オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる(その8)
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
結局、正直でなければ、裸の音楽は鳴ってこない。
(その1)で、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる、と書いた。
いまこれが8919本目である。
どうにか一万本に近づいてきた、といえる本数になって、
しかも十年、毎日書いてきて、最終的な問いが見えてきた。
別項で書いていることである。
正直なのか、という問いこそが、最終的な問いとなってくる予感がある。
「私は、マリア・カラス」が12月21日から上映されるのを楽しみにしていたら、
その前にバルバラの映画「バルバラ セーヌの黒いバラ」が11月16日から上映になる。
バルバラの映画のあとには、アストル・ピアソラの映画も公開になる。
「ピアソラ 永遠のリベルタンゴ」である。12月1日からだ。
三本、どれも見逃せない。
今月のaudio wednesdayは7日、テーマは「歌謡曲を聴く」。
広く日本語の歌を聴こう、ということで、歌謡曲という定義にこだわってはいない。
私が持っていく予定のディスクは、グラシェラ・スサーナに、
薬師丸ひろ子の「Cinema Songs」、
それから柳兼子の「現代日本歌曲選集 日本の心を唄う」の三枚は確実だ。
喫茶茶会記のスピーカーは、ホーン周りがこれまでとはかなり違っている。
まだ一部仕上げが残っているが、二週間ほど前に行った作業後の音は、
時間がなく、実は私も聴いていない。
こんなふうに鳴るはず、という予想はあるけれど、
その予想をこえたところで鳴ってくれるのか、それとも予想を下回る鳴り方なのか、
私自身も楽しみにしている。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。
十年ほど前からか、KYという略語が流行り出した。
空気を読め、空気が読めない、という意味で使われていた。
誰がいい出したのか、
どうして、こんな略語が流行ったのか。
研究している人はいるのだろうが、
私は、これも「私を不快にさせるな」というところから来ているように感じている。
よかれ、と思って言ったことが、相手を不快にさせることはある。
わたしなんて、しょっちゅうといえるほうだろう。
八年前もあった。
あきらかにおかしな音を聴かされた。
25年のつきあいのある男の音だった。
そのことをやんわりと指摘した。
そのくらい、おかしな音(間違っている音)だったからだ。
彼の出す音は、バランスを欠いた音である。
そのことはわかっていても、その時の音は、バランスのおかしさという範囲を逸脱した音だった。
でも、その音は彼にとって自慢の音だったようで、
彼とのつきあいはそれっきりである。
彼にしてみれば、「私を不快にさせるな」もくしは「私を不快にさせやがって」なのだろう。
それは彼の自尊心を傷つけた(無視した)からなのか。
いまとなってはどうでもいいことなのだが、
それにもかかわらず、こんなことを書いているのは、
時として不快な気持になる誰かの言動は、
己が本当に正直なのか、という確認につながっていくようにも、私は思っている。
本当に私は正直なのか、音楽の聴き手として、
オーディオマニアとして正直なのか、という確認作業は、とても大事なことである。
駅からの帰り道。
前を歩いている女の子(幼稚園児くらい)が、お母さんにしきりに訊いていた。
「お化けはどうしてこわいの? お化けはどうやって怖がらせるの?」と。
お母さんは、うまく答えられずに困っていたようだった。
それでも女の子は、何度も同じことをいっている。
子供の質問。
たとえば、空はどうして青いの?とか、
飛行機はどうして飛ぶの?とかだったら、
いまではスマートフォンがあるから、パッと調べてなんとなくではあっても、答えられる。
けれど、今日の女の子の質問に答えるのは、難しい。
女の子がいうお化けとは、どうも幽霊のことのようだった。
幽霊を見たことがない。
いるという人もいれば、いないという人もいる。
お母さんが、どちらなのかはわからない。
いるのかいないのか、それすらはっきりしない幽霊が、
どうやって人を怖がらせるのか。
幽霊は怖いものだという認識があるだけで、
ただ目の前に現われただけの幽霊は、ほんとうに怖いのだろうか。
こちらに害を及ばさなければ、ただ見えているだけともいえる。
考えても答は出そうにない。
けれど、オーディオにも似たようなこと、同じようなことがいえるのではないのか。
そんなことをぼんやり考えながら、帰宅していた。
瀬川先生が、ずっと以前に書かれていたことを憶いだす。
*
前項で、音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
*
ステレオサウンド別冊High-Technic Seriesの一冊目、
マルチアンプ号からの引用だ。
こういう聴き方なのか。
瀬川先生が、《あまりのショックでしばしぼう然》された聴き方が、
音質評価としての聴き方なのか。
ULTRA DACよりも安価なD/Aコンバーターを高く評価した人の聴き方はわからない。
仮にそうだった、としよう。
《音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断すること》とは無縁の耳、聴き方でしかない。
そんな耳、聴き方の人には、ULTRA DACは高いだけ、大きいだけのD/Aコンバーターなのだろう。
もっと小型でもっと安価で、音のいいD/Aコンバーターがあるのに、
価格と大きさにく惑わされているヤツラがいる──、
そんな耳、聴き方の人は、私のような耳、聴き方をする人をそう思っているかもしれない。
そして、ここでも「肉体」ということに連想がいく。
ヘッドフォン祭でのデジ研のブースで、ちょっと気になることを聞いた。
「ULTRA DACは音質評価という聴き方をすると、決して高い評価を得られないかもしれないが、
音楽を聴くためのオーディオ機器としては素晴らしい」と。
概ね、そんな内容だった。
いわれた方は、ULTRA DACの良さを認めておられるようだった。
そのうえで、こういういいかたをされたのは、なぜだろう、と思って、
昨晩、Googleで「メリディアン ultra dac」で検索してみた。
個人のブログに、それはあった。
ブログを書かれている人は、他の方のtwitterを引用されていて、
ツイートされているイベントでの音を聴かれているわけではない。
簡単に見つけられるから、あえてリンクはしないが、
そこには、ULTRA DAC(250万円)の10分の1くらいのD/Aコンバーターの音のほうが、
圧倒的によかった、というツイートが紹介されている。
正直、これだけではこまかなことまでははっきりとしない。
ただ、ULTRA DACよりもずっと安価なD/Aコンバーターの音を高く評価する人がいる、
ということがわかるだけである。
音質評価という聴き方がどういうものなのかも、実のところ、はっきりとしないが、
なんとなくならば、わからないわけでもない。
それでも音質評価という聴き方は、音楽を聴く、ということと、
どれだけ違っているのだろうか。
オーディオマニアは、音楽ではなく音だけを聴いている──、
とは昔からいまも言われつづけている、いわば批判の表現だ。
これにも、あれこれいいたいことはあるけれど、
それを書いていったら、長々と書いていかねばならなくなるが、
短絡的に捉えた場合の、そういう聴き方なのか。
ヘッドフォン祭のあとの、仲良しチームでの飲み会。
ここでも、メリディアンのULTRA DACのことが話題になった。
仲良しチームの三人で、ULTRA DACを聴いているのは私だけ。
あとの二人は、その日、東京にいなかったので聴く機会を逃している。
ヘッドフォン祭では、デジ研のブースで、ちょうどMQAについての解説とデモをやっていた。
私にとっては特に新しい情報はなかったけれど、
二人は「いい勉強会だった」と喜ぶだけでなく、ULTRA DACへの興味が俄然増したようだった。
そういうことがあったので、飲み会でもULTRA DACのことが、自然と話題に登った。
12月5日のaudio wednesdayで、再びULTRA DACを鳴らす。
二人とも、「楽しみ、楽しみ!」といってくれる。
そうだ、とおもう。
私も、すごく楽しみにしている。
私はもう一度ULTRA DACの音が聴ける、
前回以上に堪能しよう、という意味での楽しみであるけれど、
Aさんは、こんなことをいっていた。
「宮﨑さんの好きな音を知ることのできる機会でもある」と。
そんな楽しみもあるようだ。
Aさんは、けっこうな回数、audio wednesdayに来てくれている。
他の場所でも、いっしょに音を聴く機会はある。
このブログも読んでくれているし、いっしょによく飲んでいる。
それでも、Aさんは、私の好きな音を掴みきれていなかったのか、とおもうだけでなく、
意識して隠しているつもりはないし、ここに書いているつもりなんだけど……とも思う。
そんなことがあったから、よけいにaudio wednesdayで鳴らす音は、
私の音といえるのか、私の好きな音の片鱗を鳴らしているのか──、と少し考えている。
ヘッドフォン祭の来場者の平均年齢は、
OTOTEN、インターナショナルオーディオショウよりも若い。
今回、学生服の二人連れが目に留った。
見た感じ中学生か高校一年くらいだった。
二人とも学生カバンを下げていたから、学校が終ってから来場したのだろう。
会場は中野サンプラザで、いちばん上は15階、
そこから下に降りていきながら会場を見ていたわけだが、
面白いことに、この若い二人組とは、三回ほど遭遇した。
友人同士なのだろう、何か話しているのは見ればわかるけれど、
静かな話し声だった。
(その13)で書いた数人のグループとは、正反対だった。
楽しそうに聴いているのかな、と、そんなことを思いながら、
彼らを見ていた。
彼らが、これから先、どんなオーディオマニアになっていくのかは、まったくわからない。
ヘッドフォンだけで音楽を聴いていくのか、
それともスピーカーで聴くことにもすでに興味をもっているのか、
なにひとつわからないわけだが、
(その13)で書いた人たちのようにはなってほしくない、と勝手におもっている。
「複雑な幼稚性性」というタイトルとカテゴリーで(その1)を書いたのは、十年前。
120本以上書いている。
「2018年ショウ雑感」の(その13)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、こう書かれていた。
《ある意味、オタク性群れヒエラルキーの幼児性ですね》と。
まさしく、(その13)で書いている人たちは、そうだといえよう。
最近、よく目にする表現で、マウントの取り合い、というのもある。
どちらも、「複雑な幼稚性」だと私は思っている。
だから、この「複雑な幼稚性」のカテゴリーをつくって書きつづけている。
トランスの取り付け方、取り付け位置は注目したいポイントである。
カタログやウェブサイトなどでの製品の説明で、
良質で大容量の電源トランスを使用していることを謳っているものはけっこうある。
オーディオ雑誌の記事でも、製品の内部写真の説明でも、
電源トランスは……、という記述があったりする。
アンプにしても、CDプレーヤーにしても交流電源を直流にして、
その直流を信号に応じて変調させて出力をさせているわけだから、
電源のクォリティは、音のクォリティに直結しているわけで、
電源トランスは、その要ともいえる。
だからこそ良質で(高価な)トランスを採用するわけだが、
その取り付け方をみると、このメーカーは、ほんとうに細部までこだわっているのだろうか──、
そう思いたくなるメーカーが、けっこう多い。
ケースなしの電源トランス、
特にトロイダルコアの電源トランスをどう固定するか。
どんなに電源トランスのクォリティにこだわりました、と謳っていても、
こんな取り付け方しかしないのか、取り付け方を自分たちで工夫しないのか、考えないのか、
そういいたくなることがある。
安価な製品であれば、それでもかまわない、と思うけれど、
数十万円、百万円をこえる製品なのに、
電源トランスも大きく立派そうにみえるモノであっても、
取り付け方は標準的な方法そのままだ。
ここまで書けば、製品内部をきちんと見ている人ならば、
どういうことをいいたいのかわかってくれよう。
細部まで疎かにせず、とか、細部までこだわりぬいた、とか、
そういう謳い文句が並んでいても、電源トランスの取り付け方が、
そのこだわりがどの程度のものなのかを、はっきりと示している。
(その1)を書いたのが、五年半ほど前。
(その4)は三年半ほど前。
思い出して続きを書き始めたのは、菅野先生が亡くなられたからでもある。
facebookにオーディオ関係のグループはいくつもある。
そのなかのいくつかは、おそらく菅野先生が亡くなられたことについて、
書いている人がいると思う(見てないので知らない)。
ブログで書いている人もいるはずだ(こちらも見ていない)。
SNSもブログも、あえて検索しなかった。
しなかったけれど、
「オーディオの一つの時代が終った」的なことを書かれている人がいるとは思っている。
どのくらい、そう思っている人がいるのかも私にはわからない。
でも、ほんとうに「オーディオの一つの時代が終った」のだろうか。
ここでのオーディオは、何を指すのか。
オーディオ評論ということでも、一つの時代が終ったようには感じていない。
1977年に岩崎先生、1980年に五味先生、そして1981年に瀬川先生が亡くなられて、
私は、オーディオ評論の一つの時代が終った、と感じていたからだ。
もうとっくの昔に終りを迎えていた。
一つの時代が終りを迎えたら、新しい時代が始まるのだろうか。
少なくともオーディオ評論の世界では、そういうことは起らなかった。
でも変化は起こるはず、といわれるかもしれない。
けれど、その変化にしても、瀬川先生が亡くなられたことで始まっていた。
それは決していい変化とはいえなかった。
「オーディオの一つの時代が終った」と感じ、
新しいオーディオの時代が始まる──、
そう感じ、そう信じれる人は信じればいい。
私はそうでないだけ、の話だ。
仲良しチームと呼ばれている三人で、ヘッドフォン祭に行っていた。
ヘッドフォン祭は中野で開催されている。
一人で行くのであれば、交通の便が悪くなければ、
どこで開催されていてもいいけれど、
仲のいい人たちといっしょに行くのであれば、
その後に、飲みに行きましょう、ということに必ずなる。
そうなると、ヘッドフォン祭の中野は、いいなぁ、と感じる。
昨日、ヘッドフォン祭に行っていた。
ヘッドフォン祭だけのことではない、
他のオーディオショウにおいても、見かけたことがある。
数人で来ている人たちの会話のことだ。
昨日も、四、五人のグループが、見てまわったあとの感想を話しているのが耳に入ってきた。
かなり大きな声で話しているものだから、離れたところにいても、
彼らの会話はすべてはっきりと聞こえてくる。
そのことが迷惑と感じたのではなく、その内容だった。
とある出展社のことを、かなり否定する内容だった。
そういう感想をもつのは自由だ。
そのことについて話すのも、いい。
けれど、時と場所を考慮すべきだ。
ヘッドフォン祭の会場内で、
あれだけ大きな声で(なぜあれだけ大きな声で話す必要があるのか)話していたら、
周りの人は、聞きたくないことを聞かされることになる。
その中には、出展社の関係者が含まれることだってあろう。
彼らの話しぶりからすると、あえて大きな声で話すことで、
自分たちをアピールしたいかのようにも思えた。
オーディオショウでも、こういう人たちは、いる。
感想を話したければ、場所をかえて、飲みながらでも話せばいいことだ。
毎回そう思うわけだが、でも今回の人たちは配慮が欠けすぎていた。