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Date: 6月 27th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 世代

アナログディスク再生の一歩目(その1)

高校二年のときに、サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedを買った。
AU-D907 Limitedは、その型番からわかるように限定生産だったし、
当時のステレオサウンドのステート・オブ・ジ・アート賞に、
初のプリメインアンプとして選ばれている。
それにステレオサウンド最新号の「オーディオの殿堂」でも選ばれている。

当時、AU-D907 Limitedは175,000円だった。
それまで使っていたトリオの普及クラスのプリメインアンプの約三倍。
本格的なオーディオ機器を手にした、という実感もあった。

とにかくそれまでのプリメインアンプとは、音がまるで違う。
それだけでも嬉しかったのだが、
MC型カートリッジのヘッドアンプを内蔵していることが、その次くらいに嬉しかった。

そのころMC型カートリッジがブームになっていて、各社から新製品が登場していたし、
普及クラスのプリメインアンプにもカタチばかりのヘッドアンプが搭載されもし始めていた。

とはいえデンオンなどのハイインピーダンスのMC型ならば、まだなんとかなっても、
オルトフォンのようなローインピーダンスのMC型に対しては、
使いものにならないという評価の製品もあったりしていた時期だ。

AU-D907 Limitedのヘッドアンプは、ローインピーダンスであっても実用になる。
そういう評価を得ていた。

これでオルトフォンのMC20MKIIを買える(使える)。
そのことが、とにかく嬉しかったのだ。

それまで使っていたエラックのSTS455Eも気に入っていたし、
いいカートリッジだったけれど、やはりMC型を使いたい、という気持を抑えることはできない。

AU-D907 Limitedのあとしばらくして、MC20MKIIを買った。

こんなことをAU-D907 Limitedが「オーディオの殿堂」入りしたことで憶い出していた。
続けて、いまの若い人、CDからオーディオに入ってきた人たちが、
いまアナログディスク再生に取り組もうとした時、
その一歩目はどういうモノになるのだろうか──、
そんなことを考えてしまった。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: ディスク/ブック

You’re Under Arrest

ステレオサウンド 76号をひっぱり出してきたのは、
表紙がJBLのDD55000だからである。

このころのステレオサウンドには、黒田先生の連載「ぼくのディスク日記」がある。
「ぼくのディスク日記」は黒田先生の発案だった。

76号で取り上げられているディスクのなかに、
マイルス・デイヴィスの“You’re Under Arrest”がある。

黒田先生は、こんなことを書かれている。
     *
 感覚は、甘やかしていると、鈍ってくる。鈍った感覚は、自分が鈍っているとは気づかない。ききとして、まず恐れるべきは、そのことである。感覚が鈍ると、あたりの景色も硬化する。こうあらねばならない、あああらねばならない、といったような教条主義的な発言は、いずれにしろ、鈍った感覚から発せられる。自分の感覚の健康診断がしたくなったときに、ぼくはマイルス・デイビスのレコードをきくことが多い。そういえばと、ふりかえってみて、最近、しばしばこの新しいマイルス・デイビスのレコードをきいているような気がするけれど、はたしてこれはいいことかどうか。
     *
マイルス・デイヴィスも黒田先生も、もうこの世にはおられない。
もし黒田先生がいまも存命だったら、マイルス・デイヴィスのかわりに、
誰のレコード(録音物)で、感覚の健康診断をされたのだろうか。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その17)

この項の続きを書いていく上で、
もう一度聴いておきたい、自分の手で鳴らしてみたいと思っているスピーカーがある。
JBLのDD55000である。

1985年に登場している。
ステレオサウンドの試聴室で、何度も聴いている。

当時もユニークなコンセプトのスピーカーだと感じていたけれど、
いまこうやってふり返ってみると、
DD55000はそうとうにユニークなスピーカーシステムであるし、
JBLが四年後のS9500に注ぎ込んだのと同じくらいの意欲を、
DD55000にも投入して改良モデルを出してくれていたら──、
そんなこともつい想像したくなるほど、
いまの私の視点からみて、いま鳴らしてみたいスピーカーの筆頭である。

そのDD55000は、ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」で選ばれているのだろうか。

Date: 6月 26th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その34)

耳に近い音だけを求める聴き手がいる。
心に近い音を、なぜだか求めない聴き手である。

心に近い音を求めない聴き手は、耳の芯をもっていないのかもしれない。

Date: 6月 25th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ストラヴィンスキー「火の鳥」

1910年6月25日、ストラヴィンスキーの「火の鳥」がパリで初演された。
いまではほとんど聴かなくなったけれど、一時期はよく聴いていた。

コリン・デイヴィスによる「火の鳥」と「春の祭典」を、
あきずに何度も聴いていたのは、
そのころ、この二枚のフィリップス録音は、優秀録音として名高かったからだ。

瀬川先生も、ステレオサウンドなどの試聴にも使われていたし、
熊本のオーディオ店に来られた時も持参されていた。

コリン・デイヴィスの「火の鳥」、「春の祭典」は、1970年代おわりごろの録音だから、
もう四十年以上前のことだし、
いまではもっと優秀録音と評価されている録音は、いくつもある。

それでも私にとって、初めてきいた「火の鳥」と「春の祭典」は、
コリン・デイヴィス指揮によるものだったし、
瀬川先生が、熊本に最後に来られた時、
トーレンスのリファレンスで最後にかけられたディスクが、
コリン・デイヴィスの「火の鳥」ということが、いまもずっと心の奥底にしっかりとある。

Date: 6月 25th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その6)

将棋は駒の動かし方をかろうじて知っているだけなので、
別項で触れている「3月のライオン」を読むまでは、
対局の後に感想戦があることも知らなかった。

対局に勝った(負けた)だけでなく、その後の感想戦。
本づくりにおいて感想戦的なことはあっただろうか……、とその時おもっていた。

私がいたころは、そういうことはなかった。
一冊のステレオサウンドの編集を終えて、見本誌があがってくる。
それを手にして、編集部全員で感想戦的なことをやる──、
そういうことはなかった。

いまの編集部がやっているのかどうかは知らないけれど、
できあがった書店に並ぶステレオサウンドをみる限り、やっているようには思えない。

やらなければならないことなのか。
自分が担当した記事について自分の意見をいう。
他の編集者の意見、感想をきく。

すべての記事に対して、感想戦的なことをやっていく。
必要なことのようにおもう。

Date: 6月 24th, 2022
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その12)

「宿題としての一枚」を一枚も持たない者は、
圧倒的になれないのではないだろうか。

「宿題の一枚」については、別項で書いている。

Date: 6月 24th, 2022
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その11)

《オーディオでしか伝えられない》ことをしっかりと持っていてこその、
圧倒的であれ、のはずだ。

Date: 6月 23rd, 2022
Cate: ディスク/ブック

ERIK SATIE: 7 gnossiennes

エリック・サティの新譜が頻繁にレコード会社から出た時期があった。
いつごろだったろうか。
私が20代のころだったか。

サティの音楽に深い関心がなくても、
どこかで聴く機会が何度かあった。
それでも、自分でサティのディスクを買おう、という気にはならなかった。

嫌いなわけではない。
でも積極的に聴きたい、とは思うことなく、ずっと過ごしてきた。

オリヴィア・ベッリ(Olivia Belli)という作曲家、ピアニストがいる。
何かで知って、TIDALで聴くようになった。

昨晩、オリヴィア・ベッリがサティを弾いているディスクがあるのに気づいた。
たまにはサティの曲もいいかも、という軽い気持で聴きはじめた。

トータルで21分の短い収録だが、以前なら、
そして別のピアニストの演奏なら、それでも最後まで聴かなかったはずだ。

でもオリヴィア・ベッリのサティはよかった。

Date: 6月 23rd, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その33)

マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
マリア・カラスの自画像そのものだ、というふうに聴き手に気づかせるスピーカーがある。

どんなに細かなところまで明瞭に再現しても、
そんなふうにまったく感じさせないスピーカーも、またある。

ある人にとってマリア・カラスの自画像と感じさせたスピーカーであっても、
鳴らす人が違えば、そう感じなくなることもある。

同じ音を聴いても、ある人は自画像だ、と感じ、
別の人は、そんなことまったく感じない。

自画像と感じさせることが、音の良し悪しと直接的に関係しているわけでもない。

さまざまなスピーカーが世の中に存在し、
さまざまな聴き手(鳴らし手)もまた世の中に存在している。

自画像なんて、そんなことは純粋な音楽鑑賞には不要なのかもしれない。
そんなことも考えながらも、マリア・カラスの「清らかな女神よ」を聴いて、
そういったことをまったく感じない(感じさせない)スピーカーは、
聴き手と対話しないスピーカーなのかもしれない。

Date: 6月 22nd, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ
1 msg

ハイエンドオーディオ考(その6)

その5)を書いたあとで思い出した記事がある。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
瀬川先生がタンノイのリビングストンにインタヴューされている。
リビングストンが、ガイ・R・ファウンテン氏のことを語っている。
     *
彼は家ではほんとうに音楽を愛した人で、クラシック、ライトミュージック、ライトオペラが好きだったようです。ロックにはあまり興味がなかったように思います。システムユニットとしてはイートンが二つ、ニッコーのレシーバー、それにティアックのカセットです。
     *
瀬川先生も含めて誰もが、
ファウンテン氏はオートグラフを使われていたと思っていたのではないだろうか。
私もそう思っていた。けれど違っていた。
イートンだった、25cm口径の同軸型ユニットをおさめたブックシェルフだったのだ。

リビングストンへのインタヴューは続く。
     *
これ(オートグラフではなくイートン)はファウンテン氏の人柄を示すよい例だと思うのですが、彼はステータスシンボル的なものはけっして愛さなかったんですね。そのかわり、自分が好きだと思ったものはとことん愛したわけで、そのためにある時には非常に豪華なヨットを手に入れたり、またある時はタンノイの最小のスピーカーをつかったりしました。つまり、気に入ったかどうかが問題なのであって、けっして高価なもの、上等そうにみえるものということは問題にしなかったようです。
     *
非常に豪華なヨットを手にいれるだけの財力をもち、
オートグラフをうみだした男が、自宅ではイートンで好きな音楽を聴いている。

気に入ったモノを自分のものとするだけであって、
高価だから、とか、周りに持っている人がいない、とか、そういった理由ではない。
ステイタスシンボルだからといって愛す男ではなかった。

非常に高価なハイエンドスピーカーをつくっているブランドのトップは、
やはり自社のフラッグシップモデル(いちばん高価なモデル)を使っているのか、
それとも違うのだろうか。

Date: 6月 22nd, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その18)

カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」については、
ステレオサウンド 49号、岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」のなかで、
すこし詳しく書かれている。

少し長くなるが、引用しておこう。
     *
《ローマの松》はカラヤンにとって二度目の録音だが、《泉》は初めてである。その《泉》の出だしの弱音のなかに、朝日にきらめく水のしぶきを描写したようなイメージを、喚起せずにはおかないさまざまな楽器の点描の美しさはたとえようもない。空気の透明さと音彩の純度のたかさが素晴らしい。その精妙なピアニシモがあればこそ、フォルティシモのあざやかさが生きてくるのである。
 この二、三年のカラヤンの録音は、ピアニシモをベースにしたダイナミックスの効果を、ひじょうに意識していることは明らかである。コンサートにおけるダイナミックスをそのままレコードにもりこむことは不可能であることはいうまでもないが、カラヤンは心理的にそのピアニシモをピアニシモまで拡大できるようなレコーディング効果を計算しているようにおもえる。たとえば《松》における、〝ジャニコロの松〟から〝アッピア街道の松〟への推移する部分である。ナイチンゲールの啼声の録音をつかうように指定されている〝ジャニコロ〟の最後の十四小節は、クラリネットのppのフレーズに弱音器をつけた弦が重ねられる。コントラバスを除く弦は十部に分奏される。ことに、ヴァイオリンは五部になっていて、pppからppppのトレモロが、順序を追って重ねられてゆく。その微妙な音の重なりかたによる効果が、きくものに幻想的なイメージを喚起して、アッピア街道を行進してくるローマ軍団の歩調がとおくから響いてくる終曲のムードをひきだすわけだが、その漸層的にたかまってゆく行進曲歩調のなかに、うすくつけられた弦が、リズムの和音のなかにめりこまず、絶妙な色彩的効果を添えるのである。
 こういうバランスは、多分、コンサートホールできくにはよほど条件のよい席でなければ感じとれないにちがいない。また再生装置のグレードがちがってすも、ニュアンスの相違が出るだろう。こういう音の細密表現がうまく再生されると、きき手は本当に〝息をのんで〟ききほれてしまうにちがいない。カラヤンはマイクをとおしての最良のバランスを、オーケストラにもとめているにちがいないコントロールを行っているのである。
     *
カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによる「ローマの噴水」と「ローマの松」は、
1977年12月、1978年1月、2月の録音である。

「ローマの噴水」は、瀬川先生の文章にも登場してくる。
56号掲載のトーレンスのリファレンスのところに、である。
     *
たとえば、カラヤン/ベルリン・フィルの「ローマの泉」の第二曲(朝のトリトンの噴水)の噴水の吹き上がる部分。リファレンスの音は、ほんとうに水しぶきが上がってどこまでも吹き上げる。水のしぶきに、ローマの太陽が燦然ときらめき映える。このレコードの音は、ずいぶんきわどく録音されているが、しかしやかましいという感じにならない。残念ながら、私が目下愛用しているマイクロ二連ドライブ+AC4000MC、それにMC30では、どうしても少々上ずる傾向になりがちだ。エクスクルーシヴとEMT930stでは、しぶきが十分な高さに吹き上がらない。そういう迫真力で格段の差を聴かせておきながら、少々傷んだレコードをかけてみても、他のプレーヤーよりその傷みからくる音の荒れが耳につきにくいというのは、何ともふしぎである。
     *
TIDALとe-onkyo、どちらもMQA(96kHz)である。
TIDALでは「ローマの噴水」はMQAなのだが、「ローマの松」はMQA Studioと表示される。

Date: 6月 22nd, 2022
Cate: High Resolution, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(MQAのこと・その4)

別項「Jacqueline du Pré」で書いているように、
6月に2022年リマスターCDボックスが発売されて、
TIDALで、かなりのアルバムが新しいリマスターで、
しかもMQA Studio(196kHz)で聴けるようになった。

“Her Early BBC Recordings”もMQA Studio(196kHz)で聴ける。
このアルバムには、バッハの無伴奏チェロ組曲が入っている。
残念ながら全曲ではないけれど、それでも一番と二番を聴くことができる。

聴けないものと思っていただけに、当時、このCDが出た時はほんとうに嬉しかった。
このアルバムが、いまはMQA Studio(196kHz)で聴ける。

こういうアルバムは買っておこう、と思いながら、e-onkyoのサイトをみると、
もちろんラインナップされているのだが、なぜかflacのみ、しかも96kHzである。

今回リマスターされたデュ=プレのアルバムは、
TIDALはMQA Studio(196kHz)に対し、e-onkyoはflac(96kHz)のみである。

理由は、いまのところわからない。
今回のデュ=プレ以外のアルバムではMQAも用意されているので、
e-onkyoがMQAを扱わなくなったわけではない。

このことはQobuzを運営しているフランスの会社、
Xandrieへ譲渡されたことと関係しているのだろうか。

Date: 6月 21st, 2022
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その21)

その17)で、
《読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか》
と書いている。

(その17)は四年ほど前だが、いまもそう思っている。

ステレオサウンドもそういう編集方針なのかも──、とも思う。
今回のステレオサウンドの特集「オーディオの殿堂」は、まさしくそういう企画である。

自分が愛用しているオーディオ機器が、「オーディオの殿堂」入りをしたのであれば、
よほど捻くれた人でないかぎり、やはりうれしいはずだ。

苦労して手に入れたモノであれば、よけいにうれしいだろう。

私が以前愛用していたオーディオ機器のいくつかも、
「オーディオの殿堂」入りをしているようだ。
223号を買った友人が、
こんな機種が選ばれているよ、と教えてくれたなかに、
以前使っていた機種がいくつかあった。

サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedも入っている(らしい)。
入っているのか、と思った。

他の機種は選ばれて当然のモノだったから、
AU-D907 Limitedが選ばれているのは意外だったし、それだけにうれしいな、と思ってしまった。

一方で、なぜ、このモデルが選ばれていない、と思う人も当然いるわけだ。
そういう人の気分は害している企画ともいえる。

とにかく殿堂入りした機種を使っている読者の気持をよくさせているのは、
そうであろう。でも、理解を深めようとは考えていないように感じている。

別項「40年目の4343(オーディオの殿堂)」で、
三浦孝仁氏の4343の文章について触れた。
三浦孝仁氏の、この文章は4343についての理解を深めることはまったくなかったし、
4343をいまも鳴らしている人、昔愛用していた人の気持をよくしただろうか。

Date: 6月 21st, 2022
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その13)

この項だけでなく、他の項もここまで書いてきてはっきりしたのは、
私はオーディオの雑誌ではなく、オーディオ評論の本が読みたい、ということだ。

別項で書いているように、
ステレオサウンドはオーディオの評論の本だった時期が確かにある。
いまはもうそうではなくて、オーディオの雑誌である。

オーディオの雑誌を求める人は、それでいいじゃないか、となる。
それでいい、と私も思う。

でも読みたいのは、オーディオ評論の本なのだ。
この欲求を、もうステレオサウンドは満たしくれないし、
これから先も望めそうにない。

それでも可能性として月刊ステレオサウンドがほんとうに登場してくれれば、
オーディオ評論の本となってくれるかもしれない。