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Date: 11月 14th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その4)

機能性・性能性・効能性を語ることは、
オーディオそのものについてだけでなく、個々のオーディオ機器に関しても、そうしていきたい。

新しく登場したオーディオ機器が、どういう音を聴かせてくれるか、
もちろんそれがいちばん知りたいことであるが、やはりそれは性能性について語っているだけであり、
その機械のもつ特質を語るには、機能性についてもきちんと語っていく必要があると思う。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 情景, 言葉

情報・情景・情操(その1)

恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにする──
かわさきひろこ氏は書かれている。

「あからさま」と「あきらか」とでは,明らかに、言葉の持つ意味合い、与える印象がはっきりと異る。

音の情報量をすこしでも精確に、すこしでも多く再生したいとのぞむとき、
恥じらいを失っていては、あからさまにしていくだけになりはしまいか。
恥じらいのない行為──、愛のない行為でもあろう。

川崎先生は、3つの言葉を掲げられる。
「いのち、きもち、かたち」もそうだし、「機能、性能、効能」もそうだ。

川崎先生に倣い、「情報」について考えるとき、あと2つの言葉を考えてみた。
ひとつは「情景」。これはすぐに出た。
もうひとつはなにか……。
しばらく考えて思いついたのは、「情操」だった。

他の言葉が、もっとぴったりはまるかもしれない。
だとしても、情報量について、これから書いていくとき、
「情報・情景・情操」をもとに考えていくつもりだ。

Date: 11月 14th, 2008
Cate: 単純(simple), 言葉

単純(シンプル)

芸術とは非大衆的な事柄である。しかも芸術は大衆に向かって語りかける。
不可思議なことは、最も単純なものは最も偉大な人によってのみ表現されるということ、
そして最も複雑なものは街路に転がっているということである。
偉大さとは魂のうちにある。
     *
フルトヴェングラーが1929年に語っている言葉である。

「単純」を、考え方が一面的であると捉えている人が少なくないように思う。
単純(シンプル)と原始的(プリミティヴ)をごっちゃにしていないだろうか。
考え方が一面的なことは、原始的(プリミティヴ)と呼ぶべきだろう。

否定的な意味合いで、単純(シンプル)という言葉を使うのは、
いつ終わりになるのだろうか。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: 言葉

かわさきひろこ氏の言葉

石井幹子氏の言葉について書いたあと、しばらくして、そういえば、照明について、
やはり女のひとが書いている記事があったなぁ、と思い出し、
5年前、インプレス社から発行された、
2号のみの刊行で終ってしまった雑誌「desktop」をひっぱり出した。
引用しておく。
     *
真夜中、コンビニの無機質な光源むき出しの光に、私たちは虫のように集まっている。余剰すぎる明るさが、安心感すら与える。けれど、恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにするから困ってしまう。
私たちは「明るい」、「まぶしい」には無頓着。その一方で「暗い」ことには過敏で神経質である。行為、行動を妨げる夜の暗闇は怖い、恐いとまで感じる。
(中略)
目に見えるはっきりとした明るい世界がすべてではない。
見えない、見渡せない、見通せない暗闇には、その隅っこや境界、限界をとらえることはできない奥深さや広がりがある。
     *
石井氏、かわさき氏の、光というよりも「あかり」に関する文章を読んでいると、
音の情報量について、きちんと考え直す必要があると思えてならない。

情報量は、ワイドレンジとも絡んでくるし、音量との関係も深い。
そして、もっとも大事なのは、音楽の聴き方そのものに大きく関わってくることだ。

情報量については、しばらくして書くつもりでいる。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: Mark Levinson

Mark Levinson の日本語表記について

Mark Levinsonの日本語表記だが、
マークレビンソンとマーク・レヴィンソンと使いわけている。

Mark Levinson個人の表記は、マーク・レヴィンソンにしている。

ブランドのMark Levinsonは、R.F.エンタープライゼス時代には、ブランド表記は、マーク・レビンソンだったが、
現在の輸入元のハーマン・インターナショナルの表記に従い、マークレビンソンとしている。

これから先も何度か登場すると思うMark Levinsonだけに、ことわっておく。

Date: 11月 13th, 2008
Cate: 105, KEF, Mark Levinson, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その19)

KEFの#105で思い出したことがある。
1979年前後、マークレビンソンが、開発予定の機種を発表した記事が
ステレオサウンドの巻末に、2ページ載っていたことがある。

スチューダーのオープンリールデッキA80のエレクトロニクス部分を
すべてマークレビンソン製に入れ換えたML5のほかに、
マランツ10 (B)の設計、セクエラのチューナーの設計で知られるリチャード・セクエラのブランド、
ピラミッドのリボントゥイーターT1をベースに改良したモノや、
JBL 4343に、おもにネットワークに改良を加えたモノのほかに、
KEFの#105をベースにしたモノもあった。

A80、T1(H)、4343といった高級機の中で、価格的には中級の#105が含まれている。
#105だけが浮いている、という見方もあるだろうが、
訝った見方をすれば、むしろ4343が含まれているのは、日本市場を鑑みてのことだろうか。

マークレビンソンからは、これと前後して、HQDシステムを発表している。
QUADのESLのダブルスタックを中心とした、大がかりなシステムだ。
このシステム、そしてマーク・レヴィンソンがチェロを興してから発表したスピーカーの傾向から思うに、
浮いているのは4343かもしれない。

結局、製品化されたのはML5だけで、他のモノは、どこまで開発が進んでいたのかすら、わからない。

なぜマーク・レヴィンソンは、#105に目をつけたのか。
もし完成していたら、どんなふうに変わり、
どれだけマークレビンソンのアンプの音の世界に近づくのか、
いまはもう想像するしかないが、おもしろいスピーカーになっただろうし、
#105の評価も、そうとうに変わってきただろう。

Date: 11月 12th, 2008
Cate: 挑発

挑発するディスク(その1)

黒田先生が、ステレオサウンドの59号に、
カラヤン指揮のワーグナーのパルジファルのレコードを聴き、
そこにおさめられている音楽・録音に挑発され、
それまでお使いだったコントロールアンプ(ソニーのTA-E88)に対して力不足を感じられ、
マークレビンソンのML7Lに買い替えられたことを書かれている。

ディスクが、聴き手を挑発する。

あるディスクに挑発され、システムの一部、もしくは全体を買い替えることになったとか、
それまでの調整(チューニング)の方向をまるっきり変えてしまうことになったとか、
そういう経験はないだろうか。

私にとっての「挑発するディスク」は、
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番。

1969年のマールボロ音楽祭のでのライヴ・レコーディングで、
発売はたしか1976年ごろ、
このディスクをはじめて聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室で、1983年ごろだった。
サウンドボーイ編集長のO氏に教えてもらって、だ。

それまで使っていたスピーカーはロジャースのPM510。
とても気に入っていたし、手離したいまでも、ふと聴きたくなることもあるが、
カザルスのベートーヴェンに聴かれる、
つよい緊張感、音楽の生命力の漲る感じや尊さが、十分感じられるものの、
やはり基本的にグッド・リプロダクションのスピーカーであり、
ほんとうは、もっともっとヴァイタリティを終始持続した演奏のはずだという思いが、
拭いきれないまま聴いていた。

できれば、部屋に2組のスピーカーを置けるだけの余裕、
それと経済的な余裕があれば、PM510を手離さずにすんだのだが、
ハタチの若造には、どちらも無理なことだった。

そして選んだスピーカーは、シーメンスのコアキシャル・ユニットだ。
これを、サウンドボーイで製作した平面バッフル(縦1.8m×横0.9m)に取りつけ、
6畳弱の部屋に、聳え立たせていた。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(その1)

川崎和男の名前を知ったのは、1991年9月ごろだったと記憶している。

当時、MacのClassic IIを使いはじめたばかりの私は、Mac関係の雑誌をすべて買っていた。
MacPower、MacLife、MacJapan、MacWorldである(いまはどれもない)。

Macに関して何の知識もなかったので、手当たり次第、読んでいた。
そして出会ったのが、川崎先生の連載「Design Talk」だった。

正直、書いてあることの半分も理解できなかった。
それでも、「この人はすごい」と直感でわかった。

「Design Talk」というタイトルの下に、ドリームデザイナー/川崎和男、とあった。

他の人が使っていたら、陳腐に感じていただろう。
でも、本文を読み終わると、とてもカッコよく感じたのを思い出す。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: KEF, 現代スピーカー
2 msgs

現代スピーカー考(その18)

#105の2年ほどあとに登場した303というブックシェルフ型スピーカーは、
ペアで12万4千円という、輸入品ということを考えれば、かなりのローコストモデルだ。

20cm口径のコーン型ウーファーとメリネックス振動板のドーム型トゥイーターで、
エンクロージュアの材質は、木ではなく、プラスチック樹脂。
外観はグリルがエンクロージュアを一周しているという素っ気無さであり、
合理的なローコストの実現とともに、製造時のバラツキの少なさも考慮された構成だ。

303の音は、当時、菅野先生と瀬川先生が高く評価されていた。
たしかおふたりとも、ステレオサウンド 55号(ベストバイの特集号)で、
マイベスト3に選ばれている。

こういうスピーカーは、従来の、技術者の勘や経験を重視したスピーカーづくりではなしえない。
理知的なアプローチと、それまでのスピーカーづくりの実績がうまく融合しての結果であろう。
#105の誕生があったから生れたスピーカーだろうし、
303も優れた現代スピーカーのひとつだと、私は思う。

瀬川先生が書かれていたように、303のようなローコスト設計を日本のメーカーが行なえば、
もっと安く、それでいて、まともな音のするスピーカーをつくれただろう。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: 105, KEF, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その17)

KEFの#105が日本であまり芳しい売行きでなかったのは、
なにも上にモノを乗せられないばかりではないと思う。

#105と同時期のスピーカーといえば、価格帯は異るが、JBLの4343があり、爆発的に売れていた。
#105と同価格帯では、QUADのESL、セレッションのDitton66(662)、
スペンドールBCIII、ダイヤトーンの2S305、タンノイのアーデン、
すこし安い価格帯では、ハーベスのMonitor HL、スペンドールBCII、JBLの4311、
BOSEの901、パイオニアのS955などがあった。

これらのスピーカーと比較すると、#105の音色は地味である。
現代スピーカーの設計手法の先鞭をつけたモデルだけに、周波数バランスもよく、
まじめにつくられた印象が先にくるのか、
魅力的な音色で楽しく音楽を聴かせてくれる面は、薄いように思う。
もちろんまったく無個性かというと決してそうではなく、
昔から言われるように、高域に、KEFならではの個性があるが、
それも#104に比べると、やはり薄まっている。
それにちょっと骨っぽいところもある。

もっともKEFが、そういうスピーカーづくりを嫌っていただろうから、
#105のような性格に仕上がるのは同然だろうが、
個性豊かなスピーカー群に囲まれると、地味すぎたのだろう。
少なくとも、いわゆる店頭効果とは無縁の音である。

店頭効果で思い出したが、
上にモノが乗せられないことは、オーディオ店に置いてもらえないことでもある。
当時のオーディオ店では、スピーカーは山積みで展示してあり、
切換スイッチで、鳴らしていた。
#105のスタイルは、オーディオ店でも嫌われていた。

おそらく、このことは輸入代理店を通じて、KEFにも伝えられていたはず。
それでも、KEFは、スタイルを変えることなく、105.2、105.4とシリーズ展開していく。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: 105, KEF, LS3/5A, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その16)

推測というよりも妄想に近いとわかっているが、#105のスタイルを、
レイモンド・クックは、LS3/5A+ウーファーという発想から生み出したように思えてならない。

LS3/5Aに搭載されているスピーカーユニットはKEF製だし、KEFとBBCの関係は深い。
時期は異るが、KEFからもLS3/5Aが発売されていたこともある。

#105は、セッティングを緻密に追い込めば、精度の高い音場再現が可能だし、
内外のスピーカーに与えた影響は、かなり大きいといえるだろう。

にも関わらず、少なくとも日本では#105は売れなかった。

#105は、より精度の高さを求めて、105.2に改良されている。
もともとバラツキのひじょうに少ないスピーカーではあったが、105.2になり、
全数チェックを行ない、標準原器と比較して、
全データが±1dBにおさまっているモノのみを出荷していた。

またウーファーの口径を30cmから20cmの2発使用にして、
ウーファー・エンクロージュアを小型化した105.4も出ていた。
ということは、#105はKEFにとって自信作であり、主力機でもあったわけだが、
日本での売れ行きはサッパリだったと聞いている。

この話をしてくれた人に理由をたずねると、意外な答えが返ってきた。
「(スピーカーの)上にモノが乗せられないから」らしい。
いまでは考えられないような理由によって、である。

Date: 11月 11th, 2008
Cate: 105, KEF, LS3/5A, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その15)

KEFの#105の写真を見ていると、LS3/5Aにウーファーを足したスタイルだなぁ、と思ってしまう。

スコーカーは10cm口径のコーン型で、
トゥイーターはT27でこそないが、おそらく改良型といえるであろうソフトドーム型。
これらを、ただ単にウーファーのエンクロージュアに乗せただけではなく、
左右上下に角度調整ができる仕掛けがついている。

#105の、見事な音像定位は、LS3/5Aの箱庭的定位に継がっているようにも思えてくる。
LS3/5Aも、#105の中高域部と同じように、仰角も調整して聴いたら、
もっと精度の高い、音の箱庭が現われるのかもしれない。
LS3/5Aを使っていたときには、仰角の調整までは気がつかなかった。

セレッションのSL600を使っていたときに、カメラの三脚の使用を検討したことがある。
スピーカーの仰角も、左右の振り、そして高さも、すぐ変更できる。
いい三脚は、ひじょうにしっかりしている。

スピーカーのベストポジションを見つけたら、そこからは絶対に動かさないのと対極的な聴き方になるが、
被写体に応じて、構図やカメラのピントを調整するように、
ディスクの録音に応じて、スピーカーのセッティングを変えていくのも、ありではないだろうか。

Date: 11月 10th, 2008
Cate: Glenn Gould

グールドの椅子

グレン・グールドが、終生愛用した、父親製作の折畳み式の椅子。
2年前、そのレプリカが、フランスで作られ、現在購入できる。
990ユーロ+送料で、世界中に配送してくれる。
The Glenn Gould Chair

1991年だったか、カナダ大使館で開催された「グレン・グールド1988」展。

グールドが亡くなった翌年(1983年)に、カナダ国立図書館に寄贈された遺品は、
25万点以上あり、その整理に時間がかかり、カナダで最初に開かれたのが1988年。

日本での公開は3年後で、約200点が展示されていた。
平日とはいえ、会場はガラガラだった。
日本でのグールドの人気を考えると、信じられないくらいの人の少なさ。

椅子も展示されていた。

グールドの晩年、椅子の状態は相当にボロボロの状態だったと話はきいていたが、
実物は想像以上にひどかった。
「こんなのに座っていたの?」というぐらいに。

その椅子のレプリカ──。

グールドがその椅子に座り、ピアノ(音楽)と向き合ったように、
この椅子に坐ったからといって、グールド的リスナーになれるわけでもないけれど、
グールドの演奏を聴くときには、この椅子で、と思う。

Date: 11月 9th, 2008
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その3)

グレン・グールドが語っている。
     *
地理的ギャップというものもある。東へ行くほど、レコードは録音によるコンサート効果をねらっていることがわかる。もちろんさらに遠く日本にでも行けば、西欧化されたコンサート・ホールの伝統による禁忌などはとりたててないから、レコーディングはレコーディング独特の音楽経験として理解されている
     *
グールドは日本に来たことはないはずなのに、
なぜ、日本でのレコードの聴かれ方について、こう認識しているのだろうか。
少なくとも、この言葉は、レコードをコンサート代用品とか、
カンヅメ音楽といって軽視している人たちのことではなく、
オーディオにつよい関心をもっている人たち、
菅野先生が提唱される、レコード演奏家そのものであろう、というより、であると断言していいだろう。

「日本のオーディオはアメリカのハイエンドに比べると10年くらい遅れている」
という発言をしている人を、ときおりネットでみかけると、かなしくなる。

グールドの全CDやDVDが手に入り、多くの関連書籍が読めるその日本から、
グレン・グールド的リスナー(インタラクティブで創造的な聴き手)が出てきても不思議ではないのに、
と思っているからだ。

グールド的リスナーからの視点による、オーディオの機能性を語れれば……と思う。
1993年に「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」という拙文を書いた。

Date: 11月 9th, 2008
Cate: 川崎和男, 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その2)

2002年夏、TEPCO銀座館プラスマイナスギャラリーで開催された
「ヒューマン・センター・デザインの視展(ユニバーサルデザインを超えて)」の会場で、
設置されていたモニターでは、デザインの「機能性、性能性、効能性」について、川崎先生が語られていた。

オーディオの「機能性、性能性、効能性」──。
オーディオマニアが音について語るのも、
オーディオ雑誌が、オーディオ機器の評価をするのも、
オーディオの「性能性」のところであろう。
音がどんなふうによいのか、どれだけよいのか、という性能性についてである。

80年代からオーディオは斜陽産業と言われてきた。
なぜそうなったのかは、いろんなことが絡みあってのことだろうが、
そのひとつの理由が、オーディオに関心のある人たち、プロもアマチュアも、
オーディオの性能性ばかりについて語ってきたためだと思う。

オーディオ好きな人に対しては、それで十分だろうが、
音楽が好きだけど、オーディオにはさほど、もしくはまったく関心のない人たちに対して、
オーディオの性能性ばかりを伝えても、大半のひとは振り向いてくれない、と思っていい。

いい音を聴くためだけに、少なくとも数十万円、できれば百万円以上、
さらに上には一千万円以上必要なんて、と思われてしまってもむべなる哉。

エジソンが蝋管によるアコースティック蓄音器を発明したのをオーディオの始点としても、
オーディオの機能性は発展は多岐にわたり、素晴らしいものだと思う。

蝋管が円盤になり、複製が容易になり、取り扱いも楽になったことも、機能性に関することである。
そして蓄音器がアコースティック式から電気式になり、音量の調整が可能になり、モノーラルからステレオになり、
低音、高音だけの増減だけのトーンコントロールから、
パラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーなども登場し、
デジタル技術が、さらなる機能性をもたらしている。

オーディオの機能性の魅力を把握してこそ、
個人個人のオーディオの世界は広がりを増すだろうし、
これまで、音楽は好きだけど、なぜかオーディオに関心をもってくれなかった人たちに、
オーディオの機能性を、正しく伝えること、説明することは重要なことである。