二度目の「20年」(温故知新)
オーディオをずっとやってきて、
温故知新の「古き」と「新しき」には、
「古き己」、「新しき己」という意味も含まれている──、そう思うようになった。
オーディオをずっとやってきて、
温故知新の「古き」と「新しき」には、
「古き己」、「新しき己」という意味も含まれている──、そう思うようになった。
別項「2,500,000円と125,000円(その7)」で、
なかば冗談で、ULTRA DACには届かなくても、SUPER DACと呼べるレベルには達した──、
そんなことをつい言ってしまった、と書いているし、
「2019年をふりかえって(その14)」でも、SUPER DACを使っている。
思いつきで言ってしまったSUPER DACは、けっこう気に入っていた。
でも、ULTRA DACとSUPER DACとでは、
ULTRA DACが上で、SUPER DACはその下に位置するような印象もある。
218にどれだけ手を加えたところで、ULTRA DACに化けるわけではない。
それにULTRA DACとはコンセプトが違うのが218ともいえる。
となると、SUPER DACではなく、もっと218にぴったりとくる表現があるような気もしていた。
昨晩は、audio sharingの忘年会だった。
いろんな話をしていて、ふと気づいた。
SUPER DACではなく、WONDER DACこそが、218にぴったりだ、と。
私にとってのメリディアンの218は、WONDER DACをめざす。
コンサート会場に行き、そこで音楽を聴くのであれば、
それもクラシックのコンサートであれば、
演奏者と聴き手のあいだに、誰かが介在するということはない。
フルトヴェングラーの「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」、
音楽においては、この「人と人」とは演奏者と聴き手ということになる。
けれど同じコンサートでも、PAを使っているとなると、話は微妙に違ってこよう。
演奏者と聴き手のあいだには、何人かの人たちが介在することになる。
そこにはマイクロフォンがありミキシングコンソールがあるのだから、
それをコントロールするミキサーの存在があり、
スピーカーからの音を聴き手は聴くわけだから、
ミキサーという人がまず介在する。
となると「人と人」とは、この場合、どう変化するのか。
演奏者と聴き手のあいだに、うっすらとミキサーがいる。
演奏者とミキサーは、いわば送り手側、聴き手は受け手側なのははっきりしている。
それでもミキサーは、聴き手でもある。
聴き手という送り側でもある。
こう捉えると、レコード(録音物)で音楽を聴く場合と似ている、
というか、同じだということに気づく。
今日、秋葉原に行っていた。
いくつかの用事をすませて、上野まで歩いていこうと思い立ち、
てくてく細い道を選んで歩いていた。
e☆イヤホンが入っているビルの前を通った。
たまに寄ってみよう、とエレベーターで上の階まで行く。
平日の昼間、一度だけe☆イヤホンに寄ったことはあるが、
土日は初めてだった。
こんなに人が溢れているのか。
そう思わずにいられなかった。
オーディオがブームだったころでさえ、
オーディオ店にこれだけの人は集まらなかったのではないか。
ヘッドフォン祭にはここ数年毎年行っているから、
人は多いだろうな、ぐらいは思っていたが、
ヘッドフォン祭以上の込み具合にも感じられた。
活気がある。
ヘッドフォン祭の会場よりも、こちらのほうがそう感じた。
あとで気づいたのが、秋葉原近くでポタフェスがやっている。
それもあってのことで、人が多かった可能性はあるのだろうが、
それでも人が多いだけでは、ああいう活気は出ないようにも感じる。
1963年生れの私にとって、
想像上のヒーローといえばウルトラマンと仮面ライダーが真っ先に浮ぶ。
しかも、この二つは、続編が昭和から平成、そして令和になってもつくられ続けている。
そして、初代にあったデザインが、次第にデコレーションへと変っていった、という点でも共通している。
(その2)で書いたように、ウルトラマン・シリーズにおいて、
ウルトラマン、ウルトラセブンまでがデザインの時代であり、
帰ってきたウルトラマンから、
特に四シリーズ目のウルトラマンAからは、はっきりとデコレーションの時代になってしまった。
ウルトラマンAは1972年4月から放送が始まった。
私は9歳。
デザイン、デコレーション──、
そんなことは知らずに見ていたわけだが、
それでもウルトラマンAからは、ゴテゴテしている、という感じを強く受けていて、
ウルトラマン、ウルトラセブンに感じたかっこよさは感じていなかった。
大人になり、ウルトラマンのことに再び興味をもって、
ウルトラマンとウルトラセブンが成田亨氏のデザインだということを知る。
そうか、そうか、やっぱりそうなんだ、とひとりごちた。
そして、成田亨氏のデザインがそのまま、
テレビ放送でのウルトラマン、ウルトラセブンの着ぐるみになったわけでないことも知る。
着ぐるみである以上、着脱に必要なファスナーの存在が、
ウルトラマンの背中に背びれとなってしまう。
それから役者が中に入るわけだから、目の部分にのぞき穴も必要となる。
これらは成田亨氏のデザインになかった要素であり、仕方なく生じたものである。
そしてウルトラマンといえばカラータイマーなのだが、
これも成田亨氏のデザインにはないことを、大人になって知った。
e-onkyoのサイトをほぼ毎日チェックするようになってしまった。
チェックしては、この人のMQAQは出ていないのかなぁ、と検索もしている。
今日、そんなふうにして思い出したのが、レオポルト・ウラッハだ。
クラリネット奏者である。
ウエストミンスター・レーベルから、ウラッハのレコードは出ていたが、
私がウラッハを知った1980年代、LPは国内盤のみだった。
クラリネットという楽器から、こういう音色を響かせるのか、はウラッハを聴いて、
その柔らかく、ほのかに哀愁の漂う(といったら少し陳腐かなと思いつつも)音色は、
それまでクラリネットという楽器にいだいていた音色の認識をくつがえしてくれた。
それだけに輸入盤がないのか、と思った。
ウエストミンスター・レーベルのマスターテープは本国で行方不明なため、
日本盤しかない、とのこと。
それゆえウラッハのオリジナル盤は、そのころでもひじょうに高価だった。
マスターテープが見つかった、というニュースがあったのは、1990年代になってからだった。
いまウエストミンスター・レーベルはユニバーサルミュージックが発売している。
ということは、ウラッハのMQA-CD、もしくはMQAでの配信の可能性は低くはない……、
勝手にそう期待している。
ウラッハのクラリネットは、主情的すぎるかな、と思うところもあるし、
前時代的という人もいよう。
それでもウラッハのクラリネットの音色は、そんなことどうでもよくなる。
だからこそ、MQAで聴きたい。
これはDSDよりも、MQAに向いているはず、と確信している。
モノを買う、という体験は、実は能動的な体験なはずだ。
趣味に関係するモノ、感性と絡んでくるモノは、絶対的にそうである。
けれど受動的と考えている人、
受動的とまでは考えていないけれど、
能動的とは考えていない人は、意外と多いのかもしれないし、
そんなこと、まるっきり考えていない人も少なくないのかもしれない。
能動的か受動的か。
こんなことを考えていると、若い世代のいうところの、
モノよりも体験の「体験」とは、受動的な体験かもしれない、と思えてくる。
音楽に関して、ライヴを聴きに行ったり、
音楽フェスティヴァルに行ったりする。
チケットを入手して、会場となるところまで行く。
能動的といえば、そういえる。
自分の部屋でオーディオを介して音楽を聴く行為よりも、
よっぽど能動的、と多くの人はみてくれるはず。
行動するという意味では能動的であっても、音楽の聴き手としてははたして能動的なのか。
オーディオを介しての聴き手のほうが、実のところ、能動的といえる。
少なくとも私はそう思っている。
すべてのオーディオマニアがそうだとは、もちろんいわない。
それでも真摯に、オーディオを介しての音楽の聴き手は、能動的でなければならない。
いまの時代だったら、18の私はどういう買い方をしただろうか。
当時のSMEの3012-Rのように、これからの自分のオーディオに絶対必要なモノを、
しかもそれが限定で、いま手に入れなければ……、となったときに、どうするだろうか。
あのころと同じ買い方をするしない、ではなく、できるだろうか、と思ってしまう。
どうなのだろう、自信をもっていえないところが残る。
なので、いまの若い世代の人たちに、
買うことも一つの、大きな体験だから、といえるだろうか。
まだまだそういえるジャンルのモノもある。
それでも、そうでなくなったジャンルのモノもある。
オーディオはどうなのか。
どこに住んでいるかによって、違ってこよう。
それでも、明るいことはいえそうにないような気がしてしまう。
世代によっても、違ってこよう。
いやいや、いい店はまだまだある、という人がいたとしよう。
その人がすすめる店は、ほんとうにいい店といえるだろうか。
上の世代の人たちがいう、こういうことは疑ってかかってもいい。
どこかストックホルム症候群的な感じがしてしまう。
そういう人がいる、といえる。
そういう人のいうことを信じない方がいい、と、若い人たちにはいいたくなる。
いまは買うという体験の何かがスポイルされてしまっている時代なのか。
モノを買わなくなった──、
その理由の一つは、そういうところにあるのかもしれない。
今年はいくつかの偶然が重なって、いまKEFのModel 303を鳴らしている。
アンプはサンスイのAU-D607、どちらも1980年ごろの製品。
このシステムに接いでいるのは、メリディアンの218である。
40年の隔たりがあるけれど、218によるMQAの音を303で鳴らしてみると、
本筋の音ということも考えると同時に、節度ある音ということも考える。
うまいこと鳴る、という表現がある。
そういいたくなる音がしてくる。
どこか際立ったところのある音ではない。
誰かに、どういう音なのかを伝える難しさを感じる。
過不足ない音といえばそうなのだが、
過不及ない音といったほうが、いいかもしれない。
こういう音が、なんなく出せる。
218のおかげかな、と思うし、40年間の進歩というものも感じる。
同時に、何が、どれだけ進歩したのだろうか、とも考えてしまう。
(その3)の終りに、いまはどうだろうか、と書いた。
しみじみ、いまはどうだろうか、とおもう。
インターネットの爆発的な普及は、モノの買い方を変えた。
昔、私が中学生、高校生ぐらいのとき、
通信販売はどこかアヤシイ雰囲気もあった。
少年マンガ誌の表3に載っていた通信販売の広告は、まさしくそうだった。
アヤシイ匂いをプンプン漂わせているけれど、つい目が留ってしまう。
一度も利用したことはないが、
東京に来て知り合った人が、この手の通信販売で買ったことを笑いながら話してくれたことがある。
やっぱり、そうだったわけだが、
そのころの通信販売のイメージは、インターネットの大手のところからはほぼ払拭されている。
使ってみると、便利である。
しかも規模が大きくなればなるほど、取り扱い商品のジャンルも広がっていく。
そして量販店もすごい。
私のいなかには、そしてそのころは量販店という店はなかった。
東京に来て、はじめてヨドバシカメラを知ったぐらいだ。
いまヨドバシカメラのオーディオコーナーに行けば、
かなり高額なモノまで取り扱っている。
オーディオ店に行く必要が、どの程度あるのだろうか。
そうおもわせるほどの品揃いである。
amazonにしても、たとえばJBLだと4312SEまでは購入できる。
いまのところは、である。
あと数年経てば、どうなるのかはわからない。
もっと上のクラスのモノまでamazaonで取り扱うようになる可能性は十分考えられる。
一方で、オーディオ店はどうだろうか。
今日の午前中、喫茶茶会記に行ってきた。
メリディアンの218にさらに手を加えてきた。
これで12月のaudio wednesdayで鳴らした218と同じになった。
さらにD/DコンバーターのFX-AUDIOのFX-D03J+にも手を加えてきた。
今日は、MCD350のデジタル出力と218を接続しての音だけをチェックしてきた。
FX-D03J+を通して、USB出力の音はまだ聴いていない。
1月のaudio wednesdayでは、たぶんFX-D03J+を使う予定だし、
その時には、218も、また少し変っている予定だ。
10月の(その1)で、近所の書店で無線と実験が消えた、と書いた。
11月も取り扱っていなかった。
なので、私の見間違え、勘違いではない。
書店から一度消えてしまった雑誌は、再び扱われることはめったにない。
にも関らず、無線と実験の最新号が、書棚に戻ってきていた。
まさか、このブログを、近所の書店の方が読まれていることはないだろう。
この書店で無線と実験を定期的に購入していた人が、
店員に扱ってほしい、という要望を出したからだろう。
なんにせよ、無線と実験が再び取り扱われるようになったのは、
時々しか購入しない私にとっても嬉しいことだ。
こちらが歳をとってしまったからなのか、
カール・リヒターのマタイ受難曲に関しては、
旧盤よりも新盤のほうを聴きたい、と思うことが増えてきている。
といっても、頻繁に聴いているわけではないが。
どちらもCDでの話だ。
リヒターの旧盤は、e-nokyoでMQAで配信されている。
192kHz、24ビットである。
こうなってくると話は違ってくるだろう。
新盤はCD、旧盤はMQAとなると、
どちらを聴くことが増えていくか。
旧盤(MQA)な気がする。
audio wednesdayは、2011年2月からスタートした。
音を鳴らしはじめたのは2016年になってからだから、四年やってきている。
audio wednesdayでの音を鳴らすことを、レコードコンサートといっていいのか、
迷う気持はある。
常連のHさんは、演奏会のようだ、といってくださるから、
レコードコンサートといってもいいかもしれない。
こういう個人でのレコードコンサートをやられている方は、他にもいる。
私よりもずっと以前からやっている方たちがいる。
今年、東京と埼玉、それぞれのレコードコンサートが終ってしまった。
どちらにも行ったことはないが、長く続いていたレコードコンサートである。
いつか終りは必ずくる。
そのことはわかっていても、今年、同時期に二つのレコードコンサートが終ってしまったのは、
たんなる偶然にしても、いろいろ考えてしまうことがある。
マルチポストをする人は、どこまでいっても変らないのだろう。
ずっとマルチポストを続けていくのだろう。
そういう人とは、もう音楽、オーディオの話はしないのだから、
どうでもいいことなのだが、
それでも、なぜマルチポストをする人はするのか(続けるのか)には興味がある。
直接、本人になぜマルチポストをするのか(続けるのか)を訊いたところで、
要領をえた答が返ってくるとは思っていないし、
極力話をしたくないのだから、やらないわけだ。
ただ思うのは、facebookにしてtwitterにしても、
投稿にタイトルをつけることは、まずない。
基本的にタイトル欄がない。
なくてもつけようと思えば、つけられる。
でも、SNSでタイトルをつけて投稿している人は、
私がフォローしている範囲では見たことがない。
それにタイトルをつけずに投稿できるからこその気軽さがSNSのよさでもあるのだから、
私だってSNSに投稿するに、タイトルをつけることはしない。
ブログは、そこが決定的に違う。
タイトルをつけなければならない。
些細なことなのだが、
タイトルをつけるかつけないのか、
このことがマルチポストをしないのかするのかに関係している気はする。