終のスピーカー(序)
これまで、過去に使ってきた(鳴らしてきた)オーディオ機器についてはなんどかふれてきたことはあっても、
いま鳴らしているオーディオ機器については、ほとんどなにもふれてきていない。
これからもふれていくつもりはない。
ときどき、何を使っているのか、ときかれる。
そのとき答えているのは、実は、すこし前まで使っていたモノを言っているだけで、
その型番を言っている時点では、もうすでにそれは使っていない。
いまは使っている(鳴らしている)オーディオ機器についてふれていくのは、
このブログを書いていく上でも、助かることである。
こういうスピーカーシステムを選んだ、こういう理由で選んだ、それは自分にとってこういう出合いだった、とか。
そのスピーカーをどういうアンプで鳴らしてみたとか、
そのときの音の変化について細かいところまで書いていく、とか。
そんなことをこまごま書いていくのは、ある意味、ひじょうに楽なことである。
少なくとも、私は楽なことだと考えている(そうではない、という人もいるだろうけど)。
あえてふれないのは、そればかりが理由ではない。
ほんとうの理由は、違うところにある。
それは、いまはまだ書かない。
いま何を鳴らしているのか、については明かさない方針はこれからも変えない。
けれど、あるスピーカーのことについてだけは、そのスピーカーの型番を明かして、
どう鳴らしていくのか、どう鳴ってくれたのかについては、1年に1度は書いていく。
(それは、そのスピーカーに、書いていかなくては、と私に思わせる「もの」をもっているからだ)
そのスピーカーは1年ぐらいしたら、私のところにやって来てくれる。
このスピーカーは、私にとって終のスピーカーとなる、と思っている。
他のスピーカーシステムを手に入れたとしても、そのスピーカーは死ぬまで鳴らしていく。
古いスピーカーだから、私の寿命とどちらが長いか、けっこうイイ勝負ではないかと思う。
どちらが先にくたばるか、それはわからない。
くたばるまでは、どんなに時間がなくても、そのスピーカーでジャズを一曲だけは毎日聴いていくつもりだ。
そのスピーカーと共にジャズを鳴らしていく、くたばるまで。
終のスピーカーが、終のオーディオへとどう関係していくのか、
いまはまだ想像できない。
(この続きは1年後の予定)