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Date: 10月 27th, 2018
Cate: ヘッドフォン, 世代

世代とオーディオ(スピーカーとヘッドフォン・その3)

今日から開催のヘッドフォン祭に行ってきたから、というわけではないし、
以前から書こうと思っていたことのひとつが、
いま別項で書いている再生における肉体の復活には関することである。

どんなにヘッドフォン(イヤフォン)に優れたモノをもってきても、
ヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターを良くしていっても、
プログラムソースを、どんどんハイレゾ化していったも、
そこでの音に、肉体の復活を、聴き手は錯覚することができない。

少なくとも私は、できない。
これから先、技術は進歩していくことだろう。
それでも、肉体の復活を、ヘッドフォンでの再生音に感じることはない、といえる。

だからヘッドフォンはスピーカーよりも劣る、といいたいのではなく、
ヘッドフォンでばかり音楽を聴いて育った聴き手は、
スピーカーからの再生音にも、肉体という夾雑物のない音を求めていくのか。

Date: 10月 26th, 2018
Cate: 映画

私は、マリア・カラス

私は、マリア・カラス」が12月21日から上映される。

マリア・カラスについては書くつもりはないし、
映画についても、特に書こうと思っているわけでもない。

マリア・カラスの声の再生の難しさを、ずっと感じてきている。
それだけを書きたかった。

1977年に、カラスが亡くなったとき、テレビでもニュースをやったと記憶している。
40年以上前のことだから正確ではないのはわかっているが、
約十年後のカラヤンが亡くなったときよりも、大きく扱われていたような印象が残っている。

マリア・カラスの声は好き嫌いがあるのかもしれない。
嫌いとまではいかなくとも、ちょっと苦手という人がいても、そうかと思ってしまう。

でも、そういう人でも、カラスの声は、記憶に残ってしまう、と思っている。
カラスの再来といわれた歌手もいた。
多くの歌手が登場し、録音し、それらの何割かは聴いている。

それらのなかにあっても、カラスの声(歌)は輝いている。
その独特の輝きによって、脳裏に焼きつくのかも、と思いながらも、
カラスの声は、ほんとうにこんな声なのか、という疑問もつねにあった。

EMIのスタジオ録音でのカラスの声は、LPで聴いてもCDで聴いても、
つねにそんな感じが、つきまとってきている。

あれはいつだったか、カラスのライヴ録音の海賊盤(CD)が出た。
なんとはなしに買って聴いて、これがカラスの声なんだ、と思い、
やっぱり、とも思ったことがある。

特に録音が良かったわけではない、むしろややひどい方だった。
でも、それだけにストレートにカラスの声をとらえていたようにも感じた。

カラスの声についての自分なりの結論が出ているわけではない。
MQAで配信されている。
まだ聴いていない。

12月にはULTRA DACで聴けるであろう。
映画もある。
そのあたりで、結論といえそうなところに行けるだろうか。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その12)

(その11)に、コメントがあった。
オーディオセッションinOSAKAが、大阪ハイエンドオーディオショウと同時期に開催されていて、
こちらのほうにテクニクスをはじめ国内オーディオメーカーが出展している、とのこと。

リンク先のウェブページをみると、たしかにテクニクスが出展している。
その他の国内メーカーもヤマハ、エソテリック、デノン、マランツ、TADなどの名がある。

大阪のオーディオショウ事情に疎いとはいえ、恥ずかしい限りだ。
大阪ハイエンドオーディオショウにはテクニクスが出展してないのは確かにそうだが、
大阪ハイエンドオーディオショウの会場とオーディオセッションinOSAKAの会場は、
徒歩でいけるほどの近さであるわけだから、私の間違いといえばそうなる。

会期は大阪ハイエンドオーディオショウが11月23〜25日、
オーディオセッションinOSAKAが24日、25日である。

大阪のオーディオショウ事情に疎い私は、ここが疑問なのだが、
なぜふたつのショウに分れているのだろうか。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: ショウ雑感
2 msgs

2018年ショウ雑感(その11)

今回はじめて大阪ハイエンドオーディオショウに行く。
これまでは、行かないこともあって、どんな出展社なのか、それほど注意してみてなかった。
今回は、きちんと見た。

見て気づいた。
テクニクスが出展していない。

東京でのオーディオショウはOTOTENとインターナショナルオーディオショウ、
どちらにも出展していたから、
しかも大阪なのだから、当然テクニクスは出展しているものとばかり思い込んでいたから、
意外だった。

出社数をみても、大阪の規模は東京よりも小さい。
けれど、大阪でのオーディオショウである。
人は集まるだろうし、
むしろ大阪は地元といえるテクニクスが、人を集めるぐらいの意気込みを示してほしい、
とすら思っているのに、出展すらしない。

出展するのにはお金もかかるし、人手もいる。
たいへんな労力なのはわかっている。
経済効果を考えれば、東京と大阪だったら、東京だけという判断は理解できる。

東京にしか出展しないところは少なくない。
それでもテクニクス(パナソニック)は、そういう会社とは比較にならないほど規模は大きい。
それにくり返すが、東京のショウには二回とも出展している。

東京は一回にしても大阪に出展すれはいいじゃないか、と思う。

復活したテクニクス・ブランドは、小川理子氏を表にたて、
マスコミの利用は、以前とは比較にならないほどうまい。
けれど、大事なことは、そこではない、と私はおもう。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その1)

五年前にQUADの405を手に入れたときに、405について検索した。
ファンサイトがいくつかあった。
それらを見ていて、405のクローン基板が売られているのを知った。
AliExpressで売られていた。

価格は、かなり安い。
そして関連製品として、いくつかのアンプが表示される。
それらを見ていると、なぜ、この価格で提供できるのか、と不思議になる。

それから度々AliExpressを見るようになった。
クローンアンプの種類は増えていっている。

QUADの405の基板だけでなく、シャーシーも登場したし、
他のメーカーのアンプのクローンも出てきた。
マークレビンソン、ゴールドムンド、アキュフェーズ、クレル、
それからFMアコースティック、ダールジールなども、最近ではある。

どの程度のクローンなのか、そのレベルは買ってみないことにはわからない。
意外にしっかりとコピーしたモノかもしれないし、
値段相当でしかないのかもしれない。

それ以前に、こういうクローンを製造していることを、
全面的に悪と否定する人は、日本のオーディオマニアのなかには少なからずいよう。

褒められたことではない。
けれど、オリジナルそっくりのクローンアンプを製造できるようになったら、
それだけでも、そのメーカー(個人かもしれない)の技術力は、それだけ高くなっていく。

オリジナルとなるアンプを購入して研究しているのか、
あらゆる伝手を使って、回路図なり、技術的資料を入手しているのか、
とにかくそうやってクローンアンプを製造する。

これは単なる金儲けの手段とは思えない。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(続「つもり」)

どうして、気をつけていた「つもり」になってしまったのか。
理由ははっきりしている。

歳をとったことを考慮していなかったからだ。
もう少し若かったら……、同じ状況でも体調を崩すことはなかった。

若かったら……、と書いているが、20、30代のことをいっているのではない。
そんなに若い必要はない。
たかだか五年ほど、つまり50をこえる前くらいだったら、
こんなことで、というくらいだった。

それがいまでは、簡単に体調を崩し、
気をつけていた「つもり」になってしまった。

わずか数年とはいえ、これははっきりと老化なんだ、と受け入れるしかない。

急に来た変化(老化)ではない、徐々に変化していったのに、気にかけなかった。

若い、とよくいわれる。
けれどここ数年、白髪は増えてきたし、なによりも体が硬くなってきているのは自覚している。
以前はなんともなかった左膝が、天候不順になると痛むことがあるのは、
28年前の骨折の後遺症なのだろう。

そんな身体の変化を感じていたのに、自分の身体を過信していたわけだ。
数年前なら、この程度、大丈夫だった、という記憶がなまじあるから、
それが気をつけていた「つもり」にしてしまった。

私の身体だけが変化していったわけではない。
すべてが、そうやって徐々に変化していっている。
そのことを無視していては、丁寧な使いこなしは、「つもり」で終ってしまう。

Date: 10月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

現代日本歌曲選集 日本の心を唄う

菅野先生の「音楽と確実に結びつくオーディオの喜び」の全文である。
     *
「レコード芸術の原点からの発言」と題されたこの欄には必ずしも適当ではないかもしれぬが、私が制作したレコードで、あまりにも印象強く感動的であった録音について書かせていただきたいと思う。それは、この三月に録音した歌のレコードである。私が今までに制作してきたレコードは全て器楽曲ばかりであって、歌のレコードは皆無といってよい。昔、会社務めをしていた頃は、仕事の選り好みができず、歌を録音する機会もあったが、自分で独立してレコード制作を始めてからは、一枚も歌のレコードをつくった事がないのである。決して歌が嫌いだというのではない。ただ、私の身近に録音したいという意欲の起きる声楽家がいないというだけの事かもしれぬ。それにもう一つ、私は制作するならば日本の歌曲のレコードをつくりたかったという気持も強い。器楽とちがって、歌はあまりにも直接的に人間的でありすぎる。だから、私はどうしても、日本人が外国語で歌う歌に心底から聴き入ることができないのである。
 それやこれやで、今まで、歌のレコードを制作する機会がないままに過ぎてしまったのだが、この三月に録音したレコードというのは、日本の声楽界の大家、柳兼子先生の日本の歌曲集である。幸いにも私は、今から七〜八年前に、柳先生の演奏会を聴かせていただいたことがあり、そのとき、既に七十歳をはるかに越えた先生の歌の表現の深さに大きな感動をおぼえた記憶がある。先生は今年五月で八十三歳になられるが、高齢の先生の歌をお弟子さんたちが集まってレコードとして残したいというお話があり、その録音のご依頼を受けたのが、このレコード制作のきっかけとなった。
 私は、即座に、過去の先生の演奏会での感激を思い出し、録音のご依頼をお受けするだけではなく、このレコードを、プライベート・レコードとしてではなく、広く一般の方々にも聴いていただくべく、オーディオ・ラボから発売する形にしたいと考えた。先生のLPが一枚もないことは不思議と思えるほどだが、一八九二年生まれの先生のことを知る若いレコード制作者もそういないのかもしれないし、たいへん失礼ながら八十三歳というご高齢からして、業界ではレコード録音ということは夢にも考えられなかったのかもしれぬ。かくいう私とて、もし、あの時、先生のリサイタルを聴いていなかったら、進んでレコードを制作発売しようという気にはなれなかったろうと思う。ふとした偶然に、先生のリサイタルに足を運んだ幸運に感謝したものである。
 当初、録音は二月に予定されたのだが、冬の風邪を召され、一ヶ月録音予定を遅らせたが、先生は全快とまでいかないが、歌いましょうということになった。録音当日までの私の不安と期待は大変複雑なものであったが、朝の十時半頃、録音を開始した途端、私は期待の満たされた喜びに大きく胸をふくらませたのであった。LP一枚分、実に二十八曲もの歌を、先生は一回で録音されてしまった。それも、勿論、立ちっぱなしで……。伴奏ピアノは私が最も敬愛する小林道夫氏にお願いしたが、先生にはもっと日頃馴れたパートナーがおられただろうけれど、私としては、どうしても小林氏に弾いていただきたかったのであった。信時潔の歌曲集「沙羅」、「古歌二十五首」より五曲、「静夜思」、高田三郎の啄木短歌集八曲、弘田龍太郎の四部曲「春声」、そして、杉山長谷夫の、「苗や苗」と「金魚や」という曲目であったが、こんなにまで深い音楽を録音したことはかつてないといってもよいものであった。
 先生にしてみれば、八十三歳というご高齢を我々が口にすることはきっとご迷惑にちがいないと思うけれど、人間の生命の常識からして、これは驚異的なことで奇蹟といってよいほどのことであるし、それにもまして、その年輪ゆえに蓄えられた表現の味わい深さと、その肉体的条件にいささかも影響を受けないほどに鍛え込まれた技と、その努力のもたらした芸術の重味を思うとき、やはり、八十三歳の先生が歌われたという事実は忘れられるべきではない重要なことに思えるのである。先生の偉大な人格を思うとき、私は、ただただ頭が下がるのみであるが、レコードが出来上がるまでのテスト盤を技術的な立場から何度も聴くうちに、その音楽の魅力は私の中でますます大きく深いものになったことにも驚きを禁じ得ない。ジャケットに収まってレコードが市場へ出ていくまでに、私たち制作者は、音楽的内容の立場を離れ、テープ録音とレコード製造技術の見地から何回音を聴くかわからないが、正直なところ、多くの場合、製品が出来上がる頃には中味の音楽に飽きているという経験をよくする。それほど何回もオーディオ的な耳でチェックを重ねるものである。ところが、この先生のレコードの場合、その度毎に音楽の魅力が高まって、ふと気がつくと、自分は音のチェックをしていたはずなのに、いつしかそれを忘れ、深々と音楽に聴き入り、肝心のチェック事項を忘れてしまっているという有様なのであった。
 レコードをつくっている我々がそんなことをいってはいけないのだが、素晴らしいレコードというものは、音そのものの不満や、雑音などはどうでもよくなってしまうものであることを、これほど強く認識させられたこともないのであった。そして、意を強くしたことは、オーディオの仕事をしている私の講演会などに集まって下さる方々のほとんどが、ダイナミック・レンジやひずみ率や周波数特性に関心を持つマニアが多いのに、そうした機会にこのレコードのテスト盤をお聴かせしてみて、多くの方々が感動して下さったことである。オーディオ的なプログラム・ソースとしては決してデモンストレーション効果を持ったものではないし、ここにあるのは音楽そのものの魅力だけであるはずなのだ。やはりオーディオは音楽と確実に結びついているという喜びを味わったのであった。ひたすら、先生の歌の世界を、伴奏ピアノのソノリティで生かし、歪めることなくスピーカーから伝えたいと心がけて録音したのだが、人によっては、ピアノが大き過ぎるといわれたし、歌もピアノも距離感が遠過ぎるともいわれた。しかし、私としては、それらの意見には全く動かされることはない。先生の発声には、これ以上、マイクが近くても遠くても、その真価を伝えることはできないと思うし、ピアノのバランスやニュアンスの再現も、これらの歌曲のピアノ・パートの重要性からして、決して近すぎることも、大き過ぎることもないと信じている。つまり、私としては、かなり自分が満足のいく録音になったと思っているわけだ。LP両面で二十八曲の名唱、とりわけ「沙羅」の〝鴉〟〝占ふと〟〝静夜思〟に聴かれる感動の深さに酔いしれているのである。
 それにしても、レコードと再生装置の関係は重要だ。私の部屋にある数種の装置で聴いてみると、そのニュアンスの何と異なることか……。ある装置は、もうたまらないほど艶っぽく歌ってくれるのだ。〝占ふと、云ふにあらねど、梳(くしけづ)るわが黒髪の、常(いつ)になうときわけがたく、なにがなし、心みだるる……〟そして、別の装置は無残に、その冷たく無機的でヒステリックな性格が、その心のひだをおおいかくしてしまう。〝不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心〟。装置の音は、この人声の、心の微妙なニュアンスを伝えるべく、血の通った音でなければならぬのだ。この啄木の詩のように端々しく、やさしくなくてはならないし、「沙羅」の〝鴉〟のように凄みを持ち、柳兼子先生のその歌のごとく毅然としていなければならぬものだと思う。
     *
菅野先生による柳兼子氏の録音は、オーディオ・ラボから三枚出ていた。
現在、オクタヴィア・レコードからCDとして発売されている。

11月7日のaudio wednesdayで、かける。

1975年の録音で、それほど売れるディスクとは思えない。
けれど、いまも入手できるのは、それだけでありがたい、とおもう。
それでも、欲深いもので、オーディオ・ラボの菅野録音の多くがSACDで出ているのに、
これは通常のCDだけなのか、と、やはり思ってしまう。

SACDで出してくれ、とまではいわないが、DSDで配信してほしい。

Date: 10月 24th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(「つもり」)

急に冷え込む日があったから、気をつけてはいた。
体調を崩さないように、気をつけていた。

でも、土曜日からなんとなく体調がすぐれず、
昨日と今日は、かなりしんどい。

結局、気をつけていた、と本人は思っていたけれど、
気をつけたつもりだった、にすぎなかったわけだ。

ほんとうに気をつけていたら、ここまで体調を崩すことはなかった。
予兆に気づいた時点で、どうにかしていただろうから。

そう「つもり」でしかなかったから、しんどいなぁ、といま感じている。

オーディオの使いこなしでも、同じにしたと同じにしたつもりは違う、とよくいってきた。
「つもり」は楽でもある。

同じにした、と本人は思っていても、結果(出てくる音)が違うのならば、
それは「つもり」でしかない。

Date: 10月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(紅茶、それにコーヒー)

2002年7月4日、14年ぶりに菅野先生のリスニングルームを訪れて、
戻ってきた、と感じたのは、部屋に入ったときでせなく、音を鳴ったときでもない。

菅野先生の奥さまがだされる紅茶の香りと味で、
私は、菅野先生のリスニングルームに戻ってきたんだ、と感じていた。

ステレオサウンド時代に伺っていたとき、
いつも出してくださった紅茶と同じだった。

当り前のことなのに、「同じだなぁ」と感慨深いものがあった。

菅野先生といえば、紅茶だった。
試聴でステレオサウンドの試聴室に来られるとき、
当時ステレオサウンドの真向いにあった水コーヒー どんパからコーヒーをとっていた。

菅野先生だけが紅茶だった。
コーヒー嫌いなのか、と、ずっと思っていた。

いつだったのか、はっきりと憶えていないが、ある時、
奥さまがコーヒーを出してくださった
私にだけコーヒーではなく、菅野先生もコーヒーだった。

意外だったので、つい「コーヒー、飲まれるんですか」と訊いた。
もともとコーヒー好きで、水だしコーヒーに、すごくハマった時期があった、とのこと。

どうすれば美味しい、菅野先生にとっての理想の水だしコーヒーを淹れられるか、
あらゆる要素を少しずつ変えては淹れて飲み、比較。
それを果してなくくり返されたそうだ。

そんなことを続けていたら、ある日、コーヒーを体が拒否してしまった、とのこと。
濃いコーヒーの飲みすぎであろう。

それから紅茶にされた、そうだ。
だから「最近、少しコーヒーが飲めるようになったんだよ」と話してくださった。

オーディオとまったく関係がない、と思われるかもしれないが、
これこそが、ある意味、菅野先生的バランスのとりかたである。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その12)

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”はスタジオ録音である。
そこにステージがあった、とは考えにくい。

録音で歌っているホセ・カレーラスの足は、ほんとうの足はスタジオの床に立っていた。
ステージはなかった(はず)。

ならば、再生されるホセ・カレーラスの足が、
菅野先生のリスニングルームの床に立っていると感じたのは、当然といえるし、
それだけのレベルにあった音ともいえる。

五味先生も、”AROUND THE WORLD”を聴かれたら、
スタジオ録音だから、録音の現場にステージがないことは承知されて、
それでもステージが、そこに再現されていないから、肉体がない、といわれるのか。

ここで忘れはならないのは、
五味先生のスピーカーはタンノイのオートグラフである、ということ。
つまり、五味先生のいわれるステージは、
録音の場におけるステージという意味よりも、
むしろオートグラフが創り出す再生の場におけるステージのほうが、色濃いのではないのか。

こう考えると、少なくとも私は納得がいく。
菅野沖彦氏のこと(音における肉体の復活・その2)」でも書いているように、
どちらかを否定すれば、楽だ。
こんなにながいこと考えなくても済む。

それでも、私はどちらも正しい、ということで考え続けてきた。
考えてきたことで、1970年当時の菅野先生の音と瀬川先生の音、
どちらの音を聴かれながら、五味先生が菅野先生の音だけに、
肉体のない音(感じられない音)といわれた理由も、私のなかでは説明がつく。

それがリアリティ(菅野先生の音)とプレゼンス(瀬川先生の音)である。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その11)

2002年7月4日、菅野先生の音を聴いた。
ステレオサウンド時代、最後に菅野先生の音を聴いたのは1988年だから、
14年ぶりの菅野先生の音だった。

マッキントッシュのXRT20のシステムでクラシックを、
JBLのシステムでジャズを聴いたあとに、
私がもってきたCDをかけてもらった。

少し考えられて、マッキントッシュのシステムにされたように感じた。
この時の音は、まさしく肉体の復活が感じられる音だった。

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”から「川の流れのように」をかけてもらっていた。
目をつぶれば、目の前に(といっても私は部屋の隅にいたけれど)、
手を伸ばせば届きそうな感じさえする気配を感じる鳴り方だった。

ホセ・カレーラスの肉体が、そこに復活していた。
そのカレーラスには、足もあるように感じた。
上半身だけの幽霊のような音像ではなかった。

この音を聴かれた五味先生でも、肉体のない音とはいわれないはず──、
そう思う一方で、それでももしかすると、いわれるかもしれない──、
そんなことを帰宅してから考えていた。

こんなことを考えた理由は、ホセ・カレーラスの足がどこにあるのか、だった。
それは菅野先生のリスニングルームの床に立っていた。
あたりまえだろう、そんなことは、と言われるだろうし、
それでこそリアリティというものだろう、と私も思うけれど、
五味先生にとっての肉体の復活を感じさせる音には、
ステージの存在が不可欠である。

私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていた。
私だけではなかったはずだ。
川崎先生もそう感じておられた、と思う。

あの音を聴いて、肉体の復活を感じない人はいないのではないか──、
そうおもいながらも、それでも……、と考えてしまうのは、
「五味オーディオ教室」が私のオーディオの出発点であるだけでなく、
私がアマノジャクなためだろう。

そうわかっていても、仮定のことを考える。
少なくとも、私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていても、
ステージの復活は感じていなかったのは事実だ。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その10)

ステージ。
さほど深く考える必要はないように感じる、この「ステージ」を、
それを再現するのに必要なのは音場とか音場感ということで捉えてしまっては、
ここでの「ステージ」の理解は不十分のままだ。

肉体のある音と肉体のない音。
このあいだにある音について、屁理屈みたいなこともを考える。

肉体のなさを感じさせない音は、どうだろうか。
肉体があると感じるわけでもないが、肉体がないと感じさせるわけでもない。
肉体を意識させない音とでもいおうか。

つまり肉体のない音は、聴き手に肉体を意識させているからこそ、
そこに肉体がない、と感じさせている、ともいえる。

私が聴いた範囲でしかないが、実際のところ、
肉体を意識させない音は多い。
ないとも感じないし、あるとも感じない。

五味先生が聴かれた菅野先生の音とは、まだ次元の違うところで鳴っている。
おそらく五味先生は、そういう音を聴かれたとしたら、肉体がある、とか、ないとか、
そういうことはいわれなかっただろう。

菅野先生は肉体のある音を目指されていたからこそ、
五味先生は肉体がない、と感じられた──、
そういう解釈も可能である。

五味先生が求められている肉体のある音は、ステージに演奏者の足がついている、
そういう音のはずだ。

足のない、つまり幽霊のような音像では肉体はない、ということになるし、
足があったとしても、その足がステージの上になければ──、なのではないのか。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その10)

(せいかく)な音には、正確な音と精確な音とがある。

正確は、正しく,たしかなこと、まちがいのないこと、また,そのさま、
精確は、詳しくてまちがいのないこと、精密で正確なこと、また,そのさま、
と辞書にはある。

大きく意味が違うわけではないが、
正確な音と精確な音は、微妙なところで違いを感じるからこそ、
これまでは使い分けてきた。

正確な音と正しい音は、どう違うのか、と考える。
正しい音に確かさが加われば、正確な音となるのか。
正しい音には、元来確かさがあるのではないか。

そんなことを考えていると、正直な音ということが浮んでくる。
正直とは、うそやごまかしのないこと、うらおもてのないこと、また,そのさま、である。

間違っている音を出していた男に欠けているものを考えていたら、
「正直な音とは」が浮んできた。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(菅野沖彦氏のこと・その3)

2003年から数年間、audio sharingのメーリングリストをやっていた。
そのころ使っていたレンタルサーバーの会社が倒産してしまい、
次のレンタルサーバーの会社にはメーリングリストの機能がなかったので、やめてしまった。

菅野先生には、メーリングリストを始める前から相談して参加していただいた。

菅野先生はメーリングリストには投稿されたことはなかったが、
ステレオサウンドから「新・レコード演奏家論」が出た時に、
何人かの方が、メーリングリストに読まれた感想を投稿された。

菅野先生は、その人たちに返事を直接メールされている。
コピー&ペーストの返信ではなく、
それぞれの人たちの感想を読んだ上での返信である。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(菅野沖彦氏のこと・その2)

すべてに功罪があるからこそ、検証はないがしろにするべきではない、と思っている。
けれど、そのことと誰かの死を、
匿名で不特定多数に向って、喜ぶという行為は、おかしい。

菅野先生に否定的、批判的な人がいるのはわかっている。
私にしても、長岡鉄男氏には、はっきりと否定的、批判的である。

長岡教の信者からすれば、
私などは長岡鉄男氏のことを全く理解していないヤツ、ということのはずだ。

それに長岡教の信者にとって功と認識していることが、
私にとっては罪と認識していたりすることだろう。

そんな私でも、長岡鉄男氏が亡くなったのを喜びはしなかった。
これは誇ることでもなんでもない。
人としてあたりまえのことでしかない。

にも関らず、真逆の人(救いようのない人)がオーディオの世界には少なからずいる。
そんな人(人といっていいだろうか)は、どんな音でどんな音楽をきいてきたのか。