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Date: 7月 14th, 2015
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その16)

より硬度のあるものを磨くには、さらに硬度のあるもので磨かなければならない。
ダイアモンド以外の物質はダイアモンドよりも硬度が低いから、ダイアモンドで磨くことができる。

けれどダイアモンドを磨くには、地球上にはダイアモンドよりも硬度のある物質は存在しないから、
ダイアモンドで磨くしかない。

こんなことを書いていて思い出していたのは、
五味先生の「喪神」である。
「オーディオと人生」の中に書かれてあることを思い出していた。
     *
『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
 ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
 一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男をいうものを想いえがいた。
 わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意思で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。このシュチュエーションを一人の剣豪に托して描いたのが『喪神』であった。チャンバラ小説のように大方には見られたようだが、作者の私としては、あくまで自殺をあつかったので、小説の結末の場面を〝西風の見たもの〟をきいていて、思いついたのである。念のために言っておくと、この時のスピーカーはグッドマンの十二吋、6L6の真空管をつかったアンプに、カートリッジはGEのものだ。カサドジュの演奏だった。
     *
純粋経験で人を斬るようになった男は、いわばダイアモンドである。
この男が死ぬには、
つまり自殺するには、自分を殺せるだけの人間(もうひとつのダイアモンド)を造りあげなければならない。

ということは「喪神」で五味先生が扱った男は、もっとも純化した男なのか。
それが純化の果てなのか……。

オーディオマニアとして「純化」と「喪神」が重なってきた。

Date: 7月 13th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その5)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」での、
井上先生の4350Aの組合せは、
マークレビンソンのML6のキャラクターとのミスマッチングかもしれないということで、
マッキントッシュのC29に変更されている。

記事では、ここで井上先生にML6に対する感想をきかせてください、とある。
     *
井上 ご承知のように、マークレビンソンにはLNP2Lというコントロールアンプがあります。ML6よりひとつ前の製品、ということになりますが、このLNP2Lはかなり明快な音で、輪郭をくっきりと出すアンプです。ただ音の作り方からいうと、やや古典的な感じがある。表情の豊かさとなめらかさ、それから音場感的な広がりという聴き方をしたときには、いまとなるとちょっと古典的かなという音になっているんですね。
 それに対してML6は、音の粒立ちもさらにこまかくなったし、帯域も広く感じるようになったし、いかにも現代的な音になっています。極端にいえば、アナログ録音に対するデジタル録音、といった感じがあるのです。
 しかし、JBL♯4350Aと組み合わせてみると、ややものたりなさがあります。音としてはたいへんきれいなんだけど、もうひとつ力感が不足なのですね。これだけの大型スピーカーを使うことの、大きな理由のひとつは、通常の音量でも力強く、リアリティのある音で聴きたい、ということでしょう。たんにきれいな音というだけでは、万全ではないと思うんですよ。それはむしろ、かつての古い聴き方で要求されたことです。つまり、レコードによごれた、きたない音が入っていても、それをいわば濾過してきれいに鳴らす、そういう要素がかつては重要視させていたのです。
 しかし、現代はそうではない。レコード側もずいぶん進歩して、録音もきわめてよくなってきていますから、最近では、再生音楽のなかのリアリティの追求ということが、大きくクローズアップされていると思います。そういう要素を追求する聴き手が、しだいに増加してきているわけです。
     *
この井上先生の発言を、
ステレオサウンド 52号の特集の巻頭、瀬川先生の「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」、
この中に登場してくるML6についての文章と対比させて読んでいくと、ひじょうに興味深い。

Date: 7月 13th, 2015
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その15)

ダイアモンドがそうであるように、高い硬度があるから磨かれる。
磨かれることで表面を、きわめて滑らかにすることができる。

レコード針がそうである。
竹針は柔らかい。
柔らかい素材を磨いていっても、ダイアモンドのような滑らかさは得られない。

レコード針として、
アクースティック蓄音器では鉄針よりも竹針が使われていた。
高価であったSP盤を傷つけないためにも、柔らかい針(竹針)のようがいいだろうということでもあった。

だが音質的なことを抜きにすれば、竹針の表面は磨いたところで、けば立っている。
もしかするとよく研磨され、表面がきわめて滑らかな鉄針であったら、
竹針よりもSP盤を傷つけることはなかったのではないか。

そうであるならば竹針よりも鉄針、鉄針よりもダイアモンド針ということになる。

オーディオマニアとしての「純度」に硬度が必要だとしたら、
オーディオマニアとしての「純度」とは磨かれていくものなのか。

磨いていくには、磨かれるものよりも硬度の高いものが必要となる。
その意味でも、硬度が必要なのかもしれない。

Date: 7月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その10)

その8)で引用した瀬川先生の発言。
これに対して、井上先生はこう語られている。
     *
井上 ここまで夢中になってやってきて、ひとつ区切りがついた、といったところでしょう。この十三年間をふりかえってみると、いちばん大きく変化したのは、オーディオ観そのものであり、オーディオのありかたであり、そしてユーザー自体ということですよね。その意味で「ステレオサウンド」がどうあるべきかということを、このへんで、いちど考えなおす必要がある、という瀬川さんのご指摘には、ぼくもまったく同感です。
 ただ、それが、熱っぽく読ませるためにどうかということでは、ぼくはネガティブな意見です。つまり、そういった意識そのもが、かなり薄れてきている時代なんだと、ぼくは思っているのです。
     *
これを受けて、瀬川先生は、
熱っぽく読む、というのはひとつの例えであって、
今後も熱心に本気に読んでもらうためにはどうしたらいいのか、ということだと返されている。

このあとに菅野先生、山中先生、岡先生の発言が続く。
詳しい知りたい方は、ステレオサウンド 50号をお読みいただきたい。

岡先生の発言を引用しよう。
     *
 ひとついえることは、創刊号からしばらくの時期というのは、われわれにしても読者にしても、全部新しいことばかり、まだ未知の領域ばかり、といった状態だったわけでしょう。だからなんとなく熱っぽい感じがあったんですよ。それがしだいに慣れてきた、というか繰り返しのかたちが多くなって、そのためにいかにも情熱をかたむけてやっている、という感じが薄くなったことはたしかでしょう。
     *
井上先生の発言にある、ひとつの区切り。
50号は1979年3月に出ている。
36年が、50号から経っている。

この36年間に、いくつの区切りがあっただろうか。
業界にも、オーディオマニアにもそれぞれの区切りがさらにあったはず。

そして岡先生の発言に出て来た「慣れ」。
長くやっていれば、どうしても慣れは生じてくる。

瀬川先生は、ほかの方の発言をどういうおもいで聞かれていたのだろうか。
もどかしさがあったのではないだろうか。

この「もどかしさ」は、(その9)で書いたもどかしさとは違うもどかしさではなかったのか。

ステレオサウンド 50号を手にしたとき、私は16だった。
そのころはなんとなくでしか感じられなかったことが、いまははっきりと感じられる。

同時に、瀬川先生と仕事をしたかったという、いまではどうしようもできない気持がわきあがってくる。

Date: 7月 11th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(ステレオサウンド 50号より)

創刊50号記念の特集として、
ステレオサウンド 50号の巻頭には、
井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による座談会が載っている。

ステレオサウンドでは10号ではじめてブラインドフォールドテストを行っている。
試聴室の三面の壁にブックシェルフ型スピーカーを50機種積み上げて、
スピーカーの前にはカーテン、さらにカーテンが透けてスピーカーが見えないように、
部屋は真っ暗にしてテスターのところだけに照明が当るようにしている。

しかもスピーカー配置は毎日変えられている。

このブラインドフォールドテストを、なぜステレオサウンドは行ったのか、
その理由について瀬川先生が語られている。
     *
瀬川 この第10号で、ブラインド・テストを行なったというのは、ぼくは原田編集長の叛骨精神のあらわれだと思っています。これはいまだからいってもいいと思うんだけど、「ステレオサウンド」が、さっき山中さんがいわれたように、国内製品と海外製品を同じ土俵で評価したことが、結果的にいうと、当時のオーディオ界全体の風潮から見ると、「ステレオサウンド」がやっていることが海外製品偏重に見えてしまったんですね。それが一つ。
 それからもう一つは、これもさっき話にでたように、製品の評価にフィーリングというか感性の面を大切にしたために、逆になにか先入観をもってテストにのぞんでいる雑誌だという、一般的な評価がたってしまったわけです。
 この二つのことに反発して、それならブラインド・テストをしてみよう、ということになったのでしょう。そして、その結果、いちおうの成果を収めたんですね。そこで「ステレオサウンド」は引きつづいて、第12号でカートリッジのブラインド・テストを行なうわけですが、以後はきっぱりとやめてしまったわけです。
     *
瀬川先生が二つ目の理由として挙げられていることは、当時の雑誌の評価の仕方が関係している。
このことについても、ステレオサウンド 50号から瀬川先生の発言を引用しておこう。
     *
瀬川 つまり、それ以前のレコード雑誌あるいは技術系の雑誌があつかったオーディオ欄での、そういった形の製品の取り上げ方というのは、主に技術畑のひとが聴いて、耳を測定器のようにはたらかせて、歪みがどうであるとか、低音・高音のバランスがどうであるとか、そういうことだけをチェックしていたのです。「ステレオサウンド」のテストリポートで、はじめて音楽がどう聴こえるかという問題が、そこに入りこんできたわけであり、同時に、製品がもつフィーリングまでも含めて評価するようになったんですね。
     *
これはステレオサウンド 3号のアンプの総テストのことが話題になったときの発言である。
3号は1967年に出ている。

Date: 7月 11th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その4)

井上先生の4350Aの組合せはどうだろうか。
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」での組合せは次のとおり。

●スピーカーシステム:JBL 4350AWX(¥850.000×2)
●コントロールアンプ:マッキントッシュ C29(¥438.000)
●パワーアンプ:マッキントッシュ MC2300(低域用・¥798.000)/MC2205(中高域用・¥668,000)
●エレクトロニッククロスオーバー:JBL 5234(¥120.000)+52-5121(¥5,000×2)
●カートリッジ:オルトフォン MC20MKII(¥53.000)
●プレーヤーシステム:パイオニア Exclusive P10(¥300.000)
●昇圧トランス:コッター MK2 Type L(¥240.000)
組合せ合計 ¥4.227.000(価格は1979年当時)

菅野先生、瀬川先生の組合せでは予算の制約は設けられてなかったが、
井上先生の組合せでは400万円という予算の制約があってのものだ。

予算がもう少し上に設定されていれば、
アナログプレーヤーは上級機のExclusive P3になっていたと思う。

とはいえ、井上先生の意図は伝わってくる。

菅野先生、瀬川先生の組合せでは、アンプは最初から決っていたといえるのに対し、
井上先生の組合せではアンプ選びから始まっている。

最終的にはマッキントッシュのコントロールアンプとパワーアンプに決っているが、
最初はコントロールアンプを、瀬川先生と同じマークレビンソンのML6を使い、
低域に、当時ステレオサウンド試聴室のリファレンス的パワーアンプであったマランツのModel 510M。
このふたつを固定して中高域用のアンプとして、
ヤマハのB5、ビクターのM7050、デンオンのPOA3000を試されている。

この中ではPOA3000が粒立ちが滑らかですっきりとした音を聴かせてくれて、
組合せとしてはいいかな、ということになったけれど、
聴きつづけていると、4350Aの音を十全に鳴らしていないような感じがしてきた、ということで、
アンプの選択をコントロールアンプから再検討されている。

Date: 7月 11th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その3)

スイングジャーナルでの瀬川先生の組合せは次の通り。
この記事がいつだったのか正確には記憶していないが、1979年のものであることは確かだ。

ステレオサウンド 53号で4343を、
オール・マークレビンソン(しかもモノーラル仕様)のバイアンプで鳴らされた記事に、
このスイングジャーナルの4350の組合せ記事について触れられているのだから。

●スピーカーシステム:JBL 4350WXA(¥850,000×2)
●コントロールアンプ:マークレビンソン ML6L(¥980,000)
●パワーアンプ:マークレビンソン ML2L(¥800.000×6)
●エレクトロニッククロスオーバー:マークレビンソン LNC2L(¥630,000)
●カートリッジ:オルトフォン MC30(¥99,000)
●トーンアーム:オーディオクラフト AC4000MC(¥67,000)
●ターンテーブル:マイクロ RX5000+RY5500(¥430,000)
●ヘッドアンプ:マークレビンソン JC1AC(¥145,000×2)
組合せ合計 ¥8,996,000(価格は1979年当時)

LNC2はステレオサウンド 53号ではモノーラルで使われていたが、
スイングジャーナルでの試聴では都合がつかなかったのか、通常の使い方である。

1979年の瀬川先生は、ステレオサウンド 53号の「4343研究」で書かれている。
     *
サンスイオーディオセンターでの「チャレンジオーディオ」またはそれに類する全国各地での愛好家の集い、などで、いままでに何度か、♯4343あるいは♯4350のバイアンプ・ドライブを実験させて頂いた。そして、バイアンプ化することによって♯4343が一層高度な音で鳴ることを、そのたびごとに確認させられた。中でも白眉は、マーク・レビンソンのモノーラル・パワーアンプ6台を使っての二度の実験で、ひとつは「スイングジャーナル」誌別冊での企画、もうひとつは前記サンスイ「チャレンジオーディオ」で、数十名の愛好家の前での公開実験で、いずれの場合も、そのあとしばらくのあいだはほかの音を聴くのが嫌になってしまうなどの、おそるべき音を体験した。
 その音を、一度ぐらい私の部屋で鳴らしてみたい。そんなことを口走ったのがきっかけになって、本誌およびマーク・レビンソンの輸入元RFエンタープライゼスの好意ある協力によって、今回の実験記が誕生した次第である。以下にその詳細を御報告する。
     *
このころの瀬川先生は世田谷に建てられた新居でのリスニングルームで、
4343をマークレビンソンのML6とML2の組合せで鳴らされていた。バイアンプではなくシングルアンプで。

つまり4350の組合せは、瀬川先生のシステムを、
4343を4350Aにし、4350の仕様から必然的にバイアンプになり、
パワーアンプは同じML2でも、低域に関してはブリッジ接続へとなっていったものといえる。

このころの瀬川先生が1979年の時点で、
ご自身のシステムをゼロから、それも予算の制約がなく組まれたのであれば、
この4350Aの組合せそのままになっていたであろう。

このスイングジャーナルでの組合せでは、こんなことも書かれている。
     *
いうまでもなく4350は、最初からバイ・アンプ・オンリーの設計になっている。だが、この下手をすると手ひどい音を出すジャジャ馬は、いいかげんなアンプで鳴らしたのでは、とうていその真価を発揮しない。250Hzを境にして、それ以下の低音は、ともすれば量感ばかりオーバーで、ダブダブの締りのない音になりがちだ。また中〜高音域は、えてしてキンキンと不自然に金属的なやかましい音がする。菅野沖彦氏は、かってこの中〜高音用にはExclusiveのM−4(旧型)が良いと主張され、実際、彼がM−4で鳴らした4350の中高域は絶妙な音がした。
     *
そういえば岩崎先生もパラゴンをExclusive M4で鳴らされていた。
パラゴンには375、4350には375のプロフェッショナル仕様の2440が使われている。
この時代、JBLの2インチ・スロートのコンプレッションドライバーにはExclusive M4が合っていたようだ。

井上先生もHIGH-TECHNIC SERIES-1でのパラゴンの組合せに、
《ここではかつて故岩崎千明氏が愛用され、
とかくホーン型のキャラクターが出がちなパラゴンを見事にコントロールし、
素晴らしい低音として響かせていた実例をベースとして》Exclusive M4を、やはり選ばれている。

Date: 7月 10th, 2015
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その9)

その1)で書いた《オーディオに興味を持ち始めたばかりの人に薦められるオーディオ機器の条件とは? 》。
ふと思い出したのは、1982年に登場したサウンドハウスというブランドのことだ。

いくつかのオーディオ販売店が協力してつくりあげたブランドだった。
旗振り役はダイナミックオーディオだったと記憶している。

プリメインアンプのSH-A20(¥208,000)、ペアとなるチューナーのSH-T10(¥100,000)、
アナログプレーヤーのSH-B19(¥190,000)が出ていた。

軌道にのればスピーカーシステムやカートリッジなども出していったのかもしれないが、
短命でいつの間にか消えていた、という感じだった。

販売店の人たちが、直接オーディオマニア(ユーザー)と接している。
その彼らが自分たちが売りたいモノをメーカーに開発製造してもらい、自分たちで売っていく。

サウンドハウスの広告を見て、うまくいったらおもしろそうだと思った。
けれどうまくいかなかったようだ。

もしサウンドハウスの製品が、他社製のアンプやアナログプレーヤーよりも売れてしまったら、
メーカーとしてはおもしろいわけがない。
サウンドハウスのアンプやアナログプレーヤーを製造しているメーカーであっても、
自分たちが企画し開発した製品よりも、
販売店の人たちが企画した製品が売れるということは、痛しかゆしだったのか。

記憶違いでなければプリメインアンプはマランツだった。
実際SH-A20のフロントパネルは、マランツ製であることがすぐにわかる。
SH-B19はマイクロだったはず。
チューナーはどこだったか……、忘れてしまった。

サウンドハウスが狙っていたユーザー層は、
いちばん厚い客層であったと思われる。
自分たちのブランドで出す以上に売れるモノにしたい。
よく売れれば利益も大きくなる。

そうであれば1982年当時、
プリメインアンプは20万円、アナログプレーヤーも20万円の価格帯ということになるのか。
この価格のプリメインアンプ、アナログプレーヤーを買う人たちは、
すでにオーディオマニアであり、マニアになって数年は経っている。

ここで、もし……と考える。
サウンドハウスが入門機としてのモノを真剣に考えていたら……、である。
どんなモノが登場してきたであろうか。

Date: 7月 9th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’78」での菅野先生の組合せは次の通り。

●スピーカーシステム:JBL 4350A(¥940,000×2)
●コントロールアンプ:アキュフェーズ C220(¥220,000)
●パワーアンプ:低域用・アキュフェーズ M60(¥280,000×2)/中高域用・パイオニア Exclusive M4(¥350,000)
●エレクトロニッククロスオーバー:アキュフェーズ F5(¥130,000)
●グラフィックイコライザー:ビクター SEA7070(¥135,000)
●ターンテーブル:テクニクス SP10MK2(¥150,000)
●トーンアーム:フィデリティ・リサーチ FR64S(¥69,000)
●カートリッジ:オルトフォン MC20(¥33,000)
●プレーヤーキャビネット:テクニクス SH10B3(¥70,000)
組合せ合計 ¥3,614,000(価格は1977年当時)

「コンポーネントステレオの世界 ’78」とほぼ同じ頃ステレオサウンドから出たHIGH-TECHNIC SERIES-1、
この本の「マルチスピーカー マルチアンプの魅力を語る」で、菅野先生は書かれている。
     *
ウーファーが決まってみると、今度はそれをドライブするためのパワーアンプ遍歴が始まった。そして一応落着いた現在のラインアップはというと、エレクトロニック・クロスオーバーはアキュフェーズのF5でクロスオーバー周波数は500Hzと7kHz。パワーアンプは、ウーファー用にアキュフェーズのM60を二台、スコーカーはパイオニアM4、トゥイーターにサンスイAU607のパワーアンプ部を使っている。
     *
菅野先生の、このときのウーファーとはJBLの2205である。
「マルチスピーカー マルチアンプの魅力を語る」では2220と書かれているが、
これは菅野先生の勘違いでこの時点で2205を使われていた。
スコーカーはJBLの375+537-500、トゥイーターは075である。

4350Aを鳴らすアンプは、菅野先生が1977年当時自宅で使われていたラインナップと重なる。
もし菅野先生、1977年の時点でご自身のシステムをゼロから組まれたとしたら、
それもメーカー製のスピーカーシステムの中から選ばれるのであれば、
ほぼ間違いなくJBLの4350Aであっただろうし、
「コンポーネントステレオの世界 ’78」での組合せとかなり近いシステムとなったはずだ。

菅野先生の4350Aの組合せの取材に立ち会われていた瀬川先生は、こう発言されている。
     *
瀬川 じつは菅野さんならこんな組合せになるんたろうと予想していたことが、ほとんど的中しましてね。内心ニヤニヤしながら聴いていたんですよ(笑い)。
     *
そうであろう。

Date: 7月 8th, 2015
Cate: 表現する

夜の質感(その11)

夜の質感とか、マーラーの闇とか書いているけれど、
そう感じるのは、録音されたものをオーディオを介して聴いてのことである。

バーンスタインのマーラーの実演は一度だけ聴いている。
1985年、イスラエルフィルハーモニーと来日したときに、NHKホールで交響曲第九番を聴いている。

30年前のことだ。
すごい演奏だったことは、いまも憶えているが、
聴いていて、夜の質感とかマーラーの闇とか、そんなことを考えていたわけではなかった。
そういう記憶がない。

ただすごい演奏という印象と感動が残っているだけである。
いまの私が、あの時のNHKホールでのバーンスタインのマーラーの九番を聴いたら、
感じ方が違っている、拡がっているのかもしれないが、
30年前と同じようにワーッという感動だけなのかもしれない。

クラシックの演奏会はたいていは夜七時からである。
バーンスタイン/イスラエルフィルハーモニーのときもそうだった。
演奏会では、あたりまえのことだが自分で聴きたい時間を選べるわけではない。
日時が決められている。

明るいうちに行われるクラシックの演奏会もある。
あるけれど、明るいうちからの演奏会でマーラーの交響曲が行われることがあるのだろうか。

オーディオを介して聴く場合には、そうとは限らない。
朝からマーラーを聴けるし、真っ昼間のマーラーもある。
夜のマーラーもあれば、丑三つ時に聴くマーラーもある。

どの時間帯に聴こうとマーラーの交響曲はマーラーの作品であって、ハイドンの作品になることはない。

Date: 7月 8th, 2015
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その14)

恥という漢字は、耳に心と書く。
なぜなのか。

辞書をひくと、耳はやわらかい耳、つまり耳たぶのことで、
恥は心が柔らかくいじけること、とある。

やはりオーディオマニアとしての「純度」には硬度が必要なのか。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: audio wednesday

第55回audio sharing例会のお知らせ

8月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その13)

つきあいの長い音──、私にとってのそれはデッサンの確かな音。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

ブラインドフォールドテスト(続・音の尺度)

音を聴くということは、音に反応するということでもある。
そこで鳴っている音に反応するからこそ、聴き手は尺度を、ほぼ無意識に切り替える。

音の尺度(聴き方の尺度)を切り替えない、
そういうものではないし、常に一定だ、という人は、
切り替わっていることに気づいていないのか、
もしほんとうに尺度がまったく切り替わっていないのであれば、
その人は音に反応していないのではないか。

反応しない、ということは、音、音楽を聴いているといえるのだろうか。
反応するからこそ、「耳」は経験を積める。
経験を積むことで、以前は聴き取れなかった音の違いを聴き取れるようになっていく。

長いことオーディオをやってきたから、その人の「耳」が経験を積んでいるとはいえない。

Date: 7月 7th, 2015
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その8)

たまたま松田聖子のディスクで、EMTの930stとガラードの301+オルトフォンSPUとを聴き比べたから、
松田聖子について書いてきたわけだが、
これが私自身が熱心な聴き手であるグラシェラ・スサーナだったら、
930stと301+SPUのどちらを選ぶかとなると、これもためらうことなく930stを選ぶ。

前回、親密感について書いた。
私は熱心な松田聖子の聴き手ではないから、そこでは親密感を求めない、とした。
だから930stをとる、と。

グラシェラ・スサーナに関しては熱心な聴き手だ。
彼女の歌い方からすれば、そこに親密感はあってほしいとは思う。
けれど、親密感というよりも、もっと求めるのは、私ひとりのために歌ってほしい。

このことは女性ヴォーカル、それも気に入っている女性ヴォーカルのレコードを鳴らす場合に、
多くの聴き手(男ならば)が求めていることだろう。

ならば親密に鳴ってほしいのかといえば、私はそうではない。
グラシェラ・スサーナにしても松田聖子にしてもプロの歌い手である。

私が望むのは、あくまでもプロの歌い手が私ひとりのために歌っている、
そういう感じで鳴ってきてくれたらうれしいのであって、
プロの歌手が聴き手に媚びているような親密感で歌ってほしいとは思っていない。

親密より濃密に歌ってほしい。
そしてなによりも930stと301+SPUの聴き較べてあらためておもったのは、
930stの音のデッサン力の確かさである。