TANNOY Cornetta(余談)
コーネッタは、沈黙したがっている──、
そう書いている私は、コーネッタについて書きたがっている。
コーネッタは、沈黙したがっている──、
そう書いている私は、コーネッタについて書きたがっている。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオブランド172」でソニーについて、
井上先生が書かれたことを引用しておく。
*
とかく趣味の世界には、実際に使ったことがなくても、本やカタログなどを詳細に調べ、同好の士と夜を徹して語り明かし、ユーザー以上に製品のことを熟知しているという趣味人も多い。それはそれでよいのだろうが、オーディオ、カメラ、時計など、物を通じて楽しむ趣味の場合には、対象となる製品は基本的に人間が人間のために作った優れた工業製品であるべきだと考えるため、最初に巡り合った製品が、そのメーカーやブランドの価値を決定することになるようだ。
*
《最初に巡り合った製品が、そのメーカーやブランドの価値を決定》するところは、
オーディオには、はっきりとある。
しかも、最初に巡り合った製品が同じでも、
どこで、どういう人が鳴らした音を聴いたかによって、また違ってくる。
さらに《同好の士と夜を徹して語り》あうことによっても、左右されてくることだろう。
だから(その13)で、タンノイ、アルテック、JBLといったブランド名をあげているが、
世代が違えば、そのブランドへの印象は大きく違うことは承知している。
私と同世代であっても、どの製品と巡り合っているのかによって、
その時鳴っていた音によっても違ってくる。
そういう危うさがあるのはわかったうえで、(その13)では井上先生の発言を引用した。
わかる人には、よくわかる、となるだろうし、
そうでない人がいることもわかっている。
いまではそうでない人のほうが多数なのかもしれない。
それでも、昨晩コーネッタの音を聴いていて思い出していたので、引用した次第だ。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
井上先生が菅野先生との対談で、こんなことを語られている。
*
井上 ただ、いまのHPDはだいぶ柔和になりましたけれども、それだけに妥協を許さないラティチュードの狭さがありますから、安直に使ってすぐに鳴るようなものではない。現実に今日鳴らす場合でも、JBLとかアルテックなどとは全然逆のアプローチをしています。つまり、JBLとかアルテックの場合、いかに増幅段数を減らしクリアーにひずみのないものを出していくかという方向で、不要なものはできるだけカットしてゆく方向です。ところが、今日の試聴ではLNP2Lのトーンコントロールを付け加えましたからね。いろいろなものをどんどん付けて、それである音に近づけていく。
*
オートグラフについてのことであり、
このことがそのまますべてのタンノイのスピーカーにぴったりあてはまり、
それ以外の手法はない、ということでもないが、
それでも、昨晩コーネッタの音を聴いていて、確かにそんな感じがする、と思い出していた。
でも、昨晩は、いつものと同じように、
メリディアンの218の出力を、
マッキントッシュのプリメインアンプのパワーアンプ部の入力に接続。
ボリュウムコントロール、トーンコントロールは218でやっていた。
JBL、アルテックを鳴らす場合でも、
トーンコントロールをつけ加えてという手法はもちろんある。
井上先生もそこのところは理解されたうえでの、
タンノイのスピーカー、
特にオートグラフというスピーカーの特質を表現するためのたとえでもある、と思っている。
そして、私にはこのことは、
音の姿勢と音の姿静の違いを、具体的に表わしているとも受け止めている。
「音の姿勢、音の姿静」を書いたのは、6月5日。
翌日にコーネッタを落札している。
偶然であるのはわかっていても、
コーネッタを鳴らしてみて、ほんとうにたんなる偶然だったのか、とも思ってしまう。
昨晩のaudio wednesdayでの音を、ことこまかに書いた所で、
自画自賛のように受け止められるだろうから、そういうことは基本的にしない。
音の描写よりも、コーネッタの音を聴いて考えていたことを書いていこう。
一ヵ月ほど前に「音の姿勢、音の姿静」を書いた。
コーネッタの音は、音の姿静だった。
「五味オーディオ教室」で何度も何度も読み返したことを、
コーネッタを自分で鳴らして実感していた。
《再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている》、
五味先生はこれを悟るのに三十年余りかかったように思う、と書かれている。
この三十年余りとは、タンノイを聴いての時間、
イギリスのスピーカーを聴いての時間のようにも感じていた。
タンノイのスピーカーは、沈黙したがっている。
まさに感じていた。
といっても、ことわっておくが、現在のタンノイのスピーカーもそうだ、とはいわない。
否定もしないが、インターナショナルオーディオショウで聴くタンノイの音は、決してそうではない。
そんなふうには感じないが、それはエソテリックのブースの音がひどいからであって、
タンノイのスピーカーが昔とは違ってしまった、ということにはならない。
結局、そのところは自分で鳴らしてみて判断するしかない。
なので、私にいまのところいえるのは、コーネッタは、沈黙したがっている、ということだけだ。
では、他のスピーカーはどうなのか。
すべてのブランドのスピーカーが、沈黙したがっているかというと、
必ずしもそうとは感じていない。
あくでも感覚的な表現なのだが、
アルテックやJBL(ここでの両ブランドのイメージはコーネッタと同時代のもの)は、
最後の一音まで絞り出すようなところがある。
これは、一部のハイエンドオーディオが得意とする精確な音とは、またちょっと違う。
絞り出すには力が必要となる。
その力ゆえ、時として沈黙とは反対の方向に傾いてしまう。
バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタのMQAでの配信を、待っていた。
6月26日までに28番までが配信されている。
のこりの30番、31番、32番が、ぎりぎり7月1日に配信されれば、
当日のaudio wednesdayでかけることができる。
これまでの配信の間隔からいって間に合わないだろうな、と思っていた。
実際、まだである。
けれど8月のaudio wednesdayまでには、ほぼ確実に配信されるはずである。
8月のaudio wednesdayでも、コーネッタを鳴らすことはすでに書いている。
その理由のひとつは、バックハウスの30番、31番、32番を、
MQAで、コーネッタで聴きたいのと、聴いてもらいたいからである。
「タンノイ コーネッタ」検索して表示される記事いくつかを読んでみた。
その多くが、ステレオサウンド 37号、38号、39号の記事を読んでいない、と思われる内容だった。
1976年に出たステレオサウンドだから、
読んだ人でさえ、記憶は朧げだったしても不思議ではない。
読んでいない人が、オーディオ業界に増えていても、そうだろうなぁ……、と思うだけだ。
それでも、もう少しきちんとしたことを書こうよ、と思う。
当時のステレオサウンドを読んでいない人が、
そういった記事を読んで、コーネッタとはそういうものなのか、と信じてしまう。
すべてでたらめな内容ならば、信じる人も少ないだろうからまだいいのだが、
中途半端な内容だから、よけいに始末が悪い、とも感じている。
何を信じて何を信じないかは、その人の自由(というより勝手)なのだから、
私がとやかくいうことでないのかもしれないが、
何も書かずにいると、そういった状況はますますひどくなっていくばかりでもある。
とにかくコーネッタというスピーカー・エンクロージュアに興味を持った人は、
ステレオサウンドのバックナンバーを、まずじっくり読むことから始めてほしい。
インターネット上の、いいかげんな記事は、その後読めばいい。
昨晩のaudio wednesdayで、コーネッタを鳴らした。
ほんとうにひさしぶりに聴くコーネッタというだけでなく、
自分ので鳴らす初めてのコーネッタでもあった。
すでに書いているように、ヤフオク!で落札したコーネッタだから、
写真だけでの判断だった。
公開されていた写真を、穴が開くほど見たわけではない。
パッと見て、なんとなく程度がよさそうだな、と感じたので、入札した。
コーネッタの中古相場がだいたいどのくらいなのかは知っていた。
私が入札した金額は、その半分以下だった。
その金額で落札できるとは、まったく思っていなかった。
なのに落札できた。
昨晩も訊かれたのだが、ペアで76,000円である。
個人の出品ではなく、リサイクルショップの出品なので、消費税が10%つく。
それでも、コーネッタの相場を知っている人ならば、驚く。
問題は、程度である。
ボロボロだったら、どこかに不具合があったりするのならば、
結果としては高い買い物になる。
見た感じでは、特に問題はなさそうなのだが、
中を丹念にチェックしたわけではないし、音を聴いての判断でもない。
昨晩、音を出してみるまで肝心なことはわからない。
とにかく結線をして、音を鳴らしてみる。
スピーカーの位置、アンプ、CDプレーヤーのセッティングも、
置いただけの状態で、とにかく音を鳴らしてみた。
ほっとした。
その音がいいか悪いかではなく、
鳴ってきた音は、どこかに問題が隠れてそうな印象ではなかった。
なので、ここからセッティングをいつもやっているように詰めていった。
8月のaudio wednesdayは、5日。
コーネッタを再度鳴らすことにした。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
アルテックというスピーカーの音の魅力とは──、
そのことで思い出すのは、ステレオサウンド 16号でのオーディオ巡礼である。
五味先生が、瀬川先生、山中先生と菅野先生のリスニングルームを訪問されている。
このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
*
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
*
《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。
五味先生のオートグラフでは《水は水っ気のまま出てくる》。
これは五味先生の聴き方である。
ブルックナーの音楽を熱心な聴き手は、
ブルックナーの音楽に水なんてまじっていない、というかもしれない。
そういうブルックナーの聴き手からみれば、
アルテックこそブルックナーの音楽をきちんと鳴らしてくれるスピーカーであって、
タンノイは酒なのに、時々水にしてしまう──、
そういう捉え方になるかもしれない。
一週間前にコーネッタを喫茶茶会記に搬入。
今日やっと初めての音出しである。
待ち遠しかったけれど、どんな音で鳴ってくれるのか。
コーネッタのコンディションを含めて、なんともいえないところがある。
メインテナンスをする時間はとれなかった。
今日は満足のいく音が出せない可能性もあるわけだが、
これからは自分のモノとして、タンノイを鳴らしていくことができる。
そうすることで確認できるのではないか、と考えていることがある。
別項「カラヤンと4343と日本人」にも関係することだ。
五味先生と瀬川先生の音楽の聴き方は、かなり近いところがあると以前から感じていた。
それでもアンチ・カラヤンの五味先生、積極的にカラヤンを聴かれていた瀬川先生、
なぜなのだろう、とずっとひっかかったままである。
答は永久にわからないであろう。
それでも、五味先生はタンノイを鳴らされていた。
タンノイで音楽を聴かれていた。
このこととカラヤン、それからポリーニへの酷評は決して無関係ではない、とも思っている。
アンチJBLの五味先生、4343(4341、4345、自作の3ウェイを含めて)を鳴らされていた瀬川先生、
そうい:ったことを含めて、自分でタンノイを鳴らしていくことで、
納得できる何かがえられるのかもしれない。
とにかく、今夜からタンノイとのそういった時間が始まる。
高校二年の時に、サンスイのAU-D907 Limitedを買った。
修学旅行に行かずに、その積立金と新聞配達のアルバイトで貯めたのとをあわせて、
なんとか、この限定販売のプリメインアンプが買えた。
高校生にとって、175,000円のアンプはそうとうに大きな買物だった。
しかも、くり返すが限定のアンプである。
この限定という言葉に、弱い。
私だけでなく、マニアならば多くの人がそうであろう。
もしAU-D907 Limitedが、
AU-D907IIといった型番で登場し、限定でなかったとしたら……。
もちろん中身はまったく同じだとして、あの時、手に入れた喜びに変りはないのか──、と思う。
ここでのLimited(限定)ということは、付加価値だったのか。
それだけでなくAU-D907 Limitedは、ステレオサウンド 53号で、
「第2回ステート・オブ・ジ・アート賞に輝くコンポーネント17機種の紹介」に登場している。
菅野先生が書かれている。
実をいうと、この53号の菅野先生の文章を読んだことで、
ますますAU-D907 Limitedが欲しくなっていた。
第2回ステート・オブ・ジ・アート賞に選ばれているプリメインアンプ。
49号の一回目で、プリメインアンプは何も選ばれていない。
AU-D907 Limitedが、プリメインアンプとして初めて選ばれたわけである。
当時の私は、このことがすごく嬉しかったというよりも、なんだか誇らしかった。
そういうプリメインアンプを自分は使っている、ということ。
しかも限定であるから、そんなに多くの人が使っているわけでもない。
まして高校生で、ということになると、ほんとうに少なかったはずだ。
そのことがなんとか誇らしく感じていたわけだ。
いまふり返ってこうやって書いていると、バカだなぁ、と思うけれど、
高校二年の私は、本格的なオーディオ機器を手にした、自分のモノにした、ということが、
嬉しくて嬉しくて、ノートにAU-D907 Limitedのスケッチ(落書き)をよくしていた。
賞に選ばれたプリメインアンプ。
そのことは、当時の私にとって大事な付加価値だったのかもしれない。
二日後には、いよいよコーネッタを鳴らす。
コーネッタの音をひさしぶりに聴くことになる。
タンノイの音は、ステレオサウンドの試聴室で、
それからティアックの試聴室でも、聴いている。
かなりの回数聴いている。
個人宅でも、それほど多くはないが聴いている。
決していい音ではないが、オーディオショウでの音も何度か聴いている。
ステレオサウンドの試聴室ではセッティングをして鳴らした音を聴いている。
それでも、いざ自分のモノとなったタンノイを鳴らすのは、初めてのことだ。
ずっと以前、まだぎりぎり20代だったころ、タンノイを手に入れる機会があった。
知人のお父さんがArdenを鳴らしていて、いまでは倉庫に眠ったままになっている、ということだった。
よかったら鳴らしませんか、という申し出があった。
けっこうな期間鳴らしていないとはいえ、きちんと保管されていて、状態はよかった。
それでも、そのころは若さゆえか、Ardenをいまさら……、という気持が、
いつかはタンノイを鳴らしてみたい、という気持よりも強かった。
即答で「いや、いいです」とことわった。
ことわったことを後悔はしていないが、
30前後の私は、どんな音でタンノイを鳴らしたのだろうか、という興味が、いまはある。
それから約三十年、タンノイを鳴らす。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
いま手元にはコーネッタのエンクロージュアに入ったHPD295Aがあるわけだが、
それでは、このユニットを使って、
四十数年前に夢見たことをやるのかといえば、そうではない。
やろうと思えばやれるわけだ。
ユニットの選択肢は、当時よりも狭くなっていると感じる部分もある一方で、
拡がっていると感じてもいる。
それでもコーネッタというエンクロージュアに、すでにおさまっているのだから、
そこから取り出して、ということはやりたくない。
やるのであれば、あくまでもコーネッタを活かして、ということになる。
ではコーネッタの隣に、38cm口径ウーファーの入ったエンクロージュアを置くのか。
そんなスペースは、もうない。
仮にスペースがあったとしても、大がかりになる過ぎる。
コーネッタではないが、菅野先生がステレオサウンドで、スターリングをベースにして、
サブウーファーとスーパートゥイーターを足した4ウェイという組合せを試みられていた。
私が、いまやるとなると、このスタイルである。
コーネッタをそのまま活かして、サブウーファーを足す。
私のところにはサーロジックのサブウーファーがある。
やりたくなったら、これを使えばいい。
スーパートゥイーターは、そのあとに考える。
スーパートゥイーターはつけたい気持は強いが、
コーネッタの天板の上に、ポツンとトゥイーターがあるのは、やりたくない。
とってつけたような印象になってしまうからだ。
ドーム型にしてもホーン型にしても、なんらかの細工を施して置くことにしたい。
これが簡単なように思えて、実際にあれこれ考えてみると、そうではなかったりすることに気づく。
自分のシステムの音を録音する──、
かなり以前からやっている人はいた。
新潮文庫の「音楽巡礼」の解説は、南口重治氏である。
そこに、こんなことが出てくる。
*
五味先生も多忙、私も仕事に忙殺されている時には録音テープが送られてくる。ヴェルディの「椿姫」、スタインバーク指揮ピッツバーグ響によるラフマニノフの第二シンフォニーであったりするのだが、それには必ず肉声の解説がつく。「ただ今のカートリッジはシュワーのV15でございます。今度はEMTのカートリッジに取り替えて録音します。……そちらの鳴り具合はいかがですか」といった調子だ。
*
録音テープは、カセットテープではなくオープンリールテープだろう。
どんなマイクロフォンを使われていたのだろうか。
いまから四十年以上の前の話だ。
こういうところは、オーディオマニアは変っていないのかもしれない。
「音楽巡礼」を読んだ1981年、
18歳だった私は、五味先生もこんなことをやられるんだ、と思っていた。
けれど、いまになると、この録音テープは、かなり貴重である、と思っている。
この録音テープ、一本も残っていないのだろうか。
五味先生のシステムは、練馬区で保管され、試聴会が行われている。
私も一度行ったことはある。
その音を聴いているが、その音をもってして、五味先生の音とはまったく思っていない。
五味先生が鳴らされていたシステムが、いまも鳴っている。
その音を聴いただけ、という感想でしかない。
けれど、五味先生が南口氏に送られていた録音テープがまだ残っているのであれば、
五味先生が鳴らされていたシステムで、ぜひとも聴いてみたい。
(その1)へのfacebookでのコメントで、
自分のシステムの音を一度録音して、そのシステムで再生すると、
音の癖が二倍に強調される、というのがあった。
おもしろい、と思った。
やったことはなかった。
いわれてみて、たしかにそうかも、と思った。
もちろん録音した時点で失われている音があって、
それを再生する時点でも同じである。
とにかく何かが失われた音を聴いて、なにがわかるのか、判断できるのか。
けれど失われたものによって浮び上ってくるものもあるはずだ。
あるからこそ、自分のシステムの音の癖が二倍になって聴けるわけなのだろう。
さきほど公開した「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・続コメントを読んで)」で、
五味先生の文章を二本引用している。
テレビのスピーカー、テレビのアンプ程度であっても、わかる音の違いがある。
むしろピアノのブランドによる音の違いが、曖昧にしか出てこないオーディオの音も、
現実にはある。
ブランド不明のピアノの音というのは、意外に多かったりするどころか、
そのことに無頓着な人もいるから驚くこともある。
おもしろいことに、そういう人は、自分の音を日本一、といってたりする。
冗談でいっているのだろうと思ってきいていると、
本人はいたって本気でそういっているのだ。
そんな人のシステムの音を録音して、
そのシステムで再生することで、その人の音の癖は二倍になるのかもしれない。
けれど、その人は、そんなふうには受けとらない可能性のほうが高いように思う。
癖ではなく、よいところが二倍になったと受け止めるかもしれない。
ならば、その人のシステムの音を、別の人のシステムで、
何人かのシステムの音を録音したものと比較しながら聴かせたらどんな反応をするだろうか。