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Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その15)

鍛えられていなくとも、オーディオはできるし、楽しめる。
ただ(その6)で書いた、どこをいじるか。
その個所を直感で決め、わずかな時間と手間で、そこでの不満を解消できるかどうかは、
鍛えられているからこそ、と断言できる。

鍛えられていなくとも、偶然でも、私と同じ個所をいじることはあろう。
それでも、そこをどうするかは違ってくるだろうし、
同じことをやれたとしても、別の場合には、偶然はそうそう重ならない。

偶然に頼って、というのは、鍛えられていない人のやり方である。

オーディオの再生系にはいじるところが、それこそ無数にある。
しかもそのいじり方もひとつではない。
どこをいじるのか、どういじるのか。組合せの数はさらに増える。

そこにぽんと放り出されたら……。
オーディオはどこをいじってもは音が変る。
だからこそやっかいでもある。

そのため見当違いであっても、そこに固執しがちになることがある。
とはいえ、それもまた楽しいといえる面があるのがオーディオなのだから、ややこしい。

オーディオは趣味で、本人が楽しんでいるのであれば、
第三者がとやかくいうことではない──のかもしれないが、
それでもいいたいのが、それがチューニングといえるのだろうか、である。

ここでは、オーディオは趣味だから……、は通用しなくなる。
本人がチューニングと思っていじっていれば、それはチューニングではないか。
そう考える人はいるけれど、私は違う。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その14)

「オーディオは趣味なのだから……」
鍛えるとか、鍛えられるとか、そんなことは趣味であるオーディオには無縁のこと。

──こういう考えがあってもいい。
こういう考えの人にとってのオーディオの師とは、
オーディオの楽しみを教えてくれた人、ということになる。

二年前の春、映画「セッション」(原題:WHIPLASH)について書いた。
この映画についての否定的な意見を、そのころfacebookでよく見かけた。

しかも面白いことに映画を観た上で書いているのではなく、
予告編だけを見てのものだったり、
誰かがこの映画について書いたものを読んでの否定的な意見が大半だった。

音楽をやるのに、この映画で描かれているようなことは必要ない。
楽しく、音楽を学んでいければいいのに……、
そんな感じが根底にある意見をいくつも見た。

鍛え鍛えられる──、
そんなことからは無縁でいたいのだろうか、とそれらの意見を見ていて思った。

オーディオの楽しみ方、関わり方は、人それぞれであっていい。
けれど、それは音楽との関わり方にも深く関係することである。

(その11)と(その12)で、私は恵まれていた、と書いたのは、そういうことである。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その13)

オーディオの使いこなしに限らない、
何かを身につけるには、正しいやり方による修練でなければならない。

独学だということを誇らしげにいう人もいるが、
そういう人の多くは独学ゆえの未熟なやり方であり、
そんなことをくり返し長い期間を続けてきても、
あるレベル(そう高いレベルではない)までは行けても、
それ以上のレベルには、独学だけではどうにもならない。

独学そのものが、独学のすべてがそうだというわけではないが、
独学は往々にして苦手なところを避けがちであり、
本人にそういう気持はなくとも、楽な方へと流れてしまいがちでもある。

だからといって、誰かについて学べばいいのか、というと、そうでもない。
誰を師とするかが、ここでは重要である。

鍛えられていない人を師とすれば、そこまで、である。

師をもつオーディオマニアは、意外に多い。
○○さんがオーディオの師です、という人はけっこういる。

○○さんは、決して有名な人ではなかったりする。
何も有名な人が師だからいいというものでもないし、
無名の人にも、優れたオーディオマニアはおられる。

けれど、○○さんが師です、といっている人を見ていると、
○○さんがどのくらいのオーディオマニアであったのか、間接的に知ることになる。

○○さんが師です、といっている人のやり方が、とても偏っていることが多いからだ。
○○さんが師です、という人の理解が悪くて、そうなっているのかもしれない。
○○さんは、素晴らしいオーディオマニアの可能性だってある。

○○さんを知らないのだから、どちらなのかははっきりとわからない。
素晴らしいオーディオマニアであっても、○○さんはおそらく鍛えられていない人だとは思う。

鍛えられている人ならば、人を鍛えることができるはずだからだ。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その6)

その3)でアナログプレーヤーを、
置き場所で左右前後に動かしてみると、音の変化ははっきりとしたものがある、と書いた。

何も特別なラックでなくとも、この音の変化は容易に聴きとれる。

こういう例もあった。
サイドボードの上にアナログプレーヤーが置かれていた。
サイドボードもしっかりとした造りではなく、
アナログプレーヤーの置き台としては望ましいとはいえなかった。
けれど、そこしか置き場所がないのであれば、その範囲で音が良くなるようにするしかない。

アナログプレーヤーの右奥の角をサイドボードの右奥の角と一致するように設置した。
サイドボードには側板があって、強度的にこの部分がしっかりしている。
そこにできるかぎりトーンアームの回転軸をもってくる。
ただこれだけで音の明瞭度は増す。

別のところでは国産の縦型ラックがあった。
システムコンポーネント用といえるラックで、特別にしっかりしたつくりでもなく、
キャスター付きのモノだった。

アナログプレーヤーを、ここでも右奥にずらす。
たったこれだけのことだ。
それまでの位置と右奥にずらしたときの音を聴いて、
オーディオに関心のなかった人が、
「クリフォード・ブラウンのフレーズがはっきりした」といってくれた。

私はトーンアームの回転軸を、
アナログプレーヤーの中心と考えている、と書いている。

これは、上記のことからもそうだといえる。
つまりアナログプレーヤーの中心とは、
完全な静止が理想であっても、現実にはそんなことは無理である。
だからできるかぎり静止状態にしておきたい個所、
他の個所よりも最優先で静止状態にしておきたいところであり、
それはトーンアームの回転軸であり、
その2)で書いているスタビライザーの少し意外な使い方も、
このアナログプレーヤーの中心と関係してくる。

少し意外な使い方に関しては、
ステレオサウンドの古い号にも書いてあるし、このブログの別項でも以前書いているし、
facebookでは写真を公開している。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その5)

「オーディオ(音)は自己表現だ」と強く主張する人がいる。
誰か特定の人を指して書いているのではなく、
そう主張する人は意外にも多い。

「オーディオ(音)は自己表現だ」をきくたびに、げんなりする。
昔はそうではなかった。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきいても、げんなりすることはなかった。

それがここ十年くらいか、げんなりするようになってきている。

「音は人なり」といわれている。
「音は人なり」をきいてげんなりするかといえば、そんなことはない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」と「音は人なり」。
似ているけれど、同じことをいっているわけではない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりするのは、
これを口にする人によっては「音は人なりだろ」といいたげなのが感じとれたりするからなのかもしれない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりすることが増してくるにつれて、
仏像について考えることも増えてきている。

いい音を求めていく行為は、仏像を彫っていく行為に近いような気がしはじめている。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その5)

2月1日のaudio wednesdayでは、この部分、
片持ちになっている先端(プレーヤーボードの右奥の角)に下に、ものをかませることにした。

あらかじめ、喫茶茶会記のアナログプレーヤーについて細部を見ておけばよかったのが、
それを怠ったため、当日になって三点支持だったことに気づいた。
最初からわかっていれば、手頃な角材でも用意してくるのだが、そういう用意はない。

喫茶茶会記にも使えそうな角材はなかったので、アルミケースを使うことにした。
高さが数cmほどたりないので、厚手のフェルトを二枚折り重ねて高さを、なんとか合せる。

なのでがっちりとプレーヤーボードの右奥の角を支えているわけではない。
軽く支えている程度ではあるし、アルミケースも共振体になってもいるが、
それでもはっきりとした効果が、音になって聴きとれる。

片持ち部分を片持ちにしないだけでも得られる変化であり、
よりきちんとした支えにすれば、変化はもっとはっきりしたものとなる。

同じことが十年以上前にもあった。
あるオーディオ店で、あるスピーカーが鳴らされていた。
決してうまく鳴っているといえなかった。

オーディオ店は営業時間だったが、平日ということもあってか、
客は私ら以外にはいなかった。
店のスタッフがひとり、私らが四人で、そのうちの一人がスタッフと顔なじみということもあって、
なんのすこしだけセッティングを変えることになった。

どこをいじってもよかったのだが、いちばん気になっていたところ、
エンクロージュア上部にあるトゥイーターの後部が片持ちになっているところを、
柔らかい素材を使って、軽く後部先端を支えた。

あまり強く支えてしまうと、別のテンションをがかかってしまうため、過度にやり過ぎないことである。
この効果は、やはり大きかった。

ちょうどアコースティックギターが鳴っていたのが、
エレキギター的な音に聴こえていた。
たったこれだけのことでアコースティックギターとして鳴ってくれる。

このときかかった時間も数分程度で音の変化は大きく、
多くの人の耳にもはっきりとわかるぼどである。

腕自慢をしているのではない、
片持ちが音に与える影響と、そこを対処することによる音の変化の確実さを知ってほしいだけである。

もちろん製品によっては、そういったことをわかったうえであえて片持ちにしているモノがないわけではない。
いわゆる音づくりのための片持ちがあるのは理解しているが、
そうではない片持ちの方が多いというのが現状だ。

Date: 2月 4th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その4)

アナログプレーヤーの中心は? ときかれて、どこだと答えるか。
アナログプレーヤーの中心をどう定義するかによっても違ってくるが、
ターンテーブルの中心と答える人が多いのではないだろうか。

ターンテーブルプラッターは回転しているわけだから、
そのセンターはまさしく中心といえる。

そういう考えからすれば、
今回使用したガラード401用のプレーヤーボードは、
その中心が三点支持の中、それも中心に近いところに位置している。

手前が二点、後方が一点の三点支持により形成される三角形の右側には、
片持ちの三角形が存在することになる。

しかもこの三角形はトーンアームがロングアームということもあって、
標準長のトーンアームの場合よりも面積は広いものとなる。

世の中に完全剛体の材質があれば片持ちの構造の影響も抑えられるだろうが、
現実にはそんな材質はないし、アナログプレーヤーの周りをさまざまな振動が囲っている。

一枚の板の一辺を固定して振動させれば、もっとも振幅が大きくなるところはどこだろうか。
その部分にトーンアームを取り付けるということはどういうことなのか。

私はアナログプレーヤーの中心は、
ターンテーブルの中心ではなく、トーンアームの回転軸だと捉えている。

今回の片持ちの構造だと、
私が考えるアナログプレーヤーの中心が大きく揺すられることになる。
もちろんその振動は目で捉えられるわけではないが、
振動モードを解析してみるまでもなく、片持ちの先端がどういう状態なのかは容易に想像がつく。

Date: 2月 4th, 2017
Cate: audio wednesday

第74回audio wednesdayのお知らせ

3月1日のaudio wednesdayのテーマは未定です。
音出しの予定ですが、アナログディスクでの音出しになるか、
それともCDによる音出しかは、まだ決めていません。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その3)

今回使用したアナログプレーヤーは、いわゆる自作プレーヤーということになる。
ガラード401が取り付けられている木製ボードと、台座から構成されていて、
台座は三点支持であるから、ボードとも三点で接している。

ボード手前の両端と後側の一点の三点である。
後側の一点は左側に寄ったところであり、
おそらくこのプレーヤーを自作した人は重量バランスを配慮しての、
こういう三点の配置にされたのだろう。

三点支持のオーディオ機器は多い。
けれど三点支持はガタツキがなく、楽ではあるが、必ずしも音の面で有利とはいえない。

三点支持によって形成される三角形の中に、オーディオ機器が収まっている関係であれば、
三点支持は確かにいい。
けれど実際にはそんな三点支持はほとんどない。

今回のプレーヤーにおける音質上の問題点は、ここにある。
どうしても三点支持にするのであれば、私なら前後を逆にする。
手前側を一点にして、後側両端の三点支持とする。

このプレーヤーキャビネットを製作された人は、
アナログプレーヤーを前後左右に動かして、それぞれの音を確かめられていないのかもしれない。

アナログプレーヤーは置き場所によって音が変ることはよく知られている。
けれど同じ置き場所(ラックや置き台)であっても、
ラックなら棚板の大きさに少し余裕があるから、前に動かしてみたり、左右に動かしてみたりできる。
斜めに動かすこともできる。

動かせる範囲は狭い。
狭いけれど、ここでの音の変化は決して小さくない。
しっかりした置き台であろうと、少しヤワな置き台であっても、
重量級のプレーヤーであろうと、軽量級のプレーヤーであろうと、
はっきりとした変化が聴きとれる。

この経験がある人ならば、少なくとも三点支持で後一点で、
しかもトーンアームの軸があるところを片持ちにすることはしないはずだからだ。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その2)

水とみかんだけの一日だったわけだから、空腹だったのは間違いないはずだ。
けれど空腹感はなかった。

いつもなら水とみかんだけで過していたら、強い空腹感が襲ってくる。
でも昨日はそんなことはないまま一日が過ぎていった。

胃が空であることを報せてくれるのが空腹感のはずだ。
なのに空腹感がないということは、どういうことなのだろうか、と考えていた。

空腹と空腹感は、どういう関係なのだろうか。
昨日は食事とはいえない内容だったけれど、ふだんは食べている。
一日くらい、水分とみかんだけでも不足はないということで、空腹感がなかったのだろうか。

だとしたらふだん感じている空腹感とは何なのか。
ほんとうに空腹だから感じていたのか。
もしかすると習慣が感じさせているということも考えられるか。

空腹でなくとも空腹感がある、ということが、
俗に言う別腹なのだろうか。
だとしたら空腹感を生み出しているのは胃ではなくて、別のところなのか。

この分野の専門家ならば、初歩的な疑問を書いているのかもしれない。
空腹と空腹感の違いを考えていると、
音に関しては、どういうことになるのだろうか。

Date: 2月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(体調不良になって・その1)

2月1日はaudio wednesdayは、できれば延期したかった。
明らかに体調不良で、外にでかけたくないほどだった。

とはいえ当日に延期にするわけにもいかない。
それでも始まると、カラ元気が湧いてくるもので、なんとかなった。
でも電車に乗って帰宅するときには、かなり弱っていた。
日付が変るころ最寄りの駅に着き、改札を出て、あまりの寒さにびっくりしていた。

気温は特別に低いわけではなく、
こちらの体調不良のため、いつも以上に寒さを感じていた。
足早に帰り、体をまず暖めた。
眠りについたのは2月2日の1時前である。

起きたのは11時ごろであった。
運良く用事もなかったので、一歩も外に出ずに済んだ。

ここまで体調不良だと、目を閉じて横になるといくらでも眠れる。
14時くらいにはまた横になって眠っていた。
そのままずっと眠っていたかったけれど、
ブログを書くためだけに夕方起きた。

それから入浴を済ませ、21時くらいにはまた横になった。
2月3日の起床時間は6時だから、29時間のあいだ、起きていた時間は七時間程度だった。
ほとんど活動休止状態の一日だった。

この間、摂ったのは水分とみかんだけである。
不思議と空腹感はなかった。

もともと人よりも量は食べる方である。
十数年前までは、夕食にはご飯を三合焚いて食べていた。
いまでは減らして二合にしている。

ここまでの体調不良になっても食べようと思えば、ごくふつうに食べられる。
食べたいという気持もあったけれど、食べなくてもいいという気持もある。

結局食べないという選択をした。
こういうことは過去にも何度かある。
食べない方が、あきらかに恢復が早い。

今回、特に感じたのは、感覚に騙されているのではないか、ということだった。
生命維持に直接関係してくる食においても、騙されているというか、
感覚を正しく認識していない、とでもいおうか、
そんなことを考えていた。

ましてスピーカーから鳴ってくる音に対しての感覚。
感覚は騙そうとはしていないのかもしれないが、
何かが感覚を素直に受け取られないようにしている。
そんな気がしていた体調不良の一日だった。

Date: 2月 2nd, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その2)

ふたつのスタビライザーを用意して、聴ける音は三つ、と考えがちだ。
スタビライザーを使わない音、
トーレンスのスタビライザーにした音、山本音響のスタビライザーにした音。

けれどスタビライザーがひとつでも、基本的に三つの音を聴くことができる。
だからふたつのスタビライザーがあれば、七つの音が聴ける。

このスタビライザーの、少し意外な使い方による音の変化は大きい。
スタビライザーをレコードのレーベルに乗せるのは、個人的にはあまり好まない。
使う時もあれば、使わない時もある。

スタビライザーの使用によって、音が良くなると考えるよりも、
トーンコントロールみたいなものと思って使っている。
使うスタビライザーの性質をわかっていれば、乗せたり外したりは、すぐに判断がつくようになる。

このスタビライザーによる七つの音は、最後にもう一度行った。
スタビライザーの少し意外な使い方は、私が担当した井上先生の記事で書いている。
記事を憶えている方ならば、すぐにわかるはずだ。

松田聖子のLPをくり返し聴いていたときに、
参加された方の聴いているポイントは少しずつ違っていた、と感じた。

私はというと、Kさんが松田聖子のディスクを持参されることもあって、
ここ数年聴く機会が増えた。

松田聖子のデビューは1980年だから、まだ実家暮しで、
テレビから流れてくる松田聖子の歌を聴くくらいだった。
松田聖子のディスクを買ったことはなく、
1980年ころのテレビでの松田聖子によって、イメージができ上がっていた。

アイドル歌手としての松田聖子だった。
でも松田聖子のCDなりLPを聴く機会があって、感じたのは松田聖子はプロの歌手だということ。
だから松田聖子の声質よりも、松田聖子の歌の表現力がどれだけ拡がるかを、まず聴いている。

Date: 2月 2nd, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その1)

アナログディスク再生といっても、
セッティングはいつものと基本的には同じ。

いつもCDプレーヤーを置いている位置にアナログプレーヤーを置いた。
スピーカーのセッティングは、実は毎回少しずつ変えている。
視覚的にもわずかな変化だから、毎回来られている方も気づいていないかもしれない。

アナログディスク再生・序夜のアナログプレーヤーは、
何度も書いているようにガラードの401に、オルトフォンのSPUとRMG309の組合せ。
昇圧トランスはオルトフォンのST5である。

この他に常連のKさんがシェルターの昇圧トランスと、
トーレンスと山本音響のスタビライザー、それから是枝重治氏のフォノイコライザーアンプを持参された。

是枝重治氏のアンプは、デンオンのDL103様の昇圧トランス(初期型)を内蔵したもので、
真空管ではなくOPアンプ構成の小型のモノである。
これらを使い、約四時間、あれこれやっていた。

最初に、おおまかなセッティングの調整。
最初に来られたKさん持参のLP(松田聖子)に固定した。
一時間以上、松田聖子の一曲をくり返し聴いていた。

音は確実に変化していくので、楽しいと思う人もいれば、
少なくとも10回以上、20回近く、同じ曲の同じところをくり返し聴かされることにうんざりされたかもしれない。

松田聖子のLPを使ったセッティングは、19時の開始前にやっておく手もあった。
でも、どういうことでアナログディスク再生は音が変化するのかを体験してもらいたかったのと、
私自身、ひどく体調不良で、そこまでの余裕がなかった、ということもある。

松田聖子のLPで、昇圧トランスはシェルターにした。
接続ケーブルもKさん持参のモノにした。トランスの置き方もいくつか試した。

松田聖子のLPで決めたことのひとつは、スタビライザーの使い方である。
トーレンスと山本音響の、ふたつのスタビライザーを聴いた。

スタビライザーを使わない音から始まり、七つの音を聴いた。

Date: 2月 1st, 2017
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その4)

その3)でも書いたスピーカーケーブルの長さの極端な違いによる、
スピーカーからの音圧の低下。
これは物理現象としても数値として確認できる。

つまりは音は変っているわけである。
しかもはっきりと。
聴感上だけでなく、数値上も変っている。

にも関わらず、ケーブルで音が変らないと頑なに主張する人は、
音圧低下分だけボリュウムを上げれば同じになる、という。
つまり音圧レベルの変化は、音の変化ではないということらしい。
すごい理屈だと思う。
そんな程度の人が「オーディオは科学だ」といい、
ケーブルで音が変るなんて、オカルトだ、といっているのである。

ボリュウムを上げれば同じ、という人の考えは科学とはいえない。
絶対的に科学とはいえない。
観測条件を意図的に変えているわけだから。

こういうことを何の疑問もなしにやってしまう人は、
いったい何なのだろうか。
オーディオマニアとはいえないし、オーディオを科学と捉えているともいえない。

本人がいくら「オーディオを科学として捉えている」といったところで、
自らの言動が、そうでないことを誰の目にもはっきりと表している。
本人は、なぜそのことに気づかないのか。

二本のケーブルの音を比較するにあたって、
ケーブルの品種の違い以外のすべてを、どれだけ条件を同じにできるか。
これは想像以上に難しいことであり、微妙な音の差を聴き分けようという場合には、
さらに難しさは増すにも関わらず、
ブラインドフォールドテストによる結果のみがオーディオの真実だ、といっている人の多くには、
理解されていないようである。

ブラインドフォールドテストを無意味とは考えていない。
けれど本当の意味でのブラインドフォールドテストを行うには、
ケーブルで音は変らない、としか聴こえない耳、
そして音圧低下分はボリュウムを上げればいい、と考えてしまう知性では、
はっきりと無理である。

Date: 1月 31st, 2017
Cate: 正しいもの

正しい音と正しい聴き方(その2)

そういえば、と気づく。
正視はあるが、正聴はない。
あるのは静聴と清聴である。

正視とは、まっすぐに見つめること。対象を正面から見つめること。
静聴は、静かにきくこと。心を落ちつけやすらかにしてよく聞くこと。
辞書には、そう書いてある。

静聴が、正視に相当する、ということなのか。
でも微妙に違うだろう、といいたくなる。

なぜ正聴がないのか。