Author Archive

Date: 1月 10th, 2019
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(テクニクス SL-G700)

CES 2019でテクニクスのSACDプレーヤーSL-G700が発表されたことが、
いくつかのオーディオ関係のサイトで紹介されている。

テクニクスがSACDプレーヤーを開発中なのは知られていたことなので、
特に驚きはないけれど、それでもMQAフルデコード対応なのは、意外な嬉しさである。

価格はまだ発表されていないし、音が聴けるようになるのはもう少し先のことだし、
SL-G700そのものについてあれこれ書きたいわけではない。

書きたいことはただひとつ。
Blu-Ray Audioに対応していないことである。

SACDとBlu-Ray Audioの両方に対応するのは技術的に不可能なのであればわかる。
けれど、すでにOPPOの製品は実現している。

クラシック好きにとってBlu-Ray Audioは、いまでは無視できないものになりつつある。
テクニクスの開発陣もそのことは承知のはず。
なのにSL-G700はBlu-Ray Audioに対応していない。

将来性はあまりない、という見方なのだろうか。

以前のテクニクスはSU-A2というコントロールアンプを誕生させた。
コントロールアンプとしての機能を、考えられる限りのすべてを搭載したといえる。

パナソニックは、以前AG-W3という、VHS全世界対応デッキも出していた。

私のなかでは、そういうメーカーでもある、という認識だ。
SL-G700の価格はいまのところわからない。
さほど高くないのかもしれないし、
上級機として SL-G900とかSL-G1000というモデルが出てきて、
そこでBlu-Ray Audioをふくめて、全パッケージメディア対応になるのだろうか。

Date: 1月 9th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その28)

40年ほど前、つまり1970年代後半ごろのオーディオでは、
女性ヴォーカルの再生に向く──、そういったことが割といわれていた。

力の提示に関してはややよわいところがあるものの、
ウェットな音色で、声帯の湿り気を感じさせ、
繊細でどこか色気のある音、そして刺激的な音を出さないオーディオ機器は、
スピーカーシステムであれ、アンプであれ、カートリッジであれ、
弦やヴォーカルの再生に向く、といった評価がなされていた。

ヴォーカルだけでなく、たいてい「弦やヴォーカル」となっていたし、
こういった場合、ヴォーカルは男性歌手も含まれているわけだが、
ウェイトとしては女性ヴォーカルと受け止めてよかった、といえる。

私にとってのベストバイ特集号として初めてのステレオサウンドは43号。
43号は、読み返した。
何度も何度も暗記するほどに読んだ。

43号でベストバイとして選ばれた機種のほとんどは、当時聴いたことがなかった。
実機を見たことのあるモノも少なかった。

43号に掲載されている写真と、各筆者の文章から、
どれが女性ヴォーカルの再生にぴったりなのか、
主に、そういう視線でくり返し読んでいた。

スペンドールのBCII、QUADのESL、
ラックスのSQ38FD/II、パイオニアのExclusive M4、
オンキョーのIntegra A722nII、
これらのオーディオ機器が女性ヴォーカルを色っぽく再生してくれそうな感じだった。

ここでことわっておきたいのは、
当時の女性ヴォーカルの再生に向く、ということと、
現在の、それもメリディアンのULTRA DACが聴かせる声(歌)の素晴らしさということとは、
そうとうに次元の違ったことであり、同列に語れない、ともいえる。

あのころの女性ヴォーカルに向く、というのは、
いわば個々のオーディオ機器の個性的音色が上手く作用しての、そういうことであり、
このことは音を語る上での「音色」という言葉のもつ意味について、
じっくり書けるほどに興味深いところでもあるが、
ここではそのことに触れると先にすすめなくなるので割愛するが、
とにかく40年ほど前の、ヴォーカル再生に向く、というイメージで、
ULTRA DACの、声(歌)が素晴らしい、ということを捉えてほしくない、ということだ。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その4)

フツーにおいしい、とか、フツーにかわいい、とか、
そんな表現が一般的に使われるようになったのはいつからなのだろうか。

インターネットで検索すると、2008年頃には使われていたようである。
どこから広まってきたのだろうか。
テレビで、誰かが使ったからなのか、
それともまったく別のところから使われるようになったのか。

この「フツー」が生れてきた背景には、
SMAPの「世界の一つだけの花」が関係してきているようにも感じている。

歌詞に《もともと特別なOnly one》とある。
私は、この歌詞をきいて、なんとバカな……、と思った人間だ。

「世界の一つだけの花」という歌を否定する気はないし、
この歌が好きという人のことをとやかくいうつもりはない。

ただ《もともと特別なOnly one》には、反撥したい。
歌詞の、この部分に救われた、とうい人がいるという話もきいている。

本当だろうか、と訝るとともに、本当にそういう世の中になってきたのか……、とも思う。

私は、ここでも、マーク・トウェインの、別の言葉を思い出す。

“The two most important days in your life are the day you are born and the day you find out why.”
あなたの人生で最も重要な二つの日は、あなたが誕生した日と、なぜ生れてきたかを見出した日である。

《もともと特別なOnly one》は、
重要な二つの日のうちのひとつだけの世界にしか思えない。
なぜ生れてきたかを見出してこそ、オンリーワンのはずなのに、
ただ誕生してきた日、その一つの日だけで《もともと特別なOnly one》とは、
どうやってもそうは思えない。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その19)

取材・試聴が大変だった号がよく売れ、
そうでない号はあまり売れないのであれば、話は違ってこよう。

けれど現実は必ずしもそうではない。
その17)で書いているように、
二冊のチューナー特集号の取材・試聴は大変だったはず。
けれど売れない。

チューナー特集号のころは、すでにFM放送がブームになっていた時期のはず。
それでも売れなかったのは、不思議な気もする。
ステレオサウンドの読者は、あまりチューナーに関心がなかったのか。
そのくらいしか理由は思い浮かばない。

そのころの原田勲氏は、
株式会社ステレオサウンドの社長(経営者)であり、
季刊誌ステレオサウンドの編集長であった。

編集者としてやるだけのことはやった、と自負できる号が売れていれば、
社長としての原田勲と編集長としての原田勲は仲良くできただろうが、
現実はそうでもなかった。

雑誌は売れ残れば返本される。
前の号の売行きが芳しくないと、書店に置かれる数にも影響してくる。

それに返本された分に関しても、保管して置くためのスペースが要り、
それには費用も発生するし、売れなかった本とはいえ、それは資産として扱われる。

だから裁断処分されることになる。
これにも費用がかかる。

売行きは安定してほしい。
経営者は誰もがそう考えるはずだ。

そのためにどうするか。

ここまで書けば十分だろう。
つまりステレオサウンドを変えてしまったのは、
特集の内容によって買ったり買わなかったりしていた読者でもある。

Date: 1月 8th, 2019
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その18)

原田勲氏から直接きいたはなしでは、
チューナーの特集号は芳しくなかった、ということと、
不思議なことにトーンアーム、カートリッジが表紙だと、
これもあまり売れない、ということだった。

例えばアンプを買い替えようと考えているオーディオマニアがいたとする。
そこにステレオサウンドの特集がアンプの総テストであったりすると、
そのオーディオマニアは、なんとタイミングがいい、と喜んで、
そのステレオサウンドを買うことだろう。

アンプの買い替えを考えているオーディオマニアに、
チューナーの特集号を渡しても、関心をもってもらえないこともあるだろう。

でも、ステレオサウンドのようなオーディオ雑誌の読み方は、そういうものではないはず。
そう思っていたからこそ、私は中学二年のころから、なんとか小遣いをやりくりしては毎号買っていた。

ステレオサウンドを読みはじめたばかりの中学生にとって、
43号のベストバイは、確かに面白い特集だった。
世の中には、こんなにも多くのスピーカー、アンプ、カートリッジ、プレーヤーがあるのか、
そのことを知ることができただけでも、43号のベストバイの価値はあった。

それに43号のベストバイのやり方は、これまででいちばん良かった。
結局、その後のベストバイは編集経験者からみれば、手抜きでしかない。

43号のあとは、44号、45号、46号と三号続けてのスピーカーの特集である。
ある意味、おなかいっぱいの特集である。
読み応えがあった。

スピーカーの買い替えなどまったく検討していなかった中学生であっても、
無関係な特集とは、まったく思わなかった。

アンプの買い替えを検討しているオーディオマニアで、
チューナーの特集号、スピーカーの特集号だったら買わない、というのは、
その人はステレオサウンドをお買い物ガイドとしかみていないわけだ。

そういう人にはベストバイの号はぴったりだし、
ベストバイの号が売れるのも理解できなくはない。

それでも、ステレオサウンドは、そういうオーディオ雑誌ではないはずだ、
と当時は思っていたが、現実は売行きが変動するわけで、
だからこそ、原田勲氏が、ステレオサウンドを弁当にたとえて、
幕の内弁当でなければ、というのは、株式会社ステレオサウンドの経営者としては、
当然の帰結なのだろう。

Date: 1月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その1)

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR
昨年秋に出たCDであり、
タイトルからわかるように、マリア・カラスのホログラムコンサートのCDである。

BASE HOLOGRAM社の技術によるマリア・カラスのホログラムコンサート。
昨年秋から全世界ツアーが始まっている。

日本でも予定されているそうで、2019年初頭という話だったが、
検索してみても、具体的な日程はどこにもない。

BASE HOLOGRAM社のウェブサイトには、マリア・カラスのページがある。
2月と3月の予定が公開されているが、現時点で日本公演は含まれていない。

日本でほんとうにやるのかどうかも、すこしばかりあやしい気もするけれど、
それにホログラムコンサートでのカラスの歌声は、
EMIに残した録音からカラスの声のみを抽出して、オーケストラとの協演である。

そういうものを観に行く価値はあるのか、と思わないでもないが、
行きたいという気持も、けっこう強い。

Date: 1月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

audio wednesdayのこと(その4)

audio wednesdayで音を鳴らすようになって三年経つ。
音出しは面倒と思うこともないわけではないが、やはり楽しい。

来られている人たちも楽しまれている。
けれど、音を鳴らすのもいいけれど、
以前のようにあれこれ話すのも楽しかった、という声もある。

facebookでのコメントを読んでいて、思いついたことがある。
若いオーディオマニアの方と徹底討論をやってみたい、と思っている。

一対一でもいいし、
若い方が数人対私一人でもいい。

若いオーディオマニアといっても、
ひとまわり若い人、ふたまわり以上若い人たちが来てくれれば、いいな、と思う。

私がオーディオに興味ももってから40年以上が経つ。
オーディオブームといわれていた時代はとっくに過ぎ去ってしまった。

私が熱心に読んでいたオーディオ評論家の人たちもみないなくなってしまった。
いくつものオーディオ雑誌も消えていっていったし、
残っているオーディオ雑誌も変ってしまった。

オーディオ店の数も減っている。
いろんなことが変化している。

それでもオーディオの世界に興味をもつ若い人がいる。
そういう人たちがどう感じているのかを知るには、
直接声をきくのがいちばんではないだろうか。

一人では話しにくいことも、若い人たちが数人集まれば違ってくるかもしれない。

audio wednesdayの常連の大半は、私と同世代かそれ以上の世代の人たちである。
それでもズレのようなものを感じることがある。

世代がもっと違う人たちとならば──、
若いオーディオマニアの方たちを集めるのが意外と大変かもしれないが、
やってみたい企画である。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その3)

1976年にサンスイのスピーカーシステムSP-G300が登場した。
スラントプレートの音響レンズをもつ2ウェイであった。

当時の山水電気はJBLの輸入元であった。
SP-G300はJBLのスピーカーの影響を受けた製品ともいえた。

SP-G300は国産スピーカーとしては異例の長期的計画によって誕生したモノであった。
SP-G300の開発に関する詳しいことは、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のサンスイ号に載っている。

SP-G300のコンプレッションドライバーのダイアフラムは、
当初はタンジェンシャルエッジだった。

けれどテストと測定の結果、
タンジェンシャルエッジはダイアフラムの前後運動にともない回転運動を起こしていることを確認。
最終的にSP-G300はロールエッジに変更されて世に出ている。

タンジェンシャルエッジがもつ、形状からくる回転運動の発生については、
JBLも気づいていたのかもしれないし、
もしくは山水電気からの指摘があったのかもしれない。

JBLは1980年にダイアモンドエッジを発表した。
タンジェンシャルエッジの2420は2421になり、
ロールエッジの2440は2441になった。

ダイアモンドエッジは、日本の折り紙からヒントを得た、といわれていた。
そうかもしれない。
タンジェンシャルエッジを、アルテックのエッジの向きとJBLのエッジの向き、
このふたつを合体させたものがダイアモンドエッジのようにも、当時は見えた。

ダイアモンドエッジは高域特性の改善がまず謳われたが、
むしろタンジェンシャルエッジにつきもののダイアフラムの回転運動が発生しないことのほうが、
より大きな改善点である。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その2)

続きを書く予定は最初はなかったけれど、
そういえば「レコード・トライアングル」にカラスの章があったことを思い出した。

黒田先生は、マリア・カラスの章に「声だけで女をみせる:マリア・カラス」とつけられている。
     *
 いまふりかえってみて気がつくのはカラスのレコードを全曲盤にしろ、アリア集のレコードにしろ、たのしみのためだけにきいたとはいえないということである。そのときはなるほどたのしみのためにきいたのかもしれなかったが、結果としてさまざまなことを勉強したにちがいなかった。なにを勉強したのかといえば、オペラとはなにか?──ということであった。オペラとは音楽であり同時にドラマでもあるとういことを、カラスのうたうノルマやルチアの〈トロヴァトーレ〉のレオノーラをきいてわかった。
 そのことを別の面から教えてくれたのがトスカニーニであった。なるほどオペラとはこういうものであったのか──といった感じで、トスカニーニによってオペラに対しての目をひらかれた。はじめてカラスの〈ノルマ〉をきいた当時のぼくはききてとして、完全にトスカニーニの影響下にあった。
 そういうかたよったきき方をあらためるのに、カラスのレコードはまことに有効であった。
 あれこれさまざまなカラスのレコードをきいているうちに見えてくるものがあった。レコードが与えてくれるのはたしかに聴覚的なよろこびだけである。いかに目を凝らしてもなにも見えない。レコードでできるのはきくことだけのはずである。ところがカラスのレコードをきいていたら、悲しむノルマの表情が、怒るノルマの頬のひきつりが、見えてきた。それをも演技というべきかどうか。カラスによってうたわれた場合には、ノルマなり、ルチアなり、レオノーラなり、つまりひとりの女を、音だけで実感することができた。
 それはむろん信じがたいことであった。しかしそれは信じざるをえない事実でもあった。
 カラスのレコードをきくということは、そこでカラスが受けもっている役柄を、ひとりの生きた人間として実感することであった。オペラのヒロインには、中期のヴェルディ以後の作品でのものならともかく、その描き方に少なからずステロ・タイプなところがある。そういう役柄は、うたわれ方によってはお人形さんの域を出ない。しかしそのことをもともと知っていたわけではなかった。
 ルチアにしろ、〈夢遊病の女〉のアミーナにしろ、〈清教徒〉のエルヴィーラにしろ、幸か不幸かまずカラスのうたったレコードできいた。そういう役柄がひとつ間違うとお人形さんになってしまうということを、後で別のソプラノがうたったものをきいて知った。たとえば、カラスのうたったアミーナとタリアヴィーニがエルヴィーノをうたったチェトラの全曲盤でのリナ・パリウギのアミーナとでは、なんと違っていたことか。カラスのアミーナには人間の体温が感じられたが、パリウギのアミーナは美しくはあったがお人形さんの可憐さにとどまった。
 さまざまなレコードをきいたり、実際に舞台で上演されたものに接したりしているうちに、やはり人並みにオペラのたのしみ方のこつをおぼえてきた。その結果、ますますカラスのオペラ歌手としての尋常でなさがわかってきた。
(中略)
 オペラを好きになりはじめた頃からずっと、マリア・カラスはもっとも気になるオペラ歌手であった。はじめはなんと変わった声であろうと思い、この人がうたうとなんでこんなに生々しいのであろうと考え、つまりカラスは大きな疑問符であった。その大きな疑問符にいざなわれて、オペラの森に分け入ったのかもしれなかった。
 ぼくはカラスの熱烈なファンであったろうか?──と自問してみて、気づくことがある。かならずしも熱烈なファンではなかったかもしれない。しかしカラスによって、より一層オペラをたのしめるようになったということはいえそうである。マリア・カラスは、ぼくにとって、オペラの先生であった。カラスによっていかに多くのことを教えられたか数えあげることさえできない。
 しかしカラスの他界によってカラス学級が閉鎖したわけではない。決して充分とはいえないが、それでもかなりの数のレコードが残っている。これからもオペラとはなんであろう? という、相変わらず解けない疑問をかかえて、カラスのレコードをききつづけていくにちがいない。
     *
黒田先生の文章を読んで、
マリア・カラスは、また違う意味での「古典」でもある、と思っているところだ。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その10)

その9)で《鍛えられずに》と書いた。
(その9)でいいたかったことは、この一言につきる。

鍛えられる──、
こんなことを、オーディオという趣味の分野で使うことに抵抗を感じる人はいよう。
趣味なのだから、本人が楽しめればいいじゃないか、
そこに苦しいおもいをする必要はないはず──、と。

鍛える、ということに少しは賛同してくれる人がいたとしても、
彼らは、では、どうやって鍛えるのか、ときいてくるかもしれない。

アンプでもケーブルでもいい。
システムのどこ一箇所を変更する。
変更前と変更後の音を、オーディオマニアならば納得するまで比較試聴するはず。

わかりやすい違いもあれば、微妙な違いのときもある。
微妙な違いの場合、どちらがいい音(望む音)なのか、判断に迷うこともある。
そこで時間をかけて、しつこく試聴を重ねる。

これも鍛えることではある。
それでも、私がいいたい「鍛える」「鍛えられる」は、
その域に留まっていることではない。

オーディオは一人でできる趣味である。
それでも師と呼べる人をもつべきだ、と、
私は自分の幸運をふりかえって、そういおう。

スポーツでも、楽器の演奏でも、コーチ、師といった存在がいる。
優れたコーチに出逢えた選手と出逢えなかった選手とでは、
当然のことながら違ってくる。

正しく鍛えられた選手とそうでない選手の違いがある。

Date: 1月 6th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン

リヒャルト・ワーグナーの「ベートーヴェン」が、法政大学出版から出ている。
昨年夏に出ていたようなのだが、今日まで気がつかなかった。

五味先生が「日本のベートーヴェン」で、
《けっしてベートーヴェン論を説こうというのではないし、私にそんな資格があるわけもない。作品論ならワグナーの『ベートーヴェン』(高木卓氏訳)などを読んだ方が早い》
と書かれていた。

その時から読もう読もうと思いながらも、
私の探し方がまずかったのか、縁がなかったのか、
いままで出逢うことがなかった。

実は一度神保町の古書店で見かけたことはあるが、
けっこうな値がついていて、ふところが寂しかったころもあって、手が出せなかった。

それからでも、けっこうな月日が過ぎている。
もう読む機会はないのかも……、と思いはじめてもいた。

今回出た「ベートーヴェン」は、高木卓氏の翻訳ではないが、
とにもかくにもワーグナーの「ベートーヴェン」が日本語で読める。

Date: 1月 5th, 2019
Cate:

賞からの離脱(ステレオサウンド 209号)

ステレオサウンドはこれから先どうなっていくのだろうか……。
そんなことを毎号、思っていたのだが、
いま書店に並んでいる209号をパラパラと見ていて、
いままで以上に、大丈夫だろうか……、と思ってしまった。

特集のStereo Sound Grand Prix。
毎回、選考委員が会議室と思われる部屋での集合写真が載る。
今回も載っている。
けれど、ステレオサウンドの社屋を背景にした写真であった。

会社案内のパンフレットにでも載せる写真か、と思う。

記憶違いでなければ、前回のStereo Sound Grand Prix(205号)では、
会議室での集合写真だった。

どうしたんだろうか。
こんな写真を撮ってまで載せる理由はなんだろうか。
選考委員の誰一人として、こんな写真を撮るの? と疑問に感じなかったのか。

強い違和感をおぼえた。
そう感じる私のほうが、おかしい感覚になってしまっているのだろうか。
それとも、臆面もなく、こんな写真を掲載する感覚が、とっくにおかしくなってしまっているのか。

そんなことを年末に、ぼんやりとおもっていた。
数日前、ステレオサウンドが移転することを知った。

2月に新しい事務所に引っ越すらしい。
そういう事情があって、社屋を背景とした写真だったのか、と一応の理解をしつつも、
それでも違和感を拭い去ることはできない。

今年の12月に出る213号では、どんな集合写真なのだろうか。

Date: 1月 5th, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その1)

“′Classic′ – a book which people praise and don’t read.”
マーク・トウェインの、古典について語ったことばだ。
日本語に訳する必要はないだろう。

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その4)」で、
オーディオショウでマリア・カラスを聴いた記憶がない、と書いた。

なぜだろうなぁ、と考えても、答が見つかったわけではない。
けれど、マリア・カラスはいまや古典なのかもしれない。

誰もが賞讃するけれど、だれも聴かないのかもしれない。

Date: 1月 4th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その9)

文字情報による知識を得るのは、たやすい時代になっている。
そういう時代にあって、受験テクニックを身につけている世代は、
どれだけでも知識を増やしていけることだろう。

そういう人を知っている。私より一世代くらい若い人だ。
知識を、とにかく身につけているオーディオマニアだ。

けれど、残念なことに、それらの知識が有機的に結びついているとは言い難い。
体系化できていない。
だから、それらの知識は、いわば脂肪のように彼にまとわりついている。

本人は、オーディオに詳しいと自負していることだろう。
知識量だけはあるのだから、そういえなくもない。

でも、身につけているだけである。
筋肉とは違い、脂肪のようだ、という理由はそこにある。

そのためか、その人のオーディオの言動は、
とても見苦しい、と感じる。

いわば知識の肥満体である。
ぶくぶくと知識だけが、鍛えられずに身についているだけなのだから。

これも時代の軽量化のように感じている。

Date: 1月 3rd, 2019
Cate: Maria Callas

マリア・カラスとD731(その1)

マリア・カラスのCDだけを聴く四時間だった。
集中してマリア・カラスを聴いたことは、いままでやってこなかった。

昨晩のaudio wednesdayに来てくれた人たちが楽しんでくれたのかどうかはきかなかったが、
私自身は楽しかった。

退屈するかも……、と少しは思っていた。
でも杞憂だった。

今回、セッティングでいままで試してこなかったことをやった。
実験的なことなため、すぐ元にもどせるようにと、
見た目は少し手抜きのところがあった。

その効果はあったので、次回以降できちんと仕上げる予定ではあるが、
そんなことをやっても、昨晩のaudio wednesdayには、
メリディアンのULTRA DACがないんだなぁ……、と胸の裡でつぶやいていた。

CDプレーヤーはスチューダーのD731。
前回、トランスポートとした使っている。
ULTRA DACの存在があるかないかの違いである。

大きな音の違いがあるのは、音を出す前からわかっていた。
それでも前回、D731単体の音出しからULTRA DACと組み合わせての音との違いよりも、
今回のULTRA DAC不在の音の違いが、ずっとずっと大きく感じられた。

四週間すぎてなお、これほど違いを感じるのか……、とも思っていた。

マリア・カラスの「カルメン」ももちろんかけた。
「ノルマ」から「Casta Diva」もかけた。

そして後悔していた。
前回、ULTRA DACがあったときに「Casta Diva」を聴かなかったことを。