Date: 6月 3rd, 2013
Cate: audio wednesday

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(第29回audio sharing例会のお知らせ)

今月のaudio sharing例会のテーマは「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」です。
5月1日のブログにも書いていますように、
当日は西川彰氏(サンスイ)、片桐陽氏(パイオニア)、西松朝男氏(ビクター)に来ていただきます。

私自身、どういう話がきけるのか、非常に楽しみにしています。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

喫茶茶会記は、先日玄光社から発売になった書籍「TOKYO音カフェ紀行」でも紹介されています。

Date: 6月 3rd, 2013
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(些細なことについて)

シェル一体型のカートリッジでなければ、なんらかのヘッドシェルに取り付けることになる。
単体のヘッドシェルの場合もあるし、
SMEの3009S/IIIやSeries Vのようにシェル部分がアームパイプと一体化されている場合もある。

どちらにしてもネジを使ってカートリッジをシェル部分に取り付けることになるわけだが、
シェル側に設けられているネジ穴にタップを切ってある場合は下からネジをいれる。
アームパイプとシェル部分が一体化されたものに多いのが、シェル側の穴にタップを切ってないものの場合、
つまりナットを用意して固定する場合には、
ネジを上からなのか、下からなのか、どちらでもいける。

私は、この場合、上からネジをさしてナットを下側にもってくる。
ずっとこれで固定してきたし、こういうシェルの時、下からネジをいれたことはなかった。

特に意識していたわけでもなかったけれど、ずっとそうやってきたし、
他の人もそうやるものだと勝手に思い込んでいたところもある。

インターネットが普及して、オーディオマニアの中には自分のシステムの写真を公開している人も少なくない。
それらの写真を見て気づいたのが、このネジに関することだった。

下からネジをいれてナットを上にしている人がいる──、
そのことに少し驚いた。

でも考えてみればヘッドシェルにタップが切ってある場合は下からネジなのだから、
ナットを使う場合も、それと同じで下から、そう考えれば納得できるといえばそうなる。

シェル側にタップを切ってない場合(ナットを使う場合)、ネジはどちらからなのか。
どちらでもいいといえばそれまでなのはわかっていても、
私の感覚としてはやはり上から、である。

それもマイナスネジの場合、ふたつのネジのスリットが延長線上にくるようにそろえる。
こんなところをきちんと揃えたからといって音に変化はない。

だからといってネジのスリットがあちこちを向いているのはいやだし、
併行になっているのも、しっくりこない。
やはり一直線になるようにしたいし、そうする。

もちろんネジの締付けは同じにしなければならないから、その分手間がかかるといえばかかる。
でも一度やっておけば、その後、そうそういじるところでもない。

いまの時代、アナログディスク再生をやるのであれば、
音に直接関係のない、こういう些細なところにこだわっていくのもいいのではないだろうか。

Date: 6月 2nd, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その4)

Harknessの存在を知ったのは、
何度か書いているようにステレオサウンド 45号に載っていた田中一光氏のリスニングルームの写真でだった。

JBLの4343もかっこいいスピーカーだと思っていた。
4343はステレオサウンド 41号の表紙の写真で、このスピーカーの存在を知り憧れた。

Harknessも憧れた。
でも4343への憧れとHarknessへの憧れは、共通するところもあったし、異った憧れの部分もあった。

41号での表紙での4343は、あくまでも4343単体での写真であった。
45号でのHarknessの写真は、
田中一光という、日本を代表するグラフィックデザイナーのリスニングルームにおさめられた写真である。

オーディオ機器(スピーカー)を、ここまで見事に置けるのか、と、
Harknessへの憧れととともに、その部屋の持主とそのセンスへの憧れでもあり、
さらに、これを実現できるだけの経済力にも憧れていたんだとおもう。

Harknessをかっこいいと思っていたのは、
Harknessそのものもかっこいいけれど、それだけでなく、使われ方もかっこよかったからだ。

Date: 6月 1st, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その3)

身銭を切って買うもの──、それがオーディオ機器であり、
手に入れるまでの苦労も、その人にとっての「音は人なり」となっていく──。

そうだとは思うし、そう思っている人も多いはず。
特に私よりも上の世代、
つまり五味先生の書かれたものを読んできた人にとっては。

五味先生は「オーディオマニアの五条件」のひとつとして、
金のない口惜しさを痛感していること、とあげられていて、
こう書かれている。
     *
貧しさを知らぬ人に、貧乏の口惜しさを味わっていない人にどうして、オーディオ愛好家の苦心して出す美などわかるものか。美しい音色が創り出せようか?
     *
ステレオサウンドから出ている「オーディオ巡礼」にも、これは載っているし、
私にとっての最初のオーディオの本「五味オーディオ教室」も載っている。
13の時に、だから読んでいた。

この五味先生の、金のない口惜しさを痛感していること、を表面的にだけ捉えている人からすれば、
今回の、私が「Harkness」を手に入れることは、
そんなんでいい音なんか出せっこない、ときっと言うに違いない。

Date: 5月 31st, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その2)

JBLのハークネス(Harkness)といえば、
横型のバックロードホーンエンクロージュアC40の愛称(通称)であり、
ユニット構成にはD130を一本おさめた使い方から、
D130をベースに高域の拡張をはかるか、
D130のウーファー版130Aをベースとした2ウェイでいくかで、
正式な型番は変ってくる。

JBLのSpeaker System Component Chartによれば、
130Aと175DLH(もしくはLE175DLH)の組合せ(ネットワークはN1200)は001、
D130と075の組合せ(ネットワークはN2400)は030であり、
C40のエンクロージュアにおさめた状態では、
130A + LE175DLHではD40001となり、D130 + 075ではD40030となる。

JBLのSpeaker System Component Chartには、D130 + LE175DLHという組合せはない。
私のところにもうじきやって来るHarknessには、
おそらく、というか、ほぼ間違いなくD130が入っている。
高域用は075ではなくLE175DLHだと思われる。

そして、このHarknessは、JBLの輸入元であった山水電気が日本に最初に輸入した「Harkness」である。
岩崎千明の「Harkness」である。

Date: 5月 31st, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その1)

人はいくつものスピーカーを鳴らすのか。

終のスピーカーがあれば、初のスピーカー(それとも始のスピーカーか)もある。
最初から、理想とするスピーカー、憧れのスピーカーを鳴らせる人もいることにいるだろう。
けれど、多くの人が、私もそうだったように、最初から理想や憧れのスピーカーという人はいない。

アンプやカートリッジを交換したり、使いこなしにあれこれ苦労しながら、
そのスピーカーを鳴らしていく。
ある時期がきたら、次のスピーカーに移ることもある。
長いつき合いのスピーカーもあれば短いつき合いのスピーカーもある。

スピーカーを手離す理由も、必ずしも次のステップとは限らない。
人にはいえぬ事情で手離すことだってある。

このスピーカーと添い遂げよう、とかたく決心していたとしても、
次の日に、スピーカーを買い替えることだってある。

終のスピーカーとは、だから言い切れないのがオーディオである。

にも関わらず、もうじき私のところにやって来るスピーカーは、終のスピーカーである。
いま住んでいるところから10kmも離れていないところに取りに行けば、
そのスピーカーは私のところにやって来る。

ほんとうはそのスピーカーが届いてから、これを書くつもりだった。
でも、はやる気持を、もう抑えられない。
だからこれを書いている。

「オーディオ彷徨」が復刊された日でもあるのだから。

Date: 5月 30th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(序・続き)

ほぼ1年前に書いた「終のスピーカー(序)」。
この1年間は待ち遠しかった。
夢に出てきたこともある。
私にとっての「終のスピーカー」が、もうじきやってくる。
「終のスピーカー」ついて書ける日がやってくる。

Date: 5月 30th, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その8)

おそらくイギリスで復刻したとしても、LS3/5B的なことになってしまうだろう。

それはそれでいいことだとも思うのだが、私が欲しいのはLS3/5Aである。
だから、今回の中国による復刻を高く評価しているし、
ここまでできるか、という気持よりも、このことに関しては日本よりも上なのでは? と、
一時期はオーディオ大国といわれた日本なのに、翳りがみえているというだけでなく、
あきらかに中国、台湾といった後発の国に対して、
負けを認めなければならないことが出てこようとしている──、
そのことに対する「気持」のほうが強い。

たしかに日本はオーディオ大国だった。
オーディオ機器を、自社及び子会社・関連会社内だけで製造できるメーカーとなると、
その多くが日本のメーカーであった。

アンプであれば抵抗やコンデンサーといった受動素子、
トランジスター、FET、OPアンプなどの能動素子すべてをつくれるメーカーは、海外には少ない。

いま非常に高価なアンプやスピーカーを製造している海外のメーカーでも、
トランジスターを自社で開発することはできない。
日本のメーカーは、そういったことを当り前のようにやっていた。

このことが、優れたオーディオ機器をつくり出せることに直結しているかどうかは判断の難しい面もある。
それでも、いまふり返ってみて、日本人として生れ、
日本で育ち日本でオーディオをやっているひとりの人間として、
日本のオーディオ、日本のオーディオメーカーに対して、もっと誇りを持つべきだった──、
といまにしておもっている。

反省を込めて書いているわけだが、
私がいたころのステレオサウンド(1980年代のステレオサウンド)は、
日本のオーディオに対して厳しかった面がある。
それは期待ゆえの厳しさも含まれていたし、納得できるところもあったにしても、
バランスを欠いていた、といえなくもない。

それに、あの頃は、いまの状況はまったく予測できなかった……。

Date: 5月 30th, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その7)

LS3/5Aは欠点を少なからずもつスピーカーシステムであり、
その欠点をうまく補うように鳴らすことで、
このスピーカーでしか味わえない世界をつくり出してくれる、ともいえる。

LS3/5A以降、小型で優秀なスピーカーはいくつか登場してきた。
ここにスピーカーの進歩を感じるとともに、
スピーカーの面白さと難しさも同時に感じてしまう。
LS3/5Aは、好きな人にとっては、これほどハマるスピーカーは、他にあまりない。
だから、いまでも中古市場で人気があるのだろう。

ときどきLS3/5Aをそのままスケールアップしたスピーカーが出ないものか、と思うことだってある。
あのサイズだからこその魅力、ということも重々わかっていても、
それでも求めてしまうのは、ないものねだりでしかないのだが……。

LS3/5Aは日本市場にけっこうな数が入ってきているから、
中古を探すのはさほど大変なことではないものの、
誰が使ったのか(鳴らしたのか)が、不明なスピーカーは個人的には手に入れたいとは思わない。
できるかぎりスピーカーシステムは新品か、
すでに手に入らなくなったスピーカーシステムであれば、
誰が鳴らしていたのかがはっきりしていてほしい。

そんな私だから、LS3/5Aの復刻のニュースは嬉しかった。
中国製だから、というネガティヴな感情はなかった。

B110のベクストレン製のコーンの表面に塗布されたダンプ材にしても、
T27の周囲に貼られている厚手のフェルトにしても、
サランネット固定用のベルクロテープ(マジックテープ)にしても、
当時のLS3/5Aの質感そのものと思わせる。

どうして、ここまでコピーできるか、と思うとともに、
日本も以前はコピーの国だといわれていたけれど、
果して、これだけ見事なコピーをつくれるのだろうか、ともおもう。

もし日本で復刻することになったら、LS3/5B的なモノになったかもしれない。

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その6)

SMEのトーンアームのラテラルバランスの調整がうまく行われていない例が、
意外にも多いことはずっと以前からいわれていたことである。

瀬川先生はSMEのラテラルバランスの調整について、何度か書かれている。
SMEにしても、1980年に復活させた3012-R Specialでラテラルバランスの調整機構を見直し、
オリジナルの3012のラテラルバランス調整とは異り、スムーズで精度の高い調整が行なえるようになっている。

私が最初に自分のモノとしたSMEのトーンアームは、その3012-R Specialだったから、
特にラテラルバランスの調整を面倒なものとは感じなかった。
その後、オリジナルの3012のラテラルバランスをみて、
これだと調整は面倒かも、と思ったものの、
型番の末尾にRが付くようになっからのモデルでは、
ラテラルバランスの調整は、一度身体感覚として身につけてしまえば、面倒なことではなくなっている。

3012-R Specialは復刻モデルではなく、はっきりとした改良モデルであり、
このラテラルバランスの調整機構の他にも、ゼロバランスをとるためのメインウェイとの移動も、
後端のノブを回すヘリコイド式にするなど、使い勝手がよくなっている(調整がやりやすくなっている)。

こういった改良点は、どういうい意味をもつのか、
そしてユニバーサル・トーンアームの代名詞のように語られるSMEのトーンアーム、
そしてオーディオ機器の「調整」のことについて、もう少し考えていきたい。

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その5)

SMEのトーンアームのラテラルバランスの調整にしても、
プレーヤーの水平が出ていれば音にさほど影響はない、という人がいるわけだから、
マッキントッシュのMC275の出力管KT88の差し替えによる音の違いなんて、
KT88の製造メーカーが同じならば、そんなものは気のせい、と片づけてしまう人もいておかしくない。

結局、こういう「調整」は、音の違いがわからない人には、やる意味のないことになる。
けれど、そこには微妙な差異がある。
そこに気づくか気づかないのか、そこに違いがある。

気づいてしまうと、調整をすることになる。
最初は気がつきにくいことだってあるだろう。
それでも、多くの人が調整が必要といっていることには、それだけの意味がある。

気がつこうともせず、気がつかないままに、
ラテラルバランスをやる必要はない、と思い込んでしまうのも、その人次第であり、その人の自由でもある。

そういう人に対して、ラテラルバランスをとったほうがいいですよ、とはもういわないようにしている。
本人が気がつかないかぎり、すこしでも調整の必要性があるのか、と思わないかぎり、
他人の声は届かないのだから。

でも、そういう人にひとつだけいいたいのは、
だからといって、SMEのラテラルバランスはとる必要がない、などと、いわないでもらいたい。
それだけである。

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その3)

長岡鉄男氏の考え方の基本は(すくなくとも1978年の時点では)、
こうである。

スピーカーの振動板、カートリッジの振動系などの、
いわゆる動く部分に関しては丈夫で軽い方がいい。
これらの振動系を支える部分、
スピーカーではスピーカーユニットのフレーム、
カートリッジではカートリッジ本体のボディなどは丈夫で重い方がいい。

とはいってもカートリッジ自体はトーンアームの先端に取り付けられていて、
カートリッジ本体もまた、トーンアームからみれば動く部分であるから、
カートリッジをむやみに重くするわけにもいかない。
つまり、ここにトータルバランスの考え方が出てくる、というものである。

別冊FMfan 17号の記事はアナログプレーヤーに関することだから、
トーンアーム、プレーヤーのベース、ターンテーブルプラッターなどについても長岡鉄男氏は触れられているが、
そこでもトータルバランスということが出てくる。

そして、こうも書かれている。
     *
アームは動くものだが、これを支えるサポート回り、ベース、キャビネットは丈夫で重くなければならないし、理想的には無限大の重さがほしいが、ある程度の重さがあれば、それ以上は少々重くしても、トータルの音質に変化はないというところまでくる。
     *
長岡鉄男氏の求められいてる音の世界に賛同できるどうかは別として、
別冊FMfan 17号に書かれていることは、反論しようとは思わない。

だから、よけいに、その数年後の長岡鉄男氏の行動、
スピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量られたことに対して、
トータルバランスは、どこにいってしまったのか、と思ってしまう。

そして「オーディオA級ライセンス」に「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれていたということ、
これについても、どういう変化が長岡鉄男氏にあったのだろうか、
もしくはどういう考えがあってのことなのか、と思うわけだ。

Date: 5月 28th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その2)

別冊FMfan 17号の記事を、長岡鉄男氏はこんな書き出しで始められている。
     *
プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く、そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
これが1978年のことである。

facebookでのコメントには、こうあった。
     *
氏の著書『オーディオA級ライセンス』には「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と記述されていたことを申し添えます。
     *
「オーディオA級ライセンス」が出ていたことは私だって知っている。
読んだことはない。いつ出たのかは知らないけれど、1978年よりも後のことのはずだ。

読んでいないし持ってもいないから「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」の前後の文章は不明である。
だから、この「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」に絞って、書いていく。

1978年の時点でも、重量を重視されていたことはわかる。
けれど「トータルバランスを重視する」とつけ加えられている。
「オーディオA級ライセンス」では、この点についてはどう書かれているのであろうか。

1978年の長岡鉄男氏は、2ページ見開きの記事の中に「トータルバランス」を四回使われている。

Date: 5月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その7)

音は一時たりとも静止しはしない。
つねに表情を変えている。
その表情の変化を、いいスピーカーならば敏感に音として感じさせてくれる。

ほんのわずかな表情の差に、はっとすることだってある。
案外、こういうところに音楽の美は隠れていることだってある。

結局、そういう音の表情の違い、差を明瞭に聴き分けようとしている人ならば、
明瞭に、そういう音の表彰の違い、差がスピーカーから出てくるようにシステム全体をチューニングしていく。

そういう過程でケーブルを変えてみたり、インシュレーターなどのアクセサリーを試してみたり、
そんなこまごまとしたことをやっては、その音の違いに気づいていく。

すべてはスピーカーから少しでも表情豊かな音を出したいがため、ともいえよう。

システムの「顔」といえる音を支配しているのは、スピーカーであり、
「顔」を変えるにはスピーカーを替えるしかないとも、いおうとおもえばいえなくもない。
だからといって、スピーカーを替えない限り、音は変らないわけではない。

くり返しになるけれど、音の表情の豊かさを求める人にとっては、音は変っている。
そのことに気づくわけであり、「顔」は変らないから……、と決めつけている人の耳には、
表情の違い、差は届いていないのか、届いていたとしても感知していないのかもしれない。

はじめのころは、そんな人のシステムも音の違いを出していたであろう。
けれど、そのシステムの持主は、表情に目(耳)を向けることなく、
単なる「顔」の美醜・容姿しか聴かないのであれば、いつしかそのシステムの音も表情の乏しい音になっていく……。

「音は人なり」であるのだから。
「顔」もまた一瞬たりとも静止しはしないのだから。

Date: 5月 27th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その1)

「598のスピーカーという存在」で長岡鉄男氏がスピーカーユニットの重さを量られていたことについて書いた。
私は、長岡鉄男氏のこの行為を、長岡鉄男氏なりのアイロニーでありギャグである、と解釈している。
そのことも書いている。

ここであえてこんなことを書いているのは、
私が「アイロニーでありギャグであり」と解釈したのは、
あくまでもスピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量ったことについて、であり、
長岡鉄男氏の、これ以外の活動についてのことではない、ということである。

私は重さを量ることをそう捉えたわけだが、
私以外の人は、そんなことはない、と思われる方もいるだろうと予想はしていた。
facebookグループの「audio sharing」で、そのことについてコメントをいくつかもらった。
(twitterでは間接的に意見をもらった。)

読み返事を書いた。それに対して、また書き込みがあった。
その方とは面識はないけれど、私よりも少し年上の方だと思う。
といっても世代が違うほどの歳の差ではなく、同年代といえなくもない(はず)。

その方は、熱心な長岡鉄男氏の読者であり、かなりの量を読まれているようである。
一方の私はというと、長岡鉄男氏の著書は一冊も持っていないし、
かなりの数の著書がでていることは知っていても、あくまでも知っているというところにとどまっている。

ここ数日、オーディオ雑誌の整理を集中して行っている。
別冊FMfanの17号が出てきた。
1978年3月に発行された17号の特集は長岡鉄男氏によるカートリッジのテスト。
これと連動する形で、巻頭記事には「マイ・プレイヤーを語る」というタイトルがつけられ、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用されているアナログプレーヤーが紹介されている。

ここでの私の興味は、当然瀬川先生と山中先生にあったわけで、
他の方々の記事は読んでいなかった。
でも、今回のこともあったので、長岡鉄男氏の「マイ・プレイヤーを語る」を読んでみた。

「?」と思うことが出てきて、いまこれを書いている。