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Date: 1月 10th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その12)

アナログディスク再生に関すること全般にいえるのは、柔軟性が必要だということ。
針圧の調整にしても、新品で買ってきたカートリッジをとりつけて音を聴く。
最初は私だって標準針圧にあわせて聴く。
聴いてすぐに針圧を調整したりはしない。

レコードを何枚か、その状態で聴いてみる。
針圧を下限・上限まで変化させてみるのは早くてもその後であり、
新品のカートリッジを聴きはじめた、その日のうちに細かな調整はしない。

しばらく使っている(その音を聴いている)と、
なんとなく針圧を含めた調整をしたほうがいいかな、と思える時がある。
そういう時に、こまかな調整をしっかりとやる。

それでいい感じで鳴ってくれる針圧があったとする。
それをメモするようなことは、前にも書いたように私はしない。

その数値をどこまでも正確に計り、次にそのカートリッジを取り付けた時に正確に同じ数値にしたところで、
同じ音には鳴らない。
さまざまな要素によって、音は微妙に変化しているから、
それでもいい感じで鳴ってくれるポイントをまた出そうとしたら、
以前の数値にはもうこだわらないことである。

音を聴いて、どうしたらいいのか、瞬時に判断するものである。
そんな判断は、すぐには身につかない。
だから気に入ったカートリッジが見つかったら、あれこれいろんな調整を辛抱強くやってみるしかない。
そうやって感覚量を身につけるしかない。

オーディオのプロフェッショナルではないのだから、自分の好きなカートリッジに関して、
そういう感覚を身につければいい。
それは針圧計が示す数値とは関係のないものだ。

Date: 1月 9th, 2015
Cate: 瀬川冬樹

1月10日を前にしておもう

その人をどう呼ぶのか、どういう敬称をつけるのか。
先生と呼ぶことに、強い抵抗感をもつ人、
ほぼすべての人に先生とつける人、
先生と呼ぶ人とそうでない人をはっきりと分けている人。

私はいまも「先生」と呼ぶ。
もうその人たちの年齢をこえたいまも先生と呼ぶ。

60、70になっても、その人たちを先生と呼んでいると思う。
先生という敬称を使うことに強い抵抗感を持っている人からすれば、
そんな私は進歩しないヤツとうつるだろう。

もうそれでいい。
いまでも考えるからだ。
生きておられたら、なんと言われただろうか、どう評価されるだろうか、と。

そんなことをどんなに考えたころで、わからないだろう、
お前が答と思ったもの、考えたものは、正しいと誰が判断するのか。
なんと無駄なことを、いつまでやっている……。

それでも考える。
無駄なこととは思っていない。
だから考え続ける。
考え続ける以上は、私にとっては、彼らはずっと「先生」である。

生きておられたら、明日八十になられる。

いつまで私は考え続けられるのだろうか。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その11)

日本人はマメだ、といわれる。
カートリッジのことに関しても、レコードごとにカートリッジを交換することもある、
そういう話をきくとマメだな、と思う。

私はすでに書いているように交換することはしなかった。
結局EMTのTSD15でずっと聴いていた。

ときどきは、あのカートリッジでこのレコードをかけたら……、と想像はするけれど、
想像だけでもいいや、というところがある。

こんな私は、カートリッジをマメに交換しているひとからすれば、
マメじゃないマニア、ということになる。

けれど、気に入ったカートリッジを最適に調整することに関しては労を惜しまない。
針圧調整をはじめとして、細かな調整をきっちりとやっていく。
その意味では、マメといえる。

そういうマメさからすれば、カートリッジを頻繁に交換している人に対して、
そこまで細かく調整しているのですか、と問いたくなる。

こんなことを書いている私だが、ここまで調整するようになったのは、
ステレオサウンドの試聴室で井上先生に鍛えてもらったおかげである。
この経験がなければ、徹底的に調整をつめていくことは、
このへんだろう、このくらいやればいいだろう、と、自分の中だけの基準でやっていただけかもしれない。

カートリッジ、アナログプレーヤーの調整は、そんなレベルではすまない。
しかも、そこまでくると感覚量こそが大事になってくる。
針圧ひとつとっても、針圧計が示す数字にとらわれたり、頼ったりしていては、まだまだだといえる。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その10)

アナログディスク全盛時代、カートリッジの平均所有本数は日本人がいちばん多い、ということがいわれていた。
アメリカ、ヨーロッパにもオーディオマニアは大勢いる。
けれど彼らの多くは、頻繁にカートリッジを交換するようなことはしない。
そんなこともいわれていた。

ほんとうだったのどうかははっきりとしない。
でも、SME式のプラグインコネクターが普及していたのは、
というよりもほぼ標準規格といってもいいほどなのは日本だけで、
そのことも影響して、アメリカ、ヨーロッパではレコードごとのカートリッジ交換は一般的ではなかった。
こんな話もきいている。

たしかにそうなのかもしれない。
マークレビンソンのLNP2は、入出力端子にスイスのLEMO社製のコネクターに変更したさいに、
型番の末尾にLがつくようになった。
これは日本だけのことで、他の国で売られていたLNP2(他のアンプも含めて)には、
LEMOコネクターになってからも、Lはついていなかった。

並行輸入対策としての型番末尾のLであった。
いわば日本仕様であり、日本仕様はこれだけではなかった。

初期のLNP2はPHONO入力は一系統のみだった。
それが途中からPHONO1、PHONO2となった。
これも日本のみである。

輸入元のRFエンタープライゼスの要望で、日本にはアナログプレーヤーを複数台使っている人、
ダブルトーンアームの人が少なくないから──、ということだったらしい。

私としては微小入力のPHONOに、
接点がひとつよけいに透ることになるのだから、PHONOは一系統のほうがいいのに……、と思うのだが、
あのころの日本で、LNP2を買える層はそうではない人が多かったということになる。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その4)

マーク・レヴィンソンがいたころのマークレビンソンのコントロールアンプのデザインが、
トラックやブルドーザーのように見えない、という方も少なくないだろう。

私もトラックやブルドーザーとは見えなかった。
念のため何度も書くが、LNP2のデザインは悪くはない。
けれど優れたデザインとは私は思っていないし、美しいデザインとも思っていない。

なぜ、菅野先生は、そんなふうに表現されたのだろうか。
ステレオサウンドにいたころ、直接菅野先生にたずねてれば……、と思いもするが、
たずねてしまうと、自分でなぜなのか、と考えることを放棄してしまうことにもある。

なぜなのかを四六時中考えているわけではないが、
1981年から、これまでずっと頭のどこかには、このことがあった。

「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
菅野先生はマークレビンソンのパワーアンプについては、どう書かれているか。
ML2、ML3については、こう書かれている。
     *
Aクラス動作で25Wのモノーラルアンプがこの大きさ! いかにもMLらしい大胆な製品である。やりたいこと、やるべきことをやるとこうなるのだ、といわんばかりの主張の強さがいい。そして2Ω負荷100Wを保証していることからしても、アンプとしての自信の程が推察できるというものだ。パネルはML3に準じるが、ヒートシンクが非常に大きく、上からの星形のパターンが目をひく。2台BTL接続端子がついている。(ML2)

マーク・レビンソンのパワーアンプらしい風格をもった製品。200W+200W(8Ω)のステレオアンプで、見るからに堂々たる体躯のシンメトリック・コンストラクション。前面パネルにはパワースイッチだけがセンターに、その真上に、あのモダーンなロゴがプリントされている。両サイドのハンドルを含め、シンプルながらきわめてバランスのよい美しさである。これぞ、パワーアンプという雰囲気だ。(ML3)
     *
ML2、ML3、どちらに関してもパワーアンプのデザインとして高く評価されている。
ML7、LNP2、ML2、ML3、いずれもマーク・レヴィンソンのテイストを感じさせるアピアランスをもっている。
にも関わらず、コントロールアンプのデザインとパワーアンプのデザインの評価は、これだけ違う。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その3)

池田圭氏の記事は、ラジオ技術に載っていた(はず)。
当時、池田氏の実験記事を読んで、なぜ、こんなことをされるんだろう……、
しかも、わざわざ記事にするんだろうか……、
そんなふうに受けとめていた。

若造だった私は、どこかオーディオの大先輩である池田圭氏を小馬鹿にしていたのかもしれない。

当時の池田圭氏は、いまの私よりもずっと年輩である。
池田圭氏の、そのときの年齢に、でも近づいている。
誰もが毎年ひとつずつ近づいていっている。
そして気づくことがある。

HUGOの登場は、そのことを思い出させてくれた。
だからHUGOが2014年に登場した新製品でもっとも気になるモノとなったわけではない。
理由は別にある。

ワディアのPower DACの存在が、私の中にずっとあるからだ。
ワディアのPower DACといっても、数年前に出たWadia 151 PowerDACのことではない。
1990年代にワディアが発表した、ひじょうに大きな金属筐体によるプロトタイプの方である。

私は、このPower DACの音を聴くことはできなかった。
ワディアが日本に輸入されるようになったのは、私がステレオサウンドを去ってからで、
Power DACはいわばプロトタイプであったから、まして聴く機会などなかった。

それでも、このプロトタイプの音は聴いておきたかった。
いい音がしていたのかどうかではなく、とにかく聴きたかった、というおもいがいまも残っている。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その2)

3.125Wといえば、現代の感覚からすれば小出力である。
でも真空管アンプの時代、それも初期の真空管アンプの時代では決して小出力ではなかった。

数Wのアンプで大型のスピーカーを鳴らしていた時代がある。
だから小出力で鳴らすスピーカー・イコール・小型スピーカーというのには、
それもありだけど、高能率の大型スピーカーでも……、とリクエストしたくなる。

HUGOの3.125Wの出力が、
きちんと設計された真空管パワーアンプの同等の出力と、
スピーカーを鳴らすことに関して同じだけの実力だとは考えていない。

それに高能率のスピーカー・イコール・昔のスピーカーでもあるわけだから、
こういったスピーカーのインピーダンスは16Ω(イギリス製だと15Ω)である。
となると3.125Wは半分の出力になってしまう。

それでもJBLのD130、それからグッドマンのAXIOM80をHUGOにつないで鳴らしてみたら……、と想像する。

プログラムソースとスピーカーのあいだに介在するオーディオ機器の数を減らすことが、
音質向上に直結するわけではない。
それでも、まずは試してみることは、とても大事なことだと思う。

D130は15インチ口径、AXIOM80は9.5インチ口径。
これらを適切なエンクロージュアにいれればかなりの大きさのスピーカーシステムとなる。
HUGOは手のひらにのるサイズである。

ここには大きさのギャップ、時代のギャップがある。
うまくいくかどうかは鳴らしてみないことにはわからない。

だが、昔では考えられなかったほどミニマルな構成で音を鳴らせる。
ミニマルであることが、シンプルであるとは限らない。
シンプルであることが、音の良さに必ずしもつながるとは限らない。

それでもCDが登場した時、池田圭氏がCDプレーヤーをスピーカーに直結で鳴らされたこと、
その姿勢は見習っていくべきである。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(トーレンスのリファレンスのこと)

以前、トーレンスのリファレンスは開発過程ではダイレクトドライヴであった可能性がある、と書いた。
2011年6月、「私にとってアナログディスク再生とは(トーレンス・リファレンスのこと)」に書いている。

確度の高い推測とは自分で思っていても、
それを裏付けるものがなにか──フローティングベースの形状以外に──があったわけではない。

昨夜、audio sharing例会でEMTの950のことが話題になった。
950はEMTが開発したダイレクトドライヴ型プレーヤーの一号機である。

950は1977年か78年に登場している。
帰宅後、そういえば……、と思い、Googleで、「EMT 950」のキーワードで画像検索してみた。
モーターの写真が見つかった。
このモーターが950のフレームにどういうふうにマウントされているのかもわかった。

950のモーターは、写真をみるかぎり、
リファレンスのフローティングベースのセンターに設けられたスペースにぴったりおさまるように思える。
取り付け方も問題はない、といえる。

いうまでもなくEMTとトーレンスは同じ工場で作られていた。
リファレンスのシャフト、軸受けはEMTの930stのものを流用していることからも、
リファレンスは、やはり開発過程でダイレクトドライヴであった、と断言していいのではないだろうか。

それにしても便利な時代である。
キーワードを入力して、画像を見ていくことで、
昔ならば、どんなオーディオ雑誌にも掲載されていなかったところまで確認することができるようになっている。

Date: 1月 7th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その1)

2014年の新製品、いったいいくつの製品が登場したのか。
気になる(なった)新製品は、人によって違ってくる。

私は、というと、もっとも気になったのは、CHORDのHUGOだった。
HUGOが登場したとき、侮ってみていた。
オープンプライスということもあって、内容もあまり読まずに10数万円くらいかな、とまず思ったし、
実際の価格を知って、そんなにするの……、とも思った。

けれどHUGOについてあれこれ知っていくと、侮れないモノだと、わかってくる。
HUGOの詳細についてここでは書かないが、個人的にもっとも惹かれたのが、スピーカーが鳴らせることだった。

CDプレーヤーが登場した時、池田圭氏がアンプを通さずに、
CDプレーヤーの出力だけで、スピーカーを鳴らすことをやられていた。
CDプレーヤーの出力は2Vrms。
出力インピーダンスが十分に低ければ、8Ω負荷では2Vの自乗(4V)を8Ωで除算した値だから、0.5Wになる。
100dB/W/mほど能率の高いスピーカーであれば、鳴らせないことはない。

とはいえ池田圭氏の記事を読んでも、自分で追試することはしなかった。

HUGOの出力は5Vrms。
ということは8Ω負荷では3.125Wの出力になる。
HUGOの輸入元のタイムロードのインターナショナルオーディオショウのブースでは、
小型スピーカーをHUGOで鳴らしていた。

Date: 1月 7th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その3)

ステレオサウンド 43号のRFエンタープライゼスの広告。
     *
「JC-2というのはフェラーリなんだよ。」マーク・レビンソンがいつか云ったことがあります。
 まだレビンソンのアンプが世に紹介されて間もない頃でしたが、JC-2のごく些細な使い勝手の”欠点”を人から指摘されたとき、この生真面目な青年は、ちょっと顔を曇らせて黙って聞いていましたが、やがて口を開いてこう云ったのです。「……これは走るためにつくられたんだ。乗り降りの容易さとか、シフトが重いとか、そういうことが、このクルマにとってどうしてそんなに大事なのかね。」
 彼はそれきり口を噤んでしまいましたが、おそらく胸の中でこんなふうに考えていたことでしょう。「このクルマは、その性能を必要とする人に、そしてこれを乗りこなすことに喜びを感ずる人にこそ、乗ってもらいたものだ。」
     *
いまのステレオサウンドに載っている広告とは、ずいぶんと違う広告であった。
43号は、私には三冊目のステレオサウンドで、JC2はまだ見たことはなかった。
ステレオサウンドの記事でのみ知るアンプだった。

だから、JC2の些細な使い勝手の欠点が、どういうことなのか、それも想像できなかった。
ただ、JC2はフェラーリなんだ、ということが、印象に残った広告だった。

JC2のデザインはツマミに変更が加えられたが、基本的には変らず、ML7に引き継がれている。
菅野先生には、トラックかブルドーザーのようなデザインのML7なのだから、JC2もそういうことになる。

マーク・レヴィンソンは、「JC-2というのはフェラーリなんだよ」と言っている。
それはアンプとしての性能のことであり、デザインに関してのことではない、とも読める。
43号のFエンタープライゼスの広告では、そこのところまではわからない。

マーク・レヴィンソンはJC2のデザインに関しても、
「JC-2というのはフェラーリなんだよ」と思っていたのだろうか。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その1)

オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その2)

ステレオサウンド別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
菅野先生がML7のところでマークレビンソンのアンプのデザインについて書かれている。
     *
ただし、マーク・レビンソンの一連の製品についていえることだが、明らかに一般ハイファイ・マニアを相手にしながら、プロ機器仕様とデザインを決めこんでいるのはどうかと思う。トラックかブルドーザーのようなデザインばかりではないか。中ではLNP2Lが一番まともだが、決して使いやすくもない。
     *
これを読んで、LNP2のデザインに感じていたのは的外れではなかった、とほっとした。
ただトラックやブルドーザーのようなデザインには、完全には同意できなかったけれど、
菅野先生とはいわんとされているところはわかる。

何度も書くが、LNP2のデザインを悪いデザインとは思っていない。
けれど、優れたデザイン、美しいデザインとはこれまで思ったことはないし、
これから先もそう感じることはない、と言い切れる。

なのに、なぜLNP2は、いいデザインという評価が得られているのだろうか。
オーディオマニアすべてがそう思っているわけではないにしても、
少なくない人が、しみじみと「LNP2のデザイン、いいですよね」と発するのを聞いている。

悪いデザインとまでは思っていないから、あからさまに否定することはしないものの、
この人もそうなんだ、とは思ってしまう。

「LNP2のデザイン、いいですよね」という人は、
菅野先生の「トラックやブルドーザーのようなデザイン」という発言をどう受けとめているのだろうか。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(反省と皮肉をこめて)

毎日書いていると、書くことにつまることはない。
むしろ、書きたいこと、書いておかねばと思うことがいくつも出てくる。
だから書く気になるかどうかは別として、書くことに困ることはない。

いいわけにもならないが、そのため、「同軸型はトーラスなのか」のように、
続きを書くのにときとしてあいだが開きすぎてしまう。
他にも続きを書こうと気に掛けつつも、他のことを書いてしまっている。

私は、このブログを書くために試聴や取材をやっているわけではない。
それでも書きたいことは、山のようにあるわけだから、
オーディオ雑誌に携わっている人たち(編集者、筆者)は、
試聴や取材をやっているわけだから、私以上に書きたいことは山のようにあるわけだ。
しかも本づくりには複数の人が携わっているわけだから、
ひとりひとりの山は、私ひとりの山よりもずっと高くあるべきだし、
その高い山がいくつも連なっているのだから、そこから発せられる情報量は、
本来ならばとてつもなく多いものになるはずである。

ステレオサウンドは季刊誌である。
私がいたときも、季刊誌のままでいいのだろうか、と編集部と先輩と話していたことがある。
月刊は無理だろうから、隔月刊にするべきなのかも……と。

そのときは隔月刊もきつい、ということに落ち着いたように記憶している。

そこから外れて、いま思うのは、
編集部の人数がいまの倍ほどになれば、ステレオサウンドの月刊化はできるはずだということである。
もちろん、いまと同じページ数での月刊化である。

読者に伝えていくこと(書いていくこと)は、そのくらい余裕であるはずである。
書くことに困る(誌面をうめることに困る)ということは、彼らがプロフェッショナルであるならば、
ありえないはずである。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: トーラス

同軸型はトーラスなのか(その27)

その1)を書いたのが2010年3月、五年ほど経っている。
この項の(その26)も2011年2月ですでに四年前、
ずいぶんあいだをあけすぎたな、と思いながら、また書き始める。

「同軸型はトーラスなのか」というタイトルは、
その3)(その4)に書いたように、
「回」という漢字からの連想である。

パイオニアのS-F1のユニットは、まさに「回」の字そのものといえるからだった。

同軸型の「同」。
「回」の下の横棒を上にずらす。
口の部分の上にもってくると、同になる。
こんなこじつけめいたことも考えながら、書き始めた。

同軸型ユニットとはいっても、いくつかの種類がある。
最初から同軸型ユニットとして設計されたものと、そうでないのものとがある。

多くの同軸型ユニットは最初から同軸型として設計されたといえるが、
たとえばコーン型ウーファーもしくはフルレンジユニットの前面に、
コーン型もしくはドーム型トゥイーターを後付けしたユニットがある。
これも同軸型であり、私が昔鳴らしていたシーメンスのコアキシャルも、いわばトゥイーター後付け型になる。

ただ、ここで考えていきたい同軸型から、この手のモノは除外する。

Date: 1月 6th, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その12)

旅人がトランクにつめこんだレコードは、いうまでもなく「ききたいレコード」であった。
ききたいレコードが一枚ではなく、何枚もあったから車掌は、
いきたいところがわからなかった旅人の行き先を察することができた。

ききたいレコードは、ききたくないレコードの裏返しでもある。
ならば旅人がトランクにききたくないレコードばかりをいれていたら、
それを見た車掌は、旅人がいこうとしている目的地を察することができただろうか。

38年前には考えなかった、こんなことをいまは考えている。

単純接触効果というのが、すでに実証されている。
くり返し何度も対象と接することで、好意度が高まり印象が良くなる、というものである。
音に関しても、単純接触効果はあるのだろう。

だとすれば……、と思う。
オワゾリール、アルヒーフの録音が好きだったききては、
ほんとうにこれらのレーベルの音が好きだったのか、である。

人の好みは、どうやって形成されていくのか、くわしいことは知らない。
ただ思うのは、嫌いなものを排除することの好みの形成であるはずで、
好きな音がまだつかめていない段階でも、嫌いな音、ききたくない音ははっきりしているのではないだろうか。

人によって、それも異っているのかもしれないが、
とにかく嫌いな音を徹底的に排除することから、
オーディオをスタートさせたききては十分考えられる存在だ。

嫌いな音を徹底排除することによって、ある独特な音が形成される。
その音で、彼はさまざまな音楽をきいてきた。
音楽をきいてきた回数だけ、その音に接している。
そして、いつしか、その音を好きになっている──。

これも単純接触効果といえるだろう。