つきあいの長い音(その25)
つきあいの長い音は、つきあいを深めていける音。
つきあいの長い音は、つきあいを深めていける音。
毎年12月になると、10大ニュース的なことを書こうと思う。
思うけれど、10もあげられずに、結局は書かずに年を越してしまっていた。
今年は思いつくままではあるが、いくつか書いていこう。
といってもオーディオの仕事をしているわけではないから、
今年登場したオーディオ機器のごく一部しか聴いていない。
なので、きわめて個人的な「今年をふりかえって」である。
まず挙げておきたいのは、ヤマハのNS5000のプロトタイプのお披露目である。
別項で書いているので、ここでは簡単に触れておく。
ヤマハのスピーカーの型番のNSはnatural soundを表している。
ヤマハのナチュラルサウンドとは、基本的に穏やかな音である。
そして適度にエッジをきかせている。
そのきかせ具合が、NS1000MとかNS500といったグループと、
NS690に代表されるグループとでは違ってくる。
今回のNS5000を聴いて感じたのは、エッジの強調具合に頼ることなく、
ヤマハが目指していたであろうナチュラルサウンドが実現しつつあるということだ。
とはいっても、音の輪郭がぼけているということではない。
NS5000の評価は、どうもあまり芳しくないようである。
インターネットでの匿名の印象記は、ひどいものが多かった。
たまたま私が目にしたものがそうだっただけかもしれないが、残念に思うし、
ヤマハが来年夏の発売までに、どうするのかが不安でもある。
私としてはいまの方向で自信をもって進めてほしいのだが、
批判的な意見を採り入れてしまい、違う方向に行ってしまっては……、と思っているからだ。
もうひとつスピーカーをあげれば、JBLの4397WXの登場だ。
4367とNS5000と同価格帯のスピーカーとなる。
オーディオについて書かれたもの、
オーディオ雑誌に載っている製品紹介、試聴テストの試聴記、
そういったものは必要ない、
それらはすべて他人の耳が聴いたものであって、信じられるのは自分の耳だけだから。
昔からいわれているし、いまもいわれていることだ。
正論といえば正論である。
オーディオは自分のリスニングルームで、
自分のスピーカーで自分ひとりで音楽を聴くものだから、
他人の耳なんかどうでもいい、自分の耳だけが信じられるのは当然すぎることである。
ステレオサウンド 38号でも、瀬川先生は
《あまり理屈をふりまわさないで、ご自分の耳にできるだけ素直にしたがいなさい、ということですね》
と最後にいわれている。
長島先生は
《表面的なきれいな音だけにこだわらずに、ご自分の音をさがしてほしいということでしょうか。オーディオ・システムというのは、あくまでも個人の、プライベートなものですから》と、
井上先生は
《ほとんどすべての人間が聴覚をもっていて、生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうして他人の手引きや教えばかりを求めるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんですよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです》と。
結局は、自分の耳で聴いて、それにしたがい、探し出すということにつきる。
それは百も承知で、ほんとうに自分の耳をそう簡単に信じていいものだろうか、ともつねに思っていた。
しつこいぐらいに書いているように、私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まった。
こう書いてあった。
*
むろん誰にだって、未来はある。私にもあった。私はその未来に希望を見出して働いて来た。五十の齢を過ぎて今、私の家で鳴っている音にある不満を見出すとき、五十年の生涯をかけ私はこれだけの音しか自分のものにできなかったかと、天を仰いで哭くことになる。この淋しさは、多分、人にはわからぬだろうし、筆舌に尽し難いものだ。
*
13の時に「五味オーディオ教室」と出逢い、読んだ。
「五十の齢」は、当時の私にはずっとずっと先のこと、
ぼんやりとも想像することはできずにいた。
いま「五十の齢」を過ぎている。
オーディオ雑誌は出発物であって、それも紙を媒体とした出版物であるから、
紙に印刷できるのは、文字(言葉)と写真・図だけである。
視覚情報以外のものは、紙には印刷できない。
これは音を伝えたいオーディオ雑誌にとっては、大きな制約であり、不幸なこと、といえる。
だから1980年代にはCDマガジンという、CDを附録というよりもメインのメディアとした雑誌が登場した。
CDに続いてCD-ROM、DVDが登場し、
それらを附録とすれば、音だけでなく動画も収録でき、
静的な視覚情報だけだったころからすると、動的な視覚情報、聴覚情報も伝えられるようになった。
さらに紙の本は電子の本となって、
DVDにおさめていた動的情報を一体化できるようになった。
つまり紙の本からすれば、制約はかなり減ってきている。
これは喜ぶべきことなのか、
不幸なことがなくなってきた、といえるのだろうか。
電子書籍の機能を振るに活用すれば、紙の本では不可能だったことまで伝えられる。
けれど、それはオーディオについて語る上で、ほんとうにいいことなのだろうか。
オーディオ評論がある時期まで成り立っていたのは、紙の本しかなかったからだ。
視覚情報しか伝えられない紙の本で、いかにして聴覚情報の音を伝えていくか。
この制約があったからこそ、オーディオ評論は生れ、(ある時期までは)進歩していった。
附録をつけることに反対はしない。
ただ附録をつけることで、紙の本という制約から解放されると安易に考えないことだ。
2016年1月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。
何度か告知しているように、1月の会はアンプの比較試聴を行う。
といっても、厳密な意味での比較試聴ではなく、
もっと気楽な意味でのアンプの聴き較べと思っていただきたい。
今回はそうなるわけだが、いつかは厳密な意味での比較試聴というものを、
喫茶茶会記のスペースでできるだけ再現してみたい、と考えている。
ここでの比較試聴とは、私がいたころのステレオサウンドでの試聴が、
どんな感じで行われていたのかを、大事なポイントを抑えなから再現できないか、と思っている。
アンプの比較試聴でもいいし、カートリッジの比較試聴でも、
対象となる機器は特にこだわらない。
どれかに決めて、例えばカートリッジの試聴ならば、どういったことに気をつけて試聴を行っていたのか。
私がいたころ、カートリッジの試聴は井上先生だけだった。
この時の記事は私が担当だったから、どんなふうに試聴を進んでいったのかははっきりと憶えている。
どういうことに注意しながら、プレーヤー、カートリッジ、トーンアーム、レコードを扱っていたのか、
そのへんのことも細かなことまで憶えているから、というよりも身体感覚となっているから、
いくつかの制約の中であっても、再現できる自信はある。
人によっては、そんな細かなことにまで気を使ってやっているのかと思われるかもしれないし、
その程度なのかと思われるかもしれない。
どちらであっても、想像以上に試聴はしんどいものであることは伝えられるはずだ。
つきあいの長い音を得るには、調整だけでなく調教してこそだ、と思う。
長島先生が、どんなふうに言われていたのかを正確に引用するために、
ステレオサウンド 38号をひっぱり出していた。
38号の特集記事「オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ」の巻頭は、黒田先生が書かれている。
「憧れが響く」とつけられた黒田先生の文章を、だからひさしぶりに読み返していた。
すると、調教という言葉が出てきた。
この黒田先生の文章を以前に読んでいたから、
調整なのか調教なのか、ということを思いついたと、だからいえるのかもしれない。
文章を書くことに慎重な黒田先生が、調整ではなく調教を使われている。
そこのところを引用しておく。
*
このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
*
調整と調教の違いは、整えると教えるにある。
教えることで、そのモノと行動をともにすることができる、といえるのではないか。
附録をつければ、それで売上げが伸びるからこそ、
出版社はあれこれ附録をつけた雑誌を出すようになってしまっている。
出版界は厳しい状況にある、とよくいわれる。
そうだと思う。
だから、少しでも売上げが伸びるのであれば……、と思って附録をつける。
ステレオサウンド 197号の附録は、売上げにつながる附録とはいえないと私は思っているが、
私とは反対に、あの卓上カレンダーがついていたから買った、という人もいるであろう。
もしかしたらカレンダーによって、197号の売上げは伸びているのかもしれない。
けれど、読んでいる人はほんとうに増えているのだろうか。
本が売れればいい──、
そうやって附録をつけたりして売上げを伸ばしていく。
会社は利益をあげなければ継続していかないのだから、理解できないわけではない。
けれどそうやって伸びた売上げは、読まれることを増やしていることに必ずしもつながらない。
附録目当ての人は、附録が充実していればそれで満足する。
(その7)に書いたように、
ステレオサウンドを毎号買ってはいるけれど、読んでいない、という人たちは確実にいる。
編集部としては、読まれていないステレオサウンドであっても一冊は一冊であり、
その一冊は毎号買われていくわけで、利益になっているわけだから、それでもいい──、
となるのだろうか。
何で読んだのかは忘れてしまったが、
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが、こんなことをいっていた。
いわゆる売れ筋の曲のカップリングに、マイナーな、あまり知られていない曲を選ぶのは、
あえてやっていることであり、我々(レコード制作者)は聴き手に認知させる、
いわば聴き手を教育するということが求められている──、
そんな趣旨のことを読んだことがある。
売れ筋の曲(録音)に、さらに売上げを伸ばすように、
同じくらい売れ筋の曲(録音)をカップリングすることだってできる。
目先の利益のみにとらわれているのであれば、そのほうがいい。
けれどレコード会社の使命というものがある。
そのことを承知している人たちは、あえてマイナーな曲をカップリングして、
その曲が少しでも世の中に広まっていくようにこころがけている。
出版社としての使命は……、どうなっているのだろうか。
(その6)にコメントがあった。
コメントをくださったGravitychildさんは、私と同じだった。
カレンダーにつられて数年ぶりにステレオサウンドを購入しようと思い書店に行かれている。
けれど、カレンダーのチープさにがっかりされ、買わずに書店を後にされている。
まったく私と同じ人が、やはりいるんだ、と思いながら読んでいた。
Gravitychildさんと私、
ステレオサウンド 197号を買おうと思っていたのに買わなかった人が、ふたりはいるわけだ。
ということは、同じ人がもっといるとみていいだろう。
Gravitychildさんも私も、以前は熱心なステレオサウンドの愛読者だった。
けれどいつのころからか買わなくなってしまった。
私の周りにも買わなくなった人はいるし、
買ってはいるけれど、惰性で買っているんだけどほとんど読んでいない、という人も何人かいる。
買わなくなった人を、今回のカレンダーは買わせるきっかけだったはずだ。
けれど、編集部は何を考えてなのだろうか、あの程度のカレンダーをつけてしまった。
ステレオサウンド編集部の人たちは、あのカレンダーを組み立てて、
編集部内の自分の机の上に置いているのだろうか、
もしくは自宅に持ち帰り、自分のリスニングルームに飾っているのだろうか。
飾っていない・置いていないとしたら、
なぜその程度のカレンダーしかつけないのか、と問いたくなる。
飾っている・置いているとしたら、
ほんとうにあの程度のカレンダーで満足しているのか、と問いたくなる。
音像と音場。
これだけでなく、音影という、再生音の捉え方があると考えるようになった。
音像はおんぞうと読む、
音場は、おんじょう、もしくはおんばと読む。
ならば音影は、おんえいとなるわけだが、いんえいとも読める。
いんえいは、陰翳でもあり、
陰翳礼讃であり、
私の中では、音影と陰翳礼讃のつながりについて書いていくのが来年のテーマになりそうだ。
HIGH-TECHNIC SERIES-1に、
井上先生が既製のスピーカーシステムにユニットを加えるマルチアンプについて書かれている。
そこにアルテックの604-8Gが出てくる。
*
かつて、JBLのシステムにあったL88PAには、中音用のコーン型ユニットとLCネットワークが、M12ステップアップキットとして用意され、これを追加して88+12とすれば、現在も発売されている上級モデルのL100センチュリーにグレイドアップできる。実用的でユーモアのある方法が採用されていたことがある。
ブックシェルフ型をベースとして、スコーカーを加えるプランには、JBLの例のように、むしろLCネットワークを使いたい。マルチアンプ方式を採用するためには、もう少し基本性能が高い2ウェイシステムが必要である。例えば、同軸2ウェイシステムとして定評が高いアルテック620Aモニターや、専用ユニットを使う2ウェイシステムであるエレクトロボイス セントリーVなどが、マルチアンプ方式で3ウェイ化したい既製スピーカーシステムである。この2機種は、前者には中音用として802−8Dドライバーユニットと511B、811Bの2種類のホーンがあり、後者には1823Mドライバーユニットと8HDホーンがあり、このプランには好適である。
また、アルテックの場合には、511BホーンならN501−8A、811BならN801−8AというLCネットワークが低音と中音の間に使用可能であり、中音と高音の間も他社のLC型ネットワークを使用できる可能性がある。エレクトロボイスの場合には、X36とX8、2種類のネットワークとAT38アッテネーターで使えそうだ。
*
これを読んだ時、私は高校生だった。
だから井上先生が、なぜ同軸型ユニットの604-8Gに中音用のユニットを追加されるのか、
その意図をわかりかねていた。
802-8D+511Bを604-8Gに追加するということは、
いうまでもなく同軸型のメリットを殺すことにつながる。
そんなことは井上先生は百も承知のはず、なのに、こういう案を出されている。
604-8Gは15インチ口径のコーン型ウーファーとホーン型トゥイーターの2ウェイ構成である。
クロスオーバー周波数は1.5kHz。
アルテックのストレートコーンのウーファーは、416は1.6kHz、515Bは1kHz、515-8LFは1.5kHzと、
カタログ上ではそうなっている。
以前、ごく初期の515(蝶ダンパー)に、
ポータブルラジオのイヤフォン端子から出力を取り出して接いで鳴らしたことがある。
1kHzといようりも、もう少し上まで、3kHzくらいまではなだらかに減衰しながらもクリアーに聴きとれた。
このことはトーキー用スピーカーとして源流をもつからであり、
映画館でもしドライバーが故障して鳴らなくなっても、
ウーファーだけでセリフがはっきりと聞き取れる必要があるからだ。
とはいえ、振幅特性だけでない、
位相特性、指向特性をふくめた周波数特性でいえば、
15インチ口径のコーン型にそこまで受け持たせるのは無理がある。
同じことは604シリーズのトゥイーターにもいえる。
雑誌が附録をつけるのは、売上げを伸ばすためである。
今回のステレオサウンドにしても、附録といえるような卓上カレンダーがついていたら、
私は買っていた。
附録につられて、講読をやめていたステレオサウンドを買っていたであろう。
けれどおまけ程度のカレンダーだったら、買わなかった。
こんなカレンダーをつけるくらいだったら……、と思い出したことがある。
これもずっと以前のステレオサウンドがやっていたことである。
私が毎号愉しみにしていたころのステレオサウンドには、
巻末にアンケートハガキが毎号ついていた。
毎回、びっしり書きこんで送っていた。
このアンケートハガキを返してきた読者に対して、
ステレオサウンドは発売間際になると、案内ハガキを送ってくれた。
発売になる号の表紙が印刷された、いわば絵ハガキである。
毎号、この案内ハガキが届いた。
時には、ステレオサウンド購入後に送られてくることもあった。
それでも、まだ10代の読者であった私は、これを楽しみにしていた。
ハガキ一枚であっても、嬉しい。
197号の、おそまつな卓上カレンダーよりも、あのころの案内ハガキのほうがよかったといえる。
いまではインターネットが普及しているから、新号の案内はウェブサイトでできる。
メールマガジンでもできる。
わざわざ、これらよりも経費のかかる案内ハガキを送る必要性はないという判断は、
会社経営としては間違っていないといえる。
でも間違っていないからといって、正しいわけでもないはずだ。
あのころのステレオサウンドを読んでいた私は、その嬉しさをいまも憶えている。
憶えているから、197号の卓上カレンダーによけいにがっかりした。
いまのステレオサウンド編集部には、そのころ読者だった人はいないのだろうか。
オーディオは使いこなしが大事だ、と誰もがいう。
私もいう。
使いこなしについては、これまで書いてきている。
これからも書いていくのだが、
使いこなしは調整とは、必ずしも同じ意味をもつわけではない。
だからこそ、「使いこなし」と「調整」というカテゴリーをわけて書いている。
もちろん同じ意味で使うこともあるし、使いこなしと調整は切り離せるわけでもない。
それでも使いこなしと調整は、微妙に違う。
使いこなしと調整の違いを、もっと端的に言い表せないのか。
そう思っている。
調整に似た言葉として、調教がある。
辞書には、馬、犬、猛獣などを訓練すること、とある。
オーディオ機器は、馬、犬、猛獣の類だろうか。
オーディオ機器はあくまでも工業製品である。
馬、犬、猛獣といった動物とは大きく違う。
それでも、「このスピーカーはじゃじゃ馬だから」という表現が昔からある。
長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。
さらに38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。
長島先生のG610Bに対する使いこなしは、
調整よりも、調教という言葉のほうがぴったりとくる。
私は13の時からオーディオに興味をもった。
もっと早くから、という人もいるだろうし、少し遅くからという人もいるけれど、
多くのオーディオマニアは10代のころにオーディオに関心・興味を持ち始めた、と思う。
私が10代だったころ、オーディオ雑誌はいまよりも多く出版されていた。
けれどインターネットはなかった。
しかも住んでいたのは、東京ではなく熊本の田舎町である。
そういう環境だったから、東京に出てくるまでは、
オーディオに関しては飢餓感といえるものがあった。
飢餓感があったからこそ、何度もくり返し読んできた。
モノクロの小さな写真もくいいるように見てきた。
いまはインターネットのおかげで、オーディオに関する情報の量は、
私が10代だったころとは比較にならないほど増えている。
写真ひとつにしても、カラーが標準といえる。
粒子の粗いモノクロ写真が大半だったから、
いまのような状況は、写真ひとつにしても情報量が増えている、といえる。
その意味では、いまの10代は飢餓感を感じることはあまりないのかもしれない。
むしろ満腹感があるのではないのか。
そんなことを考えもする。