情報・情景・情操(その2)
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。
「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。
そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。
音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。
「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。
そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。
音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
モノーラル録音を、モノーラルで再生すること──スピーカーも1本──も、
素朴な音とは? を考えていくうえで忘れてはならないことではないか。
要素が増えていくことで可能になることもある一方で、
要素を減らしていくことで見えてくることもあるはずだからだ。
決着点も、きっとある。
トーレンスの101 Limitedには、アナログディスクが2枚ついてきた。
101 Limitedにあわせて金色のジャケットの、いわゆる高音質盤とよばれる仕様で、
ボップスとクラシックが1枚ずつ。
クラシックはリッカルド・シャイー指揮ナショナルフィルハーモニックによるロッシーニの歌劇序曲集だった。
じつはシャイーの演奏を聴いたのは、このレコードが最初だった。
シャイー、27か28歳の演奏で、なかなかどうして聴いていて気持の良いものだった。
あまり話題にはならなかったように記憶しているが、音にも気持の良さがあって、わりとよく聴いていた。
期待の若手指揮者のひとりになった。
けれど、低迷とまではいわないが、ある時期、あまりぱっとしなくなってきた印象があり、
ここしばらくはシャイーの新譜に興味をもつことはなかった日が、けっこうな期間続いていた。
それが、この2年くらいのあいだに、私の中で、急に復活してきた感があり、
今年1月に発売されたマタイ受難曲は、聴ける日が待ち遠しかった。
輸入盤入荷の翌日に購入。仕事が忙しく、聴いたのは2日後になってしまった。
HQDシステムは、スピーカーシステムの名称ではなく、コントロールアンプ、
エレクトロニック・デヴァイディングネットワーク、
パワーアンプまでを含んだトータルとしてのシステムの名称である。
そのスピーカーシステムは、一般的なスピーカーシステムとは形態が大きく異り、
完成品というよりも、マークレビンソンとしてのスピーカーのアイディアのひとつの提示である。
だからダブルスタックのQUADの設置場所、それに仰角の調整、
ハートレイのウーファーの置き場所と、その相対関係、
個々のレベル調整など、多岐にわたる調整箇所によって、
HQDシステムの音の変化幅は、通常のスピーカーシステムを鳴らすよりも広いところももつだろう。
ひと言で、HQDシステムは、こういう傾向の音、とは言いにくい面があることは承知のうえで、
アンプ関係はまるっきり同じでも、JBLの4343を、バイアンプドライブしたとき、
それもウーファーをML2Lのブリッジ接続で鳴らしたときの、「おそるべき迫力」をもって、
音楽が聴き手に迫ってくるスリリングな感じは、ひじょうに出にくいのではなかろうか。
HQDシステムと4343とでは、音源(音楽)と聴き手の距離感に、決定的な違いがある。
蛇足とはわかっているが、「近い」というより間近なのは4343であり、
やや距離をおくのがHQDシステム、であると書いておく。
HQDシステムのQUADとデッカは、いうまでもなくイギリスのスピーカーシステムとスピーカーユニットであり、
繊細さの表現において、個性的な存在といえる性質を持つが、あくまでも控えめな身上の音。
ハートレイはアメリカ東海岸のスピーカーメーカーとして、大口径のウーファーで知られているが、
創業者のハートレイ氏は、もともとはイギリススピーカー界で名の知られた人である。
いまもハートレイのスピーカーユニットは、ごく少数ながら作られ続けられているようで、
イギリス製だときいている。
つまりHQDシステムは、イギリス製およびイギリスに深く関係しているモノから構成されていたわけだ。
そこには己の存在を前面に押し出してくる、いわばアクの強さはない。
HQDシステムの音を聴いたことはないが、それでも、それぞれのスピーカーの性格から、
なんとなく、大まかな性格は想像していると、
ML2Lが、このハートレイとQUADとデッカの集合体を鳴らすのに、
ぴったりのパワーアンプとは、あまり思えない。
たしかにクォリティとしては十分なものがあるのはわかっている。
マーク・レヴィンソンがいたころのレビンソンのアンプでいえば、
パワーアンプはML3Lが、コントロールアンプもML7Lの組合せが、
スピーカーに寄り添っていく鳴り方をしてくれるはずだ。
オーディオ・コンポーネントの主役は、いかなる時代においてもスピーカーシステムであって、
アンプは、そのスピーカーシステムを十全に鳴らすためのもの、ということは、
オーディオに関心をもち始めた頃から、なんども目にしたことであり、
この基本的事実はこれから先も変らない、ということは重々承知している。
オーディオ・コンポーネントの選択においては、まずスピーカーシステムが選ばれたのちに、
アンプ(それもセパレートアンプならパワーアンプがコントロールアンプよりも先に)が選ばれる。
にもかかわらず、マークレビンソンのアンプに合うスピーカーシステムは何だろう?
と考えていたころが、実はある。
決して「基本」は忘れていなかったが、それでもあえて「基本」を無視したくなるほど、
マークレビンソンのアンプは、主張の強い音だったように、いまは思う。
夢中になる人もいれば、拒否する人もいたのは、そのせいもあったのだろう。
この主張の強さは、ML2Lが登場したころが、ピークだった。
ML2Lの発表のあとに、HQDシステムも発表している。
以前も書いているが、ハートレイのウーファーと、QUAD・ESLのダブルスタック、
デッカのリボン・トゥイーターから構成されるスピーカーシステムを、
マルチアンプで駆動するという、大がかりなシステムではあるが、
意外にも、というべきか、当然ともいうべきか、ハートレイもQUADもデッカも、
いわゆるレビンソン的主張の強い音を持つものではない。
すこしまえまで、the Review (in the past) において、瀬川先生のオール・マークレビンソンによる、
読んでいただければわかるように、4343を極限まで鳴らし切る、という企画ではあるものの、
結果としては、主役はマークレビンソンのアンプ群であり、そのなかでも、
4343のウーファーを完全に御したという表現を使ってもいいであろうML2Lのブリッジ接続が、
ひときわ目立つ、真の主役という感じを受ける。
ブリッジ接続のため、低域だけでML2Lが4台必要となり、消費電力は400W×4で1.6kW。
出力は100W(8Ω負荷)。重量は、1台29.6kgと発表されているから、計120kg。
片チャンネルあたり、バイアンプのため3台のML2Lだから、約90kg。
4343の重量は79kgだから、パワーアンプのほうが重いわけだ。
容積的にも、ML2L、3台分だと、4343の6割から7割程度だろう。
その音も、4343が主役ではなく、マークレビンソンというアンプが主役であったようだ。
こうなってくると、マークレビンソンのアンプの音を、もっともよく伝えてくれる、
もしくは活かしてくれるスピーカーシステムは何か? という、
本質的には本末転倒な考えが出てきても、さほどふしぎでもなくなっていた。
それだけのある種の異様な「パワー」を、ML2Lのブリッジ接続は持っていたのかもしれない。
到達点と終点は、ちがう。
オーディオも、こうやって毎日書いていっている行為も、
振り返ってみて、いくつかの到達点を通過していたことがわかる。
そこが終点ではないから、そのときには気がつかない。
その瞬間、「ここが到達点だ」と感じたときこそ、終点かもしれない。
オーディオの罠が、そうみせる幻覚なのかもしれない。
オーディオ評論家とは、いったい何の専門家なのだろうか。
とうぜん、「オーディオ」の専門家という答えが返ってくるだろうが、
では訊くが、オーディオの「何」についての専門家なのか?
毎日書いていて、ふと想うのは、オーディオについて語り尽くすことはできるのだろうか。
モーツァルトのレクィエムを、はじめて聴いたのは、
カール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるディスク。
それからは、ワルター/ウィーン・フィル(ライヴ録音のほう)、カラヤン/ウィーン・フィル、
クイケン、バーンスタイン、ジュリーニ、ブリュッヘン、クリップス、ヨッフム、
それにブリテンなどを、聴いてきた。
ここにあげた以外にも少なからず聴いてきた。
すべてのディスクが、いま手もとに残っているわけではない。
どれが残っていて、どれを手ばなしたか、は書かない。
残ったディスクを見て思うのは、この曲において、どのディスクを手もとに置いておくのか、
それで、その人となりが、わずかとはいえ、くっきりと現われているのではないか。
もちろん、ほかの曲のディスクでも同じことは言えるのだが、
クラシックを主として聴くひとの人となりを、
モーツァルトのレクィエム、それとバッハのマタイ受難曲は、ひときわ明確にする。
そういう怖さがあり、この2曲において、「なぜ?」と思う演奏を好んで聴いているひとを、
信用しろ、というのは土台無理なことだ。
瀬川冬樹氏のこと(その44)において、「幾人もの手垢のついた」という表現を使った。
この「手垢」も、清潔感を喪失させるノイズのひとつと考えてもいいだろう。
しかも、この「ノイズ」は、なかなか排除することができない。
葉の上の水滴を指ではじく。水滴が葉の上を滑り、汚れを落としていく。
指の汚れもいっしょに持っていってくれる。
COOL LEAFとは、こういうものではないか、と勝手に想像してしまう。
タッチスクリーンの上に、数ミリの水の膜がある。
この水の膜にふれることで操作が可能になれば、つねにタッチスクリーンの清潔感は保たれるし、
ふれればふれるほど、指先もきれいになっていく。
それに、葉の上の水滴をはじくときの感触の心地よさ。
これに近い感触が、タッチスクリーンで実現されれば、
電子デヴァイスが、永年慣れ親しんできた「本」とは異る、別の魅力を示してくれるだろう。
そうなったとき、新しい感触が、新しい感覚を目覚めさせ、そして新しい快感へとつながっていく。
これは予感である。私の勝手な「COOL LEAF」への予感である。
この予感が、オーディオにおける心地よいノイズとは何かについて、ヒントを与えてくれる気がする。
この勝手な予感は外れているだろう。
川崎先生の「COOL LEAF」は、私の予感を大きく超えたモノであるはずだ。
川崎先生の「COOL LEAF」にふれることで、Noise Control/Noise Designについて、
重要なヒントを、きっと見出すことができるはずだ、という予感もある。
この予感は、きっと当っている。
清潔感あふれる葉──、まっさきに思い浮かぶのは、朝露にぬれた葉だ。
朝露が、葉の表面の汚れを洗い流した状態。
そして水滴が葉の上にとどまっている状態。
手は、人間の部位の中で、最も汚れているところだときいている。指先は、さらによごれやすいところだろう。
その指先で、タッチスクリーンにふれる。清潔感の喪失だ。
清潔感が喪失したからといって、文字情報が変質してしまうわけではない。
たとえば「私」という表現が、「僕」や「俺」、「ボク」や「オレ」に変ってしまうことはない。
とはいうものの、指の脂や指紋などによって、べとべとに汚れたディスプレイで読むのと、
清潔感がつねに保たれているディスプレイで読むのとでは、
読みやすさにわずかの差は生れるだろうし、紙の色や質感によって、本の印象が変わるのと同じように、
電子デヴァイスにおいても、なんらかの印象の変化はある。
指先を、タッチスクリーンを、清潔に戻してくれる身近なものといえば、やはり「水」だろう。こう考えたときに、葉の上にとどまっている水滴が、ふたたび浮んでくる。