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Date: 1月 3rd, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その8)

私は、針圧とインサイドフォースキャセラー量を、バイアスと捉えている。
針圧は垂直方向、インサイドフォースキャセラーは水平方向のバイアスであることは、以前書いた。

このバイアスは同じカートリッジで最適値を、ある条件のもとでさがし出したら、
常にその値でいい、というものではない。
温度によっても最適バイアス値は変化する。
レコードによっても違ってくるし、
毎日レコードをかけているカートリッジと半年ぶりに使う時と、一年ぶり、
さらにはもっとひさしぶりに使う時とでは、同じバイアス値が最適とはならない。

2.6gの針圧が最適だったとしても、次にかけるときには、
もろもろの条件の変化により、2.65gだったり2.55gだったりすることだってある。
2.6gが1.6gになるような、大きな変化はないけれど、わずかの違いは生じてくる。

私はそう考えているから、針圧計の精度にやたらこだわる人の考えは正直理解できない。
そのとき鳴らすカートリッジの最適バイアス値は、前回の値はあくまでも参考値でしかすぎない。
あとは耳で聴いて、ほんのわずか針圧印加用のウェイトをずらしていくだけであるからだ。

前回の針圧を、0.01gで測ってメモしていたところで、役に立たない。
カートリッジの針圧とインサイドフォースキャセラー量は、固定しておくものではない。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その4)

スヴャトスラフ・リヒテルがいっている。

リヒテルの演奏に「個性的ですね」といわれたときに、
「個性的でも独創的でもなんでもない。作品をよく研究して、その作品の指示通り弾いているだけだ」と。

自己表現などということは、彼の頭のなかにはまったくなかったはず。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その10)

なにもカラヤンをきく人は、古楽器による演奏をきいてはいけない──、
などといいたいわけではない。

ある人は、レーベルでいえばオワゾリールやアルヒーフの音を好んでいた。
このふたつのレーベルのLPやCDを買っては鳴らしていた(きいていた)。
彼自身の音の好みも、このふたつのレーベルに共通したところのあるものだった。
彼が、だからふたつのレーベルを好むのは自然なことだったのかもしれないし、
そういう音に自分のシステムの音を仕上げるのも、また彼にとっては自然な行為だったのであろう。

だが彼は、そういうシステム・音できいて、カラヤンは素晴らしい、という。
彼の音の好みは変ることはなかった。
彼の音も大きく舵を切ることはなかった。

そういう音で彼はきいて、カラヤンのブルックナーは素晴らしい、とまた言う。
カラヤンのブルックナーでの響きと、彼が好む響きは、いわば相容れないようにしか、私には感じられない。

そういえば、おそらく彼は「音楽をきいている」というだろう。
けれどくり返すが、音楽と音は呼応している。
豊かさを拒絶した響き(それを響きといっていいものだろうか……)で、カラヤンのブルックナーをきく。

ジャズでいえば、ルディ・ヴァン・ゲルターの録音したブルーノートのアルバムを、
ECM的な音できいて、素晴らしい、といっているようなところがある。

ここにちぐはぐさがある。
「風見鶏の示す道を」のなかに、こう書いてある。
     *
残念ながら、その点でちぐはぐな例も、なくはない。最新鋭の装置をつかいながら、今となってはあきらかに古いレコードを、これがぼくの好きなレコードです──といってきいている人がいる。それはそれでかまわないが、その人はおそらく、どこかで正直さがたりないのだろう。
     *
私にも同じことがあった。
好きなレコード(演奏)と好きな音に、どこかちぐはぐなところがあった。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(serial No.1001・その4)

ステレオサウンド 42号の音楽欄に、平田良子氏による「時間に挑戦する男 デビッド・ボウイー」が載っている。

David Bowie、いまではカタカナ表記ではデヴィッド・ボウイだけれど、
42号が出た1977年は、デビッド・ボウイーだった。

私がデヴィッド・ボウイのことを知ったのは、この42号の記事だった。
4ページの記事、四枚のモノクロの写真。

世の中には、こういう人がいるんだ、と思いながら記事を読んだ。
記事には、こうある。
     *
ボウイーという人間は、中性的という以上の存在である。彼のなかには、性別や年齢を超越したもうひとりのかれがいて、ボウイーが生み出す方法論をつぎからつぎへとあざやかに実践してみせるのだ。
     *
42号の記事を読んだ時は、音楽記事としてだけ読み、デヴィッド・ボウイのことを知っただけで終った。
この記事を読んだからといって、デヴィッド・ボウイのレコードを買うことはしなかったし、
デヴィッド・ボウイ主演の映画「地球に落ちてきた男」も観ることはなかった。
(最寄りの映画館では上映していなかったように記憶している。)

だからデヴィッド・ボウイの音楽を聴いたのは、もう少し先のことだったし、
聴いたからといって、特にオーディオと結びつくことはなかった。

それからずいぶん経ち、デヴィッド・ボウイのある写真を目にして、4343のことが頭に浮んだ。
その写真は、やはりモノクロで1970年代後半のころのもののようで、いわゆるスナップ写真だった。
日本での写真だった。
背景には電車が写っている。

デヴィッド・ボウイと日本の当時の日常風景との組合せ。
その写真をみて、4343はデヴィッド・ボウイのようなスピーカー(スター)なのかもしれない──、
そんなことがふいに頭に浮んだのだった。

私にとって、4343の存在を知ったのも、デヴィッド・ボウイのことを知ったのも、
ほぼ同時期(三ヵ月違うだけ)であるからこそなのかもしれない。

Date: 1月 2nd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その9)

ききたいレコードはわかっていても、目的地がわからなかった旅人には、車掌という存在が必要だったといえる。

聴きたいレコードはわかっている、目的地もわかっている、
だから車掌という存在は必要ない、という人もいる。

彼は旅人といえるのだろうか。

ききたいレコードと目的地は本来は呼応している。
いいかえれば、ききたい音楽と、その音楽をきくための音とは呼応している。

だから黒田先生は書かれている。
     *
 あなたはどういうサウンドが好きですか──という質問は、あなたはどういう音楽が好きですか──という質問と、実は、そんなにかわらない。ここでいう音楽とは、あらためていうまでもないが、演奏を含めての音楽である。青い音が好きで、同時に紅い音楽が好きだということは、本来、ありえない。音と音楽とは、もともと、呼応していてしかるべきだろう。そのことは、なにごとによらずいえるのだろうが、音に対しての好みと音楽に対しての好きがちぐはぐだとしら、それは多分、その人の音に対しての感じ方と音楽のきき方のあいまいさを示すにちがいない。
 それは、多分、演奏家の楽器のえらび方と、似ている。すぐれた演奏家なら誰だって、彼がきかせる演奏にかなった楽器をえらぶ。なるほどこういう演奏をするのだから、こういう楽器をつかうんだなと、思える。それと同じようなことが、ききてと、そのききてがつかう装置についても、いえるにちがいない。
     *
カラヤンがいた。
カラヤンは指揮者だから、直接楽器を選ぶことはない。
彼にとっての楽器は、彼が指揮するオーケストラといえる。

カラヤンは古楽器に対して、全否定といえた。
正確な引用ではないが、
古楽器特有の響きを、ひからびた響き、そういった表現をしていたと記憶している。

カラヤンの演奏をきいてきた者であれば、カラヤンが古楽器を選ぶとは思わない。
けれど、青い音が好きで、紅い音楽が好きだという、
本来ありえないこと(ききて)がいた。

Date: 1月 1st, 2015
Cate: ポジティヴ/ネガティヴ

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(その3)

過去を振り返るな、前(未来)だけを見ろ!──、
こんなことを声高に、自分にいいきかせたり誰かにいったりしている人は、
グレン・グールドのいっているポジティヴな前景とネガティヴな後景を、
まったくそのとおりだ、と受けとめることだろう。

未来こそポジティヴであり、目の前に開けている、つまりは前景であり、
過去はどんなに後悔して変えたくても変えられないものだし、すでに通ってきたものだから、
そこにこだわるのはネガティヴなことであり、後景である、と。

だがグールドの、ポジティヴな前景とネガティヴな後景は、そんなことではない。

グールドは、ポジティヴとネガティヴについて、次のように語っている。
     *
われわれが自分の思考を組織化するのに用い、そうした思考を後の世代に渡すのに用いるさまざまなシステムは、行為──ポジティヴで、確信があって、自己を頼む行動──といういわば前景と考えられるものだということ。そしてその前景は、いまだ組織化されていない、人間の可能性という広大なきわまりない後景の存在に信頼を置くよう努めない限り、価値をもちえない、ということです。
     *
つまりグールドはここでは、ネガティヴを、組織化されていない、人間の可能性という意味で使っている。
グールドのいう、ネガティヴとは、これだけの意味ではない。

グールドは、事実の見方の助言として、こうも言っている。
     *
諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティヴの存在、ありはしないもの、ありはしないように見えるものと関わり合っているから存在可能なのであり、諸君はそのことを意識しつづけなければならないのです。人間についてもっとも感動的なこと、おそらくそれだけが人間の愚かさや野蛮さを免罪するものなですが、それは存在しないものという概念を発明したことです。
     *
グールドのいうポジティヴな前景とは、つまりは存在しているものである。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: 1年の終りに……

2014年の最後に

今年もオーディオを通じて、何人かの方と知り合うことができた。
よかったな、と思っている。

来年もオーディオを通じて知り合うことが出来る人との出会いがあると信じている。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: audio wednesday

第48回audio sharing例会のお知らせ

来年1月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

テーマは新年最初の会なのだから……、と考えていますが、まだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その7)

最近のトーンアームの中には、針圧の目盛りのないモノがある。
そういうトーンアームを使うには、どうしても針圧計が必要となる。

針圧の目盛りのないトーンアームは昔もあった。
グレイのトーンアームがそうで、針圧計も昔からあった。
シュアー、キースモンクス、スペックス、ナガオカ、グレース、N&Cなどがあった。
これらはシーソー式で、オモリを移動したりオモリを追加したりして、
シーソーが水平になる値が針圧を示していた。

電子式の針圧計はテクニクスのSH50P1が最初だった。

針圧計の精度にこだわる人がいる。
0.1g単位ではなく0.01g単位で測定できるモノ、
さらにはもう一桁精度の高いモノが望ましい、ということになっている。

なぜ、そこまで精度の高さを針圧計に求めるのだろうか。
私はシュアーの針圧計で充分である。
シュアーでなくともいい、シーソー式の針圧計で何が不足なのだろうか。

そう問えば、精度が……、という答が返ってくる。
たしかにカートリッジの針圧はわずかな変化でも音は変化してくる。

EMTのTSD15の針圧は2〜3g、最適2.5gとなっている。
TSD15を使う時、まず2.5gに針圧をセットして音を聴く。
それから2gにしてみる、次に2.5gと3gの中間値である2.25gにする。
上限の音も聴いてみる。3gにして聴く。
次に3gと2.5gの中間値2.75gの音を聴く。

それでどのあたりの音が望ましいのかあたりをつけるわけだ。
たとえば2.75gの音がよかったのであれば、2.5gと中間値、3gとの中間値の音を聴く。

こうなふうにして最適値をさぐりあてていく。
そうやってある針圧に決めて、その針圧を測る。

その値が2.6gだったとしよう。
カートリッジをいくつも持っていて、頻繁に交換する人は、
次の機会にTSD15をとりつけたときに、針圧計を使い、2.6gにセットするのだろうか。

Date: 12月 31st, 2014
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その3)

一刀三礼。
仏像を彫刻する際に、一刀ごとに三度礼拝すること。

ほんとうにそこまでしているのだろうか。
そこまでしていなくとも、一刀三礼の心持で仏像を彫っていくということなのだろう。

一刀ごとに三度礼拝する行為と自己表現が、結びつかない。

オーディオにおいて自己表現、自己表現、自己表現こそが大事であり、
自己表現なき音は認められない、とオウムのようにくり返す人がいるが、
もしその人が仏像を彫ることになったとして、やはり自己表現、自己表現とくり返すのだろうか。

たぶんそうするように思える。
その人にはその人なりの仏像の彫刻があるという仮定にたてば、
その人の自己表現の結果としての仏像もあり、ということになるのだろうか。

はたして、そうやってできあがったものは、仏像なのか。
仏像とタイトルのついた、なにか別のものの彫刻になっていやしないだろうか。

Date: 12月 30th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その8)

「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」といっていた旅人は、車掌とともに汽車にのる。
目的地である駅をめざす。

どこかの駅に向う。
目的地につくには、ある時間を要する。
その駅がどこにあるかで、その時間が長くなることだってある。
しかも、その駅は目的地であるけれど、最終目的地とはいえない。

おそらく目的地(駅)についた旅人は、またいつの日か、次なる目的地をさがすことになる。
そのときトランクの中のレコードは、最初の旅立ちと同じではないはず。
様変りしているかもしれない。

旅人は、また車掌にたずねるのだろうか、「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」と。

いま「風見鶏の示す道を」を読み返すと、あれこれ考えてしまう。

「風見鶏の示す道を」はオーディオ誌に書かれたものだ。
旅人は誰なのか、車掌もそうだ、誰なのか。
駅はなんなのか、なぜ汽車なのか。

これらが示唆するもの。
書く必要はないだろう。
オーディオマニアならば、そうやって生きてきた(いる)からだ。

旅人はいくつかの駅にたどり着く。
いくつの駅だったのかは、わからない。
最終目的地と思える駅に、彼はたどり着けるのだろうか。

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その2)

芯を削ると、削りカスが付着している。これを削り器についているスポンジに刺すか、
編集部の先輩がやっていたのをまねして、金属製ゴミ箱の縁にコンコンと当てて落とす。

ステッドラーの芯ホルダーの書き味はいまではそれほどはっきりとは憶えていない。
憶えているのは、必ずコツンとした感触があること。

スムーズに書いていると、芯一本につき一回コツンと、それまでとは違う感触がする。
最初はバラつきかと思った。
けれど芯を交換しても、また同じようにどこかでコツンとした感触がある。

あっ、来た、と思うようになってくる。
この感触が味わいたくて芯ホルダーを使っていた。

ワープロが来て、記事本文はワープロに完全に移行しても、
写真のネーム(説明文)書きは、芯ホルダーを使っていた。

ネームを書いたら紙焼き写真に原稿用紙をクリップでとめる。
ワープロだと印刷の時間がよけいにかかるため、私はネームだけはずっと手書きにしていた。

芯ホルダーもいつからか三菱鉛筆の水性ペンに変った。
ステレオサウンドの原稿用紙と相性がいいとでもいったらいいのか、なめからに書けた。

こんな感触があったことも、ひさしく忘れていたのに、
数年前から、これらの感触がなつかしくなっている。

とはいえブログには手書きがはいりこむ隙はない。

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その1)

書くということは、いまの私には親指シフトキーボードによる入力をさす。
ステレオサウンドに富士通のワープロOASYSが導入されてから、
私にとって日本語入力のためのキーボードは親指シフトである。
だからもう30年くらいになる。

ステレオサウンドにはいったばかりのころは、まだワープロはなかった。
原稿といえば手書きだった。

たいていの出版社がそうであるように、
ステレオサウンドにはステレオサウンド仕様の原稿用紙が用意されていた。
筆記具はステッドラーの芯ホルダーだった。

それまで筆記具といえば、鉛筆、シャープペンシル、ボールペン、サインペン、万年筆ぐらいしか知らなかった。
芯ホルダーを、ステレオサウンドではじめて見た。

シャープペンシルと同じように、芯ホルダーは鉛筆の芯と同じような専用の芯を交換して使うもの。
シャープペンシルが芯を削る必要がないのに対して、
芯ホルダーは鉛筆と同じように先が丸くなったら削らなければならない。
専用の削り器もあった。

編集部の先輩に連れられて、ステレオサウンドの向いにあった文具店に行き、
私用の芯ホルダーと削り器を購入した。

はじめて使う筆記具。
この芯ホルダーで書いた時よりも、はじめて専用の削り器を使った時のほうが、
ほんのすこしだけ一人前の編集者に近づけたように感じられた。

Date: 12月 28th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その7)

38年前、レコード(録音物)といえば、LP(アナログディスク)をさしていた。
いまはさしずめCDになる。

LPかCDか、ということはさほど、ここで語ることに関しては大きな違いとはいえない。
38年前と大きく違っていて、そのことがここで語ることに大きく関係してくるのは、
メディア(録音物)の売られ方である。

38年前、LPは決して安いとはいえなかった。
新譜であっても旧譜であっても、たやすく買えるものではなかった。
CDが登場しても、そのことは大きくは変らなかった。

けれどいま、CDはボックスだと、昔の感覚では信じられないほど安くなってしまった。
30枚セット、50枚セット、60枚セット、
LP全盛時代には考えられなかったボックスの枚数であり、いくつものそういうボックスが矢継ぎ早に出てくる。
しかも相当に安い。

ボックスCDを買うことで、それまで避けていた、あまり関心の持てなかった音楽もきくことになる。
ボックスCDを、だから否定したくはないが、それでも旅人がトランクから取り出したのが、
すべてボックスCDであったら、そこに一本の筋はみえてきただろうか。
車掌は目的地を読みとることができただろうか……。

こんな現実的なことも、考えてしまう。

Date: 12月 28th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その6)

乗客(旅人)のトランクにはレコードがいっぱいだった。
ただ、これらのレコードは、乗客がこれまできいてきたレコードだったのか。
それとも、これからききたいと思っているレコードだったのか。

38年前の13歳のときには考えなかったことを、いまは考えている。

トランクいっぱいのレコードが愛聴盤ばかりのときの目的地と、
未聴のレコードばかりのときの目的地、
愛聴盤と未聴盤がまざりあっての目的地とでは、
めざす方向は同じになるのかもしれないが、
目的地となる駅は必ずしも同じになるとはかぎらないのではないか。

ただいえるのは、どの場合であっても、
旅人という《ひとつの個性でえらばれた》レコードであることにはかわりはない。

黒田先生は書かれている。
     *
ひとつの個性でえらばれた数枚のレコードには、おのずと一本の筋がみえてくる。そのみえてきた筋が示すのは、そこでレコードを示した人間の音楽の好みであり、敢えていえば音楽のきき方である。
     *
みえてきた筋が示すところに、目的地となる駅はある。
レコードの持主である旅人が汽車に乗れたのは、
汽車の車掌を自称する男が、旅人がとり出したレコードから、筋が示す先を読みとることができたからである。