできなかった。
それに、この時期、無職でもあったため、どうしても──、という気にはなれなかった。
そうやって三十年が過ぎた。
TIDALを使っていなければ、またそのまま聴かずに過ぎ去ってしまったであろう。
TIDALで、いろんな演奏家を検索するのは楽しい。
検索しながら、そういえば、あのピアニストは、とか、ヴァオリニストとは、と、
演奏家の名前を思い出しては検索する。
ズザナ・ルージィチコヴァも思い出した一人だった。
ズザナ・ルージィチコヴァという、チェコ出身のピアニストのことを知ったのは、
1988年、音楽之友社から出たムックだった。
そのムックは、器楽奏者を特集していた。
そのなかで、ズザナ・ルージィチコヴァだけは知らなかった。
初めて目にする名前ということに加えて、
一度では正確に憶えられそうにない名前、
これだけが印象に残っていた。
ズザナ・ルージィチコヴァに書かれていたのが、誰なのかはもう憶えていない。
手元に、そのムックもない。
グレン・グールドが、黒田先生が担当で六ページの扱いだったのに対し、
ズザナ・ルージィチコヴァは二ページと少なかったことは憶えている。
通り一遍のズザナ・ルージィチコヴァについてのことを読んでも、
聴いてみたい、という気はほとんど起きなかった。
その数年後、黒田先生の「ぼくだけの音楽」で、
二度目のズザナ・ルージィチコヴァについての文章を読む。
この時、ズザナ・ルージィチコヴァを聴きたい、とおもった。
黒田先生は、握手について書かれていた。
《ルージィチコヴァの手は、まるで赤ん坊のように小さくて、しかも、力を入れて握ったらこわれてしまいそうに柔らかかった》
そう書かれていた。
黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァにインタヴューされている。
黒田先生の、ズザナ・ルージィチコヴァへの最初の質問は、
「なぜ、あなたは、ピアニストではなく、チェンバリストになられたのですか?」だった。
《ごく平凡な、しかし、ぼくがもっとも知りたかった質問》とも書かれていた。
ソニー・クラシカルは、オーマンディのハイレゾリューション配信を始めている。
少し前からのmoraとe-onkyoでの配信を楽しみにしている。
今日、やっとラフマニノフの交響曲第二番が公開された。
96kHz、24ビットのflacである。
一番、三番、それから〝声〟Vocaliseも、近々配信されるようになるのでは、と期待している。
聴きたいのは、私の場合、〝声〟Vocaliseだけなので、
一曲のみを購入することになるだろう。
音楽を聴く、ということに関しては、いい時代になった。
そうではない、という人もいるだろうし、いていいのだけれど、
音楽を聴く、ということをどう捉えているのか、
音楽を聴く、ということが、私にとってどういうことなのか、
そういうことをふくめて、いい時代になった、と実感している。
五味先生の「FM放送」(「オーディオ巡礼」所収)に、
ラフマニノフの〝声〟Vocaliseのことが出てくる。
*
──今、拙宅には、二本の古いテープがある。どちらも2トラック・モノーラルで採ったもので、一本はラフマニノフの〝声〟Vocalise、もう一本はフォーレのノクチュルヌである。
FM放送で、市販のレコードの放送されたのを録音することはないと書いたが、理由は明白で、放送されたものは、レコードを直接わが家のプレヤーで鳴らすのより音質的に劣化してしまうからだ。放送局のカートリッジが拙宅のより悪いからというのではなく、音そのものが、チューナーであれテレコであれ、余分なものを通すたびに劣化するのを惧れるからである。ダビングして音のよくなるためしはない。それがいい演奏、いいレコードであればなおさら、だから、より良い音で聴きたいからレコードを買うべきだと私はきめている。
これはだが、経済的に余裕があるから今言えることであって、小遣い銭に不自由したころは、いいレコードがあれば人さまに借りて、録音するしかなかった。〝声〟もそうである。
ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
*
読んだ時から、聴いてみたい、とすぐに思った。
六分半ほどの曲だ。
20代のなかばごろだったか、LPを見つけた。
ラフマニノフの交響曲とのカップリングだった。
買おうとしたけれど、ほかのレコードを優先して買わずじまいだった。
CDになってから、廉価盤で出ていた。
ラフマニノフの交響曲集の最後におさめられていた。
今度は買った。
五味先生の書かれているとおりの曲だった。
私が買った廉価盤は廃盤のようだが、
いまでもオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフは入手できる。
TIDALでも聴ける。
私はラフマニノフの作品はあまり聴かない。
交響曲も、上記CDを買ったときに聴いて以来、もう聴いていない。
ときおり〝声〟が聴きたくて、ひっぱり出して聴くぐらいである。
そのくらいの頻度での聴き方だと、TIDALで聴けるのは便利であるし、
見つけた時にひさしぶりに聴いてしまった。
これから先何度聴くか、となると、
おそらく十回と聴かないであろう。
ほんの数回ぐらいのような気もする。
五味先生の文章は、もうすこし続く。
コロという猫のことを書かれている。
コロが産んだ仔猫を始末することになったことを書かれている。
*
捨てに行くつらい役を私が引受けた。私はボストンバッグに仔猫を入れ、牛乳を一本いれ、西武の池袋駅のベンチへ置いた。こんな可愛いい猫だからきっと誰かに拾われ、飼ってもらえるだろう、神よ、そういう人にこの猫をめぐり逢わせ給え、そう祈って、逃げるようにベンチを離れた。一匹は家内がS氏夫人のもとへ届けにいった。
貧乏は、つらいものである。帰路、私はS氏邸に立寄って、何でも結構ですからとレコードをかけてもらった。偶然だろうがこの時鳴らされたのが〝声〟であった。この〝声〟ばかりは胸に沁みた。
*
〝声〟が、胸に沁みるときが、私にもいつかあるのだろうか。
今回聴いたエッシェンバッハのブラームスは、
ヒューストン交響楽団を指揮しての四番ではなく、
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団との演奏である。
今回もTIDALで聴いている。
エッシェンバッハは、ヒューストン交響楽団と一番から四番まで録音しているが、
TIDALには一番と二番しかみあたらなかった(でもMQAだったのは嬉しい)。
四番は、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団とのものだけだった。
それで聴いみた次第。
聴いてすぐにライヴ録音だということはわかったぐらいだから、
どんな演奏なのかは、まったく知らずに聴いた。
TIDALにあったから聴いた、といういわば消極的な選曲での聴き方だ。
聴くきっかけがどうであろうと、このエッシェンバッハの四番が聴けてよかった。
しかも聴き終って調べてみたら、2005年、サントリーホールでのライヴ録音である。
こんな演奏が日本で行われていたのか──、という驚きと嬉しさと、
聴き逃していた後悔がないまぜになっていた。
もっともエッシェンバッハが2005年に来日していたことすら知らなかったのだから、
聴き逃していた、というよりも、まったく無関心だった自身を恥じるしかない。
それでも、いまこうやって聴くことがかなう。
おそらくTIDALを使っていなければ、
私はこのエッシェンバッハのブラームスに出逢うことはなかっただろう。
私の周りのクラシック好きの友人、知人のところで、
エッシェンバッハの演奏(ピアノ、指揮どちらも)を聴いたことはなかった。
それだけでなく、エッシェンバッハについて語ったことも記憶にないのだから、
どこかで偶然聴くということもない、と思う。
ブラームスの四つの交響曲でよく聴くのは、一番と四番であり、
いちばん好きなのは四番である。
ブラームスの四番の、私の愛聴盤は、
カルロ・マリア・ジュリーニ/ウィーン・フィルハーモニーによる演奏(録音)である。
カルロス・クライバーもよく聴くし、
少し前に書いたトスカニーニ/フィルハーモニアのも、いい。
もちろんフルトヴェングラーの四番も好きだし、
ほかの指揮者でもけっこうな数を聴いてきた。
それでも比較的新しい演奏(録音)といえば、
リッカルド・シャイーの交響曲全集である。
2013年に発売、録音は2012年から2013年にかけて行われている。
シャイーよりもあとに録音された演奏は聴いていない。
ティーレマンは聴いてみたい、と思っているのだが、
手を出しそびれて、まだ聴いていない。
現役の指揮者でブラームスを積極的に聴いてみたい人は、いまのところいない。
これまで聴いてきた指揮者の演奏(録音)をこれからもくり返し聴いていけば、
充分ではないか、という気持がある。
ブラームスの四番を、聴き尽くした、聴き込んだと思っているわけではない。
いま持っているディスクをじっくり、
これからも聴いていくほうが実りあるのではないか──、そう思う気持が強い。
2月にクリストフ・エッシェンバッハの“Piano Lessons”のことを書いた。
エッシェンバッハの“Piano Lessons”をTIDALで聴いて、
エッシェンバッハのほかの演奏も聴くようになった。
エッシェンバッハのキャリアは長いから、
これまでもエッシェンバッハの演奏は、ピアノだけでなく指揮者としての演奏も聴いてきている。
とはいっても、エッシェンバッハの熱心な聴き手ではなかったから、
聴いていない演奏が、TIDALにはそこそこあった。
指揮者エッシェンバッハの演奏に、聴いてないのが多い。
(その1)を書いたあとで、
そういえば、黒田先生、「音楽への礼状」でプレヴィンについて書かれていたな、と思い出した。
書き出しも憶えていた。
ある高名な評論家のことから始まる。
*
「こういうあつかいをされるのなら、これからは、きみのところとのつきあいを考えさせてもらうよ」
受話器からは、そのようにいう、くぐもった声がきこえてきました。声の調子から判断して、声の主が感情をおしころしているのはあきらかでした。連載を依頼している、さる高名な、そして高齢でもある評論家に、そのようにいわれ、ヴェテランの編集者である彼は、大いにあわて、同時にびっくりもしました。なんでまた、そんなことを気にするのだろう、このひとは。彼がそう思ったのは当然でした。
電話は、彼の雑誌の、その前日の新聞に掲載された広告に、件の高名な評論家の名前がのっていなかったことについての、厭味たっぷりな苦情でした。たまたま、その号の特集にスペースをとられ、そのために、連載をしている評論家の名前をのせられなかった、というだけのことでした。その程度のことは、わざわざ広告部に問い合わせるまでもなく、彼にも予測できました。
*
この高名な評論家が誰なのかは、なんとなく知っている。
そんなことをする人だったのか、と思ったし、
黒田先生が書かれているように、その行いは《想像を絶すること》だ。
高名な評論家といえど、いわゆる自由業である。
出版社から毎月決った額を受けとれるわけではない。
だからこそ、名を売っていかなければならない──、
そういう考えの人も多いのは経験上知っている。
十分な名声があったとしても、新しい人たちが参入してくるし、
将来が保証されているわけでもないから、名前が載ることは名によりも優先することなのだろう。
黒田先生も音楽評論家だったから、この高名な評論家と立場としては同じである。
《めだって、広く世間にその名を知られるようになる、というのは、たまたまの結果でしかなく、目的であってはならないでしょう》
とも書かれている。
黒田先生は、バーンスタインのマーラーを一人称の演奏の代表例とすれば、
プレヴィンの演奏は三人称の演奏である、と。
つづけて、こう書かれている。
*
奇麗だけど、それ以上ではない。それがあなたの演奏をきいた多くのひとのいうことばです。ぼくも、半分は、その意見に賛成です。しかし、あなたの演奏の、一歩ひいたところで語ろうとする慎ましさが、ぼくは大好きです。あなたは、なりふりかまわずふるまうことを、潔しとしない。そのために、あなたの演奏は、めだちにくい、地味なものになりがちです。
俺が、俺が、とわめきたてる声が、所を選ばずまきあがっているのが、この時代のようです。バーンスタインの演奏は一人称の演奏の素晴らしい例ですが、そうではない、めだつことだけをねらったあざとい演奏も、こういう時代ですから、たくさんあります。そのような騒がしい状況にあって、あなたの真摯で慎ましい演奏は、いかにもめだたない。ききての耳が粗くなっているためもあるかもしれません。しかし、このことは、なにごとによらず、この時代のすべてについていえるようです。
*
《奇麗だけど、それ以上ではない》、
20代のころの私は、そう感じていた。
バーンスタインのマーラーに夢中になっていたころだから、
そのころもいまも変らないが、一人称の優れた演奏をとにかく聴きたい、と思っている。
カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団のベートーヴェンでは、
四楽章の途中で、指揮棒が譜面台に当る音がする。
クルレンツィスのベートーヴェンがそこのところにきたとき、
その音がしない、とおもってしまった。
するはずがないのに、そうおもってしまった。
これまでかなりの数のベートーヴェンの七番を聴いてきている。
一度も、そんなことをおもったことはなかった。
思うはずがないのに、今回はそうおもっていた。
カザルスとクルレンツィスは、ずいぶん対照的でもある。
まず年齢が大きく違うし、二人の体形もずいぶん違う。
オーケストラの成り立ちも違う。
カザルスのベートーヴェンとクルレンツィスのベートーヴェンは、
二人の体形の違いのようなところがある。
にもかかわらず、四楽章の途中でそんなことを感じていた。
なぜ、そんなふうに感じたのかはいまのところなんともいえないのだが、
ひとついえそうなことは、二人のベートーヴェンは自由である。
ここでの自由は、好き勝手やっているという意味では当然ない。
自分自身にとても率直である、という意味での自由である。
数年前、あるところでクルレンツィス指揮のチャイコフスキーを聴いた。
チャイコフスキーはあまり聴かない。
クルレンツィスのチャイコフスキーが話題になっていたことは知っていたけれど、
積極的に聴こうとはしていなかった。
そこに聴く機会がおとずれた。
おもわずCDを買って帰ろうか、とした。
けれどハイレゾリューションで録音されているわけだから、
CDではなく、もっと優れた媒体で聴きたい、とおもったことがひとつと、
やっぱりチャイコフスキーだったこともある。
それでもクルレンツィスのチャイコフスキーは気になっていた。
とはいえ、このころはまだメリディアンの218は導入していなかったし、
SACDプレーヤーも持っていなかった。
そのクルレンツィスが、ベートーヴェンを録音しはじめた。
ベートーヴェン生誕250年の昨年、交響曲第五番が出た。
七番も秋に発売予定だったのが、コロナ禍の影響で発売延期。
つい先日、発売になった。
五番ももちろん聴いている。
正直なところ、五番にはちょっとがっかりしていた。
高く評価されていることは知っているが、
チャイコフスキーを聴いて、こちらが勝手に期待していたのと違っていただけのことであって、
悪い演奏というわけではない。
昨晩、ブログを書き終ってからクルレンツィスの七番を聴いた。
五番のときと違い、こちらの勝手な期待はもうなかった。
それがよかったのかどうかはなんともいえないが、
出だしから、ぐいっとクルレンツィスのベートーヴェンの世界に引き込まれてしまった。
この衝撃は、クルレンツィスのチャイコフスキー以上だった。
と同時に、なにか近いというふうにも感じ始めていた。
四楽章を聴いていて、カザルスに近い、と気づいた。