菅野沖彦氏のこと(その10)
ステージ。
さほど深く考える必要はないように感じる、この「ステージ」を、
それを再現するのに必要なのは音場とか音場感ということで捉えてしまっては、
ここでの「ステージ」の理解は不十分のままだ。
肉体のある音と肉体のない音。
このあいだにある音について、屁理屈みたいなこともを考える。
肉体のなさを感じさせない音は、どうだろうか。
肉体があると感じるわけでもないが、肉体がないと感じさせるわけでもない。
肉体を意識させない音とでもいおうか。
つまり肉体のない音は、聴き手に肉体を意識させているからこそ、
そこに肉体がない、と感じさせている、ともいえる。
私が聴いた範囲でしかないが、実際のところ、
肉体を意識させない音は多い。
ないとも感じないし、あるとも感じない。
五味先生が聴かれた菅野先生の音とは、まだ次元の違うところで鳴っている。
おそらく五味先生は、そういう音を聴かれたとしたら、肉体がある、とか、ないとか、
そういうことはいわれなかっただろう。
菅野先生は肉体のある音を目指されていたからこそ、
五味先生は肉体がない、と感じられた──、
そういう解釈も可能である。
五味先生が求められている肉体のある音は、ステージに演奏者の足がついている、
そういう音のはずだ。
足のない、つまり幽霊のような音像では肉体はない、ということになるし、
足があったとしても、その足がステージの上になければ──、なのではないのか。