Archive for category 色

Date: 6月 7th, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(Moanin’)

その12)で「坂道のアポロン」について書いた時には思いもしなかったが、
昨晩のaudio wednesdayで「Moanin’」を聴いていて、ふと思った。

「坂道のアポロン」は1966年夏の佐世保から始まる。
基地の町の佐世保である。

主人公は、佐世保の個人経営のレコード店で、
アート・ブレイキーの「Moanin’」のレコードと出逢う。
クラシックのレコードを買いにいったはずなのに、「Moanin’」を抱えて店を出る。

主人公が初めて手にしたジャズのレコード「Moanin’」は、
国内盤だったのか、それとも輸入盤だったのか。

昨晩のaudio wednesdayで聴いたのは国内盤のSACD。
舞台が佐世保でなければ、どこか他の田舎町だったら、
そこの個人経営の小さいなレコード店だったら、国内盤であろう。

でも佐世保である。
当時の佐世保を知っているわけではない。
それでも、他の町のレコード店よりも、輸入盤(アメリカ盤)を置いていて不思議な気はしない。

Date: 6月 6th, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その5)

西新宿の小さな店で始まった珈琲屋は、繁盛した。
映画館のピカデリーの隣に、そのころラオックスのビルがあった。
そこの二階に、もっと大きな店舗も展開していた。

店主のMさんは、私が通いはじめたころは、
そちらの店(こちらが本店になっていた)に立たれていることが多く、
西新宿の店(西口店)は、30代くらいのHさん(男性)、20代なかごろのKさん(女性)のふたりだった。
どちらかが休みのときには、Mさんが来られていた、と記憶している。

けっこうな回数通っていたけれど、Mさんの淹れるコーヒーを味わえたのは、そう多くない。
もっぱらHさん、Kさんの淹れてくれるコーヒーが私にとっての、
新宿珈琲屋の味となっている。

Mさんの珈琲の味は、別格といえた。
Oさんの話では、豆も淹れ方もそのままに、
東京で名の知れた喫茶店の味を再現してくれた、とのこと。

Hさんの淹れるコーヒーもおいしかった。
他の店で飲むコーヒーよりも、私にはずっとおいしく感じられた。
ただ上には上がいる、ということだった。

新宿珈琲屋では、HさんかKさんの淹れるコーヒーのどちらかだった。
どちらが淹れるかは、カウンター席のどこに座るかでほほ決っていた。
カウンターの中にいるHさんとKさん、どちらが座った席に近いか、ということだった。

それがいつしかほとんどKさんが淹れてくれるようになった。

Date: 6月 1st, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その4)

新宿珈琲屋を始めるあたって、
店主のMさんは、友人のOさんにオーディオをまかせている。

QUADのシステムを選びセットアップしたのはOさんである。
Oさんとは、このブログに度々登場するOさんである。

ステレオサウンドの編集に50号あたりから携わり、
サウンドボーイの創刊、HiViの創刊、両誌の編集長でもあった。

サウンドボーイの記事中にもあったが、あのあたりの当時の電源事情はかなりひどくて、
ノイズカットトランスが必要になった、とのこと。

二基のESLは、客の後側に置かれていた。
ESLの音をきちんと聴きたければカウンターの中に入るしかない。

客は背後から鳴ってくる音を聴くことになる。
もっともほとんどの客は、すぐ後にあるパネルヒーターのようなモノが、
スピーカーとは思っていなかったようだ。

なんとなく、どこかから音楽が鳴っている──、
そんな感じで受けとっていたように思う。

私は新宿珈琲屋によく通っていた。
日曜日は必ず行っていた。
仕事の後も、週に二度は通っていたから、週三は最低でも、
新宿で映画を観たあとも、ここでコーヒーを、という感じだったから、
週四というときもあった。

それだけ通っていて、一度だけ、
ある客が、「どこから音、鳴っているんですか」と訊ねていたのを見ている。
そういう音の鳴らし方だったし、新宿珈琲屋は名曲喫茶ではない。

私はここで本格的なコーヒーの味を初めて知った。

Date: 5月 31st, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その3)

西新宿といっても、
高層ビルが建ち並ぶ一画ではなく、青梅街道を挟んで位置する西新宿。

雑然とした一画があった。1980年代のはじめ、
あのへんにはストリップ劇場もあったし、ソープランドもたしか二軒あった。
墓地はいまでもある。
夜は薄暗い雰囲気だったのをおぼえている。

そこに一軒の喫茶店があった。
当時既に、あのへんでも珍しかった木造長屋の建物の二階に、その喫茶店はあった。
新宿珈琲屋といった。

カウンターだけの小さな店。
客の印象にあわせてコーヒーカップを選んで、という店のはしりである。
この店が始まりだともきいている。

この店は、ステレオサウンドの弟誌にあたるサウンドボーイに載っていた。
まだ田舎にいたころに読んだのだったか、
東京に行ったら、この店に行こう、と思いながら、
その記事の写真をよく眺めていた。

そうはいっても、コーヒー一杯に500円の店には、なかなか行けなかった。
そういうコーヒー専門店に入ったこともなかった。
なんとなくひとりで行くのに、気後れしていたところもあった。

初めて行ったのは、東京に出て来て一年ほど経ってからだった。
ステレオサウンドで働きはじめていて、少しは東京のそういう店にも入れるようになっていた。

サウンドボーイに紹介されるくらいだから、名曲喫茶ではないけれど、
きちんとしたシステムがあった。

QUADのESL、アンプのQUAD(33と50E)、アナログプレーヤーはトーレンスのTD125に、
SMEの3009 Series IIにオルトフォンのMC20だったはず。
バロック音楽だけを、ひっそりした音量で鳴らしていた。

レコードも多くは置いてなかった。
30枚ほどだったか。
グレン・グールドのバッハもあったし、よくかけられていた。

Date: 5月 28th, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その2)

少女とある。
でも、いまの若い人が思い浮べる少女と、
五味先生の文章に登場してくる少女とは、ずいぶんちがってきたように思う。

私が思い浮べる少女と、ここでの少女とが、どれだけ近いのか違うのか。
誰にもわからない。

ただ、いまの若い人が思い浮べる少女よりは、ずっと近いように勝手に思っているだけだ。

髪の美しい少女とある。
髪の長さについては書かれてない。
だから勝手に、これも想像する。
きっと長いんだろうなぁ、と。

といってもとても長いわけではなく、肩に少しかかるくらいか、
肩が少し隠れるくらいか、そのくらいの長さの髪の美しい少女をおもう。

《紺のスカートで去って行くうしろ姿》もおもう。

そうやっておもうところで、
結局は、これまで出逢ってきた少女を思い出しているだけなことに気づく。
私だけだろうか。

それも私自身が少年だったころ、想いを寄せていた少女の姿なのだ。
だからよけいにうらやましくおもう。

いまある名曲喫茶は、昭和とともに歳をとっていったように感じる。
若い人が、そこで働いていたとしても、そんなふうには感じられない。

それでも、ひとつだけ近いことが私にもあった。

Date: 5月 28th, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その1)

「日本のベートーヴェン」で五味先生が書かれいてることが、
ハタチごろに読んだときよりも、こころに沁みてくる。
     *
 ぼくらは名曲喫茶では、ベートーヴェンのごく一部の作品しか聴けなかったにせよ、すぐれたそれは演奏家に恵まれた時代であり、しばしばすぐれた演奏がその曲を傑作にする。すぐれた演奏の音楽は、言葉よりはるかに多く正確な意味を語ってくれるのである。
 憾むことはなかった。メニューを持って近寄って来る髪の美しい少女に、一杯のコーヒーを注文するとき鳴っていたヘ長調の『ロマンス』は、ぼくと少女の心性に調べを与えてくれ、紺のスカートで去って行くうしろ姿からもうぼくは目を閉じていればよかった。あとはフリッツ・クライスラーの弾く『ロマンス』が、少女とぼくの気持ちを、終尾楽章の顫音まで秘めやかに空間に展開してくれる。なんという恵まれた青春だったろう。
     *
戦前の名曲喫茶のことである。
いまも東京には、いくつかの名曲喫茶がある。
そのうちの半分くらいには行っている。

戦前──昭和のはじめと、
戦後──昭和のおわり近くとでは、名曲喫茶もちがっていて当然であろう。

《なんという恵まれた青春》だろうと、うらやましくおもう。

戦前の名曲喫茶よりも、いまの名曲喫茶のほうが、装置もいいに決っている。
いまはステレオもモノーラルも聴ける。
戦前の名曲喫茶ではモノーラルだけである。
それにレコードの数も、いまの名曲喫茶のほうが圧倒的に多い。

コーヒーだって、いまのほうが美味しいだろう。
なのに《なんという恵まれた青春》だろうと、
体験できなかった私は、読み返すたびに、
いや、もう読み返す必要もないくらいに何度も読んできているから、
思い出すだけで、うらやましくおもう。

Date: 5月 26th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(余談)

(その2)へのfacebookでのコメントに、
ヤフオク!にLS5/1Aが出品されている、とあった。

KEFのLS5/1Aではなく、BBCモニターのLS5/1Aが出ていた。
ただ出品されているLS5/1Aは、付属アンプがどうもないみたいだ。

スタンドもついている。
けれど肝心の専用アンプがない。
もちろん専用アンプがなくとも、音は鳴る。
けれど(その2)に書いているように、専用アンプの高域補正がなければ、
中域より上がなだらかにロールオフしていく周波数特性である。

瀬川先生も、付属アンプで鳴らすよりも、
トランジスターアンプで鳴らすようになって本領を発揮してきた、と書かれているから、
付属アンプにこだわる必要はない。

それでも瀬川先生は付属アンプでの音を聴かれた上で、
高域補正が行われていることをわかったうえで、別のアンプで鳴らされているわけだから、
トーンコントロールで、そのへんはうまく処理されていたはずだ。

わかっている人が鳴らすのであれば、アンプがなくともかまわない、といえるが、
初めてLS5/1Aに接する人は、やはり付属アンプで鳴らす音を一度は聴いておいてほしい、と思う。
それが、ひとつの基準となる音なのだから。

私がLS5/1を手離した理由のひとつは、
ウーファーのボイスコイルの断線がある。

私が20年ほど前に鳴らしていた時点でも、製造されてから30年、
いまなら50年ほどが経過している。

スピーカーユニットのトラブル発生のリスクも考えておいたほうがいい。
ウーファーが断線しても、同じユニットを探して出して……、と考える人もいるだろう。
グッドマンのCB129Bという型番、38cm口径のウーファーである。

当時はインターネットなかった。
探すことはしなかった。
仮にCB129Bが入手できたとしても、実はそのままでは交換できない。

LS5/1(A)は、バッフル板の横幅をぎりぎりまで狭めているため、
ウーファーフレームの両サイドを垂直にカットしている。
この加工ができなければ、CB129Bを入手できても無駄になる。

他にもいくつか書いておきたいことがあるが省略しよう。
とにかくLS5/1Aは古いスピーカーである。

入札している人は、そのへんのことを分った上なのだろうか、とつい思ってしまう。

Date: 5月 25th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その2)

セレッションのDitton 25もKEFのLS5/1A、
どちらもHF1300を二発使っている。
縦方向に二本並べて配置している。

Ditton 25のウーファーとトゥイーター(HF1300)とのクロスオーバー周波数は2kHz、
LS5/1Aは1.75kHzと発表されている。
どちらも同じくらいの値だ。

HF1300を使っている他のスピーカー、
Ditton 15は2.5kHz、B&WのDM2は2.5kHz、DM4は4kHzとなっている。
スペンドールのBCIIとBCIIIは3kHz。

Ditton 25とLS5/1Aが、他よりも若干低いのは、二本使用ということも関係してだろう。
ただ二本使うことで、高域にいくにしたがって定位への影響も懸念される。

Ditton 25はだからだろう、9kHz以上は別のユニットに受け持たせている。
LS5/1Aは2ウェイだから、どうしているかというと、
上下に配置されている上側のHF1300については、3kHzからロールオフさせている。
そのためトータルの周波数特性は高域がなだらかに減衰していくため、
専用のパワーアンプ(EL34のプッシュプル)には、高域補正回路が組み込まれている。

LS5/1Aの定位は、確かにいい。
私が一時期鳴らしていたのはLS5/1だったが、その定位の良さには、
良いことを知っていても驚かされた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 29号にLS5/1Aの定位の良さについて書かれている。
     *
 LS5/1Aのもうひとつの大きな特徴は、山中氏も指摘している音像定位の良さである。いま、わたくしの家ではこのスピーカーを左右の壁面いっぱいに、約4メートルの間隔を開いて置いているが、二つのスピーカーの中央から外れた位置に坐っても、左右4メートルの幅に並ぶ音像の定位にあまり変化が内。そして完全な中央で聴けば、わたくしの最も望んでいるシャープな音像の定位──ソロイストが中央にぴたりと収まり、オーケストラはあくまで広く、そして楽器と楽器の距離感や音場の広がりや奥行きまでが感じられる──あのステレオのプレゼンスが、一見ソフトフォーカスのように柔らかでありながら正確なピントを結んで眼前に現出する。
     *
井上先生も、同じことを38号で書かれている。
《このシステムは比較的近い距離で聴くと、驚くほどのステレオフォニックな空間とシャープな定位感が得られる特徴があり、このシステムを選択したこと自体が、瀬川氏のオーディオのありかたを示すものと考えられる》

これはほんとうにそのとおりの鳴り方であって、
私は六畳間で鳴らしていた。
長辺方向にスピーカーを置くわけだから、かなりスピーカーとの距離は近い。

LS5/1は当然だがLS5/1Aよりも古い。
私のLS5/1は1960年前後に造られたモノ。
その30年後に、追体験していた。

Date: 5月 23rd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その7)

野上さんの写真について解説したり、評論しようという気はない。
それができるとも思っていない。

野上さんの写真を見て、何を感じたか、を言葉にするつもりもない。

5月18日の、白のテスタロッサは、何かを象徴しているような気がしてならないから、
こうやって書いている、ともいえる。

野上さんは写真家だ。
誰かに紹介するとき、「写真家の野上さん」といっている。

オーディオ評論家を、
オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)というように、
写真を撮って仕事としている人すべてを、写真家と呼ぶことは抵抗がある。

写真家という言葉がすっと出てくる人、
そうではなくて、カメラマンとか、ときに写真を撮っている人といいたくなる人もいる。

「BLUE:Tokyo 1968-1972」には、さまざまな人が訪れているのを、
facebookで知っている。

そのfacebookで公開されている写真を見ていて考えていたのは、
純粋と純情について、であった。

純粋な写真家、純情な写真家、
写真家としての純粋さ、写真家としての純情さ──、
そんなことを考えているところだ。

Date: 5月 23rd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その6)

赤のテスタロッサは、あのころよく見かけた。
見かけるたびに「おっ、テスタロッサだ!」と思っていた。

1990年代も終り近くになると、それほどみかけなくなったような気がする。
見かけなくなるとともに、たまに見かけても「おっ、テスタロッサだ!」と思わなくなっていた。
なんだろう、以前感じていたテスタロッサの輝きみたいなものが、
感じられなくなっていたからなのか。

製造されなくなって、それだけの時間が経てば、大切に乗られていても新車ではなくなる。
くたびれている感じのするテスタロッサも、何度か見かけた。

くたびれているからだけでもなかった。
ある時から、もう古いのかも……、とそのデザインを感じることもあった。
だから「おっ、テスタロッサだ!」だと思わなくなっていったのかもしれない。

5月18日の夜、目に飛び込んできた白のテスタロッサは、そうではなかった。
以前のように輝いていた、というより、
以前よりも輝いているように感じた。

製造されて何十年経っても、新車のような状態を維持しているクルマ(個体)を、
サバイバーと呼ぶ、らしい。
5月18日の白のテスタロッサは、まさにサバイバーなのだろう。

不思議なもので、もう古いのかも……、と感じていたデザインも、
カッコよく感じられる。

なんなんだろうなぁ……、と自分でも思っていた。
これが白のテスタロッサではなく、
他の色だったら、たとえば赤のテスタロッサが、新車同然でそこにいたとしても、
ここまで印象深く心に残っただろうか。

仮に残ったとしても、ここで書いたりはしなかったはずだ。
脈絡のないことを書いている、と自覚しながらも、
あの日の白のテスタロッサは、あの日の野上さんのモノクロの写真と無関係ではなかった、と感じている。

Date: 5月 22nd, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その5)

田舎にいたころ、スーパーカーブームがあった。
インターネットで検索すると、
1976年から’78年にかけて、とある。

私の記憶でもそのころであり、ちょうど中学生だった。
友人のひとりは、かなり夢中になっていて、それに少し感化されもした。

とはいっても田舎町のこと、
スーパーカーと呼ばれる車種と出会すことなんて、ほぼない。
あのころ地元で見たのはポルシェだけだった。

もっともポルシェはスーパーカーの範疇には入らない、らしいのだが、
中学生だった私達には、そんなことは関係なかった。

初めて見るポルシェに、みな興奮気味だったのを覚えている。
ランボルギーニ、フェラーリも見たかったが、
ついぞ見ることはなかった。

何を見て東京と実感するか、人によって違うだろうし、
私だってそれはひとつだけではないのだが、
スーパーカーブームの余波が、私の中にまだ残っている1980年代の東京を象徴するものといえば、
フェラーリやランボルギーニが、ショールームに展示されているのではなく、
道路を走っているのを、何度も見かけたことである。

ステレオサウンドで働くようになると、見る機会は格段に増えた。
終電がなくなり、タクシーで帰る時間帯、
当時のステレオサウンドがあった六本木は、フェラーリ、ランボルギーニもよく見かけた。

スーパーカーブームを体験しているといっても、詳しいわけではない。
そんな私にとって、1980年代のスーパーカーを象徴するクルマといえば、
フェラーリのテスタロッサである。

赤のテスタロッサは、これまで何度見たことだろうか。
でも白のテスタロッサを見たのは、数えるくらいしかない。

Date: 5月 21st, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その4)

「BLUE:Tokyo 1968-1972」の会場となっているBIOTOPは、白金台にある。
最寄りの駅は都営三田線白金台であり、プラチナ通りと呼ばれている道路に面している。

この道、いつからプラチナ通りと呼ばれるようになったのだろうか。
目黒駅からもそう遠くはない。

私は目黒駅から歩いて行った。
目黒駅は、よく利用する。
KK適塾に行くときも、五反田ではなく目黒駅から向っていた。

でもプラチナ通りは、10年以上歩いていない。
プラチナ通りは、白金台駅からでも、目黒駅からでも通る。

プラチナ通りに、いくつかの会社が入っているビルがある。
一階は駐車場になっている。

プラチナ通りも昼は人が多く歩いているのかもしれないが、
19時前後ともなると、歩いている人も少ない。
日が長くなったとはいえ、その時間は暗くなっている。

繁華街ではないから、通りも暗い。
でも、その駐車場だけは明るかった。
しかも、そこには白のテスタロッサが停めてあった。

停めてあった、というよりも、そこにいた、という感じだった。
新車にしか見えないテスタロッサだった。
30年ほど前のスーパーカーであるテスタロッサなのに、
そんなことは微塵も感じさせないほどのテスタロッサが、そこにいた。

BIOTOPに向うとき、
BIOTOPから帰るとき、
二度、白のテスタロッサをみるわけだ。

一度目よりも、二度目のほうが強烈だったのは、
野上さんの写真をみた直後だったからなのかもしれない。

Date: 5月 21st, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その3)

「BLUE:Tokyo 1968-1972」の写真は、モノクロだった。
渋谷の東急文化会館(現在の渋谷ヒカリエ)、表参道を撮影した写真もあった。

それらを写真をみて、Aさんは「日本じゃないみたい」といっていた。
そういう見方もあるのか、と思いつつも、私はまったく反対に感じていた。

子供のころ、モノクロの映像で断片的に知っている(見ていた)東京につながっていく──、
そんな感じでみていた。
つまり「まさしく東京だ」、つまりは日本だ、と思っていた。

Aさんと私は同世代といっていい。
それでも、同じ写真を見ての感じ方は大きく違う。
どちらの見方・感じ方が正しい、ということではないし、
どちらの見方・感じ方が多数派(少数派)ということでもない。

歳は近くても、生れたところ育ったところが違えば、
同じ写真をみても、受け止め方は正反対にもなろう。

1968-1972年の東京のイメージ。
そのころ見てきた映像は、東京のどこか、ということだけで、
どこなのかまではまったくわからなかった。

東京に行ったことのない、土地勘ゼロの、そのころの私には、
その映像が東京である、というところでとまっていた。

もう、あのころみた映像をもう一度、同じ映像を見ることは叶わない。
第一、どんな映像だったのかも正確には覚えていない。
偶然にも同じ映像を見る機会が訪れたとしても、気づかないかもしれない。

Date: 5月 20th, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その2)

私が直に感じてきた東京は、1981年春以降の東京である。
それ以前の東京について、雑誌やテレビ、映画などで断片的に見てきたにすぎない。

今回の野上さんの写真展の「BLUE:Tokyo 1968-1972」、
1968年から1972年ごろの東京に関しては、さらに断片的である。

1963年生れだから、5歳から9歳のあいだに、
東京に関して見てきたものといえば、雑誌は省かれ、テレビと映画くらいになる。

テレビはモノクロだった。
実家のテレビがカラーになったのは、私が小学校に入るかはいらないかのころだった。
1970年ごろだったか。

それまではテレビの世界はモノクロだった。
カラーテレビになっても、放送すべてがカラーだったわけではない、と記憶している。
当時、カラーで放送されていた番組には、画面の片隅にカラーと表示されていた。

映画での東京は、映画本編よりも、むしろ本編上映の前のニュースでの東京である。
いつごろからなくなったのは覚えていないが、
昔は、映画の上映には必ずニュースがあった。
このニュースもモノクロだった。

そうやって見てきたモノクロの東京の景色を、
はっきりと憶えてはいない。
ただモノクロだったことを憶えているだけである。

写真も、いつごろからカラーが一般的になっていったのか、
これもさだかに覚えていないが、私の子供のころの写真はすべてモノクロだし、
カラー写真があたりまえになるのは、もう少し後のような記憶がある。

カラー用のフィルムも、カラーの現像代も、
モノクロと比べるとけっこう高価だったのだろう。

そういえば新聞の写真は、当時はすべてモノクロだった。
あのころの映像は、ほとんどがモノクロだった。

Date: 5月 19th, 2018
Cate:

野上眞宏 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」(その1)

四年前に川崎先生が、
昭和に「東京」への地方から・歌手たちの想い』を書かれている。
このブログの少し前に、関連する内容のメールをもらっていた。

今年55になって、なぜ東京に来たんだろうか、と考えることがある。
私は喘息持ちである。
中学三年のときの発作がいまのところ最後で、
それから喘息を特に意識することはないが、それでも血液検査をすると喘息持ちと出る。

中学一年のとき、友人が「父さんと釣に行くから一緒にどう?」と誘われた。
一泊旅行だった。
小学校からの友人で、ふたりとも楽しみにしていたが、
夏休みということで、旅館の部屋には蚊取り線香が焚かれていた。

たったこれだけで友人(彼も喘息持ち)と私は発作を起してしまった。
喘息の発作はつらい。
そんな私にとって、東京はひどく空気の汚れた都会でしかなかった。

小学校のころ上映されていた「ゴジラ対ヘドラ」を観て、
東京の公害の凄まじさに恐怖していたことすらある。

高校二年の、東京への修学旅行も、喘息持ちということで行くのをやめた。
戻ってきた積立金を、サンスイのAU-D907 Limitedの購入資金に充てた(これが大きな目的か)。
でも、東京へ行くことの恐怖がまったくなかったわけではない。

ずっと空気のいいところで暮らそう──、
そんなことを本気で思っていた私が、1981年3月のおわりから東京に住んでいる。

もう人生の三分の二は、東京である。
これからもそうであろう。

なぜ東京に来たんだろうか、と考えはじめた。
考えても答が見つかるわけではなく、特に答を見つけようともしていない。
そんな今年、野上眞宏さんの 写真展「BLUE:Tokyo 1968-1972」が今日から始った。

昨晩、行ってきた。