Author Archive

Date: 4月 3rd, 2019
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その14)

毒をもって毒を制す、と、
昨年と今年に、一回ずつ書いている。

その他にも、オーディオの毒、音の毒についても何度か書いてきている。

それを読まれた方のなかには、ここで取り上げている音、
嫌いな音、ききたくない音を徹底排除した音も、そんな毒の一種といえるのではないのか、
そう思われるかもしれない。

私は毒とは思っていない。

さらにステレオサウンドを古くから読まれていて、記憶のいい方ならば、
ステレオサウンド 210号掲載の
黛健司氏の「ベストオーディオファイル賞からレコード演奏家論へ」を読まれて、
そういえば、と思い出されることがあると思う。

247ページに、
《ある方の音については「……さんの出されている音には普遍性がありませんでしたが、一枚の特定のレコードにかぎり、私がかつて聴いたことのないような音で、私を説得し、感動さしめたということはたいへんなことだと思います」と驚嘆された》
とある。

この方について、菅野先生は「オーディオ羅針盤」のなかでも触れられている。
この方については、私は別項「正しいもの」で触れている。

一枚の特定のレコードとは、
バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニーを振ってのマーラーの第四番である。
CBS録音であり、CBSソニーから発売された日本プレスのLPであり、
……さんとは、66号のベストオーディオファイル賞に登場された丸尾儀兵衛氏である。

Date: 4月 2nd, 2019
Cate: ディスク/ブック

THE DREAMING(青春の一枚・その1)

私が明日(4月3日)のaudio wednesdayに持っていく「青春の一枚」は、
ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”である。

Date: 4月 2nd, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

明日(4月3日)は、audio wednesday。
テーマは、いうまでもなく「三度(みたび)ULTRA DAC」である。

ULTRA DACに決ったのは、前回3月の会であった。
だから、それまでは、違うテーマを考えていた。

4月3日だから、43。
それに水曜日(wedneadya)で、頭文字はW。
Wはダブルでもあるわけだから、43がダブルで4343。
そんなダジャレのようなことを考えていた。

JBLの4343を、どこからか調達できれば4343を鳴らしたい、と思っていたが、
まず無理である。

次に考えたのは、春だから、春に関係する曲をかけよう、と。
ストラヴィンスキーの「春の祭典」でもいいし、
春を歌った日本語の歌、外国語の歌などをかけようかな、と考えていた。

どうしようかな、と迷っていたところに、ULTRA DACを聴けることになった。
二週間前に、「青春の一枚」といえる愛聴盤を、ULTRA DACで聴いてほしい、と書いた。

audio wednesdayに来られる方の青春時代は、
いわばアナログ録音時代である。
「青春の一枚」はアナログ録音のCD化ということになる。

ULTRA DACはMQAの再生も素晴らしい。
同じくらいに通常のCDの再生が、またいい。

アナログ録音のCDを、ULTRA DACで、一度聴いてほしい、と思っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 4月 2nd, 2019
Cate: 五味康祐

続・桜の季節に

五味先生の「花の乱舞」から引用するのは、これで四度目である。
     *
 花といえば、往昔は梅を意味したが、今では「花はさくら樹、人は武士」のたとえ通り桜を指すようになっている。さくらといえば何はともあれ──私の知る限り──吉野の桜が一番だろう。一樹の、しだれた美しさを愛でるのなら京都近郊(北桑田郡)周山町にある常照皇寺の美観を忘れるわけにゆかないし、案外この寂かな名刹の境内に咲く桜の見事さを知らない人の多いのが残念だが、一般には、やはり吉野山の桜を日本一としていいようにおもう。
 ところで、その吉野の桜だが、満開のそれを漫然と眺めるのでは実は意味がない。衆知の通り吉野山の桜は、中ノ千本、奥ノ千本など、在る場所で咲く時期が多少異なるが、もっとも壮観なのは満開のときではなくて、それの散りぎわである。文字通り万朶のさくらが一陣の烈風にアッという間に散る。散った花の片々は吹雪のごとく渓谷に一たんはなだれ落ちるが、それは、再び龍巻に似た旋風に吹きあげられ、谷間の上空へ無数の花片を散らせて舞いあがる。何とも形容を絶する凄まじい勢いの、落花の群舞である。吉野の桜は「これはこれはとばかり花の吉野山」としか他に表現しようのない、全山コレ桜ばかりと思える時期があるが、そんな満開の花弁が、須臾にして春の強風に散るわけだ。散ったのが舞い落ちずに、龍巻となって山の方へ吹き返される──その壮観、その華麗──くどいようだが、落花のこの桜ふぶきを知らずに吉野山は語れない。さくらの散りぎわのいさぎよいことは観念として知られていようが、何千本という桜が同時に散るのを実際に目撃した人は、そう多くないだろう。──むろん、吉野山でも、こういう見事な花の散り際を眺められるのは年に一度だ。だいたい四月十五日前後に、中ノ千本付近にある旅亭で(それも渓谷に臨んだ部屋の窓ぎわにがん張って)烈風の吹いてくるのを待たねばならない。かなり忍耐力を要する花見になるが、興味のある人は、一度、泊まりがけで吉野に出向いて散る花の群舞をご覧になるとよい。
     *
西行は、
 ねがはくは
 花のもとにて
 春死なむ
 その如月の
 望月のころ
そう残している。

桜の季節まで生きていなければ、願いは叶わぬ。
以前はまったく考えもしなかったことだが、
死期がちかくなってくると(身近に感じられるようになってくると)、
せめて桜の咲く季節まで……、と人はおもうようになるのだろうか。

こんなことを考えるようになってきた。
もう一度、桜をみたい──、
その気持がはげみになるのか。

そうおもっていても、叶わぬ人もいれば叶う人もいる。

西行は、満開のときにこの世を去りたい、という願いだったのか。
五味先生の「花の乱舞」を、この季節になると自然とおもいだすようになってきた。

おもいだすから、四回も引用しているわけだが、
《落花のこの桜ふぶき》のもとで、叶うことならくたばりたい、という気持が、
毎年少しずつ芽ばえてきているような気がするといえば、そうなのかもしれない。

病院のベッドの上で、病室の天井を眺めて、だったりするのが現実だ。

Date: 4月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その6)

よくオーディオ評論家のいうこと、書くことなんて、あてにならない(あてにしていない)、
信じられるのは自分の耳(感性)であって、
オーディオ評論家のという、いわば他人の耳(感性)を信じるなんて、
なんて愚かなこと──、
そんなことを豪語する人がいる。

豪語する人は、オーディオ評論から何も学ぶものはない、ともいいたいのだろう。
豪語する人のいうところのオーディオ評論家には、
私がオーディオ評論家(商売屋)と認識している人たちだけではなく、
オーディオ評論家(職能家)の人たちまでも含まれている。

豪語する人は、これまで幾度となくオーディオ評論家に騙されてきた。
だから、もうオーディオ評論家のいうことなんて、信じないし、
信じるヤツラは……、ということのようだ。

豪語する人の生き方も、それで尊重しよう。
豪語する人に、私からいうことは何もないからだ。

ただ、豪語する人の言葉に惑わされないでほしい。
そうは思っている。

オーディオ評論家(職能家)の書く文章を読むことは、
そのオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り、学ぶ行為である。

自分の聴き方が絶対と信じ込める人ならば、オーディオ評論を読む必要はない。
自分の耳を信じていながらも、疑うところも持つ人は、
優れたオーディオ評論を読むべきである。

読むことによって得られる聴き方が、必ずある。
音を言語化するのはほぼ無理であるし、
ただ読んだだけで、聴き方を学べるとは限らない。

それでもくり返しくり返し読むことで、
そして、そのオーディオ評論家が本気で惚れたオーディオ機器を聴くことで、
聴き方のきっかけはつかめるはずだし、つかめるまで読んでほしい。

豪語したければすればいい。
豪語した時点で、その人の聴き方はそこで留ってしまう。

Date: 3月 31st, 2019
Cate: オーディオマニア

平成をふり返って(その1)

SNSを眺めていたら、今日(3月31日)で、平成が終る、と勘違いしている人が、
少ないながらもいるらしい、ということを知った。

あと一ヵ月で平成が終る。

三十年ちょっと続いた平成は、
私にとっては名刺を持たなかった三十年である。

ステレオサウンドで働くようになって、初めての名刺。
そのこと自体が、とても誇らしく感じられた。

ステレオサウンドは平成元年1月20日付けで辞めている。
とはいっても有給休暇が残っていたので、12月下旬で辞めていた、といっていい。

だから平成になってからステレオサウンドの名刺を使うことはなかったし、
新しい名刺を持つこともなかった。

それでも一度だけ、名刺を作ったといえば作っている。
2002年に、自宅でクラリスワークスで名刺をレイアウトして、
名刺用のプリント用紙に印刷しての名刺だ。

私自身の名刺というより、audio sharingの名刺であり、
川崎先生に渡すための名刺として、であった。

一枚のプリント用紙で、十枚の名刺ができた。
その十枚だけが、平成の時代に作った名刺のすべてであり、
使ったのは川崎先生に渡した一枚だけだった。

「仕事は?」と誰かにきかれると、
「オーディオマニア」とこたえる私だから、これでいいんだろう。

Date: 3月 31st, 2019
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その13)

嫌いな音、ききたくない音を徹底排除していく。

嫌いな音、ききたくない音が、いわゆるひどい音であるのならば、
それほど問題視することもないであろう。

けれど、そうでない場合がある。
少なくとも私がよく知っている例(個人)の嫌いな音、ききたくない音は、
そこにひどい音も含まれているけれど、
バランスのよい音を出すために不可欠な要素としての音が、そこに含まれている。

つまり偏食によって、嫌いな食べものを排除していくのと同じようにうつる。
嫌いな食べものは、体に悪い食べもののことではない。

必要な栄養素を好き嫌いで摂取しない。
それが極端にひどくなると栄養失調に陥ってしまう。

(その10)以降で書いているオーディオマニアは、
私の目(耳)には音の栄養失調に陥っているようにしかみえない(聴こえない)。

その人の音は、デリケートといえば、そういえるかもしれないが、明らかに栄養失調であり、
痩せてしまっている。

つくべきところに肉がつき、優れたプロポーションのスマートさではなく、
明らかに栄誉素が不十分で痩せ細ってしまった、
はっきりいえば不健康なアンバランスな音である。

音である。
食べものとは違うといえば違う。

食べもので、極端な好き嫌いをしてしまえば、健康に関ってくる。
けれど音は、身体の健康には関係していない、といえばそういえる。

だから本人の好き嫌いなのだから、周りがとやかくいうことではない──、
そうともいえる。

そう思って、私自身、そのことを直接的に指摘することはなかった。
婉曲ないいまわしで、数回伝えたことはあった。

でも、そのくらいで変るものではなかった。

Date: 3月 30th, 2019
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(いつまでも初心者なのか・その5)

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは4つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている。

確信していること(その20)」で、こう書いた。
2011年11月だから、七年以上経っている。
昨年も、この四つの柱について、少しだけある人に話した。

この四つの柱は、オーディオ評論家としての活動だけにあてはまることではない。
オーディオ雑誌の編集にも、そのままいえることである。
(このことについては、別項で改めて書きたい。)

オーディオマニアにも、そしていえることである。
「初心者ですよ」という大人がいる。
ずっといい続けているいい歳した大人がいる。

一本の柱すら持たない人なのだろう。

Date: 3月 30th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

別項「必要とされる音(その12)」で、
Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
Vitavoxで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい──、と書いた。

一年半ほど前に、そう書いた。
これを書いたほぼ一年後に、メリディアンのULTRA DACを聴いた。

だからいまは、こう書きたい。

Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
VitavoxとULTRA DACとで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい──、と。

4月3日のaudio wednesdayは、「三度(みたび)ULTRA DAC」である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 3月 29th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その4)

(その3)で引用した五味先生の文章には続きがある。
     *
でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ、しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
五味先生の文章で、ここで終る。
五味先生が褒められているIIILZのエンクロージュアとは、
ステレオサウンドの企画で、井上先生が設計にあたられたコーネッタのことである。

《JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ》、
ここだけに注目すれば、結局五味先生はアンチJBLのままか、と早合点しそうになるが、
ほんとうにそうだろうか。

それにやっぱり五味先生と瀬川先生は、JBLを最終的に認めるかそうでないのか、
そこで決定的に違う──、そんなふうに思い込むこともできないわけではない。

けれどほんとうにそうだろうか。
ここで、思い出してほしい瀬川先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭、
「80年代のスピーカー界展望」である。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
 その理由は、まだわたくしにはよくわからないが、もうずっと昔からそうだったし、おそらくこれから先もまだ、この事情が変ることはないだろう。それだからこそ、自分自身がどういう音を求め、どういう音を鳴らしたいのか、という方向を見きわめる努力を続ける中で、そのときそのときの要求に見合ったスピーカーを探し求めることが、どうやら永遠の鍵なのではないだろうか。
     *
瀬川先生ですら
《ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持》
とまで表現されている。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(4347という妄想・その4)

私が妄想している4347は、4345の改良版というよりも、
4350のシングルウーファー版といったほうが、より近い。

4350のウーファーを、15インチ口径の2231のダブルから、
18インチ口径の2245に変更する。
上の帯域を受け持つ三つのユニットは4350と同じままである。
当然エンクロージュアは4350の横置きから縦置きへとなる。

各ユニットのクロスオーバー周波数は4350に準ずることになるだろう。

個人的には2245はフェライト磁石仕様しかないけれど、
ミッドバスの2202はフェライトではなく、やはりアルニコがいい。

それからミッドハイの2440は、
エッジがタンジェンシャルからダイアモンド型になった2441がいい。

スーパートゥイーターの2405も、アルニコがいい。
というより、2405はフェライト仕様になってバラツキはほぼなくなっている。
これは大きな改良だと認めても、音に関しては2405こそアルニコである。
この2405も新型ダイアフラムにしたい。

ここまではすんなり思いつく。
悩むのは、ホーンである。
2441と組み合わせるホーンである。

4343、4350同様スラントプレートの音響レンズ付きを、
誰だって最初に思い浮べるだろう。

4343はミッドバスのフレーム幅と、音響レンズの横幅とは一致している。
だからこそミッドバスとミッドハイがインライン配置であるのが、ピシッと決っている。

4350は、ミッドバスが12インチ口径となっているが、
この二つのユニットはインライン配置ではない。
だからミッドバスのフレーム幅と音響レンズの横幅の寸法が一致してなくとも気にならない。

けれど、ここで妄想している4347は、
ウーファー、ミッドバス、ミッドハイ、
少なくともこの三つのユニットはインライン配置にしたい。

そうなると音響レンズの横幅をどうするかが、小さいけれどけっこう気になってくる。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その3)

五味先生の4343評。
それが読めたのは、「人間の死にざま」を古書店で見つけたであった。
     *
 JBLのうしろに、タンノイのIIILZをステレオ・サウンド社特製のエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器であるせんせんの 再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たくて即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめてタンノイのスピーカーから出る人声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的な冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳には快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中を楽器から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を有たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさか思った程である。
     *
意外だった。
4343のことはそこそこ高く評価されるであろう、とは予想していたが、
ここまで高く評価されていたのか、と驚いた。

この時の組合せは、コントロールアンプがGASのThaedra、パワーアンプがマランツのModel 510M、
カートリッジはエンパイアの4000(おそらく4000D/III)だろう)。
ステレオサウンドの試聴室で聴かれている。

アンプが、瀬川先生の好きな組合せだったら……、
カートリッジがエンパイアではなく、ヨーロッパのモノだったら……、
さらに高い評価だったのでは……、とは思うし、
できれば瀬川先生による調整がほどこされた音を聴かれていたら……、
とさらにそう思ってしまうが、
少なくとも4343をJBL嫌いの五味先生は、いいスピーカーだと認められている。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その2)

オーディオマニアとしての私の核は五味先生の文章によって、
そして骨格は瀬川先生の文章によってつくられた、としみじみおもう。

そんな私にとって、ここでのタイトル「カラヤンと4343と日本人」は最も書きたいことであり、
なかなか書きづらいテーマでもある。

熱心にステレオサウンドを読んでいたころ、
五味先生は4343をどう聴かれるのか、そのことが非常に知りたかった。

ステレオサウンド 47号から始まった「続・五味オーディオ巡礼」では、
南口重治氏の4350Aの音を、最終的に認められている。
     *
 プリはテクニクスA2、パワーアンプの高域はSAEからテクニクスA1にかえられていたが、それだけでこうも音は変わるのか? 信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
 ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
 小編成のチャンバー・オーケストラなら、あらためて聴きなおしたゴールド・タンノイのオートグラフでも遜色ないホール感とアンサンブルの美はきかせてくれる。だが大編成のそれもフォルテッシモでは、オートグラフの音など混変調をもったオモチャの合奏である。それほど、迫力がちがう。
     *
47号の「続・五味オーディオ巡礼」には、4343のことも少しばかり触れられている。
     *
 JBLでこれまで、私が感心して聴いたのは唯一度ロスアンジェルスの米人宅で、4343をマークレビンソンLNPと、SAEで駆動させたものだった。でもロスと日本では空気の湿度がちがう。西洋館と瓦葺きでは壁面の硬度がちがう。天井の高さが違う。4343より、4350は一ランク上のエンクロージァなのはわかっているが、さきの南口邸で「唾棄すべき」音と聴いた時もマークレビンソンで、低域はスレッショールド、高域はSAEを使用されていた。それが良くなったと言われるのである。南口さんの聴覚は信頼に値するが、正直、半信半疑で私は南口邸を訪ねた。そうして瞠目した。
     *
ここでの組合せのこまかなことはないが、
SAEのパワーアンプは、おそらくMark 2500なのだろう。
だとすれば、ここでの組合せは瀬川先生の組合せそのものといっていい。

組合せだけで音が決まるわけでないことはいうまでもない。
それでも、当時のマッキントッシュのアンプで駆動させた音と、
LNP2とMark 2500での音とは、大きく違う。
方向性が違う。

その方向性が、瀬川先生と同じであるところの組合せを、
五味先生は《感心して聴いた》とされている。

47号を何度も何度読み返した。
読み返すほど、五味先生が4343をどう評価されていたのかを知りたくなった。

Date: 3月 28th, 2019
Cate: 四季

さくら餅(その2)

このブログを書き始めたのは、2008年9月。
書き始めたときから2月になるのを楽しみにしていた。

三はし堂のさくら餅について書きたかったからだ。
2009年2月に、だから「さくら餅」というタイトルで書いている。

三はし堂は一度閉店し、復活した。
けれど、いまはもうない。
今回は復活の期待もできそうにない。

毎年2月になると、ここのさくら餅を買いに行くのをほんとうに楽しみにしていた。
一つ200円ちょっとのさくら餅である。
高価な和菓子ではない。

けれど、三はし堂のさくら餅より高価な桜餅よりも、
上品で、ほんとうに美味しいと思える味だった。

三はし堂のさくら餅を食べるまでは、桜餅は好きではなかった。

それに香りもよかった。
買ってきて、箱を開けると、さくら餅の上品な香りがする。
もうこれだけで食べた気になれるほど、私にとって春の風物詩にもなっていた。

ここ数年、2月になるたびに、もう三はし堂はないのか……、と必ず思い出す。
ひっそりと営業していた店が、ひっそりと消えてしまった。

さがせば、三はし堂のさくら餅に近い味わいの桜餅がどこかにあるのかもしれない。
でも、もういいか、とおもっている。

すべてがそうである、
いつまでもあるわけではない(生きているわけではない)。

Date: 3月 27th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、潔癖症のこと

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

アメリカの人気ドラマだった「glee」の最後に、このことばが登場する。

MQAの非可逆圧縮を絶対的に否定・批判する人たちがいる。
非可逆圧縮といっても、mp3に使われている技術と、
MQAに使われいてるそれとでは、同じではないはずだ。

なのに、意図的なのか、あたかも同じに捉えてMQAについて批判的なことを書く。
とにかく、絶対的に非可逆圧縮を認めない人をみていると、
どこか病的な潔癖症に通ずる何かを感じてしまう。

以前書いているように、
私はオーディオは、あるがままではなく、あるべき世界(音)を聴くものだと考えている。

MQAを認めない人の耳には、あるがまましか聴けないのかもしれない。
あるべき世界(音)には耳を塞いでいるのか。