ちいさな結論(「音は人なり」とは)
毒をもって毒を制す。
オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なりの毒がある。
それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。
それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。
毒をもって毒を制す。
オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なりの毒がある。
それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。
それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESを聴いた時から思っていたのは、
山中先生はどうやって、このCDに出逢われたのだろうか、だった。
黒田先生は、ステレオサウンド 56号に「異相の木」を書かれていた。
ヴァンゲリスの音楽について書かれた文章だった。
「異相の木」の書き出しはこうだった。
*
庭がある。ほどほどの広さの庭である。庭ともなれば、木の一本や二本うわっていても、おかしくはない。なるほど、それらしい木が、それらしくうわっている。春には、花も咲いたのかもしれないが、いまはみあたらない。
庭には、おのずと、主がいる。それらしい木をそれらしくうえた人間である。木は、松であったり、杉であったり、檜であったり、桐であったりする。つまり、木であれば、なんでもかまわない。いずれにしろ木である。その木が、そしてその木のうえられ方、ひいてはそだち方が庭の主を語る。
ひどく手入れのいい、そのために人工的な気配さえただよう庭が、一方にある。むろんそういう庭には、雑草などはえているはずもない。「見事な庭ですね」と、そこをおとずれた人は、きまっていう。そういわれるのが、その庭の主は好きである。庭の主は、そういわれたいばかりに、しばしば、そこに人をまねく。まねかれる人は、庭の見事さを理解する、いわゆる通にかぎられる。「この木はなんですか、松ですか杉ですか」などととんちんかんなことを口走る人間は、その庭の主の客とはなりえない。
*
「異相の木」での庭とは、レコードコレクションを指している。
その上での、ヴァンゲリスの音楽が、黒田先生の「庭」にとっては異相の木である。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESは、
どこか山中先生にとっての異相の木のようにも感じていた。
そのことについて訊くことはしなかった。
ハイレス・ミュージックのサイト内のMQA-C Dソフト情報のところには、
ボブ・スチュアートの名前がある。
山中先生は、ボブ・スチュアートからFAIRYTALESをすすめられたのだろう。
ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんは、
ボブ・スチュアートに頼まれて、
ステレオサウンドから出ている山中先生の著作集をイギリスに送られた、とのこと。
きっと深い交流があったのだろう。
こういうことをきくと、山中先生が試聴室で鳴らされたメリディアンの音のことを思い出す。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESによって、いくつかのことがつながっていくようだ。
山中先生にとってFAIRYTALESが異相の木だったのかどうかは、わからない。
私が勝手にそうおもっているだけである。
私にとっては、どうだったのか。
遠ざけてきたわけだから、異相の木なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ADORO, LA REINE DE SABA、
こう表記すると、どのディスクのこと? と思われるだろうが、
日本語表記では「アドロ・サバの女王」である。
今日(9月19日)は、ユニバーサルミュージックのハイレゾCD名盤シリーズ、
邦楽シリーズの発売日である。
MQA-CDでの発売である。
すでに何度か書いているように、今日発売の30タイトルの中に、
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」がある。
MQA-CDだから、いまのところ聴く環境を持っていないが、
ディスクだけは買ってきた。
ハイレゾCD名盤シリーズは、邦楽だけでなく、洋楽、ジャズ、クラシックも既に発売されているが、
生産限定盤であるから、無くなってしまったら買えなくなる。
メリディアンのULTRA DACでのMQAの音を聴いて二週間。
あの音は、いまも、そしてこれからも耳に残っていることだろう。
いま買っておかないと、いずれ後悔する。
それに一枚でも多く売れれば、次回があるかもしれない。
グラシェラ・スサーナの他のアルバムも、MQA-CDとして登場してくる可能性が芽生えるかもしれない。
そうなってほしいと、思っている。
Radka Toneffの名前を久しぶりに目にした。
ラドカ・トネフ、ノルウェーの女性歌手だった。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESを聴いたのは、もう30年ほど前のこと。
ステレオサウンドの試聴室で、山中先生がもってこられたCDの一枚が、FAIRYTALESだった。
何の試聴だったのかを、なぜか憶えていない。
どのオーディオ機器で聴いたのかも、不思議と憶えていない。
そのくらい、ラドカ・トネフの歌の衝撃が大きすぎた。
山中先生は、「これ」といってディスクを渡された。
ジャケットのイラストを見ても、どんな音楽が鳴ってくるのかはわからなかった。
ディスクをCDプレーヤーにセットして再生する。
私だけでなく、その時、試聴室に他の編集者も衝撃を受けたようだった。
山中先生は、我らの表情を見て、そうだろ、というような顔をされていた。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESは、私も買ったし、他の編集者も買った。
FAIRYTALESには、いいようのない雰囲気があった。
たじろぐようなところもあった。
それゆえ、愛聴盤とはいえないところもある。
ラドカ・トネフについて詳しいことは知らない。
FAIRYTALESの録音後に自殺していることだけは、聴き終ったときに山中先生から聞いている。
歌い手の自殺(自殺でなくても、事故死、病死であっても)と、
その歌とを、結びつけようとは思わない。
世の中には、自分だけの物語をつくって、深く(勝手に)結びつける人もいるけれど、
私は、そういうことには興味がない。
そんな私でも、FAIRYTALESは何かが違う、と感じた。
物語をつくったりはしないが、遠ざけてきた一枚である。
そのFAIRYTALESが、MQA-CDになっている。
メリディアンの輸入元ハイレス・ミュージックのサイトを見ていて、見つけた。
MQA-C Dソフト情報のページの中ほどに、ラドカ・トネフのFAIRYTALESのことが載っている。
手に入れなければ! と昨晩思っていた。
FAIRYTALESは、限定盤である。
枚数もごくわずかである。
注文方法も、ハイレス・ミュージックのサイトに書いてある。
(その2)で、MA7900のUSB端子によるデジタル入力を使うには、
入力セレクターをまわしていけばいいというものではないことを書いた。
バランス入力に関しても同じある。
入力セレクターどれだけまわしても、バランス入力になるわけではない。
ここでまた取り扱い説明書が必要になる。
しかもMA7900の取り扱い説明書は印刷物を綴じているわけではない。
一枚一枚バラバラの状態である。
こうなると、さらに面倒に感じてしまう。
それでもわかりやすい取り扱い説明書ならば、ここにこんなことを書きはしない。
いまではオーディオ機器がどんどん高価になっていっている。
そんな状況では、マッキントッシュのMA7900は、さほど高価とはいえなくなっているのかもしれない。
それでも現実には、数十万円の出費を要する。
そういうオーディオ機器の取り扱い説明書が、これなのか、と少々がっかりもする。
MA7900は、その機能の割にフロントパネルのツマミが少ないのは、
(その3)でも書いているように、整理と省略を意図して、のはずだ。
私はMA7900に触れるのはaudio wednesdayで、月一回だけである。
そのくらいの頻度だから、バランス入力に切替えるにしても、
取り扱い説明書が必要になるし、その取り扱い説明書のどこに書いてあるのかをまず探す。
それから取り扱い説明書を見ながら、いじるわけだ。
一回やれば、難しいことではない、のはわかる。
ければ、月一回しか触らない私には、
次に同じようなことをやろうとしたときには、また忘れたりする可能性もある。
さすがに、今回のことで、入力セレクターに関しては、忘れないだろうが、
こんな感じで触っていると、ちょっといらいらする。
いらいらしながら、これはマッキントッシュの製品なのだろうか、と悪態をつきたくなる。
以前のマッキントッシュならば、こんなことを思いはしなかったはずだ。
そういえば、そのころのマッキントッシュの取り扱い説明書は、どんなふうだったのだろうか。
いまごろになって気になっている。
コンデンサー型スピーカーといえば、
イギリスのQUAD、日本のスタックスという時代があった。
そういう時代にオーディオに関心をもった私にとって、
スタックスはコンデンサー型ヘッドフォンに積極的であるのに、
QUADは……、と思ったことがあった。
QUADの創業は1935年、スタックスは1938年。
スタックスはSTAXで、アルファベット四文字、QUADもそうだ。
イギリスと日本、
どちらも島国である。
創業した年が近く、いくつかの共通点があり、どちらもコンデンサー型スピーカーを作ってきた。
けれどQUADには、これまでヘッドフォンはなかった。
QUADの創業者のピーター・ウォーカーの方針だったのだろう。
それでもオーディオマニアとして、QUADのESLを鳴らしてきた者として、
それに修理が必要とはいえESL63 Proをいまも所有している私としては、
出てこないだろう、とわかっていても、どこかでQUADのヘッドフォンの登場、
もちろんコンデンサー型ヘッドフォンの登場を待ち望んでいた。
いまのQUADにピーター・ウォーカーは当然いない。
息子のロス・ウォーカーもいない(はずだ)。
いまのQUADは、昔のQUADではない──、
そんな言い方は確かにできる。
それでもQUADはQUADだ、ということを、
今回のQUAD初のヘッドフォンERA1の記事を読んで、そう感じた。
心が騒ぐからだ。
ここまで書いて、もう一度当該記事を読み返した。
コンデンサー型ではない。
コンデンサー型の技術を活かしたダイナミック型である。
わずか15分くらいのワクワクだった。
それでも、このワクワクは楽しかった。
「QUADがコンデンサー型ヘッドフォンを開発」は、いつか実現するのかもしれない。
その時は、ほんとうのワクワクがあるのだろうか。
そういう違いのある、MCD350の音とULTRA DACの音で「Moanin’」を聴いている。
MCD350によるSACDの音を基準とすれば、
ULTRA DACによるMQAディスクの音は、やや暗いと受けとられるし、
後者の音を基準とすれば、MCD350での音は明るすぎる、ともなる。
どちらの鳴り方が「Moanin’」なのか。
「Moanin’」はmoanから来ている、とある。
moanには、 (苦痛·悲しみの)うめき(声) 、
〈不幸などを〉嘆く、悲しむ、〈死者を〉いたみ悲しむの意味がある。
そんなmoanの意味を知れば、ULTRA DACでの「Moanin’」なのかとも思う。
クラシックを主に聴いてきた私は、
「Moanin’」の鳴り方はこうでなくては、というのがまだ形成されていない。
「Moanin’」の意味を考えずに、能天気に聴いているのであれば、
MCD350の音も気に入っている。
それでも、一度「Moanin’」の意味を知ろうと思ったのであれば、
聴き方も自ずと変ってくるというものだ。
ULTRA DACでの「Moanin’」も、やはり静かだ。
静かであっても、いわゆる鉛などを使った鈍重な静けさの音が、
角を矯めて牛を殺す的に陥りがちであるのとは違う。
躍動している。
バド・パウエルの「Cleopatra’s Dream」も聴いた。
このディスクは、こうあってほしい、というイメージが私にもある。
もう少しセッティングを詰めていったら──、と感じもしていたが、
それでもベクトルは一致している。
ならば「Moanin’」も、ULTRA DACでの音こそ、となるのか。
「Moanin’」のDSDファイルをULTRA DACで鳴らした音も、
だから無性に聴きたい。
audio wednesdayで、D/Aコンバーターをつけ加えたことは三度ほどある。
一度はオーディオアルケミーの安価なモノ、
それからマイテックデジタルのManhattanにしたことが二回あった。
ラックスのD38uを使っていたころである。
オーディオアルケミーだと、D38uのままで聴いた方が好結果だった。
Manhattanでは、D38uに感じていた不満なところがほぼなくなる。
それでもホーン鳴きが明らかに減った、という印象はなかった。
マッキントッシュのMCD350の筐体は、お世辞にもがっしりしているわけではない。
指で叩けば、そこそこ雑共振といえる音がする。
D38uは外装のウッドケースを外すと、内部が見える構造である。
MCD350よりは雑共振も少ない。
ホーン鳴きが気になるのは、このへんのことも関係している。
どんなオーディオ機器でも、実際に自分の手で持ってみた時の感触は、
わりあいそのままと音として出てくるところがある。
雑共振のかたまりのようなつくりのオーディオ機器から、澄んだ音が聴けたためしは一度もない。
MCD350のシャーシーの共振点と811Bのホーン鳴きは、近いところにあるのかもしれない。
MCD350にしてから、特にSACDを聴いていると、ホーン鳴きを以前よりも意識することが多くなった。
SACDの情報量の多さが、
MCD350のシャーシーの共振と相俟って811Bのホーン鳴きと浮び上らせているようだ。
ULTRA DACでは、そこが違った。
Manhattanでは、そうは鳴らなかった。
けれどULTRA DACでは、ホーン鳴きが抑えられているように感じる。
情報量は多いにも関らずだ。
ULTRA DACのシャーシーは雑共振がするような造りではない。
そのことだけでホーン鳴きが耳につかないわけでもないようだ。
ULTRA DACの帯域バランスというか、
エネルギーバランスも関係してのことのようにも感じている。
とはいえ、9月5日の試聴だけでは、そこまで断言できないものの、
しっかりとしたエネルギーバランスがあってこそのホーン鳴きの少なさではないのか。
カセットテープ、カセットデッキに強い関心をもてなかった私だけれど、
メタルテープの登場には、やはり目を奪われた。
スゴいテープが出てきた、と思った。
自分でも使ってみたい、と思ったけれど、
そのころ私が使っていたカセットデッキはメタルテープ対応ではなかった。
それでも、メタルテープの実力は何度か聴いている。
結局、何を録音するのかを冷静に考えれば、
カセットデッキにメタルテープというのは、もったいないのかも……、とおもいもあった。
だからオープンリールテープがいつメタル化するのだろうか、とも思っていた。
オープンリールデッキにメタルテープ、それも2トラック38cm/sec。
どういう音がするのだろうか、と想像力をたくましくしていた時期があった。
価格もいったいどれだけ高価になるのだろうか、とも想像していた。
10号リールのメタルテープ、相当に高価になったはずだ。
結局、オープンリールのメタルテープはあらわれなかった。
どこも開発しようとしなかったのか。
そうとは思えない。
どこかはやっていたはずだ。
その音を聴いた人もいるはずだ。
どんな音がしたのだろうか。
それから忘れてはならないのが、
アルテックのホーン鳴きが、いままでほど気にならなかったことだ。
806Aドライバーは811Bホーンに取り付けられている。
811Bはホーン自体にデッドニングを一切施していない。
ホーン鳴きに対して、喫茶茶会記の811Bに何もしていないわけではないが、
積極的にやっているわけでもない。デッドニングはしていない。
ホーン鳴きは、確かに気になる。
けれどかける音楽よっては、いい方向に作用してくれることだってある。
それは、やはり金管楽器の鳴り方には、うまく作用することがある。
今年になってよくかけているのが、アート・ブレイキーの「Moanin’」。
「Moanin’」では811Bのホーン鳴きがむしろ心地よい、というより快感でもある。
これぞブラス! といいたくなるほど、うまくはまる。
圧縮された空気が開口部から一気に放射される金管楽器ならではの鳴り方は、
単にエネルギー感がうまく再現できたり、立ち上りがはやいからといって、
それだけで満足のいく鳴り方をしてくれるとはかぎらない。
昔ながらのホーン型で聴くと、それは、いわばホーン型特有の毒とわかっていても、
その魅力は認めざるをえない。
MQAディスクにも、「Moanin’」はある。
ユニバーサルミュージックのカタログをみると、
「Moanin’」のSACDとMQAディスクのマスターは同じようである。
ULTRA DACでの「Moanin’」のMQAディスクは、
MCD350で再生したSACDとはずいぶん違う。
明るさでいえば、MCD350でのSACDである。
けれど、いつも聴いていて感じているのは、ホーン鳴きによる効果と、その悪さである。
金管楽器の金属の厚みが、少し薄いように感じなくもない。
ULTRA DACで再生したMQAディスクの「Moanin’」は、明るくはない。
けれど、楽器の金属の薄さは感じなかった。
それにホーン鳴きの悪さを、さほど感じない。
これは少々意外だった。
アンプも同じ、スピーカーも同じ。
実はホーンの置き方をわずかに変えていたけれど、
それは以前、何度か試していて、どういう音の変化なのかはわかっていた。
それを考慮しても、意外に感じるほど、ホーン鳴きに耳につきにくい。
四年前に、ある記事を読んだ。
それがきっかけで、マランツのModel 7はオープンソースなのか、ということを考えるようになった。
その『多くのファンを魅了しながら突然姿を消した謎の天才オーディオエンジニア「NwAvGuy」』で知ったのだが、アメリカにはNwAvGuyと名乗る匿名のエンジニアがいる。
2012年を最後に、なぜかぷっつり活動を止めてしまっているようだが、
彼が設計したヘッドフォンアンプとD/Aコンバーターは、かなり安価に製作できるにも関らず、
かなりの高音質で話題になった、とある。
NwAvGuyは、回路図をオープンソースとして公開している。
詳しいことは、上記リンク先の記事を読んでほしい。
オープンソースの規約に基づいて製品化もなされている。
いま現在も購入できる。
回路図だけでなくプリント基板のパターンも公開されている。
製品化されたモノを買わなくとも、腕に自信のある人ならば、完全なコピーを作ることも可能だ。
同じことは、無線と実験、ラジオ技術などの技術誌の自作記事でもいえる。
回路図は公開されている。
プリント基板のパターンも同じく公開されている。
シャーシーの加工図もある。
部品の指定もある。
同じといえば同じである。
けれど、それらの記事のアンプが、オープンソースを謳うことはなかった。
当り前といえば当り前のことなのだが、
オーディオ雑誌でのアンプの自作記事を数多く、それまで見てきた者にとっては、
NwAvGuyのオープンソース宣言は、そういう考え方もできるんだな、と多少の驚きがあった。
オープンソースという言葉が生れたのは1998年らしい。
もちろんコンピューターのソフトウェア関係から生れている。
それまでそういう言葉、そういう考え方は、オーディオの世界にはなかったといってもいいのだから、
雑誌記事の回路図、プリント基板のパターン、
それだけでなく、マランツやマッキントッシュQUADなど、
過去のアンプの回路図もまた公開されてきたけれど、
それらをオープンソースと呼ぶ人は誰もいなかった。
けれどいわれてみれば、オープンソースなのかもしれない、と思う。
マランツのModel 7にしても回路図、その他はさまざまなところで公開されている。
解説記事もいくつもある。
Model 7はプリント基板を使うわけではないから、自作の難度は低くはない。
それでもデッドコピーを作るのに不足している情報はない、といってもいい。
これがマッキントッシュの真空管パワーアンプだと、
回路図、コンストラクションはマネできても、出力トランスだけは無理である。
その点、Model 7はコントロールアンプだから、その厄介さはない。
だから、ここでのタイトルは、マランツのModel 7なのである。
度々書いているM20にも、ULTRA DACに通じる良さは感じていた。
特にCDプレーヤーの207との組合せでは、ここに源流があるのかも、とおもう。
M20+207も、沈黙したがっていた──、
私の記憶のなかでは、いまもそういう音で鳴っている。
それでもM20+207の、その音、ひっそりと鳴る音は、時としてこじんまりしがちだった。
それが、このミニマムな組合せの良さだったとはわかっていても、それだけでは満足できようがなかった。
M20+207の音から、約30年。
ULTRA DACの音は、見事だ。立派ともいえる。
こじまんりとはしていない。
もっとこうあってほしい、と思っていたところはすべてにおいて良くなっている。
むしろ堂々としている。
それでいてこれみよがしではない。
ULTRA DACの音は澄明と書いたが、それは低音域において顕著なのかもしれない。
低音が澄んでいる。
この、澄んだ低音を実現するための大きさならば、
大きすぎと感じたULTRA DACのサイズもすんなり受け入れられるようになる。
別項で書いている「JUSTICE LEAGUE」のサウンドトラック盤。
9月5日のaudio wednesdayで、最初にかけたディスクはこれだった。
ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんと私だけの時にかけている。
マッキントッシュのMCD350で鳴らしている。
その時の音と、ULTRA DACでの音は大きく違っていた。
アンプの電源を入れてさほど時間が経っていない音との比較ということもあるが、
それ以上の違いがあった。それこそ澄んだ低音とそうでない低音の違いであり、
低音における解像力の違いとしても、それははっきりとあらわれていた。
ULTRA DACを聴く以前は、そんなふうに感じていなかったが、
MCD350の低音はわずかとはいえ混濁している。
おそらくMCD350だけがそうなのではないのかもしれない。
多くのCDプレーヤー、D/Aコンバーターにも同じことはいえるのかもしれない。
混濁した低音は、マスとしての力を感じさせることだってある。
澄んだ低音は、充分な力がなければ、頼りなく感じもしよう。
ULTRA DACはそうではなかった。
「JUSTICE LEAGUE」の一曲目、“EVERYBODY KNOWS”には、聴いている皆が耳をすます。
そんな雰囲気を感じていた。
そういえば、この場合もすますも、澄ますである。
“COME TOGETHER”は、大きめの音量でかけた。
こういう音で聴きたかったんだ、という聴き応えのある音で鳴ってくれた。
MCD350だけで聴いていたら、いまどきのサウンドトラック盤というのは、
こんな音づくりなのか、と判断を誤るところだった。
「JUSTICE LEAGUE」はaudio wednesdayの当日に買っている。
瀬川先生は、「澄明」と書かれる。「透明」ではない。
透明な音は、いまや世の中に溢れている、といってもいい。
ULTRA DACより高価なD/Aコンバーターは、いくつもある。
ULTRA DACより透明な音のD/Aコンバーターも、直接比較試聴したわけではないが、
いくつもある、といっていい。
現状において、これ以上透明な音はない、
そういえるぐらい透明な音があっても、
だからといって《鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい》といえるわけではない。
《無音の清澄感》があるともいえない。
ULTRA DACの静けさは、澄明である。
だからこそ、他の、D/Aコンバーターとは違うと感じたのだろう。
《ふと音が歇んだときの静寂の深さが違う》、
《音の鳴らない静けさに気品がある》、
そういう静けさをULTRA DACは再現してくれる。
情景が浮ぶのは、そういうところと深く関係しているのかもしれない。
しかも、その静けさは、決して鈍重な静けさではない。
機械的な雑共振を抑えるために、鉛が使われることがある。
トーンアームではオイルが使われることもある。
鉛の振動を抑える効果は確かにある。
粘性の高いオイルによるダンプ効果も確かにある。
けれど、それらの手法は、往々にして鈍重な静けさへとなる。
活き活きとした表情、ヴィヴィッドな音も、雑共振とともに失われていく傾向がある。
ULTRA DACに、そういう傾向は微塵も感じられなかった。
そういう音(静けさ)ゆえに、アルテックから沈黙したがっていたのだろう。
「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
*
はじめに言っておかねばならないが、再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている。これを悟るのに私は三十年余りかかったように思う。
むろん、音を出さぬ時の(レコードを聴かぬ日の)スピーカー・エンクロージァは、部屋の壁ぎわに置かれた不様な箱であり、私の家の場合でいえばひじょうに嵩張った物体である。お世辞にも家具とは呼べぬ。ある人のは、多少、コンソールに纏められてあるかも知れないが、そんな外観のことではなく、それを鳴らすために電気を入れるとしよう。プレーヤーのターンテーブルが、まず回り出す。それにレコードをのせる以前のたまゆらの静謐の中に、すでにスピーカーの意志的沈黙ははじまる。
優れた再生装置におけるほど、どんな華麗な音を鳴らすよりも沈黙こそはスピーカーのもてる機能を発揮した状態だ。装置が優れているほど、そしてこの沈黙は美しい。どう説明したらいいか。レコードに針をおろすのが間延びすれば、もうそれは沈黙ではない。ただの不様な置物(木箱)の無音にとどまる。
光をプリズムに通せば、赤や黄や青色に分かれることは誰でも知っているが、円盤にそういう色の縞を描き分け、これを早く回転させれば円盤は白色に見えることも知られている。つまり白こそあらゆる色彩を含むために無色である。この原理を応用して、無音こそ、すべての音色をふくんだ無音であると仮定し、従来とはまったく異なる録音機を発明しようとした学者がいたそうだ。
従来のテープレコーダーは、磁気テープにマイクの捉えた音を電気信号としてプラスする、その学者の考えは、磁気テープの無音は、すでにあらゆる音を内蔵したものゆえ、マイクより伝達される音をマイナスすれば、テープには、ひじょうに鮮明な音が刻まれるだろう、簡単にいえばそういうことらしい。
私はその方面にはシロウトで、テープヘッドにそういうマイナス音の伝達が可能かどうか、また単純に考えて無音(零)からマイクの捉えた音(正数)をマイナスするのは、数式で言えば結局プラスとなり、従来のものとどう違うのか、その辺はわからない。しかし感じとしては、この学者の考えるところはじつによくわかった。
ネガティブな録音法とも称すべきこれを考案した学者の話は、だいぶ以前に『科学朝日』のY君から聞いたのだが、その後、いっこうに新案の録音機が発表されぬところをみると、工程のどこぞに無理があるのだろう。あるいはまったく空想に過ぎぬ録音法なのかもしれぬが、そんなことはどうでもよい。
おそらくこの学者も私と同じレコードの聴き方をしてきた人に相違ないと思う。ひじょうに密度の濃い沈黙——スピーカーの無音は、あらゆる華麗な音を内蔵するのを知った人だ、そういう沈黙のきこえる耳をもっている人だ、と思う。
レコードを鑑賞するのに、針をおろす以前のこうした沈黙を知らぬ人の鑑賞法など、私は信用しない。音楽が鳴り出すまでにどれほど多彩な楽想や、期待にみちびかれた演奏がきこえているか。そもそも期待を前置せぬどんな鑑賞があり得るのか。
音楽は、自然音ではない。悲しみの余り人間は絶叫することはある。しかし絶叫した声でメロディを唄ったりはすまい。オペラにおける“悲しみのアリア”は、この意味で不自然だと私は思う。メロディをくちずさむ悲しみはあるが、甲高いソプラノの歌など悲しみの中で人は口にするものではない。歌劇における嘆きのアリアはかくて矛盾している。
私たちがたとえば“ドン・ジョバンニ”のエルヴィーラの嘆きのアリア「私を裏切った……」(Mi tradi……)に感動するのは、またトリスタンの死後にうたうイゾルデに昂奮するのは、言うまでもなくそれが優れた音楽だからで、嘆くのが自然だからではない。厳密には理不尽な矛盾した嘆き方ゆえ感動するとも言えるだろう。
そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき“音の革命”をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
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この文章には、
「鳴る音より、音の歇んだ沈黙の深さで、スピーカーのよし悪しはわかる。」とつけられていた。
《再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている》ことを、
五味先生は30年余りかけて悟られた。
そのことをオーディオに興味を持ち始めたばかりの中学生の私に、
経験として理解することは到底できないことであり、
それでも知識として、とても重要なことなのは、わかっていた(つもりだった)。
それからさまざまなスピーカーを聴いてきた。
沈黙したがっているスピーカーは確かにある。
私がそう感じたのは、主にイギリスのスピーカーにおいてだった。
すべてのスピーカーが沈黙したがっているとは思えなかった。
特にアルテックのスピーカーは、沈黙したがっているわけではない、と思っていた。
ヴァイタヴォックスは、アルテックの英国版と説明されることがある。
確かにそういえる。
なぜ、アルテックの英国版なのか。
それはヴァイタヴォックスは、沈黙したがっていて、アルテックはそうではないからだ──、
とずっと思ってきた。
ULTRA DACを聴いて、考えを改めているところだ。
アルテックも沈黙したがっていたことに、いまごろになって気づいた。
瀬川先生が、SMEの3012-R Specialの音について書かれていることは、
そっくりULTRA DACの音のことでもある。
ここのとこは、もう一度引用しておこう。
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えもいわれぬ良い雰囲気が漂いはじめる。テストしている、という気分は、あっという間に忘れ去ってゆく。音のひと粒ひと粒が、生きて、聴き手をグンととらえる。といっても、よくある鮮度鮮度したような、いかにも音の粒立ちがいいぞ、とこけおどかすような、あるいは、いかにも音がたくさん、そして前に出てくるぞ、式のきょうび流行りのおしつけがましい下品な音は正反対。キャラキャラと安っぽい音ではなく、しっとり落ちついて、音の支えがしっかりしていて、十分に腰の坐った、案外太い感じの、といって決して図太いのではなく音の実在感の豊かな、混然と溶け合いながら音のひとつひとつの姿が確かに、悠然と姿を現わしてくる、という印象の音がする。
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ほんとうに、こういう印象の音がする。
疑う人もいるとは思う。
それでもいい。
わからぬ人は、いつも時代にもいるし、
そういう人にどれだけ言葉を尽くしても、徒労に終ることはわかっている。
それでも、なんとか伝えたい、とも思う。
疑う耳(いや頭か)には、ULTRA DACの音は届かないかもしれない。
それは過剰な音では決してないからだ。
メリディアンはSMEと同じくイギリスのオーディオメーカーだということを感じていた。
ULTRA DACも、イギリスのD/Aコンバーターだとういことを強く感じていた。
ULTRA DACの音は、静かである。
ULTRA DACの静けさは、月並な表現ではあるが、
心が洗われるようでもある。
洗われるは、(あらわれる)であり、顕れるでもある、と感じる。
洗われることで、心が裸になるというか、素直になるとでもいおうか、
そうなることで、己の音楽に対する心がはっきりと顕れる。
ULTRA DACの静けさは、単なるS/N比の優秀性だけではないと思う。
そして、ここてもおもい出すのが、五味先生が書かれていたことだ。