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Date: 12月 19th, 2018
Cate: audio wednesday

第96回audio wednesdayのお知らせ(マリア・カラスとD731)

二週間前のメリディアンのULTRA DACの余韻がまだ残っているが、
二週間後には2019年最初のaudio wednesdayである。

1月2日。
マリア・カラスだけをかける。
CDプレーヤーは喫茶茶会記常備のMCD350ではなく、
スチューダーのD731で、マリア・カラスだけを聴く回である。

マリア・カラスのEMIのスタジオ録音は持っていく。
それ以外のマリア・カラスのCDはかけるけれど、
マリア・カラス以外のディスクはいっさいかけない。

退屈してしまう人も出てくるかもしれないが、
2019年は、わがままでいようと考えているだけに、
1月のaudio wednesdayは、マリア・カラスだけというわがままをとおす。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 12月 18th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その3)

この一年で大きく変ったのは、
毎月第一水曜日に喫茶茶会記で行っているaudio wednesdayでの音である。

昨年の秋からトゥイーターをJBLの075に変更した。
今年になって、正式に喫茶茶会記導入となった。
それにあわせて075のネットワークも変更している。

1月からはマッキントッシュのMCD350が加わり、
SACDの再生が可能になった。

ネットワークも今回新たに直列型を作った。
以前試用していた直列型ネットワークとは、定数も変更しているし、
結線の仕方も大きく変更している。
実験的要素を含んだモノになっている。

アルテックのホーンにバッフルを加えた。
同時に075と806Aドライバーとを同じ部材に取り付けるようにし、
ユニットはインライン配置にした。

スピーカーのセッティングも、12月から変更している。
いままでのセッティングは、他の人では再現が難しかった。
通常の喫茶茶会記の音とaudio wednesdayでの音との違いは、
どうしても大きくなってしまう。

これをなんとか小さくしたい、とつねづね思っていた。
バッフルをつけたのも、ひとつにはそのことを考慮して、である。

2016年1月のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
その前、2015年の12月に実験的に鳴らしていた。

その時の音は、常連のHさんと私だけが聴いている。
メリディアンのULTRA DACを迎えての12月のaudio wednesdayの音を聴いて、
Hさんがいわれた。
「最初の音とはまるで別物」と。

今年一年の変化も、かなり大きい。

Date: 12月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド、アナログ)

12月にはいり11日にステレオサウンド、15日にアナログの最新号が発売になった。

主だったオーディオ関係の雑誌すべてに菅野先生の追悼記事が載ったことになる。
11月に発売されたステレオ、レコード芸術、オーディオアクセサリー、
どれがよかったかなどというようなことではない。

それでもいいたいのは、前回も書いているのと同じことである。
オーディオアクセサリー掲載の追悼記事だけは読んでほしい。

Date: 12月 17th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その3)

別項『「新しいオーディオ評論」(その12)』で、
 ①替えの利かない〝有能〟
 ②替えの利く〝有能〟
 ③替えの利かない〝無能〟
 ④替えの利く〝無能〟
と書いた。

これを正方形の四つのマス目に並べる。
 ②①
 ④③
こんなふうになる。

上段の①と②は有能、下段の③と④は無能、
左側の①と③は替えの利かない、右側の②と④は替えの利く、となる。

替えの利く利かないは、別の言葉にすれば、特別と普通である。
①と③が特別、②と④が普通。

こう考えたとき、(その2)で書いているフツーが何を指しているのかがわかった。

フツーにかわいい、とか、フツーにおいしい、とか、
そんな表現を聞くようになった。

なぜおいしい、かわいいにフツーをつけるのかが理解に苦しむところだった。
けれど替えの利く利かないをここにあてはめると、
フツーにおいしい、とか、フツーにかわいいなどは、
いわゆる替えの利くおいしさ、かわいらしさということなのだろう。

フツーに、という表現を使っている人たちが、そこまで意識しているのかどうかはわからないが、
無意識に、そういうことだ、と感じとっているのだとしたら、
この「フツーに」はなかなかどころか、そうとうに興味深い。

Date: 12月 17th, 2018
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その6)

「愛の讃歌」という歌がある。
エディット・ピアフの歌である。

日本でもよく歌われる。
日本人歌手によって日本語の歌詞で歌われている。

私はグラシェラ・スサーナの歌で「愛の讃歌」を聴いた。
その後である、日本人の歌手による「愛の讃歌」を聴いたのは。

「愛の讃歌」は、いわゆる大御所といわれる歌手の人たちも歌っている。
当然、グラシェラ・スサーナよりも流暢な日本語で歌っている。

それらのいくつかは聴いている。
上手い、とはもちろん思うし、日本語も問題はない。
グラシェラ・スサーナ、ホセ・カレーラスの日本語の歌がダメな人たちは、
この人たちの「愛の讃歌」を高く評価するだろう。

けれど、私の耳にはグラシェラ・スサーナの「愛の讃歌」ほどには、心に響かない。
上手いなぁ、でいつも終ってしまう。

三浦淳史氏の「20世紀の名演奏家」にジネット・ヌヴーの章がある。
     *
 翌年、ヌヴーはウィーンで催された国際コンクールに参加したが、第4位にとどまった。お金の工面をしてウィーンまで出向いた母と娘にとっては大きな失望だった。ところが、彼女の演奏に感銘した審査員の一人が、名刺の裏に「ベルリンに来られたら、お嬢さんのヴァイオリン教育を私が責任をもって、無償でやらせてもらいます」としるして、ホテルに届けさせた。その人の名は、当時ヨーロッパ随一のヴァイオリン教師として知られていたカール・フレッシュだった。
 すぐベルリンに行くことは、家計が許さなかった。2年後にフレッシュ宅を訪ねたヌヴーに向かって、フレッシュはこういった。「お嬢ちゃん、君は天賦の才能に恵まれている。私にできることは、純粋に技巧上のアドヴァイスをしてあげるだけだ」
     *
おそらくカール・フレッシュのそれまでの教え子たちは、
技巧上的にはヌヴーよりも優れていたのだろう。
コンクールに出場する人たちも、またそうなのだろう。
だからそのころのヌヴーは、ウィーンでの国際コンクールで四位に終ってしまったのだろう。

ここが、他の教え子たちとヌヴーはまるで違うということでもある。

カール・フレッシュのことばは、演奏の本質をついている。
演奏は歌とおきかえられる。

Date: 12月 16th, 2018
Cate: 真空管アンプ, 訃報

佐久間駿氏のこと

12月13日に、佐久間駿氏が亡くなられたことを、今日の午後知った。

佐久間駿(すすむ)氏のことを知らない人もいるだろう。
ステレオサウンドだけを読んでいる人は知らないはずだし、
他のオーディオ雑誌を読んでいても、無線と実験を読んでいなければ知らなくても当然かもしれない。

私が無線と実験を読みはじめたのは、確か1977年。
そのころ既に佐久間駿氏は無線と実験にアンプ記事を書かれていた、と記憶している。

私は伊藤先生の真空管アンプに、とにかく魅了されてきた。
伊藤先生のアンプの世界と、佐久間駿氏のアンプの世界はかなり違う。

伊藤先生のアンプも伊藤アンプと呼ばれているように、
佐久間駿氏のアンプも佐久間式アンプと呼ばれ知られていた。

無線と実験では半導体のDCアンプは金田明彦氏の記事があり、
真空管は佐久間駿氏の記事が、その両極のようにあった。

どちらもわが道をゆくアンプであるが、その道は違う。
それでも読み物として、私は金田明彦氏の文章も佐久間駿氏の文章は、
高校生のときぐらいまでは必ず読んでいた。

佐久間駿氏は千葉県の館山市にコンコルドというレストランをやられていた。
そこに行けば、佐久間式アンプの音が聴けることも早くから知っていた。
けれど、いままで行かなかった。

数年前に、誰かから体調を崩れされているようだ、と聞いてはいた。
伊藤先生のアンプが、タブローといえるとすれば、
佐久間駿氏のアンプは、そういう世界ではまったくなかった。

佐久間駿氏のアンプはなんといったらいいのだろうか。
エチュード的といえなくもないが、それだけではない。
不思議なアンプである。

何をもって佐久間式というのか。
それすらはっきりと書けないけれど、
佐久間式アンプは見れば、それとわかる。

行っておけばよかった……、と、ここにも後悔がある。

房日新聞というサイトがある。
佐久間駿氏のこと、コンコルドのこと、佐久間式アンプのことが記事になっている。

Date: 12月 16th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その2)

今年は、手を動かした一年でもあった。
自分のオーディオではないけれど、スピーカーの自作、
パワーアンプの改良、それから喫茶茶会記のスピーカーにバッフルを用意したりと、
ハンダゴテもよく握ったし、木工の工具もよく使った。

これが自分のシステムだと面倒臭いという気持が先にあったりする。
逆ではないか、と思われそうだが、
自分のシステムだと、ここをこういうふうにすれば、こんなふうな変化をするであろう──、
そういう予測だけで満足してしまうところが、実はある。

ところが、誰かのシステムだとそういうわけにはいかない。
いい音を期待している人が、すぐそばにいるわけだから、
面倒臭いという気持は、ほとんど起きない。

実際に作業を始めると、予想以上に面倒なことがあったりする。
そこでも自分のシステムだったら、キリのよいところで中断するということもあるが、
誰かのシステムだから、ここでせそうそうわけにはいかない。

こういう時は、モノーラルならば片チャンネルで済むのに……、と思いながら、
作業を進めていく。

わかっていてもやってしまうのが、パーツの大きさを都合のいいように捉えてしまうことだ。
実際は大きいのに、ここに入るだろう、このパーツを簡単に置き換えられるだろう、と甘い予想をする。
予想は外れることは、ある程度わかっている。

少しばかり無理があるか、と思いながらも、そこでやめるわけにもいかず作業をする。
もっと小さなサイズであれば、こんな苦労はしなくも済むけれど、
使いたいパーツ以外は、交換しようとは思わない。

もう頼まれてもやらない、と思いながら作業を終えて音を出す。
予想が外れることはない。
それでも音が鳴ってくるまでは、どきどきするものだ。
これで鳴ってきた音は、以前とたいして変らなかったら……、
それどころか悪くなっていたら……、
そんな心配がまったくないわけではない。

このどきどき感は、実際に手を動かしたからのものである。
今年は、だから楽しかった。

Date: 12月 16th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その17)

いまは冬号がそうだが、以前は夏号がベストバイの特集号だった。
冬号でも夏号でも、どちらでもいいのだが、
その当時でもベストバイの特集号は売れていた。

買わないという読者がいたにも関らず売れていた。
つまりベストバイの特集号だけ買う人が大勢いるということである。

ステレオサウンドにいたとき、編集部の先輩が話してくれたことがある。
ベストバイを始めた理由について、である。

ベストバイの最初は35号(1975年夏)である。
ベストバイの原形といえるいえる特集は、
さらに一年前の31号の「オーディオ機器の魅力をさぐる」といえる。

ベストバイもそうだが、31号の特集も試聴取材はない。
つまりスピーカーやアンプの総テストは編集部の体力的負担がけっこう大きい。
総テストばかりをやっていると、編集者の体力がもたない、
編集者を肉体的に休ませようということで生れたのが、ベストバイという企画ということだった。

こればかりが理由のすべてではないだろうが、なるほどなぁ、と納得したものだった。
別の時にきいた話では、チューナー特集の号は売れなかったそうだ。
24号(1972年秋)、32号(1974年秋)の二冊である。

この二冊を読めば、試聴・取材がどれだけ大変だったかは、
ステレオサウンドの編集経験者であれば容易に想像できよう。

大変だったからといって、その苦労が売行きとして報われるとは限らない。
その反対で、編集者の苦労は少なくとも、ベストバイの特集号は売れるわけだ。

ベストバイが定番の特集企画となったことに納得しながらも、同時に疑問もあった。
41号からステレオサウンドを買いはじめた私は、一号も欠かすことなく買った。
特集がなんであれ、ステレオサウンドは毎号買おうと決めていたし、
中学、高校時代は小遣いをなんとかやりくりしながら、買っていた。

そんな私には、特集記事によって買ったり買わなかったりする読者の存在が理解できなかった。
それでも、これが現実であり、年に四冊しか出ないステレオサウンドでも、号によって売行きが変動する。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その16)

ステレオサウンドにいたころ、オーディオ業界関係者、
それから訳知り顔のオーディオマニアからよくいわれていたことがある。
「ステレオサウンドは、あれだけ広告が入っているから、一冊も売れなくても黒字なんでしょ」と。

いまでも数年に一度くらい、同じことを聞くことがある。
こんなことをいってくる人は、楽な商売していますね──、
そんなことをいいたいようだった。

巻末の広告索引のページをみれば、どれだけの広告が載っているのかわかる。
十年前、二十年前のステレオサウンドと比較してみると、
広告量のどんなふうに変化していったのかもすぐにわかる。

確かに減っている。
それでも他のオーディオ雑誌の広告索引と見較べると、
ステレオサウンドはダントツに多いのはひと目でわかる。

本が売れなくても、広告だけで黒字。
広告料がどのくらいなのかは調べればすぐにわかるから計算してみれば、
一号あたりの広告収入のおおよその目安はつく。

でも、そんなことを計算したところで、実際のところ、
本が一冊も売れなかったら、広告は入らなくなる。

ある程度の部数売れているから広告も入るのである。
こんな当り前のことをいまさらながら書いているのは、
雑誌にとって、ある一定以上の読者数は絶対的に必要である。

いま書店には冬号が並んでいる。
冬号とは、つまりステレオサウンドグランプリとベストバイの特集号であり、
賞の特集号である。

この冬号だけ特別定価でいつもより高い。
冬号は売れる。

売れるけれど、冬号だけは買わない、という読者が昔はいた。
いまはどうなのだろうか。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その3)

カルメンも、ルールブレイカーだといまさらながら気づく。
ルールブレイカーであるカルメンは、自らのルールを持っている。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その6)

黒田先生は、「オペラへの招待」のカルメンの章の冒頭に、こう書かれている。
     *
「恋って、いうことをきかない小鳥のようなもの、飼いならそうとしたって、そんなこと、誰にもできない」
 カルメンは、そのようにうたう。カルメンがその登場の場面でうたう「ハバネラ」の冒頭である。この歌であきらかにされるのは、カルメンの、大袈裟にいえば人生観、あるいは恋愛観である。
「掟なんて、しったことではない。わたしを好きになってくれなくったって、わたしのほうで好きになってやる。わたしに好かれたら、気をつけたほうがいいよ!」
 カルメンは、「ハバネラ」で、こうもうたう。
 では、カルメンとはなにものか?
     *
カルメンとはなにものなのか?
マリア・カラスによる「ハバネラ」は、この問いへの答を見事に表現している。
今回、ULTRA DACでマリア・カラスの「ハバネラ」を聴いて、実感できた。

マリア・カラスの名前は、クラシックに興味を持つ以前から知ってはいた。
名前だけではある。
カラヤンの名前よりも先に知っていた。

マリア・カラスの録音で最初に買ったのは「カルメン」である。
それでも「カルメン」の録音で、マリア・カラスの「カルメン」よりも、
アグネス・バルツァの「カルメン」の方を聴いた回数は多かった。

「オペラへの招待」でも、
黒田先生は「カルメン」の推薦ディスクとしてあげられているのは、
バルツァによるカルメン、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによる録音と、
ベルガンサ、アバド指揮ロンドン交響楽団による録音である。

マリア・カラスの録音ではない。
私はロス・アンヘレス、ビーチャム指揮フランス国立管弦楽団による録音も好きなのだが、
バルツァ盤を20代のころ聴いていたのは、録音のよさも関係してのことだ。

そのころの私は、カラスの「カルメン」をそれほどうまく鳴らせていなかった。

そういえばアグネス・バルツァはギリシャ人である。
マリア・カラスはギリシャ系アメリカ人である。
ギリシャの血をひく歌手が、カルメンには向いているのか。

それはともかくとして、今回ULTRA DACで、カラスの「ハバネラ」を堪能できた、とさえ感じている。
これは私だけではなかったようだ。

それでも、まだマリア・カラスをMQAで聴いたわけではない。
e-onkyo musicのサイトでは、マリア・カラスのスタジオ録音がMQAで配信されている

通常のCDとMQA-CDの違いは、すでに知っている。
まだ先がある。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その5)

なぜオーディオショウではマリア・カラスがかけられないのか──、
こんなことを書いている私も、ここ十年ほどマリア・カラスを聴いていなかった。

それがここに来て急にマリア・カラスのことが気になってきたのは、
9月のaudio wednesdayで、メリディアンのULTRA DACを聴いたからである。

マリア・カラスのCDを聴いたわけではない。
なのに帰りの電車のなかで、マリア・ラカスを聴きたい、とふと思った。
ULTRA DACで聴いてみたい、と思った。

自分でもULTRA DACの音が、なぜ突然マリア・カラスと結びついたのかはわからない。
とにかくマリア・カラスだ、とおもった。

12月のaudio wednesdayで、マリア・カラスの「カルメン」をかけたのは、
その1)で書いているとおり。
これだけの音で鳴るのならば、
オーディオショウでも頻繁にかけられるようになるのでは──、とおもうほどに鳴った。

「カルメン」ならば、クラシックに関心のない人でも耳にしているだろう。
特にハバネラは聴いたことがない、という人のほうが少ないだろう。

ビゼーの「カルメン」には、「ハバネラ」だけではない。
お馴染みの音楽がかわるがわる登場してくる。
そのお馴染の音楽は、くり返すが、クラシックをさほど聴かない人にとってもそうである。

「カルメン」はオペラの数多い作品のなかでも、とびきりの知名度をもつ。
その意味で、まさにオーディオショウ向きともいえるのに、
不思議なことに、私の知る範囲では「カルメン」も聴いていない。
マリア・カラスの「カルメン」を含めてだ。

Date: 12月 15th, 2018
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その5)

別項「音を表現するということ(その4)」で書いたことを、昨晩思い出していた。

audio wednesdayで、ほぼ毎回グラシェラ・スサーナの歌をかける。
グラシェラ・スサーナはアルゼンチン人。
日本語を話せないわけではないが、流暢とはいえない。

グラシェラ・スサーナの歌う日本語の歌も、誰が聴いても外国人による日本語の歌とわかる。
このことは、これまでに何度となくいわれてきた。
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
そういったことを、30年以上、何度となくいわれてきているから、
こちらとしては「またか」と思うだけである。

その2)でも書いていることだが、こういうことをいってくる人たちは、
ホセ・カレーラスの「川の流れのように」もダメなようである。

日本語で「川の流れのように」を歌っている。
日本人の歌手が歌うようには日本語として明瞭ではない。

そこのところが気になる人は少なくないどころか、
むしろ多いようにも感じている。

私はグラシェラ・スサーナもホセ・カレーラスも、まったく気にならないどころか、
日本語の歌を歌う歌手として、高く評価している。

昨今では、テレビで外国人による日本語の歌番組をやっているようである。
テレビをもたないからほとんど知らないが、
その番組に出てくる外国人のほうが、グラシェラ・スサーナよりも、
ホセ・カレーラスよりも、日本語の歌における日本語に関しては流暢であり、
まったく外国人ということを意識させない人もいるらしい。

このことを以前いわれたこともある。
暗にグラシェラ・スサーナの日本語の歌は、
その人たちの歌よりもレベルが低い、といいたかったようだ。

けれどホセ・カレーラスにしてもグラシェラ・スサーナにしても歌手である。
アナウンサーではない。

Date: 12月 14th, 2018
Cate: ロマン

オーディオのロマン(魔法の箱)

ひとつ前に、メリディアンのULTRA DACは魔法の箱のようだ、と書いた。
オーディオ機器は、たいてい箱である。
アンプもD/Aコンバーターも箱といえるし、
スピーカーシステムも、最近では四角い箱の方が珍しくなりつつあるけれど、やはり箱といえる。

ULTRA DACは私にとっては魔法の箱のような存在であっても、
私とまるで違う音楽の聴き方をする人には、魔法の箱でもなんでもなく、
単なる箱、木箱くらいの存在でしかないだろう。

別の人には銅の箱、また別の人には銀の箱、金の箱かもしれない。
銅や銀の箱といえるオーディオ機器とは巡りあえよう。
金の箱といえるオーディオ機器との出逢いもまれではあるだろうが、ないわけではない。

けれど魔法の箱といいたくなるオーディオ機器との出逢いは、
単に、そのオーディオ機器が優れているだけでは無理である。

使い手との相性、使い手の実力があってこその魔法の箱のはずだ。

一時(いっとき)でもいい、
魔法と箱と信じられるオーディオ機器と出逢えた人はロマンを信じられる人のはずだ。

Date: 12月 13th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その4)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれている。
     *
もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。
     *
アンプの音についてのことだが、同じことは今回トランスポートにも当てはまる、と感じた。
スチューダーD731のトランスポートとしての音はヴィヴィッドだ、と書いた通りだ。

表現を変えるならば、ストレスがないように感じる。
音の出方にストレスを感じないのだ。
だからこそヴィヴィッドに感じるのかもしれない。

それまでのラックスのD38u、パイオニアのPD-D9をトランスポートとして聴いたとき、
ストレスといったものを特に感じることはなかった。

けれどD731とULTRA DACの音を聴くと、
D38u、PD-D9の音には、どこかしらストレス的なものがあったように感じてしまうから、
瀬川先生の書かれていたことを思い出してもいた。

こういう音を聴いていると、EMTの930stの音も思い出してしまう。
EMTのアナログプレーヤーの音が、どこか体に染み込んでしまっているのか。
どこか共通する、ストレス的なものを感じさせないヴィヴィッドな音を聴いてしまうと、
あぁ、これなんだ、と確信に近いものを感じてしまうところが私にはある。

別項「JUSTICE LEAGUE (with ULTRA DAC)」で書いたこと。
JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)のサウンドトラックの23曲目、
“COME TOGETHER”の抜群のかっこよさは、ストレスフリーといいたくなる音ゆえかもしれない。

こういう音を聴いてしまうと、
ULTRA DACが魔法の箱のようにおもえてしまうし、
思慕の情みたいなものが湧いてくる。