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Date: 3月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その2)

1970年代後半は、50万円をこえていれば、そのオーディオ機器は高級機であり、
100万円をこえているモノは超高級機という認識だった。
これはこの時代のオーディオを体験してきた人ならば、同じはずだ。

1980年代にはいり、200万円をこえるモノ、300万円をこえるモノが登場してきた。
トーレンスのリファレンスが350万円をこえていた。
スレッショルドのSTASIS1も350万円をこえていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号のリファレンスの記事の最後に書かれている。
     *
であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
時代が30年以上前のことではあるけれど、オーディオ機器ひとつの価格が350万円というと、
とんでもない価格であり、「おそろしいことになった」と私も感じながらも、
それでもいつの日か、リファレンスを買える日が来るのではないか、とも思えていた。

リファレンスは買えなかったけれど、927Dst(すでに製造中止になっていたので中古だったが)は買える日が来た。

このころは350万円がオーディオ機器の最高価格といえたし、
1980年代も350万円あたりで落ち着いていた。

Date: 3月 22nd, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その7)

たしかに松田聖子の声の質感はガラードとオルトフォンによる音のほうが、滑らかだった。
それでも気になるのは、松田聖子の歌手としての力量をどちらのプレーヤーがより正確に伝えてくれるか、
正確に再現してくれるか、という視点に立てば、私には930stのほうが、より正確に感じられる。

ガラードでの声の滑らかさはよかった。
それでもガラードでの松田聖子は、EMTでの松田聖子ほど歌手として堂々としているようには感じられなかった。

このへんは松田聖子に対する思い入れによっても評価は分れるかもしれない。
松田聖子の声・歌に何を求めたいのか。

松田聖子の熱心な聴き手であれば、親密感を求めるのかもしれない。
930stでの松田聖子は、人によっては立派すぎると感じるかもしれないところもある。
その意味では、親密感は稀薄ともいえよう。

それでもひとりのプロの歌手として松田聖子を聴きたいのであれば、やはり930stを私はとる。
私は松田聖子のレコードをかけたときに、そこに親密感を求めてはいないからである。

ガラードとオルトフォンでの松田聖子は声の質感だけでなく、
930stほど、各演奏者の距離感が適切には表現されていない。
そのため、こじんまりとしたスタジオで録音している雰囲気が漂う。

これもまた親密感ということではうまく働いてくれるのかもしれない。

Date: 3月 22nd, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その5)

ダイヤトーンのDS1000というスピーカーシステムについて、一言で表現すれば、
いまでは「レスポンスに優れた」という。

帯域バランスがどうなのか、については設置やチューニングでかなり変化してくる。
だからDS1000はこういう帯域バランスといったようなことは言いにくい面をもつ。

耳につく音域がある、という人もいるのは知っている。
けれど、それはほとんどの場合、DS1000を含め、アンプやプレーヤーの設置、調整の不備によるものである。

以前も別項で書いたように、こういった不備に対してDS1000は容赦ないところをもつ。
他のスピーカーシステムだったら、そこまではっきりとは音として提示してこないようなところまで、
聴き手に音で提示してくる。

その不備がどこにあるのかを見極め、少しずつ調整をつめていく作業による音の変化も、
DS1000はきちんと反応し、音として出してくれた。

これほどレスポンスのいいスピーカーシステムは、当時他にはなかった。
つまりDS1000は、打てば響く、といえる。

この面白さは、オーディオの使いこなしのあれこれに目覚めたものにとっては、たまらないものだ。
私は井上先生のDS1000の試聴取材に何度か立会えたことで、その面白さを直に味わえ、その過程に昂奮もした。

にも関わらず、DS1000を欲しい、と思ったことはない。
DS1000が現行製品だったときに、その理由について深く考えることはなかった。

いまになって、理由を考えている。
結局のところ、DS1000はレスポンスに優れたスピーカーシステムではあった。
けれど、音楽を聴くスピーカーシステムとしてのパフォーマンスに優れたスピーカーシステムであったのか、
というと、ここには疑問を感じてしまう。

Date: 3月 21st, 2014
Cate: 岩崎千明

3月24日

昨年の3月24日は、いい天候に恵まれていたし、日曜日だった。
桜も咲いていた。

一昨年の3月24日はでかけるときは曇り空の土曜日だった。
電車を降りたら雨が降り出していた。

今年の3月24日は月曜日だから、たぶん行けないであろうから、
21日から23日のどこかで行こうかな、と思っていたところに、
「父の墓参りに行きませんか」というメッセージがあった。岩崎先生の娘さんの綾さんからだった。

昨年も一昨年もひとりで行っていた。
今年はそうではなく、綾さんの他に、元サンスイの西川さん、元ビクターの西松さん、元パイオニアの片桐さん、
レコパルの編集をやられていた五十嵐さん、ステレオサウンドの筆者の黛さんといっしょに、
岩崎先生の墓参に行ってきた。

ひとりで行こうが数人で行こうが、墓参りそのものが大きく違ってくるわけではない。
目をとじ手を合せてきた。

それでも岩崎先生と仕事をされてきた人たちと一緒に行くのは、やはり違うところがある。

37年前の3月24日といえば、私はまだ中学二年だった。
そのころ、今日いっしょに墓参に行った方たちは、すでにオーディオの世界で仕事をされていた。

その方たちの話を聞くことができる。
これが実に楽しい。

こう書くと、懐古趣味だとかいつまでも過去を引きずっているとかいう人がいるのはわかっている。
だが、過去のことを過去の視点で考え・捉えるのこそが懐古趣味ではないだろうか。

実のところ、懐古趣味と批判する人たちこそが、過去のことを過去の視点で考え・捉えている。
私が楽しい、というのは、いまの視点で考え・捉えてのことである。

私も50をすぎているけど、今日あつまった中ではまだ若造である。
とはいえ、やはり50を過ぎているわけだから、私の下にはもっと若い世代がいる。
でも、彼らの誰かひとりでもいいから、この場にいるわけではない。

もったいないことだとも感じるし、ここで途切れるのか、とも思う。

Date: 3月 20th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その3)

ステレオサウンド 3号でのJBLのSG520とSE400Sの瀬川先生の試聴記には、こう書いてある。
     *
マッキントッシュにJBLの透明な分解能が加われば、あるいはJBLにマッキントッシュの豊潤さがあれば申し分ないアンプになる。JBLのすばらしい低域特性は、スピーカーの低域が1オクターブも伸びたような錯覚を起させる。JBLとマッキントッシュの両方の良さを兼ね備えたアンプを、私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする。
     *
この試聴記はステレオサウンドで働きはじめたころに読んでいた、はずだった。
読んだ記憶はたしかにある。
けれど、その時には気づかなかったことを、いま気づいている。

《JBLとマッキントッシュの両方の良さを兼ね備えたアンプを、私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする。》
とある。

当時、この箇所は読んでいた。
瀬川先生は、このころまではアンプの自作をまだやられるつもりだったのか……、
そのくらいのことしか読みとれなかった。

いまは、この《私はぜひ自分の手で作ってみたい気がする》が、
一気に「いま、いい音のアンプがほしい」にまで飛び、そこと結びつく。

そしておもったのが、私は瀬川冬樹という変奏曲を読んできたのだ、ということだった。
さらにおもったのが、私にとって変奏曲といえば、まず浮ぶのはグールドのゴールドベルグ変奏曲であり、
ゴールドベルグ変奏曲はアリアではじまり、30の変奏曲をはさみ、最後もまたアリアである。

瀬川先生の残されたものを読んでいくと、
アリアではじまりアリアで終るながい変奏曲のようにみえてくる。

こじつけといわれようが、いまの私には、そうみえている。

Date: 3月 20th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その4)

ダイヤトーンのDS1000の実力を最初から知ること(聴くこと)ができたのは、
ステレオサウンドで働いていたおかげであり、井上先生が鳴らされるのを最初に聴くことができたからである。

もし自分の手でDS1000を鳴らしていたら、
井上先生が鳴らされたDS1000の音を聴いてなければ、
いまここでDS1000をとりあげることはなかったはずだ。

ヤマハのNS1000M。
このスピーカーシステムが登場したときは最新鋭機であった。
そのNS1000MもDS1000が登場するころには、ロングセラーモデルになっており、
最新鋭機とは呼べなくなっていた。

DS1000もまたダイヤトーンが送り出した最新鋭機ともいえよう。
カタログや技術資料をみれば、スピーカーユニットに投入された技術について知ることができる。
ここでは具体的には触れないが、この価格帯のスピーカーシステムにこれだけの内容を……、と感心する。

とにかくDS1000はそういうスピーカーシステムだったゆえに、
ただ設置して接続して鳴らしたときの音は、うまく鳴ることはまずない。
たいていはひどい音がするはずだ。

DS1000はとにかくいろんなことに敏感に反応してくれた。
ケーブルの交換に対しては勿論のこと、アンプやプレーヤーの設置位置の違いにも、
セッティングをつめていくことで敏感に反応していくのが、手にとるようにわかる。

つまりレスポンスのいいスピーカーシステムであった。
そして、このレスポンスについてが、この項を約一年ほったらかしにしていて、思いついたことでもある。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: audio wednesday

第39回audio sharing例会のお知らせ

4月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その3)

(その1)を一年前に書いた。
(その1)を書いたとき考えていたのは、ダイヤトーンのDS1000のことを書こう。
つまりは私にとってDS1000がどういう位置づけのスピーカーシステムであったのかについて書いていこう──、
その程度のことを思いついて、忘れないうちにとにかく(その1)を書いておこう、ということだった。

そんな思いつきからの(その1)だったから、
(その2)以降をどう書いていこうか、と少し思案していた。

私の中に、DS1000を一年に一度でいいから鳴らしたい、という気持はある。
これはDS1000がよく鳴っている音を聴きたい、というわけではない。
あくまでも自分の手でDS1000をセッティングして、細かなチューニングをして、
納得のいく音が出るまで鳴らしてみたい、ということである。

いわば腕試しでもあり、自分の鳴らす技術の確認という意味合いも、ここにはある。

では、なぜそんなことを考えるのか。
それはDS1000というスピーカーシステムの性格にあるように感じている。

DS1000をステレオサウンドの筆者で高く評価されていたのは、井上先生だけ、といっていい。
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌では、はっきりとは憶えていないけれど、悪い評価ではなかったはず。
高性能なスピーカーシステムとして、高い評価を得ていたのではなかろうか。

だが、あの当時DS1000を高く評価していた人のどれだけが、
本当のDS1000の音を聴いていたのか、
表現を変えれば、どれだけの人がきちんとDS1000を鳴らしていたのか、
甚だ疑問である。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その6)

EMT・930stで松田聖子の歌が鳴ってきたとき、
少しばかり粗いところが残っている気もした。

でも、聴く前にしばらく930stを使っていなかったことを聞いていたし、
自分でも使っていたアナログプレーヤーであるから、
細かな調整を行うことで、そして通常的に使っていくことで、
いま気になっている点は解消できるという確信があったので、
松田聖子に特に思い入れをもたない聴き手の私は、その点はまったく気にしていなかった。

けれど私の隣で聴いていた松田聖子の熱心な聴き手は、
その点がとても気になっていた、そうだ。

930stからガラード301のターンテーブルの上に松田聖子のLPが載せかえられ、
301とSPUの組合せでの音が鳴った時に、熱心な聴き手の彼は、満足していたようだった。

つまり彼は930stの松田聖子の歌に関しては評価していなかった。
だから、両者の音を聴いた後で、私が「やっぱり930st」といったのをきいて、
「なぜ?」と思ったらしい。

930stがなぜ良かったのかについて、前回書いたことを話すと、彼もそのことには同意する。
それでも松田聖子の歌(声)の質感がどうしても930stのそれはがまんできない、とのこと。

私も彼のいうことは理解できる。
互いに相手のいうこと・評価を理解していても、
松田聖子の熱心な聴き手の彼はガラード301とオルトフォンSPUの組合せによるシステム、
松田聖子の熱心な聴き手ではない私はEMT・930stというシステムを、ためらうことなくとる。

Date: 3月 18th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その2)

タイトルに「一年に一度の」とつけてしまったからではないのだが、
その1)を書いたのが昨年の三月。

続き(その2以降)を書こう書こうと思いつつ、すっかり忘れてしまっていて、一年が経ってしまった。
このテーマ自体も「一年に一度」になろうとしている。

私が「一年に一度」のスピーカーシステムとして、
この項で書いていくのはダイヤトーンのDS1000である。

DS1000は型番についている1000という数字があらわしているように、
ダイヤトーンがヤマハのベストセラーモデルNS1000Mのライバル機種として、
世に送り出した(問うた)スピーカーシステムである。

NS1000Mと同じ3ウェイのブックシェルフ型。
ウーファーの前面に保護用の金属製ネットはないし、
エンクロージュアの仕上げもNS1000Mのブラック塗装に対して、木目となっているにもかかわらず、
見た印象は、NS1000Mよりも新しいスピーカーシステムとしての精悍さが、それなりに感じられる。

ダイヤトーンは、DS1000にどれだけ力を入れていたのかは、実機を前にすると伝わってくる。
時代が違うとはいえ、よくこの値段で、これだけのスピーカーシステムをつくれるものだ、と感心する。

いま、DS1000を一から開発するとしたら、どういう価格設定になるのか。
ずいぶん高価なスピーカーシステムになると思う。

そういうDS1000なのだが、決して評価が高いわけではなかった。
スピーカーとしての高性能ぶりは認めるものの……、という評価が少なくなかった。

Date: 3月 17th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その1)

オーディオの世界は豊かになっているのか。

オーディオにのめり込んで30年以上が経つ。
1970年代後半と、世紀が変り2014年となった今とでは、
ずいぶんとオーディオをとりまく状況に変化があるのはわかっている。

1970年代後半に当り前のように身の回りにあったモノのいくつかはいまでは消えてしまっているし、
当時は、こういうモノが登場するのはずっと先──、
そんなふうに思い込んでいたり、想像もしなかったモノが当り前のように身の回りにある。

それらのモノ自体の変化もそうだが、モノの値段も昔の価値観ではいまの価格は理解できないところもある。
携帯電話、スマートフォンの価格は、1970年代の人にはそうであろう。

なぜ、こんな値段で買えるのかの理由は知ってはいても、
ほんとうのところを理解しているとはいえないところもある。

それが高度に発達した資本主義なんだよ、といわれても「そうなんですか」としかいえない私は、
結局のところ、資本主義の世の中がよくなるには、
ほんとうにいいモノが増えていくこと以外にないのでは、とも思う。

スティーヴ・ジョブズがAppleに復帰したころだったか、
「世の中が少しだけまともなのはMacがあるからだ」と言っていたのを思い出す。

これは裏を返せば、「世の中がこんなにひどいのは……」ということになるわけだ。

Date: 3月 16th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その2)

ステレオサウンド 3号の特集「内外アンプ65機種─総試聴記と選び方 使い方」に登場するアンプには、
いまではメーカーが存在していないモノもある。

こんなメーカーがあったのか、と思うメーカー製のアンプも載っていれば、
いまも名器として評価されているマッキントッシュのC22とMC275、JBLのSG520とSE400S、SA600、
QUADの22とIIなども載っていて、時代の流れによって何が淘汰され、何が語り継がれていくのかを、
時代を遡って実感できた。

マッキントッシュのC22とMC275の瀬川先生の試聴記には、こうある。
     *
こういう音になると、もはや表現の言葉につまってしまう。たとえば、池田圭氏がよく使われる「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現は、一旦このアンプの音を聴いたあとでは至言ともいえるが、しかしまだ言い足りないもどかしさがある。充実して緻密。豊潤かつ精緻である。この豊かで深い味わいは、他の63機種からは得られなかった。
     *
瀬川先生はしばしば透明を澄明と書かれることがある。
ステレオサウンド 3号の、この試聴記を読むと、マッキントッシュの、このペアの音を聴かれたからこそ、
あえて澄明と書かれるのか、と私などはおもってしまう。

池田圭氏の「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現と、
マッキントッシュのC22とMC275の音がもしなかったなら、透明感と書かれていったのかもしれない。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その10)

「4343よりも4333の方が……」、
こんなことをいう人のスピーカーの鳴らし方はたいてい幅が狭い、とでもいおうか。

4343や4333のところをほかのスピーカーに置き換えてもいい。
とにかくこんな言い方をする人は多くはないけれど、少ないとはいえない。
しかもそういう人に限って、自分はスピーカーの鳴らし手として優れている、と思い込んでいる節がある。

けれど、私に言わせれば、こういう人のスピーカーの鳴らし方は、
少し極端な表現をすれば、ワンパターンである。
だから、幅が狭い、と書いた。

オーディオとは自分の好きな音を出すこと、だと、この手の人はいう。
自分の音を持っていなければ、いい音は出せない、と力説される。

このことを完全否定はしないけれど、はたしてそうだろうか。
彼は「自分の音」という幅の狭い鳴らし方に嵌っているだけのような気がしてならない。

ほんとうに優れたスピーカーの鳴らし手は、決してワンパターンな鳴らし方をしない。
瀬川先生がそうだったし、井上先生もそうだった。

あくまでもそのスピーカーシステムの個性・特性を活かしながら、うまいこと鳴らす。
もちろん、そこには瀬川先生ならではの音があり、井上先生ならではの音があるから、
そのスピーカーらしい、うまい鳴らし方であっても、決して瀬川先生が鳴らした音と井上先生が鳴らした音が、
同じになることはありえない。

私は車の運転はしないけれど、これは車の運転と同じなのではないか、と思う。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その5)

930stのあとに、ガラード301のシステムで松田聖子を聴いていて、すぐに感じて思い出していたのは、
五味先生が930stについて書かれていた文章だった。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
     *
ガラード301にはオルトフォンのSPUがついていた。
SPUもシリーズ展開が多過ぎて、ぱっと見ただけでは、SPUのどれなのかはわかりにくい。
少なくともSPU Classicではなかった。もっと高価なSPUだった。
それにフォノイコライザーに関しても、
930stは内蔵の155stで、ガラード301のほうはコントロールアンプ内蔵のフォノイコライザーであり、
301のほうのフォノイコライザーの方が155stよりも新しい設計である。

155stには昇圧用と送り出しの二箇所にトランスが使われている。
ガラードの301のシステムにはかなり高価な昇圧トランスが使われていた。
このトランス自体も155stに内蔵のトランスよりも新しいモノだった。

だからというわけでもないが、周波数レンジ的にはガラード301+オルトフォンSPUのほうがのびていた。
けれど五味先生が書かれているように、
シュアーのV15での三十人の合唱がEMTでは五十人に聴こえるのと同じように、
私が聴いていたシステムでも、930stの方が広かった。

三十人が五十人にきこえる、ということは、それだけの広い空間を感じさせてくれるということでもある。
その意味で930stは、録音に使われた空間が広く感じられる。

こう書いていくと、930stが完璧なアナログプレーヤーのように思われたり、
私が930st至上主義のように思われたりするかもしれない。

けれど930stは欠点の少ないプレーヤーではないし、私自身、930st至上主義ではない。
ガラード301とSPUで聴けた松田聖子の声は、実にしっとりとなめらかだった。

Date: 3月 13th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

LNP2の音について思ったこと(その2)

はっきりと書いておくが、瀬川先生はLNP2の音を、麻薬的とか魅惑的な音色といったことは書かれていないし、
話されてもいない。

そんなことはない、読んだ記憶がある、という方は、
瀬川先生がLNP2について書かれたものを読み返してみればいい。
the Review (in the past)で読み返されるのもいいだろう。
それに瀬川先生の文章はかなりの分量をePUBにして公開している。
どちらにしても紙の本にはない機能としての検索がある。

LNP2の音を、麻薬的、魅惑的な音色だと思い込んでしまっている人には意外なことになろうが、
LNP2についての文章に、麻薬的とか魅惑的な音色につながるフレーズは出てこない。

少しだけ引用しておけば、おそらくLNP2について書かれたものでは最後になってしまった、
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」には、こうある。
     *
 レヴィンソンがLNP2を発表したのは1973年で、JBLのSG520からちょうど十年の歳月が流れている。そして、彼がピュアAクラスのML2Lを完成するのは、もっとずっとあとのことだから、彼もまた偶然に、プリアンプ型の設計者ということがいえ、そこのところでおそらく私も共感できたのだろうと思う。
 LNP2で、新しいトランジスターの時代がひとつの完成をみたことを直観した。SG520にくらべて、はるかに歪が少なく、S/N比が格段によく、音が滑らかだった。無機的などではない。音がちゃんと生きていた。
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。
     *
マランツのModel 7の音について、瀬川先生は「中葉」と表現され、
《JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。》
とも続けられている。

そういうマランツのModel 7に近い音であるLNP2には、だからSG520の「独特の色気」はない。

もしLNP2の音に「独特の色気」があったならば、麻薬的とか魅惑的な音色という表現もでてこようが、
これらの言葉は、実際のLNP2の音をあらわしているとはいえない。

なのに、なぜLNP2の音をそう思う人がいるのだろうか。