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Date: 8月 19th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その11)

丸尾氏はステレオサウンド 66号の取材の時点で59歳。
ということは1923年か24年生れであり、SPの時代からレコードを聴いてこられた方である。

ベストオーディオファイル訪問記での菅野先生との対談も、SPの時代の話から始まっている。
ふたりのやりとりをすこし引用する。
     *
菅野 雑音は多いし聴こえない音はたくさんあるし、低音は出ないし、高音もそんなに出ませんし、ひどい音ではあましたね……。
そういう条件の中で、しかし、まったく音楽を聴こうと思って、あのレコードをのっけてから数分で裏がえすというようなことをあえて音楽を聴きたいがためにやるわけです。
情報量が少ないから、ぐーっと集中して聴こうということになわけです。情報が少ないから、頭のなかで補うということをしていかなきゃならない。そして実際にすばらしい音楽体験をしていた……。
丸尾 ええ、あの蚊の鳴くような音から、シンフォニーホールの雰囲気が、ヴァイオリンの音が、チェロの音が、そこにひろがるハーモニーが……想像して聴けたんですからね。
菅野 たしかに想像しなきゃ聴けなかったんですね。しかし、想像しなきゃ聴けなかったということは、ひっくりかえしていえば、想像を強要された。想像する能力のない人はだめだった。想像する能力のある人は、いかようにも想像して聴いた。
その想像ということこそ、非常に意味が大きいわけですね。いま、想像を強要されないんですよ。想像する必要がないんです。ですから、音楽に集中して音楽を聴くという昔のような姿勢に、なかなかなりにくいわけです。
丸尾 想像するということが、一つの集中でしたからね。
     *
ノイズが多く情報量が少ないSP盤での音楽鑑賞には想像が強要され、
その想像することが、ひとつの、音楽への集中であった、ということ。
この体験をバックボーンとされているからこそ、
丸尾氏のバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーの第四番の「再生」は成しえたんだ、と思う。

Date: 8月 19th, 2012
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その64)

クレルのKAS100とGASのAmpzillaの回路図を比較すると、
確かに似ている、というよりもそっくりといっていいかもしれない。
特に言葉だけで回路の内容を表現しようとすれば、文字の上ではそうとうに似てくる。

これだけでKAS100、つまりクレルがGASのマネしているとは言い難い面もある。
技術は進歩することによって収斂していく面もあわせもつ。
だから回路構成が似ているからといって、
後から登場したアンプ(メーカー)がマネをしたとは、かならずしもいえない。

ではその他の点に関してはどうだろうか。
アンプの音は回路構成と使用部品によって決まるわけではないことは周知のとおり。
筐体構造をふくめたコンストラクションも大きな音に影響している。

AmpzillaとKSA100のコンストラクションを写真を使わずに、
これもまた言葉だけで表現するとすれば、回路ほどではないにしても似てしまう。

Ampzillaの場合フロントパネルの右側に電源トランス、左側にヒートシンクがあり、
このあいだに平滑用の大容量の電解コンデンサーが配置されている。
KSA100はこの配置と基本的には同じである。
フロントパネルのすぐ裏側に電源トランス、それから電解コンデンサー、ヒートシンクと一列に並んでいる。
AmpzillaもKSA100もファンを使った強制空冷をとっている。

AmpzillaとKSA100の違いは、KSA100は完全なデュアルモノーラルコンストラクション、
そして空冷ファンとヒートシンクの位置関係。
Ampzillaは空冷ファンを下側に、その上にヒートシンクを置く。
KSA100はヒートシンクの上に空冷ファンを置いている。

こんなふうに見ていくと、KSA100はたしかにAmpzillaに似ているといえば似ている。
でも、マネをした、は言い過ぎというよりも、KSA100を正しく理解していない、というべきだ。

KAS100は回路構成の特徴よりも、内部コンストラクションの特徴の方をどちらかといえば謳っていた。
KAS100のシャーシーは奥行きが長い。
Aクラスで100W+100Wの出力をもつアンプだけにサイズがある程度大きくなることは想像できるものの、
それにしてもKAS100のシャーシーは奥に長いすぎる、という感じ。
自然空冷であればAクラス100Wの発熱を処理するためには、
それなりの大きさのヒートシンクが要求されそれにともないアンプ自体も大型化していくわけだが、
KAS100は強制空冷をとっている。巨大なヒートシンクはもっていない。
にもかかわらず奥に長いシャーシー内部には、
電源トランス、平滑用の電解コンデンサー、ヒートシンクを中心とするアンプ・ブロック、
これらが余裕をもたせて配置してあることが、天板をとり中を覗いたときにすぐに気がつく点だ。

それぞれのブロックの電磁的、熱的などの相互干渉をおさえるためにこれだけの距離が必要であり、
これ以上の小型化はできない、という説明がなされていた。

Date: 8月 18th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その10)

いますこし菅野先生の発言を引用したい。
     *
これは正しい再生ではありません。カートリッジがひろいあげた音をRIAAイコライザーをとおしたあとは、できるだけ歪の少ない増幅器で増幅し、歪の少ないスピーカーで再生する。あとは、ルームアコースティックを配慮して、細かい調整を行なっていく。オーディオ再生というものには、約束事として、それだけしか許容されていないと思うんです。
その許容限度を越えているから、正しい再生とは断じて言えませんが、、このばあいの非はレコードの側にあくまでもある。(註・帰宅後も気になったので、おなじレコードをあらためて自分の装置で再生してみた。以前に聴いた印象どおり、高域にキャラクターの強い録音で、丸尾さんならずとも聴きにくい。ぼくには理解しがたいサウンドバランスである。[菅野])
ぼくならば、このレコードにあくまでこだわることをしない。この例外的なレコードを聴くためだけに、自分のせっかく調整しぬいた装置のバランスをくずすわけにはいきませんから……。
しかし丸尾さんがニューヨーク・フィルとバーンスタインによる、このマーラーの演奏が聴きたい、という気持もまたよく理解できます。
     *
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによるマーラーのレコードについては、
菅野先生は丸尾さんとの対談のなかで「きわめて異常なサウンドバランスのレコード」とも表現されている。
そういうレコードであるから、五味先生が上杉先生のところで聴かれたとき、
このレコードから「死の舞踏」が、悪魔が演奏するように響いてくることを求めるのは、無理というものだろう。
「アパッチの踊り」になってはたしかに困る。
けれど、このレコードのサウンドバランスからすると、
「アパッチの踊り」に傾いてしまいがちなことも、またたしかだ。

菅野先生は丸尾氏の、このときの音について「正しい再生」ではない、といわれている。
菅野先生がよくいわれていた「オーディオの約束事」からは、あきらかに外れてしまった再生であることは、
丸尾氏の音を聴いていなくても、記事からも伝わってくる。

考えていきたいのは、ここからだ。
「正しい再生」ではない──、
これはレコードの再生として正しくないわけであるわけだが、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる演奏の再生としてはどうなのか、
さらにはマーラーの音楽としての再生としてどうなのか。

正しい再生ではない、といえるだろうか。

Date: 8月 17th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その9)

そしてバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーによる、このマーラーの第四番は、
丸尾氏の大切な愛聴盤であり、この一枚のLPを「快く聴きたい一心」で、
パトリシアン800のバイアンプ駆動というシステムのチューニングを行われていた。

しかも丸尾氏は年に2回ほどニューヨークフィルハーモニーを聴きにいかれる。
シンフォニーホールの1階の真ん中のぐらいの積で聴く音に、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを近づけようとされていたわけだ。

その成果である丸尾氏のシステムで鳴り響いたバーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーを、
菅野先生はこう表現されている。
     *
ほんとうに熟成されたブランディのような、まろやかな音で鳴ってくれました。
いま聴いていて思い出したんですけれども、ニューヨーク・フィルのチェロ、ヴィオラあたりに、たしかにこういうテクスチュアが感じられたと思います。たしかに、ニューヨーク・フィルは、丸尾さんが再生されたような音を持っています。
     *
ここで鳴ったマーラーの第四番の独奏ヴァイオリンが「死の舞踏」であったのかは、
そのことについての発言はないからなんともいいようはないものの、
すくなくとも五味先生のいわれた「アパッチの踊り」ではなかったことはわかる。

しかしだからといって、上杉先生の鳴らし方と丸尾氏の鳴らし方を、
ここで比較してどちらが上といったことはいえない。

いえるのは、丸尾氏は、
バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーのためだけにシステムをチューニングされていた、
ということである。

このバーンスタインの旧録のマーラーの第四番は、お世辞に優秀録音とはいえない。
菅野先生は、このレコードについてこう語られている。
     *
このレコードに本来入っている録音は、非常にギラギラしたアメリカのオーケストラといった印象のものなんですね。その妥当とは思われない録音のレコードから、本来あるべきサウンドバランスにきわめて近い音を引き出したという丸尾さんの力量には敬意をはらいつつも、そのことのために、ほかのすべてのレコードの音を犠牲にしてよいのだろうかという疑問もどうしようもないわけです。
     *
この菅野先生の発言にもあるように、丸尾氏がかけられた他のレコード──
シモーネ指揮のヴィヴァルディ(エラート)、アルゲリッチによるバッハ(ドイツ・グラモフォン)、
ベルリン弦楽合奏団のロッシーニの三つの弦楽ソナタ(ビクター)などは、
バランスを欠いたハイ下り、ロー上りであった、といわれている。

だからこそ、バーンスタイン/ニューヨークフィルハーモニーのマーラーが、
菅野先生をして「あの録音がこういう音で聴けるとは思わなかったなあ」といわしめたわけだ。

Date: 8月 16th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その8)

五味先生が上杉先生のリスニングルームを訪問されたのは、
ステレオサウンド 18号に載っている「オーディオ巡礼」の中でのことである。
1971年の春に18号は出ている。

ということは、五味先生がここで聴かれたバーンスタインのマーラーは、
いうまでもなくCBSに録音したもので、ニューヨークフィルハーモニーを振ってのものである。
これもいうまでもないことだがLPで聴かれている。

「正しいもの」について書いていくためには、
まずこのLPについてふれておかなくてはならない。

バーンスタインの旧録音のマーラーの第四番のLPとは、どういうものなのか。
このLPのことは、ステレオサウンド 66号の菅野先生の「ベストオーディオファイル訪問記」にも登場してくる。
神戸にお住まいの丸尾儀兵衛氏の訪問記は、このLPのことを中心に話がすすんでいく。

丸尾氏のシステムはエレクトロボイスのパトリシアン800を、中低域から下をマランツの9K、
それよりの上の帯域をカンノアンプの300Bシングルによるバイアンプで、
コントロールアンプはマランツの7。
プレーヤーはパイオニアExclusive P3に、
カートリッジはEMT・XSD15、フィデリティ・リサーチのFR7f、シュアーV15TypeIVなど、である。

66号は1983年の3月発行の号ということもあって、
丸尾氏はまだCDプレーヤーは導入されていない。

丸尾氏がかけられたバーンスタインのマーラーはLPである。

Date: 8月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集、本づくりとは・その1)

ステレオサウンド編集部にいたころは、
いかにしておもしろい本、いい本をつくるかということが編集という仕事だと思っていた。

ステレオサウンドをはなれて気がついたことがある。
本をつくるということは編集者にとって目的ではなく、手段だということに。

編集者がつくっていかなければならないもの(こと)は、他にある。
本をつくるのは、その実現のための手段として考えてみれば、
これからのオーディオ雑誌のあり方、つくり方が見えてくる。

Date: 8月 15th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その7)

同じことを、私はオーディオのスタート点で読んでいた。
何度も何度も書いている「五味オーディオ教室」に、同じことが書かれている。
     *
芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じになる傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
マーラーの、このヴァイオリンが仮に非常に美しい音で鳴り響いたとする。
白痴美ともいえるような音で鳴ったとしたら、それは音として聴けば、魅力的、魅惑的な音である。
けれど、それでは「死の舞踏」にはなりはしない。

天使が弾いているかのようなヴァイオリンの音で鳴ったとしても、
もしほんとうにそういう音で鳴ってくれたら、きっと嬉しくなり狂喜するかもしれないけれど、
やはり、これも「死の舞踏」にはなってくれない。
天国に連れていってくれるという意味でとらえれば、「死の舞踏」といえなくもないだろうが、
あくまでもマーラーの指示は「死神の演奏で」であるから、そういう音で鳴ってくれないと困る。

だが、これはあくまでもレコードにおさめられている演奏が、
それを十全に再生できれば、「死の舞踏」となるという保証は,じつのところどこにもない。

これまで市場に出廻ったマーラーの交響曲第四番のレコードのうち、
ほんとうに十全に再生できたときに「死の舞踏」がスピーカーから聴き手に迫ってくるものがどれだけあるのか。

これは演奏の問題も絡んでくるし、録音の問題も絡む。
さらにアナログディスクであれば、
それがプレスされた国によって大きく音が違ってくるということも関係してくる。

五味先生は、上で引用した文章のつづいて、こう書かれている。
     *
私は思った。むかし、モノラル時代の英HMV盤で、何人かの独奏者のヴァイオリンを聴き、その音の美しさに陶然としたことがあるが、総じて、管楽器は、ランパルの例を出すまでもなく、フランス人でないとどうしても鳴らせぬ音色がるらしい。同様に、弦はユダヤ人でないと絶対に出せない音があるという。
そういう、技術ではもはやどう仕様もない音色を、英盤は聴かせてくれるのに、アメリカプレスのRCAビクターでは鳴らなかった──そんな記憶を古いレコード愛好家なら持っていると思うが、私たちシロウトでさえわかるこんなことを、アメリカの心ある音楽関係者が痛感していないわけがない。
     *
「技術ではもはやどう仕様もない音色」が、「死の舞踏」へ深く関わってくる──。

Date: 8月 14th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その4)

927の原型であるR80と930stが、耐久性においてまったく同じであるとはいえないかもしれないが、
930stもスタジオ用プレーヤーとして開発され、多くのスタジオで使われてきた実績があるということきは、
耐久性において、定期的なメンテナンスをやっていけば、かなりの長期間に渡って信頼できる性能を維持できる。

930stや927Dstよりも、性能の高いアナログプレーヤーはダイレクトドライヴの出現によって、
普及クラスのプレーヤーであっても登場してきている。
ワウ・フラッターにしてもカタログ発表値は普及クラスのダイレクトドライヴ型のモノが低い値だ。

けれど、それらのアナログプレーヤーを10年、20年スタジオという現場で使っていったとき、
どういう変化を見せるであろうか。

私の趣味に自転車がある。
いまから17年前に、はじめてロードバイクを購入したとき、
自転車店の人にいわれたのは、コンポーネントの価格の違いについて、であった。

私が選んだのはシマノのデュラエースだったが、
シマノのコンポーネントにはグレードがあり、デュラエースをトップにその下にアルテグラ、105があった。
自転車店の人によると、これらの性能はほとんど同じだ、ということだ。
ギアの変速、ブレーキの制動具合など、価格ほどの差はない。
なのにこれだけの価格の差がついているのは、
初期性能をどれだけ維持できるかということの違い、ということだった。

もちろんグレードの違いには、それだけではなく、
仕上げの違い、操作感の違いなども当然あるのだが、
数多くの自転車を組み上げ、調整しメンテナンスをしてきたプロの言葉には、重みがあった。

EMTのアナログプレーヤーの良さ、
といってもEMTのダイレクトドライヴの950や948は自分で使った経験がないので、
ここではあくまでも920、927に話を限らせてもらうことになるが、
初期特性を長期間に渡り維持できる良さである。

Date: 8月 13th, 2012
Cate: オーディスト, ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)

ほぼ1年前に、ある言葉をオーディオ雑誌でみかけた。
そのときは、その言葉の語感がしっくりこなくて、それ以上の関心をもつことはなかった。

一昨日、あれこれ検索しているうちに、ふと思い立って、そういえば、あの言葉、一般的になったのだろうか、と、
カタカナではなく英語の単語として検索してみた。

1年前は、その筆者による造語だと、なんとはなしに決めつけてしまっていた。
筆者自身、本人による造語として使っていたように記憶している。

けれど実際にはアメリカではかなり以前から使われていて、
それも詳細については書かないが、差別に関する単語だった。

おそらく、この言葉を使われていた(というよりも提唱されていた、と受け取っている)筆者も、
その事実をご存知なかったのだろう。
その意味を知っていたら、不特定多数の読者の目に触れるオーディオ雑誌に、その言葉は使わない。

私が、この言葉をみかけた雑誌では、これから先、誌面に、この言葉が登場することはないはず。
それにその出版社から筆者のところへもなんらの連絡がいくであろう。
だから、誰が、どの言葉なのかについては、これ以上書くつもりは、いまのところない。

書きたいのは、無関心であったことへの反省である。
その言葉は、それ以前も、同じ筆者によって別の出版社の本で使われていた。
そのことも昨日知った。

見かけたときに調べていれば、すぐに気がつけたことを、ほぼ1年放ったらかしにしていたことになる。
無関心であったからだ。

その言葉の意味を調べるのは、たいした時間はかからなかった。わずか数分でしかない。
おそらく1年前に調べたとしても、いまと同じ検索結果が表示されたはず。
それをやらなかった。

その筆者による、その言葉について、賛同者もいる、否定的な人もいるだろう。
私と同じように無関心の人もいよう。
おおきくわけて、この3パターンがあり、このうち賛同者はときに盲目的であり調べずに同調し、
その言葉を使うのではないだろうか。
無関心であった人は、そのまま無関心のままだろう。
おそらく否定的な人のみが、この言葉の意味を調べたのではなかろうか。

そんなことをつい思ってしまった。

この時代、知らなかった、ではもうすまされなくなりつつある。
Google登場以前と以降では、まったく違う。

無関心ではいけない、と強制することはできない。
けれど、無関心であってはいけない人たちがいて、
その人たちが無関心であったから、その言葉がいままで放置されていたことになる。
私も、こうやって毎日ブログを書いていて、少なくない人たちがアクセスしてくださっている以上、
無関心でいてはいけなかった。

その言葉を見かけたときに語感的にしっくりこなかったのは、
なんらかの違和感に近いものを感じとっていたのかもしれない。
なのにその時、調べなかったのは、無関心であったから、というよりも無関心でいようとしたのかもしれない。
そのことへの反省がある。

たったひとつの言葉について、なんて大袈裟な、と思われるかもしれない。
でも、その言葉は、その言葉を使った人だけの問題にとどまらず、
その言葉を放置したまま、もしくは積極的に使っていくということは、
オーディオ界全体に関係してくることでもあるからだ。

Date: 8月 13th, 2012
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その3)

EMTの930st、927Dstはどういうアナログプレーヤーかといえば、
教務用としてつくられたモノということがまっさきにあげられる。

業務用(プロ用)ということは、一般にコンシューマーユーザーとは使い方が大きく異る、とよくいわれる。
とにかく使用時間が圧倒的に長い。
930stもDのつかない927stも放送局で使われることを前提としている。

927が40cmのディスクがかけられるようになっているのは、
まだテープが普及していなかった時代、
放送局用に少しでも時間を稼げるようにということで40cm径のディスクがあったときいている。
もともと927はそのためにつくられたプレーヤーなのだ。

放送局用だから、927Dstでは省かれているけれど930stにも927stにもクイックスタート・ストップ機構がある。
そのためにアルミ製のメインターンテーブルのうえにプレクシグラス製のサブターンテーブルがのる。
クイックスタート・ストップ機構に関係しているのは、このプレクシグラス製ターンテーブルであり、
基本的な使い方としてはアルミ製のメインターンテーブルは回転させつづけているわけだ。

放送局のスタジオに何台の930stが置かれているのかは、
スタジオの規模、予算などによってまちまちだろうが、それでも930stが稼働している時間は相当に長い。
その長さは、家庭で使われるのとは比較にならないほどのものであろう。

そういう使われ方をされても、へたらないことが、とにかく求められる。

いまはなくなってしまったがEMTは定期的に情報誌を出していた。
Courier(クーリエ)という情報誌の1971年の号に、927の原型となったR80のことが載っている。
EMTがR80のユーザーから50台の初期のR80を買い戻して測定した内容である。
つまり20年以上、スタジオという現場で使われてきた(酷使されてきた)R80が、
どの程度性能の変化が生じるのかをEMT自身が測定したわけだ。

結果はEMTが新品の状態で保証していた値(多少の幅がありその最大値)を、いずれも下回っていた、とあった。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その47)

LNP2のブロックダイアグラムを見ればすぐにわかることだが、REC OUTをパワーアンプの入力に接続しても、
VUメーターの両脇にあるINPUT LEVELのツマミによってボリュウム操作はできる。
こうすることによって3バンドのトーンコントロール機能をもつ最終段のモジュールをパスできる。
モジュールだけでなくOUTPUT LEVELのポテンショメーターや接点もパスできる。

中学生のころ、こうした使い方のほうが、
ボリュウム操作のため左右チャンネルで独立しているINPUT LEVELを動かす面倒はあるものの、
音の透明感ということでいえば、この使い方がいいはず、と短絡的にもそう思ったことがある。

短絡的、とあえて書いたのは、こういう使い方、そしてこういう使い方をされている方を否定するためではない。
あくまでも私にとってのLNP2というコントロールアンプの存在、
つまり、それは瀬川先生の存在と決して切り離すことのできないモノである、
ということを忘れてしまっていた己に対しての、短絡的という意味である。

まあ、それでも、したり顔で「LNP2はこうやって使った方が音が圧倒的にいい」などと面と向っていわれると、
「あなたにLNP2の魅力の何がわかっているのか」と、口にこそ出さないものの、そう思ってしまう。
そんなことをいう人と私が感じているLNP2の良さとは、実はまったく違うのかしれない。

こんなことを書いても、信号経路は単純化した方が絶対いい、と主張する人にとって、
LNP2にバッファーアンプを搭載することは、わざわざ余分なお金を費やして音を悪くしてしまうことでしかない。

理屈は、確かにそうだ。でも理屈はあくまでも理屈である。
音の世界において、理屈は時として実際に出てくる音の前では意味をなさなくなることもある。
それに理由付けなんて、後からいくらでもできるものだ。

理屈は、あくまでも、いま現在判明していることを説明しているにすぎない。
まだまだオーディオには判明していないことが無数にある。

だから、短絡的、と私は言う。
それに、そういう使い方をするのであれば、LNP2でなくて、他のアンプにした方がいい。

LNP2にあえてバッファーアンプを搭載することは、どうことなのだろうか。
過剰さ・過敏さ・過激さを研ぎ澄ますことであり、
そして、この3つの要素こそ、ジョン・カールと組んでいたマーク・レヴィンソンの「音」だと思う。

Date: 8月 11th, 2012
Cate: トーラス, ユニバーサルウーファー

同軸型はトーラスなのか(空気砲のこと)

年に一度か二度、あてもなくインターネットであれこれ検索してみてはリンク先をクリックしてみる。
特になにか目的があっての行動ではなくて、
テレビのチャンネルを、おもしろい番組はやっていないのかとあれこれ変えていくのと似ている。

そうっていて今日見つけたのが、空気砲だった。
空気砲がどういうものかについては、米村でんじろう氏のサイトに載っている。
動画も検索すれば、すぐに見つかる。

ダンボール箱があれば誰でもすぐに実験できる。
原理は簡単なものであり、スピーカー(サブウーファー)への応用も可能だろう。

ダンボール箱の前面に開けられた丸い穴から空気の弾が飛び出す、とある。
しかも興味深いのは、その空気の弾の形状について、である。

空気の輪が回転しながら飛んでいく、とある。
つまり、この空気の輪はドーナツ状のはず。

空気砲はダンボール箱の側面を叩くことで内部の空気を穴から放出する。
この穴の空気の出入りはバスレフダクトとおそらく同じだろうから、
中心部の空気の流れと周辺部の空気の流れは逆方向のはず。
だからこそ空気の輪(トーラス)ができる、と考えられる。

空気砲はダンボール箱の側面を手で叩く──、
これをきちんとしたエンクロージュアにして両側面にスピーカーユニットをとりつける。
スピーカーユニットが手の代りになる。
スピーカーユニットの後部はなにかでふさぐ必要があるだろう。

はたしてサブウーファーとして、空気砲の原理がうまく動作するのかは試してみないことにはわからない。
でも、もしうまくいけば、おもしろい結果が得られそうな予感もある。

Date: 8月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その6)

どうしても私の中には、
バッフル・イコール・スピーカーユニットを取り付ける面という意識が強くて、
だからバッフル・イコール・平面ということになってしまいがちである。

エンクロージュア型のスピーカーシステムにおいても、
バッフルということになるとスピーカーユニットが取り付けられるのがフロントバッフル、
その対向面がリアバッフルであり、
フロントバッフルで軽く曲面を描いているものがあって、それは平面の一種だとしてとらえてしまう。

そういう感覚のもとでは、ホーンバッフルという言葉は、
ずっと以前から使われているのは知っていたけれど、ずっと違和感を感じていたし、
ホーンバッフルという言葉自体、古い表現だとも思っていた。

けれど平面バッフルに放射状に4本の切れ込みをいれて、
スピーカーユニット前面に向けて傾けると、それはホーンになる。
そう考えると、ホーンバッフルという言葉に、一転納得してしまう。

そういえば古いスピーカーの教科書的な本には、
エンクロージュアについて書かれた頁に、まず平面バッフルがあり、
そのままでは大型のままなので、少しでも小型するためにバッフルを後方に折り曲げて後面開放型とする、
さらに後面開放型を完全に閉じてしまうことで密閉型となる……、
そういった解説がなされていたのが、いくつかあった。

ホーンバッフルとは後面開放型を反転させて、すこし形状を変えたもの、という見方ができるということに、
オーディオをやり始めたころは、どうしても気がつかなかった。

とはいってもホーンバッフルと後面開放型は同じではないし、
当然ホーンバッフルそのものを前方ではなく後方にもってくると、どうなるか。
それはバックロードホーンということになる。

ホーンバッフルがユニットの前方にあれば、ユニットは当然奥に位置し、
ホーンバッフルがユニット後方にあれば、ユニットは前面に突き出した格好になる。
どちらもこのままでは設置場所をとりすぎる。

平面バッフルよりも縦横は小さくなっても奥行きは長くなってしまう。
ならば後方ホーンバッフルを折り曲げてしまえば、
これはもう従来からあるCWバックロードホーンへとなっていくわけだ。

「バックロード・ホーンは優れたバッフルだ。」
──岩崎先生の、この言葉を思い出す。

Date: 8月 9th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その5)

平面バッフルから立体バッフルへ──、
そんなことをときおり考えていた。

平面バッフルの良さは、聴いた人でないとなかなかわかってくれないのかもしれない。
大きさの割に低音域はそれほど低いところまで出るわけではないし、
どうしてもある程度の面積のバッフルを必要とし、
このバッフルの大きさが、音場感情報の再現には不向きとされている。

平面バッフルはもっとも簡単な構造であるから、
板を買ってきてユニットの取りつけ穴を開け、脚をつければ、そこに難しい木工技術は要求されない。
その気になれば、誰でも実験・試聴することはできるものにもかかわらず、
意外にも平面バッフルの音は聴いたことがないという人が少なくない。

スピーカーの自作経験のある人でも平面バッフルは試していない、という人がいる。
これは、やはり低音を出すにはかなりの大きさが必要となることがいちばんのネックなのか。

いまの時代、10cm口径のウーファーでもかなりの大振幅に耐えることができ、
アンプの出力も家庭で使うことに関しては上限はない、といえるようになってくると、
いわゆる小型高密度型のスピーカーシステムのほうが、
平面バッフルはより低いところまで再生可能になっているだから、
好き好んでより大型の平面バッフルを選択する人が少ないのも理解できることではある。

ではあるものの、平面バッフルに良質のフルレンジユニットを取りつけた音は、
これから先、時代がどう変っていこうとも色褪せない魅力が、確実にある。

だから、平面バッフル、立体バッフルということを、いまも考え続けているわけだが、
そういえば、と思い出したことがある。
バッフルがつく言葉に、ホーンバッフルがある、ということに。

Date: 8月 8th, 2012
Cate: 「空間」

この空間から……(その4)

好きな作曲家、演奏家の伝記、関連書籍を繙くのは楽しい。
グレン・グールドに関する本は、以前はかなり読んできた。
最近では、あまりにも数が多く出過ぎているのも理由のひとつなのだが、
以前のように、グールドに関する本は全て読もう、という気はずいぶん薄れてしまった。

それでもこの手の本を読むのは、おもしろいし楽しい。
それに読むことによって、好きな作曲家、演奏家に関する知識も増していく。

好きな演奏家のレコードを聴くのとは、また違うおもしろさ、たのしさが、ここにはある。

誰でもいい、好きな演奏家が見つかったら、
音楽好きとしては一枚でも多く、その演奏家のレコード(演奏)を聴きたいと思うし、
その演奏家のことを知りたい、とも思う。

耳と目によって情報を得ていくことによって、
それまで聴き手側の中にあった空洞が少しずつ埋まっていくのではないだろうか。

より理解を深めようと、さらに聴き込み、読むことで、その空洞は埋まっていく。
やがて空洞は空洞でなくなってしまうかもしれない。
なくならないまでも空洞の大きさが、最初の頃よりもずっと小さくなってしまっては共鳴は起きにくくなる。

より共鳴したいがために理解を深めていく行為が、時には共鳴を抑え込んでしまうことにもつながりかねない。

だからといってあまり聴くな、あまり読むな、ではない。
空洞を空間にするためには、空洞を空洞のまま放っておいても、それは空洞でしかない。
いつまでたっても空間とはならないはず。

空間はみずからつくっていくものだからだ。