Author Archive

Date: 3月 4th, 2014
Cate: 未分類

夢のなかで……

20代のころからずっと見続けている夢がある。年に数回見ている。

夢の中である場所に行こうとしている。
そこへはいくつかの道がある。けれどどの道を通っても、近くまでは行くことはできても、
その場所(目的地)へは一度もたどり着けなかった。
夢の中での話だが、その場所は、坂の下にある実際にある場所である。

今月の二日未明にも、そこへ行く夢を見ていた。
そこへ降りる階段、
それがなぜか鉄パイプの梯子であり、ひどく華奢で手摺をしっかりと握っても降りるのが困難だった。

なんという階段なんだろう……、と実感したことだけが記憶に残っている。
降りている途中で、なぜか違う場面に変ってしまった。

また今回もたどり着けなかった。
いつものことだから、くやしいとか残念という気持はない。

いつものことだと目が覚めて思っていた。

三日未明にも、そこへ行こうとしている夢をみた。
20代のころから見ている夢だから、もう30年近く見ているけれど、連続してみるのは初めてのことだった。

どの道を通ったのかは、不思議なことに憶えていない。
けれど、いままでそこへたどり着けなかったのがウソのようにすんなり行けた。
ただ着いただけでなく、予期せぬことも夢の中であった。

私が夢の中でずっと行こうとしていた場所とは、14歳のころと関係している。
きわめてプライヴェートなことだから、これ以上は書かないけれど、
ご想像におまかせするし、そういう場所である。

こんな夢をみて、その日なにをおもっていたのかというと、
結局のところ、私という人間は、13、14のころにであったもの・ことから離れずに生きていた、ということだった。

13の秋に「五味オーディオ教室」を読んだ。
14のときに……(想像におまかせします)。

起きているときはオーディオのことばかり、
夢のなかでは、その場所のこと。

13の秋から一年のあいだのことを忘れたくないのだろう、おそらく……。
オーディオをやっているかぎり、その場所のことも忘れない気がする。

Date: 3月 3rd, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その7)

各社からメーターユニットが出ていた時代、
ステレオサウンドから出ていたHI-FI STEREO GUIDEの1977年度版を買った。

このHI-FI STEREO GUIDEのアンプ関係のページに、OTHERSというのがあり、
そこにメーターユニットが掲載されていたのを見て、
中学生の私は、このメーターユニットが欲しいなぁ、
このメーターユニットを買ったら、システムのどんなふうに組み込もうかな、などと夢想していた。

メーターがついているアンプが必ずしも欲しいと思えるアンプではなかったりするから、
メーターユニットが別に欲しくなったのだろう。

これは私ひとりの、たったひとつの例ではあるけれど、
確かにメーターが、システムのどこかにあるということは、マニアックな心理をくすぐっていた。

とはいえ中学生のマニアックな心理など、マニアックなことに憧れている心理でしかなかったのかもしれない。
それでもメーターがあるのはいいかも……、そう思っていたことは確かだった。

メーターユニットといっても、
メーターの種類で区別すればふたつにわけられる。

いわゆる昔ながらの針の振れるタイプのメーター、
それとLEDその他の発光体を採用した点灯式のメーターである。

Date: 3月 3rd, 2014
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その5)

phonogramの転換としてのgramophoneであり、
gramophoneは日本語で蓄音器、蓄音機、チクオンキだったりする。

蓄音器も、音を表現する言葉として使われることがある。
蓄音器的な音、といったりする。

この蓄音器的な音を、読み手はどう解釈しているのか。
私は、この「蓄音器的な音」は、誰が使うかにもよるが、
私が信頼している人の文章において、「蓄音器的」は、いわゆる褒め言葉である。

けれど、その同じ人の文章を読んでも、「蓄音器的」とあることで、
そう書かれたオーディオ機器は、むしろ貶されている、と受けとめている人がいることを知った。

そんなふうに受けとめてしまった人が、まだ10代であり、
ほんとうに優れた蓄音器の音を聴いたことがないのであれば、
「蓄音器的」という表現を誤解してしまうのもうなずけないことはない。

それまではそんなふうに思っていた。
でも、現実には逆なのかもしれない。

私より上の世代のほうが、「蓄音器的」という表現をそう受けとめる人が多いのかもしれない。

私は何度も書いているように「五味オーディオ教室」からオーディオを始めた。
そこにも「チクオンキ的」が出てくる。
     *
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
     *
ここでの「蓄音機の音」「チクオンキ的」の蓄音器とは、
電気蓄音器ことではなく、その前のアクースティック蓄音器のことであるのはあらためていうまでもないことだ。

Date: 3月 2nd, 2014
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その16)

オーディオの世界における「音色」には、大きくふたつのことを指しているといえる。

ひとつは楽器の音色のことであり、もうひとつはオーディオ機器固有の音色のことである。

音色という単語ひとつで語られるとき、どちらの音色のことを指しているのかがはっきりしないことがある。
このふたつのことを一緒くたにしている人もいる。

そうなると話はややこしくなり噛み合わなくなる。

オーディオ機器固有の音色は、これから先もとうぶんの間はなくならないだろう。
というよりもおそらく永遠になくならないであろう。

オーディオを介して音楽を聴くという行為には、
つねにこのオーディオ機器固有の音色とつき合うということでもある。

このオーディオ機器固有の音色は、必ずしも悪とはいえないところがあり、魅力ともなっている。
だからわれわれはそんな音色の美しさに一喜一憂してきている。

話をややこしくしないためにオーディオ機器固有の音色と書いているが、
それだけではなくレコード固有の音色も存在する。

Date: 3月 2nd, 2014
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その28)

自由とは──、
そのことについて考えていると、別項「何を欲しているのか」で書いたホロヴィッツの言葉とつながってくる。

何を欲しているのか(その16)」に書いている。

「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」

マルチアンプをやるにあたって、その聴き手(使い手)に求められることも、これであるはずだ。

Date: 3月 1st, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その2)

ふたりの絵描きがいる。
絵描きは、いわばオーディオのことでもある。

造花を造花として忠実に描くオーディオがある。
造花を造花としてではなく、ほんものの花のように描くオーディオがある。

一般的にハイ・フィデリティと評価されるのは、
造花を造花のまま描くオーディオである。
造花をほんものの花として描いては、それはオーディオによる色づけ、もしくは歪曲ともいえるだろう。

ここで考えなければならないのは、録音された音楽というのは、造花にあたるかどうかである。

Date: 3月 1st, 2014
Cate: 背景論

オーディオ背景論(その2)

たとえば映画やテレビドラマの撮影では、
その場面にふさわしいロケーションを探して、そこに出かけて撮影することもあるし、
スタジオ内にセットを組んでの撮影もある。

どこかに出かけての撮影であれば、そのロケーションにあるものすべてが基本的には背景となる。
もちろんカメラのアングルを変えてみたり、
何かで隠したりして写り込まないよう工夫することも少ないないだろうが、
演じている役者の後に見える背景はそのまま、その場面の背景となっていく。

一方、スタジオ内のセットでの撮影では、たとえば部屋のセットの場合、
どういう広さの部屋で、どういうインテリアで、どういう人が住んでいるような部屋なのか。
そのためのスタッフがいて、細部・小物にいたるまでつくりあげていく。

マンガにおける背景は、このスタジオ内のセットに近いところがある。

セットの細部にどこまでこだわるのか。
適当なところですませてしまうのか。

マンガの背景も徹底的にこだわって描いていくのか、
それともこんな感じでいいや的な描き方なのか。

マンガにおいては、そのマンガを描いている漫画家が監督でもあり脚本家でもあり美術スタッフでもある。
部屋の中に、どういう家具や小物を描くのか、
窓から見える風景はどう処理するのか。

場面は部屋の中だけではない。
外に出かけての場面もあるし、現実とはまったく異る世界を描くマンガでは、
そういう背景を描かなければならない。

Date: 3月 1st, 2014
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その15)

1987年か88年ごろだったと記憶している。
黒田先生のリスニングルームにうかがったときに、ケーブルの話になった。

こんなことを黒田先生はいわれた。

「こういうケーブル(金子式ケーブルのこと)にステレオサウンドが否定的なのはわかっている。
 でも、ぼくはこのケーブルを使うのは、音のためだ」

ずいぶん昔のことだから細かなことまで正確に記憶しているわけではないが、
概ねこんなことをいわれた。

このころの黒田先生のスピーカーはアポジーにはなっていなかった。
アクースタットのModel 6だったこととも、金子式ケーブルを使われていたこととは関係しているはずだ。

黒田先生が金子式ケーブルをいつごろから使われなくなったのかは、
そのあたりで私はステレオサウンドを離れてしまったのでわからない。

おそらくスピーカーをアクースタットからアポジーのDivaに換えられてからではないだろうか。

黒田先生の音の評価を読んでいて感じるのは、音楽の聴き手としての強さである。
この強さはオーディオマニアからすれば、憧れる強さでもある。
少なくとも私というオーディオマニアにとっては、そうであったし、
そういう強い聴き手になろう、ならなければと思ってもいた。

Date: 2月 28th, 2014
Cate: JC2, Mark Levinson

Mark Levinson JC-2(続×十・モジュール構成について)

手に入れなかったという、いわば不完全燃焼からの未練もないわけではない。
でも、それよりもずっと強いのは、私にとっての、あの時代のマークレビンソンのアンプは、
すべて瀬川先生と、その文章と深く結びついているということである。

ステレオサウンド 41号の瀬川先生のLNP2、JC2に関する文章。
     *
最近の可変抵抗器に新型が採用されたLNP2やJC2では、従来の製品よりもいっそう歪みが減少し解像力が向上し、音がよりニュートラルになっていることが明らかに聴きとれ、パーツ一個といえども音質に大きな影響を及ぼすことがわかる。レベルコントロールのツマミの向う側に何もついてないかのようにきわめて軽く廻ることで見分けがつく。
     *
ツマミの向う側に何もついてないかのようにきわめて軽く廻る──、
このことを確認できたのは三、四年後だった。

熊本に新しくできたオーディオ店にLNP2が置いてあった。
「触らないでください」とは、どこにも書かれていなかった。
それでもこっそりとLNP2のレベルコントロールのツマミを廻してみた。

確かに瀬川先生の書かれていたとおりに、何もついてないかのように軽く廻る。
たったそれだけのことでどきどきしていた時期があった。
まだ音は聴いたことがなかった。

こんなふうにして、
瀬川先生がマークレビンソンのアンプについて書かれたことを確認していくことが始まった。

ようするに私にとって、この時代のマークレビンソンのアンプに触れ、その音を聴くことは、
記憶を喚起すること以上に、記憶そのものといえるところがある。

いわば、この時代のマークレビンソンのアンプは外部記憶なのだろう。
ゆえに未練が断ち切れない、断ち切れるはずがない。

Date: 2月 28th, 2014
Cate: JC2, Mark Levinson

Mark Levinson JC-2(続×九・モジュール構成について)

なぜ、初期のマークレビンソンのアンプへの未練を断ち切れないのか。

私にとって初期のマークレビンソンのアンプとは、
コントロールアンプでいえばJC2(ML1)、LNP2、ML6のことであり、
パワーアンプはML2のことである。

ML2は故障してもまだ修理は可能である。
ただ出力段のトランジスターは他のトランジスターに置き換えられるようだが。

だがコントロールアンプとなると、アンプそのものはモジュール仕様で、
ピッチでがっちりと固められている。
そのため修理とはモジュールを交換することであり、
もうマークレビンソンではLNP2、ML1用のモジュールの製造は行っていない。

マーク・レヴィンソンは、ずっと以前モジュール構成にした理由を、
故障した際に各国の輸入ディーラーや販売店などでいいかげんな修理をされたくないから、と答えている。
モジュールにしておけば、モジュールそのものを交換すれば、ほとんどの故障は修理できる。
モジュールの交換にはハンダ付けの技術も必要としない。

モジュールが製造され続けていればレヴィンソンのいうとおりなのだが、
実際にはモジュールにしたばかりに、ほぼ修理不能状態に陥っている。

いまマークレビンソンの初期のコントロールアンプを買うことには、このリスクがつきまとう。
そういうアンプに対して、いまだ未練が断ち切れないのは、それが記憶に関係しているからである。

Date: 2月 27th, 2014
Cate: Jazz Spirit

Jazz Spirit Audio(パコ・デ・ルシアのこと)

ギターは小さなオーケストラ、ということは昔から知ってはいた。
知ってはいたけれど実感したことはなかったから、そういうふうにいうんだなぁ、ぐらいの気持で受けとめていた。

“Friday Night in San Francisco”が、いくつかの意味で衝撃だったのだが、
そのひとつは、ギターが小さなオーケストラであることを実感できたことだ。

小さなオーケストラは凝縮されたオーケストラでもあった。

パコ・デ・ルシアの名前を知ったのも、そのときだった。

Date: 2月 27th, 2014
Cate: JC2, Mark Levinson

Mark Levinson JC-2(続×八・モジュール構成について)

23歳だったから1986年の夏だった。
ステレオサウンドに載っていたある販売店の広告に、マークレビンソンのML6の文字があった。

本ができあがって書店に並ぶ前に、編集部には見本誌と呼ばれるものが到着する。
その見本誌で編集部のわれわれも広告を見る。

記事は自分たちでつくっているから、広告の方が気になるといえばそうだ。
特に何かをさがしているときは、販売店の広告を注意してみる。

ML6がある。
すぐさま、その販売店に電話した。
まだ売れていなかった。

欲しかった。
数日後の休みの日に、その販売店まで出かけた。
目の前にML6がある。

1986年にはML6はすでに製造中止になっていた。
シルバーパネルからブラックパネルになったML6Aが現行製品だった。

ML6がどれだけ売れていたのかはわからない。
あまり売れなかったのかもしれない。
少なくとも1986年当時には、中古でも出ることがほとんどなかった。

だから、やっと現れてくれた、とまで思った。
ローンを組んだ。このころは36回払いまでしかなかった、と記憶している。

いまのようにクレジットの審査がすぐに出てくるわけではなかった。
数日後、その販売店から連絡があった。
審査は通らなかった。

ML6は手に入れられなかった。未練だけが残った。
その未練が、まだ私の中にはあるようだ。

Date: 2月 27th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その6)

メーターをつけたアンプは売れる、
付けないアンプの売行きはあまりよくない──、
そんなことをずっと昔に耳にしたことがあるし、
そのころのオーディオ雑誌に誰かが書かれていたのを読んだこともある。

ほんとうにそうだったのだろうか。
当時はまだ中学生、高校生だったら確かめる術はなかった。
けれどこのころはいくつかのメーカーからメーターを独立させたモノを出していた。

オーレックスのPM55(50000円)、ラックスの5E24(80000円)、ダイヤトーンのDA-M10(30000円)、
オンキョーのIntegra U30(68000円)、ティアックのAP500(70000円)、
テクニクスのSH9020M(50000円)、ビクターのDS7070(145000円)、
ダイレックスのSE600R(168000円)などがあった。

SE600Rは入出力セレクター機能とメーターユニットを一体化したもの、
DS7070はプラズマディスプレイ搭載で10万円をこえる価格になっている。

いちばん安いDA-M10でも30000円である。
1977年ごろの、この価格だからそれほど安いモノとはいえない。
これだけの数(見落しがあるかもしれない)のメーターユニットと呼ばれるモノが出ていた。

ということはそれだけ売れていたということなのかもしれない。
とすれば、やはりメーターの有無によって、アンプの売行きが左右されていたのかもしれない。

Date: 2月 26th, 2014
Cate: ロマン
1 msg

オーディオのロマン(その5)

瀬川先生が、以前こんなことを話されていたのを思い出している。

女性の出逢いについて、だった。
その人にとって、ある女性が運命の人であるならば、
その女性がたとえぼさぼさ頭で化粧がうまくいってなかったり、
元気がなかったりしていたとしても、逢った瞬間にインスピレーションで、
運命の人であると感じるものだ。
スピーカー選びも同じだ、と。

そんなことをいわれた。

五味先生にとってのタンノイ・オートグラフ、
原田勲氏にとってのヴァイタヴォックス・CN191、
瀬川先生にとってのマランツ・Model 7とJBL・375+537-500、グッドマンのAXIOM80、
これらこそが、出逢いであるはずだ。

オーディオ雑誌を読んで評判のいいオーディオ機器をいくつか借りて、
自宅試聴して良かったモノを買う──、
これを出逢いと呼んでいいのか、出合いでもないのかもしれない。

われわれは、つい自分が選択しているものと思い込んでいる。
一方的な選択なんてものは、この世に存在しないのではないか。
結局、選び選ばれている、としか思えない。

だからこそ出逢いでありたいと願う。

Date: 2月 26th, 2014
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その4)

オーディオ機器はどんなものでも安くはない。
それどころがかなり高価なモノのほうが多いともいえる。

金の成る木は持っていないから、選択の失敗は避けたい。
そのためには充分すぎるほど調べ、試聴する。
それも販売店の試聴室だけの試聴ではなく、できるだけ自宅試聴を行いたい、と思う人はいる。

インターネットを見ていると、自宅試聴を行った、とか、
自宅試聴ができるような客になれ、とか、そういう書き込みが目につく。

自宅試聴こそが、選択の最終手段でもあるかのように書かれている。

自宅である程度の時間をかけて、じっくりと気になる機種をいくつか借り出して比較試聴ができれば、
選択で失敗することはないのかもしれない。

失敗はしないだろう。
でも失敗しない選択が、最良の選択であるのかは、また別のことである。

いまは情報と呼ばれているものがあふれすぎている。
そんな情報と呼ばれているものは、インターネットで検索すればかなりの量に接することができる。

自宅試聴して、インターネットでも人の評価を調べまくる。
そうやって買ったオーディオ機器は、人に自慢できるモノではあっても、
その人を幸福に導いてくれるモノとは限らない。