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Date: 4月 22nd, 2019
Cate: audio wednesday

第100回audio wednesdayのお知らせ(メリディアン 218を聴く)

5月1日のaudio wednesdayでは、
4月3日のaudio wednesdayと同じくブリテンのモーツァルトから始めようと考えている。

ステレオサウンドから出ているSACDとCDの二枚組。
5月のaudio wednesdayでは、
スチューダーのD731ではなくマッキントッシュのMCD350をトランスポートとして使う。

理由は218にはAES/EBUのデジタル入力がないし、
D731にはAES/EBUのデジタル出力しかないからだ。

なのでMCD350でブリテンのモーツァルトのSACDを聴き、
その次にCDを聴く。
CDはステレオサウンド盤とデッカ盤の二枚を聴く。

このあとに218を接続して、ここでもステレオサウンド盤とデッカ盤の両方を聴く。
これから先は、その場のノリで決めていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 4月 22nd, 2019
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その8)

ここで書いていることで具体的なことは何ひとつない、ともいえる。
私が頭のなかで描いていてる唯一の具体的なカタチがある。

といっても、そこに何ら技術的な根拠や裏づけがあるわけではない。
なんだ、ただの直感かよ、といわれようが、
私としては、それこそがatmosphere designに必要なカタチだという確たる直感である。

別項「2016年に考えるオーディオのイノヴェーション(その3)」で最後に書いている。
つまりトーラスである。

Date: 4月 22nd, 2019
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その10)

オーディオで音色といった場合、
楽器の音色のこともあれば、オーディオ機器固有の音色を指す場合とがある。

そしてオーディオにおける音色の魅力となると、
オーディオ機器固有の音色を指す場合が多い。

このオーディオ機器固有の音色は、実に、というか、時として魅力的である。
しかもオーディオというシステムが、一つのオーディオ機器だけで成り立つわけではなく、
最低でもプレーヤー、アンプ、スピーカーシステムが必要となり、
それぞれに固有の音色を持っている。

そこに実際の使用ではケーブルが加わる。
いうまでもなくケーブルにも固有の音色がある。

固有の音色を持つモノをいくつも組み合わせてのシステムとしてトータルの音色、
つまりそれぞれの色が混じりあっての音色を、われわれはスピーカーから聴いている。

私がBBCモニターの音に惹かれるのも、この固有の音色ゆえといえるところが大きい。
そればかりではないけれど、
オーディオ機器固有の音色の魅力から逃れられる人は、オーディオマニアではないのだろう。

音楽が好きで、好きな音楽が少しでもいい音で聴きたいと思っていても、
オーディオ機器固有の音色に惹かれる人とそうでない人とがいる。

後者は、その意味ではオーディオマニアではないのかもしれない。
その意味で、私ははっきりとオーディオマニアである。

BBCモニターもそうだし、
ここに関係してくることとして、
セレッションのHF1300というトゥイーターが搭載されているスピーカーの音色も好きである。

そういう固有の音色がうまく混じり合って、
しかも好きな音楽の音色をうまく際立ててくれる瞬間が、オーディオにはある。

その瞬間、オーディオマニアは背中に電気が走ったりするわけだ。

けれど、audio wednesdayでの音出しでは、意図的にそういう音色は避けるようにしている。
そういうことを含めての(その7)でもある。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その7)

空気のデザイン(atmosphere design)とは、
別項の「Noise Control/Noise Design」に深く関係してくるというのは、私の予感であり、
その5)で書いている「空間のレイヤー化」とは、ノイズのレイヤー化とも思っている。

そしてディフューザーである。
川崎先生が書かれている「ディフューザーは音響の実は要だと思っている」。

これが「空気のデザイン(atmosphere design)」と深く関ってくる、
というのが私の直感である。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: 映画

MARIA BY CALLAS(DVD)

昨年12月に公開された「私は、マリア・カラス(MARIA BY CALLAS)」。
DVDが、8月2日に発売になる。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その4)

海外ドラマが好きで、よく見ている。
医療関係のドラマも好きである。

アメリカのドラマを見ていて気づくのは、
患者が退院する際、必ず病院関係者玄関までが車椅子にのせられていく。

玄関から先ではすくっと立ち上って退院していく。
問題なく歩ける人がなぜ? と疑問に最初は感じていた。

これは病院の建物を出るまでに何かあったら、訴えられるからだと気づいた。
玄関までの通路で、何かが原因で足を滑らせて骨折したとかになったら、
アメリカのことだから、裁判に訴えられて多額の賠償金を支払うことにもなるからなのか。

そのへんの事情に詳しい人に確認したわけではないが、おそらくそうだと思う。
ひとつのドラマだけでそうなのではなく、いくつかのドラマでもそうなのだから。

訴訟大国といわれるアメリカなのだから、さもありなんだ。

もちろん裁判対策だけとはいわないが、
アメリカのオーディオ雑誌における測定は、
ずっと以前からすれば、訴訟されないためという意味あいが強くなってきているのではないのか。

日本でも、オーディオでの裁判、それ第三者からみてばかげた訴訟があった。
以前書いているように、あるオーディオ機器の重量が、カタログ発表値よりも少しだけ重かった。
そのことで輸入元を訴えた人がいる。

この件は、幸にして裁判官がオーディオに理解のあった人のようで、
オーディオ機器は重たい方がよいとされているのでしょう、といって終った、ときいている。

とにかく、アメリカのオーディオ雑誌の測定を、
客観性の担保ということだけで捉えるのは、
時代の変化を無視しすぎのような気さえする。

それにしてもいつの時代も、日本のオーディオ雑誌と海外のオーディオ雑誌を比較して、
なにかあるごとに「測定、測定」という人はいる。

しかし、もう少し考えてほしいのは、
海外のオーディオ雑誌に掲載されているのは、
オーディオ評論なのか、ということだ。
批評と評論を区別せずに、
海外のオーディオ雑誌とくらべて日本のオーディオ雑誌は……、と嘆くのは、
いつになったら変っていくのか。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その3)

facebookへのコメントは三人の方からあった。
二人目のかたは、「わかりやすさ」を求める読者へのサービスもあるのではないか──、
そう書いてあった。

わかりやすさについて、以前書いているし、
読者が求める「わかりやすさ」とは、答でもある。
けれど、私がオーディオ雑誌に、というか、
オーディオ評論に求めているのは、
そして、こうやって毎日書いているのは、
最終的な問いを求めて、である。

このことは別項「毎日書くということ(答えではなく……)」で書いている。

三人目のかたは、海外オーディオ雑誌は客観性を担保するために測定データを載せている──、
そんなことが某匿名掲示板にあったと書かれていた。
測定データがすべてとは思わないけれど、面白い話だと思った、とも。

このことはかなり以前からいわれているし、
なぜ日本のオーディオ雑誌は測定をやらない(やめたのか)にもつながっていく。

測定データは客観性を担保するのか。
客観性を担保するために、海外のオーディオ雑誌は測定をやるのか。

そうともいえるし、そうではないと考えることもできる。
特にアメリカの場合は、
客観性の担保というよりも、ある種の保険的意味あいが強いようにも考えることができる。
訴えられないために、である。

Date: 4月 21st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その2)

facebookでのコメントを読んでいて、続きを書く気になったので、
タイトルも少し変更している。

(その1)で、オーディオ評論家はサービス業なのか、と書いた。
facebookでのコメントには、誰にとってのサービス業なのか? とあった。

消費者に対してのサービス業なのか、それともオーディオメーカーや輸入元といったクライアント、
それともオーディオ雑誌の編集部に対してなのか、ともあった。

ステレオサウンド 210号の特集でも、五人のオーディオ評論家の写真が載っている。
Net Audioのvol.34の、私がサービス業なのか、と感じた人の写真とは、対照的である。

Net Audioはカラー、ステレオサウンドはモノクロという違い以上に、
ステレオサウンドの写真は、まったく楽しそうに見えないのだ。

試聴中の写真が楽しそうでなければならない──、とは思っていない。
たとえばアンプやスピーカーの総テストの場合だと、
楽しそうな顔しての試聴中の写真だと、真剣に聴いていないのでは……、と思わせてしまうだろうし、
総テストはけっこうしんどいものである。

けれど210号の特集は、総テストではない。
特集の前書きのところに
《お好みのスピーカーシステムを、制約を設けずに、思う存分鳴らしてもらうことにしたのである》
とある。

ならば、もっと楽しそう、嬉しそうな表情を見せてもいいではないか。
誰とはいわないが、どんよりした空気を漂わせている写真もある。

オーディオの楽しさが伝わってくる写真とはいえない。

Date: 4月 20th, 2019
Cate: オーディオ評論
2 msgs

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(サービス業なのか・その1)

音元出版のNet Audioのvol.34を買った。
たまにはオーディオ雑誌を買って読みたくなる。

買ってからの帰り道、
音元出版のオーディオ雑誌を買うって、これが初めて? とふり返っていた。
買った記憶はない。

Net Audioのvol.34の内容についてはふれない。
書きたいのは、Net Audioのvol.34を眺めていて、
オーディオ評論家はサービス業なのか、と思ったからだ。

そう感じたのは、Net Audioのvol.34に登場されている人の写真を見て、である。

オーディオ評論家のやっていることに、
サービス業的な要素がまったくないとはいわないが、
それがあまりにもあからさまに視覚的に表れてしまうと、
いつからこんなふうになってしまったのか、とどうしても思う。

編集者が要求してのことなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
本人が意識してやっていることなのかそうでないのかもわからない。

けれど写真を見ていると、今日も改めて見直していたけれど、
やっぱりサービス業感が漂っている。

Date: 4月 20th, 2019
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その6)

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(atmosphere design)」で、
リスニングルーム内の空気のデザインを考えていく必要がある──、
と書いたのが四年前。

四年経ったからといって、何か具体的なことを考えついたわけではないが、
空気のデザイン(atmosphere design)とは、
別項の「Noise Control/Noise Design」に深く関係してくることのはずだ。

Date: 4月 19th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、349Aプッシュプルアンプのこと

別項「Western Electric 300-B(その14)」で、
伊藤先生による349Aプッシュプルアンプの、
音楽がデクレッシェンドしていくときの美しさについてふれた。

このデクレッシェンドしていく音の美しさは、その後、一度も聴いていない。
伊藤先生の349Aアンプだけの音だったのか──、
もうそう思うしかなかった。

349Aプッシュプルアンプを聴いて三十年以上経った。
やっと出逢えた。

すべてが違うシステムであったにも関らず、
あのときの音、デクレッシェンドしていく音の美しさにはっとした。

それが2018年9月のaudio wednesdayで、初めてULTRA DACでMQA-CDを聴いた音である。
すべてのディスクがそんなふうに鳴ってくれたわけではない。
あるディスクの、あるところだけがそう鳴ってくれた。

私は、それで充分である。
鳴らせるという確信が得られたのだから。

Date: 4月 19th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、正確な音と正しい音のこと

オーディオの世界には、昔から潔癖症といえる人たちがいる。
増えているのか減っているのか、それははっきりとわからないが、
感覚的には増えている気がする。

潔癖症といえる人たちは、MQAの非可逆圧縮に関して不寛容である。
なぜそこまで? といいたくなるほどだが、
潔癖症といえる人たちは、つまるところ正確な音を求めているのだろう。

私が求めているのは正確な音ではなく、正しい音である。

正確な音と正しい音との違いとは、
正確な音と正しい音(美しい音)の違いである。

Date: 4月 19th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その8)

目標を立てて、そこを目指していく。
しかもいつまでに実現するかという期限を決めて目標に向っていく。
実現したら、次の目標……、
それが成功の秘訣らしい。

菅野先生からも同じ話をきいたことがある。
菅野先生の友人で、アメリカ人がまさにそうだった、ときいている。

目標を立てて、しかもいつまでに実現する、ということも一緒に決めての行動なのだそうだ。
実際、その友人はとんでもなく成功している人だそうだ。

M君もT君も、目標をそれぞれ立てていた。
しかもどちらも期限つきである。

A君は、M君やT君のような具体的な目標は持っていなかった(はずだ)。
A君は、信ずる道を歩んでいっているように、私の目には映る。

20代のころ、A君と会った時に、きこうとしたことがある。
別の道を選ぼうとは考えなかったのか、と。

立ち居振る舞いの物静かなA君である。
そんなことをストレートにきいていたら、どんな表情をしたのか。
表情を変えることなく答えてくれたかもしれない。

私は「五味オーディオ教室」と出逢うまでは、
中学の理科の先生になろうと、思っていた。
中学のころは喘息の発作もほとんどなかったから、こんなことを考えるようになってもいた。
父が中学の英語の教師だったことも影響していた。

「五味オーディオ教室」と出逢ってからも、
一年くらいは、中学の先生っていいなぁ、とけっこう真剣に思っていた。
とはいっても、具体的な目標だったわけではなかった。

Date: 4月 19th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その12)

修羅場の経験を持たぬ者と持つ者の二人がいれば、
その二人がオーディオマニアであるならば、
鍛えられているのは、修羅場の経験を持つ者のはずだ。

オーディオは趣味である。
音楽は嗜好品である。
そこにおいて修羅場とは、なんと大仰な、大袈裟な、といわれようと、
修羅場の経験を持たぬ者と持つ者とは、常にいたはずだ。

けれど、いまでは持たぬ者ばかりになってしまってきているのかもしれない。

オーディオは確かに趣味であるのかもしれない、
音楽には嗜好品という一面も確かにある。
でも、それだけだったら、私はここまでオーディオに夢中になっていない。

元来飽きっぽい性格である。
そんな私が四十年以上つきあってきている。

死ぬまでオーディオマニアのはずだ。

オーディオで修羅場なんて──、
そんなことを書く者は時代錯誤者といわれる時代なのかもしれない。

こう書きながらも、世の中そんなには変っていないのかもしれない、というおもいももつ。
ただ数人のオーディオの修羅場の経験を持つ人が、もういないだけであって……

Date: 4月 19th, 2019
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その15・追補)

(その15)を読んでくれた友人のOさんからメールがあった。
伊藤先生の349Aプッシュプルアンプの記事は、1973年5月号に載っている、ということだった。

国会図書館が雑誌の電子化を始めていて、
記事そのものは公開されていないけれども、目次はインターネットで検索できるようになっている。

1973年5月号に伊藤先生以外の製作記事も載っている。
それらの記事のタイトルは、真空管の型番と、
アンプの形式のあとに「設計と製作」とついている。

伊藤先生の349Aのアンプも基本的には同じだが、
「WE-349App8Wパワー・アンプの設計と製作の心得」というように、
製作のあとに「心得」とついている。