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Date: 11月 5th, 2016
Cate: 新製品

新製品(Nutube・その11)

ウォームアップの問題は、やっかいな面ももっている。
ウォームアップなんて、十分な時間電源をいれておいて、
信号を流して音を鳴らしている時間も十分ならば解消だろう──、
そう思われる人もいるだろう。

ウォームアップという言葉からは、
鳴らしていくうちに本調子になってきて、それにかかる時間は製品によって違っても、
あるレベルに達しウォームアップが終ればすむ──、そういった印象がある。

けれど実際にはあるレベルに達し、そこから先はウォームアップではないということになる。
この状態を維持できれば、話は単純なのだが、
モノによっては、長時間の使用により、むしろ音が悪い方向に変化していく。

つまりクールダウンを必要とするオーディオ機器が存在する。
おそらくすべてのオーディオ機器にあてはまることなのかもしれないが、
ウォームアップほど顕著に音に出ないようであり、
まれに顕著に音として、この問題が出てくるモノがある。

私がステレオサウンドにいた間の機種では、
アキュフェーズのD/AコンバーターDC81がそうだった。

ディスクリート構成のD/Aコンバーターということ、
アキュフェーズ初のセパレート型CDプレーヤーとしても話題になったし、
ステレオサウンドの試聴室でもリファレンス機器として使っていた。

それだけの内容と音を持っていたけれど、
DC81はかなり長時間使用していると、あきらかに音が弛れてくる。
それは音の滲みと受け取る人もいるだろうし、
音にベールがかかったように聴こえるという人もいるだろう。

ウォームアップとともに音は目覚めていくわけだが、ずっと目覚めた状態を維持できるとはかぎらない。
そのため、電源を落してクールダウンを必要としていた。

一日数時間の使用であれば、この問題は出てき難い。
もっとも使用条件・設置条件によっては、たとえ数時間でも発生するとは思う。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その3)

思い出すから書くのか、
書くから思い出すのか。
たぶん両方なのだろうが、結婚とオーディオということで思い出したことがある。

スイングジャーナル1972年1月号掲載の座談会「オーディオの道はすべてに通ず!」だ。
     *
菅野 この間、だれかさんの原稿の穴埋めに急拠「オーディオロジー」の原稿を書かされたんだよ(笑)。そこでぼくは錯覚という言葉を使った。
瀬川 イリュージョンだね。
菅野 錯覚というのは無限の飛翔というか、可能性というか、高まりをもつものだ。これがもっとも大切なものであると書いたわけです。
 つまり、恋愛というものは、精神と感情と肉体の無限の飛翔である。一方結婚は現実の生活である。その恋愛の目的を結婚に置くということは、極めて次元の高いものの目的を次元の低い現実に置くことなので、元来矛盾しているものなのだ、というように展開したわけ。その恋愛というものもやはりイリュージョンなのだよね。イリュージョンなるがゆえに、無限に心の高まりを感じるわけだ。
瀬川 そう、イリュージョンだから美しいんですよ。確かに結婚というものが現実的なものであることは事実なのだけれど、結婚の中での一つの虚構、あるいは錯覚みたいなものを持続させることもできるんだ。だから結婚の中でも結婚以外のものに、逃避であろうと、なんかの一つの理想であろうと、結婚を回避してそっちへ行こうということだけがすべてでないと思うんだ。
菅野 もちろんそうです。
瀬川 もっとそのさきの大事なことは、この世の中で現実に起ることよりも、そういう錯覚の中、あるいはフィクションの中で感じる一つの幻想、イリュージョンの方が人間にとって実感をもっている。いや実感というより人間にとって大切じゃないかと思うんだ。
菅野 そう大切なものですよ。
瀬川 現実というのは、いろんな制約の中での現実なんだよ。つまりさまざまな社会的制約の中でなり立っている。しかし、その中での錯覚というのは、現実の壁を乗り越えた強さをもっている。それが人間にとって人間を味わう、あるいは生きがいというか、ものを味わうための一番大切な何かだな。
菅野 それはあなたがいい奥さんをもっているからいえるんだよ。ぼくはそうじゃなくて、結婚はあくまで現実のものなんだよ。イリュージョンを追いかけて行くから失望するんだ。つまり結婚というものは、恋愛にもない、親子の愛でもない、友情でもない、夫婦愛というものの生まれる可能性のある一つの生活様式なんであると思っている。だからわずかの月日で築けるものではない。
 なぜ、ぼくはここまでいうかというと、つまりオーディオというような趣味のものはイリュージョンですね。そこでぼくもいったことなんだけれども現実の問題でイリュージョンというものによって解決しようとすると、オッチョコチョイにも、趣味を仕事にしようとする者が出てくるんだ。趣味と仕事を合わせるとこのイリュージョンを結婚生活の中へもち込むこともむずかしさがある。趣味というものもこれが仕事になったときには現実になる。
 それじゃわが輩のように仕事にした人間はどうなるのかと。しかしわが輩としては仕事にしたからっといって、趣味というものの次元を低めることはできない。やはり高い趣味の次元をもち続けていかなければならない。そのために、結婚しても女性嫌いにはなれずにね(笑)。つまり仕事と同時にそれを趣味としてイリュージョンの世界に遊ぶだけの余裕をもつべく、涙ぐましい努力をして行くんだ(笑)。
瀬川 前半は不足ない、途中でちょっと異論があって、結論でまた一致したんだよ。途中だけちょっと菅野さんの方法論が違っていただけで、本人がやっていることは仕事ではそれなんだ。
菅野 もちろん認めるけれど、それはたいへんなんだよ。
瀬川 そう二つの至難がある。一つは魔法をかけるに値する石ころを見つけるというむずかしさ、もう一つは手に入れた石ころに常に魔法をかけておくというむずかしさ、この二つのむずかしさを乗りこえたときの至福の喜びというものは何にもたとえられないものなのですよ。
菅野 もちろん、それは理想論としてわかるんですが、なにせ結婚の相手というのは人間ですからな(笑)。
瀬川 さっきからいっているように結婚にたとえるから話が現実的になっちゃうんで、オーディオ・パーツでもいいよ。スピーカーに限ろう。
菅野 いや、スピーカーに限ったら、話はあなたと同じだよ(笑)。
瀬川 スピーカーも女も生活なんだ。
岩崎 たいへん幸せなんでうらやましいです。スピーカーと同じような女房をもらえればこれはいいよね(笑)。
菅野 だからスピーカーにたとえるとあなたと全く同じ考え方だ。スピーカーというものは魔法がかけられるよ。
瀬川 おれはそれを私生活でもやりたいというおめでたい希望があるんだ。
菅野 それはあなたがむずかしい問題に直面していないんだよ。女性をスピーカーにたとえられるというのは幸せというか……。
瀬川 おめでたいのかな(笑)。パーツを愛情をもって使いこなせというのは、本質論で、前提があるわけ。
菅野 それは直感だよね。
瀬川 そう、それだからこそ、さっきから子供の石ころにこだわるわけよ。無心の世界に遊んでいるときの子供の純粋な行動、大人の趣味の世界、ここにあって直感を働かさなくては、人間というのはダメなのですよ。
菅野 われわれも、年の改まった今、いま一度童心を思い起して直感を冴えさせおきたいものですね。
     *
この岩崎千明、菅野沖彦、瀬川冬樹による鼎談は、
菅野先生のこんな発言で始まる。
     *
菅野 われわれのように、いわゆる道楽者が音の話をしていると、よく他の話に取違えられるんだね。この前も、こちらは音の話をしていたのに、バーの女の子がゲラゲラ笑っているんだよ。何を笑っているのかと思ったら、始めから終りまで猥談だと思っていたというんだね。まあ、その道の話というのは必ずすべての道に通じる話になるわけで、逆にそうでなければ、核心をついた話ではないよね。
     *
たしかにそうかもしれない。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その2)

瀬川先生が浮気について話されたことを、ふと思い出した。

あの話は一般論としてだったのか、それとも瀬川先生の知人にそういう人がいた、という話だったのか。
そのへんははっきりとしないが、こんなことを話された。

浮気をする人は、奥さんとはまったく違うタイプの女性を選んでいるつもりでも、
傍からみれば、奥さんと同じタイプだし、何度も浮気をする人も、また同じタイプの人と浮気している、
スピーカー選びも同じようなもので、
本人にしてみれば以前鳴らしていたスピーカーとはまるで違う音のスピーカーを選んでいるつもりでも、
傍からみれば、どこかに共通するところのある、もっといえば似ている音を選んでいる、と。

高校生のときに聞いた話しだ。
浮気とはそういうものなのか、と思いながら聞いてもいた。

実際の浮気がそういうものかどうかは知らない。
知人で何度か結婚している男をみていると、そう外れていないとは思う。
結婚・離婚のくり返しと浮気は、そもそも同じじゃないけれど、
相手を選択するということでは同じといえる。

主体性をもって、本人は選んでいるつもりである。
結婚相手、浮気相手、そしてスピーカーにしても。
でも、それは結局つもりでしかないのかもしれない。

こんなことを書いているのは、
昨夜「タンノイがふさわしい年齢」を書きながら、
タンノイが、にするか、タンノイに、するかで考え迷っていたからだ。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その86)

ステレオサウンド 56号の表紙はトーレンスのReferenceである。
55号の表紙とはうってかわって、秋号らしい感じだった。

トーレンスのReferenceは56号ではじめて登場するプレーヤーだが、
55号のノアの広告には、登場していた。

モノクロの広告で、TD126MKIIICといっしょの広告で、
この時点では、Referenceについてのくわしいことはわからなかった。
価格は3,580,000円とあったから、
なにやらすごそうなプレーヤーが登場するんだ、というぐらいだった。

そのトーレンスのReferenceが56号の表紙である。
Referenceの詳細は、この号から新装となった新製品紹介のページではっきりする。

56号は55号からは変ってきていることが伝わってくる。
新製品紹介のページが、まさにそうだといえよう。

55号までの新製品紹介のページは、井上先生と山中先生のふたりが担当されていた。
もっと古い号では違うが、それまで長いことステレオサウンドの新製品紹介は、
このふたりの担当であり、海外製品は山中先生、国内製品は井上先生となっていた。
注目製品に関してはふたりの対談での紹介だった。

56号からのやり方が、いまにいたっている。
私も最初は、よりよい方向に変った、と喜んだ。
とくにトーレンスのReferenceを瀬川先生が担当されていたことも、大きい。
56号ではロジャースのPM510も登場していて、これも瀬川先生の担当。

このふたつの新製品の記事だけで、私は満足していた。
ステレオサウンド編集部はわかっている、そんなふうにも思ってしまったくらいに。

56号は1980年秋号。
もうこのやり方が30年以上続いていると、
井上先生、山中先生というふたりだけのやり方のメリットも大きかったことに気づく。

どちらのやり方がいいのかは、新製品品紹介のページだけで判断できることではない。
特集の企画とそこでのやり方、それに筆者の陣容とが関係しての判断となるわけで、
その視点からすれば、いまのステレオサウンドの新製品紹介のやり方は、
むしろ欠点が目立つようになってきている、といわざるをえない。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その5)

私がステレオサウンドを読みはじめたころのヤマハのプリメインアンプといえば、
CA2000かCA1000IIIが代表機種といえた。

CA2000のデザインは、中学生の目から見ても上品、洗練という表現が似合うと感じていた。
ステレオサウンド 42号のプリメインアンプ特集では、音室面でも高い評価を得ていた。
測定結果も、非常に優れたアンプであることがわかった。

いつかはセパレートアンプと思いつつも、現実にはプリメインアンプが先に来る。
CA2000はA級動作に切替えることもできた。
このことが、また中学生だった私には、とても魅力的だった。

ヤマハのCA2000を手に入れれば、とにかく不満なく聴ける──、
そう思っていた時期だ。

でも同時にCA2000には、色気や艶といった要素が、
磨き上げられている音質とは裏腹に欠けているような印象を、
瀬川先生の文章からも、つたない耳ではあっても実際に音を聴いても感じられた。

CA2000の優秀性をそのままに、色気、艶がもう少しだけ加わってくれれば……、
そんなことを思っていたところに、A1の登場だった。

それまでのヤマハのプリメインアンプの型番はCAがついていた。
アナログプレーヤーはYP、スピーカーシステムはNS、カセットデッキはTC、
ヘッドフォンはHP、チューナーはCT、スピーカーユニットはJAというように、
アルファベット二文字で始まっていた。

ただしセパレートアンプだけ違っていた。
CI、C2、BI、B2というようにアルファベットは一文字だけ。
C2とペアとなるチューナーT2もそうだった。

そこにA1という型番での登場。
C2はコントロールアンプのC、B2はベーシックアンプのBなのだから、
A1のAはアンプリファイアーの頭文字のはず──、中学生の私はそう受けとった。

しかもA1である。
このアンプならば、CA2000に欠けているものがあるのではないか。
その新鮮なフロントパネルの写真を見ながら、期待しはじめていた。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(エリカ・ケートの言葉)

11月のaudio sharing例会で、エリカ・ケートのモーツァルト歌曲集をかけた。
常連のHさんからのメールが、さきほど届いた。
そこには、読売新聞の2009年8月19日の編集手帳からの引用があった。
     *
ドイツのソプラノ歌手エリカ・ケートさんは言語の響きや匂いに敏感であったらしい。歓談の折に語った比較論を「劇団四季」の浅利慶太さんが自著に書き留めている。◆イタリア語を「歌に向く言葉」、フランス語を「愛を語る言葉」、ドイツ語を「詩を作る言葉」と評した。日本語は──浅利さんの問いに彼女は答えたという。「人を敬う言葉です」
     *
浅利慶太氏の「時の光の中で」(文藝春秋)に載っている、とのこと。

私はイタリア語もドイツ語もフランス語もダメである。
英語も苦手である。
日本語だけである。

日本語が「人を敬う言葉」なのだとしたら、
私がここで書いていることは、そこからそう遠くに外れてはいない、と思った。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その10)

その9)でふれた菅野先生実験のJBLの4ウェイは、
スイングジャーナル別冊「オーディオ・プラン’77」での組合せである。

このムックは手元にないけれど、
同じシステムを「モダン・ジャズ読本’78」でも鳴らされている。

「モダン・ジャズ読本’78」にはジャズ&オーディオ道場という企画がある。
ジャズ喫茶への道場破り的企画である。
ここで菅野先生は門前仲町に当時あったジャズ喫茶タカノに、同システムを持ち込まれている。

サンスイによるエンクロージュアは、おそらく4350のそれと同寸法と思われる。
バスレフダクトは両サイドに縦に三つならんでいるところも同じである。

このエンクロージュアに2220Bと2120をともに二発ずつおさめ、
蜂の巣ホーンにとりつけられた375は二発のウーファーよりもやや外側に配置。
このふたつのホーンのあいだに375が二発並ぶ。

見た印象でいえば、ミッドハイの375の距離が離れすぎのように感じる。
ユニットの数が多くなれば、それだけ配置の難しさは増していく。
これが最適の配置ではないだろう。

アンプはウーファー用がアキュフェーズのM60。
ミッドバス用がGASのAmpzilla、ミッドハイとトゥイーターはパイオニアのExclusive M4、
コントロールアンプはGASのThaedraだ。

「モダン・ジャズ読本’78」には編集部による原稿と、
タカノ店主高野亘氏の「わが抗戦の記」と菅野先生の「わが挑戦の記」が載っている。

こういう企画は、ステレオサウンドに望むのは無理なところがあった。
スイングジャーナルらしい企画であり、
こういう企画を行わなくなった(行えなくなった)から、
スイングジャーナルは消えていったのかもしれない。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: 世代

タンノイがふさわしい年齢

タンノイがふさわしい年齢。
そういったことを、いま考える人(世代)は、いるのだろうか。

タンノイといっても、これまでにさまざまなモデルが登場して消えていっている。
同軸型ユニットを採用していないモデルもある。

同軸型ユニットにしても、アルニコからフェライトになっているし、
フェライト採用のユニットには、
ウーファー用とトゥイーター用をひとつのマグネットで兼ねているタイプと、
独立させてふたつのマグネット採用のものとがある。

だからタンノイといっても、人によって真っ先に頭に浮ぶモデルは違ってくる。
そうなれば、タンノイにふさわしい年齢も違ってこよう。
もしくは、そんなこと、まったく感じない、ということにもなろう。

けれどタンノイといえば、Guy R. Fountain Autographという者にとっては、
タンノイがふさわしい年齢を意識するのではないだろうか。

私は、いまどうなんだろうか。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その86)

岩崎先生が亡くなられた時、
ステレオサウンド 43号に追悼文が載った。
井上先生、岡先生、菅野先生、瀬川先生、長島先生、山中先生が書かれていた。

55号には、なかった。
理由はなんとなくわかる。

55号の編集後記では、原田勲氏が、五味先生へのおもいをつづられている。
それからKen氏も、そうだ。

《ぼくのオーディオは「西方の音」で始まった》、
という書き出しでKen氏の編集後記は始まる。

編集後記はそう長くないから、すべて書き写してもたいした手間ではないが、
最後のところだけを引用しておく。
     *
 以来格闘十年間、オリジナル・コーナーヨークにたどりついたところで、ぼくとタンノイの歴史は一旦終る。若さに目ざめたのである。
 しかし本号の取材でオリジナル・オートグラフを聴き、手離したことを心底後悔した。西方の音で何度も読んでいた、あの音が聴こえてきたのだ。しかし戻ることはしないでおこう。タンノイが相応しい年齢になるまでは……。
     *
Ken氏は、私より十、上である。
タンノイが相応しい年齢ではないですか。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その85)

ステレオサウンド 55号にも「五味オーディオ巡礼」は載っていない。
載っていないことは、発売前からわかっていた。

この年の4月1日に、五味先生が亡くなっているからだ。
「ザ・スーパーマニア」が、五味先生だった。

扉には、こうあった。
     *
Guy R. Fountain Autographのまえの先生のソファに坐ってみた。
そこにはいまも、あのひとりの偉大なスーパーマニアの熱気がただよっていた
     *
そして55号巻末には、「オーディオ巡礼」の出版案内があった。
6月30日発刊予定、とあった。

55号は、私にとってステレオサウンドが大きく変っていく節目の号になっていく。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その84)

41号から読みはじめた私にとって、
アナログプレーヤーのテスト記事は48号に続いて二回目である。

48号ではターンテーブル及び軸受けの強度、
ターンテーブルの偏芯と上下ブレ、
無負荷状態での速度偏差とレコードトレーシング時の速度偏差/ダイナミック・ワウ、
以上の項目について測定していた。

55号での測定には速度偏差がなくなっている。
かわりにランブルの周波数分布が加わっている。

測定にはトーレンスが開発した専用治具を用いられている。
この専用治具は、瀬川先生がトーレンス社を訪問された際に入手されたモノである。
(瀬川先生のトーレンス訪問記事は56号に載っている)

この専用治具については、長島先生が説明されている。
     *
治具の構造は、ターンテーブルのセンターシャフトに固定するチャックを持つ高精度シャフトと、このシャフトに軸受けで支えられ、自由に軸方向に回転できる構造を持つ軽量フレームによりなっている。測定は、フレームの指定された場所にカートリッジの針先をのせ、被測定ターンテーブルのシャフトを通して治具に伝わってくる振動をピックアップして行う。
 この方法によれば,治具のシャフトとフレーム軸受けとの精度を高精度にすれば、レコード法よりはるかに測定系ノイズを減らすことができ、ローレベルまでのランブルが測定できるわけである。治具の説明書によると、測定用シャフトおよびフレーム軸受け部分(これはテフロン系と思われるプラスチックでできている)には絶対に手を触れないこと、布などで拭わないことと注意がされている。これは、治具のベアリングの振動が測定値に影響を与えないよう注意しているためだろう。
     *
55号には、トーレンスの専用治具の写真も載っている。
掲載されている測定結果も興味深い。
特に、アームレスのターンテーブルにおいて、
オーディオクラフトのAC4000Mcとフィデリティ・リサーチのFR66S、
ふたつのトーンアームを使っての測定結果が載っているのが、また興味深い。

トーンアームが違えば、ランブルの周波数分布もかなり違ってくる。
この測定結果も、当時よりもいま見ているほうが得られることが多い。

Date: 11月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その83)

ダグラス・サックスのインタヴュー記事から引用したいことはいくつもある。
そのすべてを引用してしまうと、記事の大半を引用することになるから、
ひとつだけに留めておく。
     *
──将来のシステムとしてもつべきものとしてほかに何かありますか?
サックス ある分野においては、見方によっては退行ともいうべき改善を考慮すべきだと感じています。それは、スピーカーとアンプの組合せにおけるダイナミックスの許容力を拡大しなければならないということです。デジタルやダイレクト・トゥ・カディスク録音の時代にはいって、このことを一層痛感させられるのです。いわゆるオーディオファイル・レコードの製作者たちは、ダイナミックレインジの拡大に努めているのですが、今日使われている極度に能率のわるいスピーカーでそれだけのラウドネスを再現することはできません。レコードは再生機器の能力に制約されてしまい、フォルティシモで鳴る三度の音など、いかによく録音されていても、リアリスティックに再生できないのですね。
── では、これからのシステムは、より大出力のンアプトより能率のよいスピーカーでなければならないというわけですか?
サックス 左様。しかし、いま私の知っている多くのスピーカーは二千ワットのアンプをもってしても救いがたい。なぜなら能率がわるいと同時に、それだけの大入力に耐えられないのがほとんどですから。
── ダイナミックスの窓がとっても狭いということですね。
サックス 今日のしすてむの限界になっている要素です。わたしのつくったレコードをそのようなシステムできくと、静かなパッセージの再生は一応充分なんですが、ダイナミックスの釣り合いということになるとまったく混迷してしまう。カートリッジの再現性はいい、プリアンプにもともかく問題はない、パワーアンプとスピーカーの終端、ここに慢性狭窄性があるんです。
 私は、オーディオのまじめな追及者あるいはプロフェッショナルが自宅でつかっている自家製の大型システムを数多くきいています。その音は注目に値いします。それはけして大音量で再生しているのだからよくきこえるのではない。むしろ普通の再生レベルなのです。しかし、ピークのときにも充分の余裕をもった能力を発揮して、音がつまるなんてことにならない。こういうシステムがどこの家庭にもおかれるようになったとき、ディスクにどれだけの音が刻まれているかということが、はじめて認識されるのです。
     *
ステレオサウンド 55号の特集2がアナログプレーヤーのテストであったから、
この記事が掲載されたわけでもないだろう。
たまたまAudio誌に掲載された時期からいって、55号になっただけであっても、
同じ55号に載っているのは、結果としていいことになっている。

そしてアナログプレーヤーのテストにおける測定も、そうだといえる。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その82・追補)

ステレオサウンド 55号に載っているダグラス・サックスの記事の原文は、
Interview:Douglas Sax on the Limits of Disc Recordingというタイトルで、
アメリカのオーディオ雑誌Audioの1980年3月号に掲載されている。

このころのAudio誌の誌面をそのままスキャンして公開しているサイトがある。
記事のタイトルで検索すれば、すぐに見つかる。
ダグラス・サックスの記事も公開されていて、英文で読むことができる。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その82)

ステレオサウンド 55号の音楽・レコード欄に、非常に興味深い記事が載っている。
当時以上に、いま読み返した方が興味深いともいえる記事である。

「ディスク・レコーディングの可能性とその限界」というタイトルだ。

このタイトルからわかるように、
ダイレクトカッティングで知られるシェフィールドの二人の創設者のひとり、
ダグラス・サックスのインタヴューで構成されている。

インタヴューだけではなく、岡先生によるダグラス・サックスについての囲み記事もある。
それによるダグラス・サックスともうひとりの創設者のリンカーン・マヨーガ(マヨルガ)は、
ともに1937年生れ。
(1937年は、ジョージ・ガーシュウィンとモーリス・ラヴェルが亡くなった年でもある。)

彼らは1956年に、ウェスターン・エレクトリックの旧いディスク録音機の持主をたずね、
そこでマヨーガ演奏のピアノを録音してもらっている。
その78回転のディスク(モノーラル録音のラッカー盤)の音が、
一般のLPの音よりもあらゆる点で優っていると感じ、ふたりはSPに注目する。

周波数特性、S/N比、収録時間においても、LPよりも劣るSPなのに、
聴けば聴くほど音楽的に素晴らしいものであることを痛感。
その音の秘密はテープレコーダーにたよらず、ディスクに直接カッティング(録音)されているからで、
LP登場以後の進歩したカッティングシステムで、
ディスクレコーディングをしたら、どんなに素晴らしい音のレコードがつくれるだろうと、
と夢見るようになる。

ダグラス・サックスの兄、シャーウッド・サックスはオーディオ・エンジニアであった。
弟ダグラスの話、ばかげたことと、一笑に附す。
けれどダグラス・サックスとリンカーン・マヨーガは1965年に実験を行っている。
結果はシャーウッドのいうことを実感させられるほどに難しいものだった。

技術的に解決しなければならない問題が山ほどあることを知らされ、
マヨーガはピアニストとして演奏活動をつづけ、サックスはレコードをつくる方に夢中になる。

ふたりは1968年にマスターリング・ラボという会社をつくる。
中古のカッティングレーサーを買い、シャーウッド・サックスが稼働できるように整備している。

この会社の成功が、シェフィールドのにつながっていく。
興味のある方は55号のお読みいただきたい。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その81)

55号の特集2のプレーヤーテストは、
最初に扉のページがあって、次の見開きに、瀬川先生と山中先生の「テストを終えて」がある。
それから個々の機種の試聴記が続く。

「テストを終えて」は、いわは後書きではあっても、
記事の構成上、前書きといえる位置にくる。

つまり「テストを終えて」を読んでから、
ここのプレーヤーの試聴記を読むわけだ。

この「テストを終えて」を読んで、
瀬川先生のうまさと配慮を、ほんとうの意味で知ったといえる。
     *
 良くできた製品とそうでない製品の聴かせる音質は、果物や魚の鮮度とうまさに似ているだろうか。例えばケンウッドL07Dは、限りなく新鮮という印象でズバ抜けているが、果物でいえばもうひと息熟成度が足りない。また魚でいえばもうひとつ脂の乗りが足りない、とでもいいたい音がした。
 その点、鮮度の良さではL07Dに及ばないが、よく熟した十分のうま味で堪能させてくれたのがエクスクルーシヴP3だ。だが、鮮度が生命の魚や果物と違って、適度に寝かせたほうが味わいの良くなる肉のように、そう、全くの上質の肉の味のするのがEMTだ。トーレンスをベストに調整したときの味もこれに一脈通じるが、肉の質は一〜二ランク落ちる。それにしてもトーレンスも十分においしい。リン・ソンデックは、熟成よりも鮮度で売る味、というところか。
 マイクロの二機種は、ドリップコーヒーの豆と器具を与えられた感じで、本当に注意深くいれたコーヒーは、まるで夢のような味わいの深さと香りの良さがあるものだが、そういう味を出すには、使い手のほうにそれにトライしてみようという積極的な意志が要求される。プレーヤーシステム自体のチューニングも大切だが、各社のトーンアームを試してみて、オーディオクラフトのMCタイプのアームでなくては、マイクロの糸ドライブの味わいは生かされにくいと思う。SAECやFRやスタックスやデンオンその他、アーム単体としては優れていても、マイクロとは必ずしも合わないと、私は思う。そして今回は、マイクロの新開発のアームコード(MLC128)に交換すると一層良いことがわかった。
     *
これだけのことと思われるかもしれないが、
これだけのことで、このあとのページに登場するプレーヤーの、
音質的・音色的位置づけが提示されている。
そのうえで、個々の試聴記を読むわけだ。

そしてすべての試聴記を読んだうえで、私はもう一度「テストを終えて」を読んだ。
誌面から音は出ない。

オーディオ雑誌について、ずっと以前からいわれ続けていることだ。
それでも、瀬川先生の文章を読んで、音は出てこなくとも、想像はできると確信できた。