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Date: 3月 23rd, 2023
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(リーダーとマネージャー、それに組織・その9)

その7)で触れているChatGPT。
(その7)の時点で、見出しくらいはChatGPTにまかせられるのではないのか──、
そんなことも考えていた。

二日ほど前だったか、ソーシャルメディアを眺めていたら、
ChatGPTに、日経、文春、東スポ風に見出しをつけさせてみた、という投稿があった。

それぞれに日経風、文春風、東スポ風である。
何も破綻していない。

やはり見出しをつけることは、簡単すぎることになっているのだろう。
見出しのつけ方をアレンジできるくらいなのだから。

オーディオ雑誌の見出しも、いますぐChatGPTにまかせてもいいぐらいだろう。
ChatGPTの使い方によって、いくつもの見出しを作ってくれるから、
編集者の仕事は、その中から選ぶだけ、ということになる。

ChatGPTは、まさしく日進月歩といっていい。
いまは、こんなことを書いているくらいだけど、
半年後には編集作業のいくつかはChatGPTにまかせたほうがクォリティが高くなるくらいには、
なっていてもおかしくない。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: atmosphere design, wearable audio

atmosphere design(その11)

オーディオの究極のかたち、
もしくはオーディオの行き着くところとして、
直接脳に信号を送るということが、昔から語られている。

いまもそうらしい。

けれど考えてみてほしい。
スピーカーからの音を聴くという行為は、
肌感覚もともなってのことである、と。

脳に直接音楽信号を送れば、
いろんなことに悩まされずにすむけれど、
それですべてが解決する、というよりも満足できるようになるのだろうか。

ヘッドフォン、イヤフォンでしか音楽を聴かない(聴いたことがない)人は、
肌感覚はむしろ煩わしいのかもしれない。
そういう人は、脳に音楽信号を送るのを、理想として捉えているのかもしれないが、
スピーカーで聴くことをながいこと続けてきて、
しかもそれに飽きない人もいて、そういう人はもしそういうことが可能になったとしても、
スピーカーからの音で音楽を聴いていることだろう。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その45)

スピーカーといえば通じるのだけれども、
あえてラッパと呼びたくなる性質のモノがある。

そういうスピーカーもあれば、トランスデューサーと呼びたくなるモノもある。

いい悪いではなく、本質的なところでの違いからくるものだ。
けれど、この違いは、聴く音楽に深く関わってこよう。

音楽のジャンルということではない。
演奏家のスタイルというか、そういうことに深く関係してくる。

ラッパと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家と、
トランスデューサーと呼びたくなるスピーカーを好んで聴く人がよく聴く演奏家、
同じことは、まずないだろう。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その11)

キリル・コンドラシンとコンセルトヘボウ管弦楽団による「シェエラザード」。
これも、瀬川先生が熊本のオーディオ店でかけられた一枚だ。

クラシックでデジタル録音が増えて始めたころで、
記憶違いでなければ、瀬川先生は、フィリップス初のデジタル録音だと話されていた。

けれどアナログ録音のようである。
瀬川先生の勘違いだったのか、
ほんとうにデジタル録音だったのか、同時にアナログ録音も行われていたのか。

瀬川先生は、とにかく音が美しいといわれていた。
ソロ・ヴァイオリンもふくめて、弦楽器の音について触れられていた。

コンドラシンの「シェエラザード」の少し前、
フィリップスの録音について、瀬川先生は高く評価されていた。

ステレオサウンド 56号で、こう書かれている。
     *
 けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
     *
そのことがコンドラシンの「シェエラザード」で、さらによくなっている──、
そんなことも話されながらかけられた一枚である。

リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」は、あまり聴かない。
ディスクもほとんど持っていない。
たまに聴く時は、コンドラシン指揮の「シェエラザード」である。

あの時聴いた音は、完全に美化されている。
美化されまくっている、といってもいいくらいである。

こうなってしまうと、もう現実の音は追いつけないのかもしれない。

Date: 3月 19th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その10)

チャック・マンジョーネの“Children of Sanchez”も、
“THE DIALOGUE”的なところで、
宿題としての一枚ではなく宿題的な一枚である。

“THE DIALOGUE”ほどではないけれど、
“Children of Sanchez”の音には、驚いた。

これもまた瀬川先生が4343がかけられた音を聴いての驚きである。
二年ほど前にも書いているように、マサカリ低音の凄さだった。

切れ味のよい低音という表現があるが、
その切れ味は、どんな刃物によるものなのか、それによってもずいぶんと印象は違ってくる。

かみそりのような切れ味もあれば、
包丁のような切れ味もある。

さらには日本刀、鉞(マサカリ)のような切れ味もある。
鉞を持ったことはないが、重量がしっかりとあることはわかる。

そういう刃物による切れ味は、カミソリによる切れ味とは違って当然である。
4343が現役だったころ、そういう低音で“Children of Sanchez”で鳴ってくれたし、
それだけでは“Children of Sanchez”のディスクは満足のゆく再生とは鳴らない。

“Children of Sanchez”と“THE DIALOGUE”、
この二枚は、どうしても4343での音と切り離すことができない。

それは、あの時代に、そういう音で聴いてきたからであって、
そんなことを体験してこなかった人にとっては、宿題としての一枚にはならないであろう。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その5)

虚構を継ぐ者は、
誰かに、それを託せる人でもあるわけだ。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: きく

聴けなかったからこそのたのしみ

ステレオサウンド 46号の特集は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」、
この試聴テストには、ドイツのK+HのOL10というモデルが登場している。

OL10の試聴記の最後に、瀬川先生はこう書かれている。
《私がもしいま急に録音をとるはめになったら、このOL10を、信頼のおけるモニターとして選ぶかもしれない。》

これを読んで、無性にOL10が聴きたくなった。
といっても、46号は1977年に出ている。
まだ熊本に住んでいるころで、
熊本のオーディオ店でK+Hのスピーカーを扱っているところはなかった。

1981年に東京に出て来たからでも、オーディオ店でK+Hを見かけたことはなかった。
1982年からステレオサウンドで働くようになっても、K+Hのスピーカーを聴く機会は訪れなかった。

もう聴く機会はない、となかばあきらめているけれど、
それでもいいじゃないか、とおもう気持も持っている。

聴けなかったからこそ、
その音の良さを想像する楽しみがあるからだ。

OL10は、瀬川先生が、録音の仕事をするようになったら──、と書かれている。
ここだけで、OL10の音を想像する楽しみは、一段と増したからだ。

こういうひとことが書ける人こそがオーディオ評論家(職能家)である。

Date: 3月 17th, 2023
Cate: ディスク/ブック

本を書く

アニー・ディラードの「本を書く」
昨日、ソーシャルメディアで知ったばかりの一冊だ。

ながらく絶版で古書もかなりの高値がついていたのが、ようやく復刊されたとのこと。
といっても一年前に出ている。

今日、最寄りの書店に行ったけれど、そこにはなかった。
明日にでも、大型書店で購入するつもりなのだが、

本を書く。
このことを改めて意識させられた。

こうやってブログを書いていると、文章を書くということであって、
本を書く、という意識はなかった。

ステレオサウンドにいたころも本をつくるという意識はあったけれど、
そこに載る文章を書いていても、本を書くということを意識していたかといえば、
ほぼなかった。

だから、いま「本を書く」ということを考える。

Date: 3月 14th, 2023
Cate: 映画

オットーという男

オットーという男(A Man Called Otto)」を昨日、観てきた。

回想シーンがときおり挿まれながら物語は進行する。
半ばほどでの回想シーン。

このシーンで流れてきたのが、ケイト・ブッシュの“THIS WOMAN’S WORK”だった。
不意打ちだった。

このシーンで、“THIS WOMAN’S WORK”を使うのか──、
そんなふうにも感じながらも、胸にずしんと響いてきた。

ケイト・ブッシュの“THIS WOMAN’S WORK”が使われていることを事前に知っていたならば、
そのシーンがきたところで、ここで使われるんだろうな、と予測できたことだろう。

でも知らなかった。
それゆえの不意打ちでもあった。

Date: 3月 14th, 2023
Cate: ディスク/ブック

ルドルフ・フィルクシュニーのこと

ルドルフ・フィルクシュニーというピアニストがいることは知ってはいた。
けれど聴いてはいなかった。

きいたのは、菅野先生が1983年に録音されたディスクが初めてだった。
レーベルは、オーディオ・ラボではなく、スガノ・ディスクだった。
もちろん買って聴いた。

菅野先生がフィルクシュニーについて書かれてたこと、
話されたことは読んでいるし、聞いているけれど、
それでもフィルクシュニーのディスクを聴いて、ピンときたかといえば、そうでもなかった。

なので、このディスクをきっかけにフィルクシュニーの他の録音を聴くということもやらなかった。
TIDALに、フィルクシュニーの録音はある。
それでも、他に聴きたいものが数え切れないほどあるため、
ついそちらを優先して聴いてきたため、TIDALでもフィルクシュニーは聴かずのままだった。

つい先日、エリカ・モリーニの十三枚組CDボックスが発売になった。
それにあわせてTIDALで聴けるエリカ・モリーニのアルバムの数も増えた。

フランクのヴァイオリン・ソナタがある。
フィルクシュニーといっしょに写っているジャケットだ。

新たに聴けるようになったモリーニのアルバムは他にもあるが、
フィルクシュニーの姿が目に留ったということ、
フランクのヴァイオリン・ソナタということで、まず、このアルバムから聴いた。

期待したのはモリーニのヴァイオリンだったのだが、
印象に残ったのはフィルクシュニーのピアノだった。

なんと雄弁な演奏なのだろう、と思いながら聴いてきた。
フランクのヴァイオリン・ソナタは好きな曲だから、これまでもいろんな演奏(録音)を聴いてきた。
どれが一番なのか、そういうことではなしに、ピアノがこれほど印象に残るのは、
モリーニとフィルクシュニーによる演奏だけだ。

いまごろになって、もっともっと早くに、この演奏を聴いていたら、
菅野先生とフィルクシュニーについてなにかを話せただろうに……、と後悔している。

Date: 3月 12th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その9)

“THE DIALOGUE”。
ならば自分のシステムで、
あの時の瀬川先生が鳴らされた4343での再現をめざせばいいことなのだが、
いちばんの難関は、やはり音量である。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayでは、かなりの音量でかけていた。
あれだけの音量で、いまのところで鳴らしたら、即苦情が来るはず。

ちまちました音量でかけたいとは、まったく思っていない。
このへんは人それぞれだから、そうい音量でも“THE DIALOGUE”を聴きたい、という人もいるし、
そうではない、もっともっとと求める人もいる。

以前触れているが、
オーディオショウで“THE DIALOGUE”をかけているところに出会したことが何度かある。
けれど、びっくりするほど小音量なのだ。

“THE DIALOGUE”にとっての小音量という意味なのだが、
こういう音量で“THE DIALOGUE”を聴くの? そう言いたくなるほどの小ささでしかなかった。

4343での“THE DIALOGUE”の音量も、はっきりと憶えている。
それに熊本のオーディオ店には、菅野先生も一度だけ来られた。
その時、4350で、菅野先生は“THE DIALOGUE”をかけられた。
その音量も憶えている。

小音量、もしくは音量をあげないことを知的なことだけ思っている人もいる。
けれど“THE DIALOGUE”を、小音量でかけることは、ほんとうに知的なことなのだろうか。

そういう問いかけも、“THE DIALOGUE”にはある。

Date: 3月 12th, 2023
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その17)

耳に近い音は、自分自身を進化させてくれるかもしれないが、
己を純化させるのは心に近い音のはずだ。

Date: 3月 10th, 2023
Cate: 会うこと・話すこと

店で買うと云うこと(その2)

買物は、ほんとうに便利で手軽な時代になった。
iPhoneを操作して、翌日にはたいていモノが届く。

電子部品に関しても同じといっていい。
昔は、秋葉原に行っていた。
いまから四十年ほど前のことである。

そのころといまとでは秋葉原は大きく変ってしまっている。
電子部品を扱っている店は少なくなっている。
それに、こちらもインターネットの通信販売のほうが便利で、
取扱い品目も多かったりする。

iPhoneで検索する。
けれど、それではひっかかってこないモノがある。

今日がそうだった。
かなり前に製造中止になっていて、
しかも製造した会社はすでにない──、そんな部品がある。

数年前に、偶然売れ残っているのを見つけて、即購入した。
けれどそれ以降は、見つからず。

インターネットの検索では見つからない。
なのに、今日、時間のあいまに、しかも秋葉原から近くにいたので、
ふらっと寄ってみた。

特に何かを探して、という目的はなかった。
ただ秋葉原を歩きたかっただけだったのだが、
ある店に、探していた部品が二つ吊り下げてあった。

前回来た時にはなかったのに、なぜか今回はある。
お店の人に在庫を訊いた。
倉庫を探してみます、ということで少し待った。

結果、その部品を四つ手に入れることができた。
この店は通信販売をやっている。
インターネットで在庫をチェックできるけれど、この部品に関しては出ていない。

そこまで行かなければ気づかずに機会を逃してしまうところだった。
探しモノは、インターネットだけではまだまだである。

Date: 3月 10th, 2023
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その8)

これまで書いてきた児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
菅野先生からの宿題としての一枚である。

では瀬川先生からの宿題としての一枚は、なんだろうか。
瀬川先生とは、熊本のオーディオ店でだけの接点しかない。

瀬川先生の音を聴いているわけではない。
その意味では、菅野先生からの宿題と同じ意味では語れないのだけれど、
熊本のオーディオ店で、瀬川先生が鳴らされた一枚ということでは、もちろんある。

菅野先生録音の“THE DIALOGUE”も、そうである。
熊本のオーディオ店で、瀬川先生が鳴らされたのを聴いたのが最初だった。

すごい音だ、と驚いたし、そのころ高校生だったから、
すぐに“THE DIALOGUE”を買えたわけではなかった。
小遣いがたまり、やっと買えた。

けれど瀬川先生が鳴らされたときはJBLの4343だった。
そのころ鳴らしていたのは国産の3ウェイのブックシェルフ型だから、
4343のような音では、まったく鳴ってくれない。

それは鳴らす前からわかっていたことでもあるが、
それでもなんとか、あの時の音を少しでも再現したい、というおもいはつねにあった。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayで“THE DIALOGUE”を毎回かけていたのは、
こういうことも関係して、である。

けれど4343と喫茶茶会記のアルテックとでは、低音の鳴り方がかなり違う。
どちらがいい低音かということではなく、
あの時4343で聴いた“THE DIALOGUE”のドラムスの音が、
つねに耳の底で鳴っているのだから、あと少し、あと少し──、というおもいがつねに残っていた。

Date: 3月 10th, 2023
Cate: High Resolution, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(MQAのこと・その9)

ステレオサウンド 226号をすでに読んだ友人によると、
今号もステレオサウンドはMQAを無視なのだそうだ。

特集のハイレゾオーディオ2023に登場する機種のなかにはMQA対応モデルがある。
にも関わらずMQAを無視するということは、
ステレオサウンドの試聴テストの方針として、
そのモデルの機能をチェックするということは優先度としては低い、ということになる。

MQA対応モデルを取り上げておきながら、MQAの音について何も触れないということは、
そういうことである。

そこまでしてMQAを無視するというのは、
現編集長の染谷 一氏の意向なのか、
それともステレオサウンドの執筆者の何人かが、そうなのか。
もしくは両者なのか、そのへんのところはわからないが、
MQAは無視するということだけははっきりしたといえる。

それはそれでもいいのだが、ならば、なぜ、その理由を述べないのだろうか。
何も触れずに無視するだけ。
悪手でしかないような気がする。