Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その2)

 この本の『オーディオ』巡礼という書名は、まことに言い得て妙である。五味康祐にとって、音楽は宗教であり、オーディオ装置は神社仏閣というべきものであったからだ。
     *
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評は、この書き出しではじまっている。
この書き出しは憶えていた。
そして、どんなことを書かれていたのかも、今回読みなおしてみて、
割と憶えていることを確認できた。
にも関わらず、大見出しとなっている、〝言葉〟としてのオーディオ、
この部分だけをなぜだか見落していたのか、それとも記憶の片隅に追いやってしまったのか、
とにかく、大事なことにいままで気づいてこなかった……、
そういう気持をつよく感じた。

安岡章太郎氏の書評の中に、「〝言葉〟としてのオーディオ」がそのまま登場するわけではない。
この「〝言葉〟としてのオーディオ」が、安岡章太郎氏自身によるものなのか、
ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。

どちらでもかまわない。
「〝言葉〟としてのオーディオ」は、こうやって毎日ブログを書いている私にとって、
ほんとうに多くことを考えさせる。
だから、その意味では、今回、改めて「〝言葉〟としてのオーディオ」に出合えて、よかった。

ステレオサウンド 56号は1980年の9月に出た号だから、
私は当時17だった。
オーディオに夢中になっていたし、オーディオ関係の仕事につきたいと思うようになっていたころではあった。
でも、オーディオについての文章を書いていたわけではない。
そんなときの私には、まだ「〝言葉〟としてのオーディオ」の持つ意味を、
どれだけ理解できたか、はなはだあやしい。

そして、「〝言葉〟としてのオーディオ」は、
当時よりも現在において、その重みを増している。
それはなにも私だけにおいてにとどまらず、広い意味において、そうである。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その1)

ひとつ確かめたいことがあって、ステレオサウンド 56号を手にとった。
確認はすぐにできた。やっぱりそうだった、という感じだった。

せっかく手にとった、ひさしぶりの56号だから、
パラパラと頁をめくっていた。
56号は、かなり熱心に読んだ号である。
瀬川先生によるJBL・パラゴンの記事、
「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法 あるいはグレードアップ法」というタイトルの記事、
トーレンス・リファレンスの記事、ロジャース・PM510の記事の他にも、
黒田先生の「異相の木」が載っているし、
この他にも……、ひとつひとつあげていったらかなりの数になってしまうので、
この辺にしておくが、とにかく1980年に出た4冊のステレオサウンドで、
もっともくり返し読んだのは、56号であることは間違いない。

だから、この記事も読んでいた。
確かに読んでいた。
それでも、なぜか、この記事の大見出しは記憶から消えてしまっていた。

426ページに載っている。
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評である。

ここには大見出しとして、こうある。

〝言葉〟としてのオーディオ

この短い見出しに気づき、
いいようのない感覚におそわれた。
そして、なぜ、この、〝言葉〟としてのオーディオ、をいままで見落していたのか。
自分のうかつさを反省していた。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その22)

最近ではあまり使われることが少なくなった気もする言葉に、臨場感がある。
1970年代には、この臨場感はよく目にしていた。

臨場感は必ずしも音場感と完全に一致するものではないにも関わらず、
音場感という言葉が誰もが使うようになってきた1980年以降、
音場感と交代するかのように臨場感の登場回数は減ってきたのではなかろうか。

臨場感にも「場」がついている。
臨場感は、りんじょうかんと読む。
音場を、おんじょうではなく、おんばと読む人でも、臨場感はりんじょうかんである。

「場」をじょう、と読むわけだ。
つまり現場(げんじょう)と同じで、そこで何かが起っている「場」に臨む、
臨んでいるかのような感覚を、臨場感というわけだ。

では、いったい何に臨んでいるのか。どういう「場」に臨むのか。
ここで考えるのは、オーディオについてのことだから、
答は、ひとつしかない、といいきっていいだろう。

ステージ(stage)こそが、「場」(じょう)である。

そう考えていくと、オーディオにおける現場(げんじょう)とは、
ステージであり、ステージのあるところ、であるはずだ。

Date: 7月 15th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その3)

「Harkness」から鳴ってくるSaxophone Colossusを聴いていると、
あの感覚に似ている、と思ってしまう。

いまから20年近く前、1995年の5月、ちょうどジロ・デ・イタリアの初日にあたる土曜日に、
DE ROSAのロードバイクを買った。

初めての、本格的なロードバイクだった。
外国製の自転車も初めてだった。

購入した自転車店からの帰路、
当然、買ったばかりのDE ROSAに乗って帰ったわけだが、
正直、大変なモノを買ってしまった……、と少しばかり後悔していた。
こんなにも、それまで乗っていた、いわゆる一般的な自転車とは異るモノだとは思っていなかった。

それでも乗って帰るしかないわけで、
乗り続けていると、少しずつなれてくる。
この自転車の良さがわかってくる。

無事帰宅できて、ほっとしていた。
にもかかわらず、もう一度乗りたい、とすぐにDE ROSAと出かけてしまった。

こんなふうに私の自転車のつきあいははじまった。

少しずつ走れる距離は伸びてくる。
出せるスピードも増してくるようになる。
そうするとイタリアのロードバイクのもつ性格が、徐々にはっきりとしてくる。

時速20〜30kmくらいで走っている時と、
40km/hをこえたとき、さらに50kmをこえたとき、
それぞれに感じることが違う。

こういう速度で走ることを前提としていることが、はっきりとわかる。
そして、自転車に、あおられる感覚が確かにあった。

この感覚が、D130ソロでSaxophone Colossusを聴いていた時に蘇っていた。

Date: 7月 15th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その12)

ヤマハのNS1000Mも、ダイヤトーンのDS1000も、
どちらも国産のブックシェルフ型スピーカーシステムとして、高性能の実現を目指したものといえる。
けれどNS1000MとDS1000のあいだには約10年が経過している。

あえていえばNS1000Mの高性能は静特性であり、
DS10000の高性能は動特性ということになる。
これは、あくまでも誇張した言い方ではある。

でも、このふたつの価格もサイズも構成もよく似たブックシェルフ型スピーカーシステムを、
私はステレオサウンドの試聴室で何度も聴く機会があった。

NS1000Mは、このスピーカーが世に登場した時は先端の音だったのかもしれないが、
私が1980年代に聴いた時には、こなれた、実にいい音だった。
尖ったところが、うまくぐあいに丸くなってはきているけれど、
それでももともとは尖った性格のスピーカーだっただけに、
最初から柔らかな音を特徴とするスピーカーとは、また違った趣のあるこなれた音だった。

NS1000Mは、こんなにいいスピーカーだったのか、と認識を新たにした。

その点、DS1000は違っていた。
尖っている、といえばそういえなくもないが、NS1000Mの尖っている、とは少し違う意味をもつ。
非常に優秀なスピーカーシステムではあるものの、
その優秀さには、懐の深さがいくぶん足りない、とでもいおうか、
すくなくともスピーカーシステム以前のシステムの不備を、ここまではっきり出さなくても……、
と感じる性格が、DS1000にはあった。

そのくらい大目にみるよ、的な大らかさは欠けていた。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: トランス

トランスからみるオーディオ(3Dとは)

3DはThree Dimensionだから、
平面に奥行きが加わったもの、ということになるわけだが、
ほんとうにそうなのだろうか、と感じてしまうことがある。

X軸とY軸から成る平面にZ軸という奥行きを加えたものは確かに3Dであることは間違いないのだが、
X軸とY軸からなる平面にZ軸として加わるものは、果して奥行きが最初に来るのだろうか。
そう思ってしまうのだ。

2チャンネルのステレオ再生を考えていくと、
左右の音の拡がりは理屈としても感覚的にも理解できることである。
けれど奥行きの再現となると、理屈からは理解し難い。
音像に立体感があることも、理屈からは理解し難い。

けれど入念に調整されたオーディオからは、
2チャンネルの再生であっても奥行きを感じたり、音像の立体を感じる。

そして奥行きの再現が浅かったり、
音像が平面的であることを、音が悪いことの証しのようにも捉えたりする。

なぜなのか、と考えていくと、
Z軸が奥行きとして考えていくよりも、
あくまでも個人的な感覚からいえば、Z軸を時間として捉えた方がしっくりくる。

そして思うのは、3Dプリント技術はたしかに立体物をアウトプットしているわけだが、
これまでの、X軸とY軸からなる紙にプリントされていたものに加わったのは、
奥行きではなく、時間として考えていくものかもしれない、ということである。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その11)

ダイヤトーンのDS1000に、「高性能」ということを感じたのか。
それは、まず音にある。
それは、井上先生によって鳴らされたダイヤトーンのDS1000の音にあった。

その音を聴いた後で、DS1000に関する技術資料を読めば、
高性能の追求が、変ってきたことがわかる。

アンプにおいては、AGIの511の登場によりスルーレイトという、
それまであまり耳にしたり目にしたりすることのなかった測定項目が注目を浴びるようになった。
そしてマッティ・オタラ博士によるTIM歪の発見と発生メカニズムについての発表があったりして、
アンプの性能の追求は、それまでの静特性の追求から動特性の追求へと移行していった、といっていいだろう。

AGI・511はハイスピードアンプの代名詞のようでもあった。
とはいえ、AGIの登場の数年前からOTTO(三洋電機のオーディオ・ブランド)は、
広告でスルーレイトという技術用語がこれから注目されるだろう、といったことを謳っていた。

アンプにおいては、NFBの功罪を含めて、
動特性が静特性よりも重要視されることになっていったわけだ。

この動きは当然スピーカー、スピーカーシステムの開発にも波及していく。
けれどアンプとほぼ同時期とはならず、数年の遅れが必要であった。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その10)

ヤマハのNS1000Mは、私がオーディオに興味を持ち始めた時にはすでに定評のあるスピーカーシステムであった。
スウェーデンの国営放送局に正式モニターとして納入された、ということは広告で知っていた。

NS1000Mの登場は1974年だから、
おそらくこのときはスコーカー、トゥイーターにベリリウムを振動板として採用した、
高性能なブックシェルフ型というイメージがあったと思う。

けれど私がNS1000Mを実際に聴いた時には、
ロングセラーの、いいスピーカーシステムであっても、
高性能というイメージを、私は受けることはなかった。

その点、ダイヤトーンのDS1000の登場は、
はっきりと高性能スピーカーが登場した、という印象がとにかく強かった。
しかもフロアー型ではなく、ブックシェルフ型で、価格も109000円(1本)だった。

ダイヤトーンのスピーカーシステムは、DS505から、それまでのスピーカーシステムとは変った。
DS505の次にDS503が出て、フロアー型のDS5000が登場した。
DS5000が登場した時には、ステレオサウンドにいた。
このDS50000がステレオサウンドに搬入されたときのことは割と憶えている。
それだけ、搬入前から話題になっていた。

DS5000を、井上先生が鳴らしたときの音は格別なものを感じた。
とはいえ、DS5000には感じなかった「高性能」ということを、
その後に登場したDS1000には強く感じとっていた。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その9)

10代、20代のときは、私もスピーカーの擬人化をよくやっていた。
とくに20(ハタチ)前後の時は、そうだった。

そういうときはおもしろいもので、
擬人化がうまくできないスピーカーシステムには対してはあまり、というか、ほとんど関心がなかった。
それに擬人化も、女性に譬えられるスピーカーシステムに関心があったし、
惚れ込むスピーカーシステムも、そうだった。

それがいつしか薄れていった。
擬人化という捉え方をしなくなっていった。
当時は、擬人化をしなくなっていた自分に気づいていなかった。

この時期は、ふり返ってみると、
スピーカーシステムにできるだけ忠実な変換器としての性能を、
それまでよりも強く求めるようになっていたことに気づく。

それはちょうどダイヤトーンのDS1000が出たころ、
井上先生の使いこなしによる音の変化・整えられ方に強く影響を受けていたころと重なっていく。

ダイヤトーンのDS1000は型番からもわかるように、
ヤマハのロングセラー・モデルであるNS1000Mをターゲットにしている。
どちらも3ウェイのブックシェルフ型、しかし開発年代は違う。

DS1000はダイヤトーンがダイヤトーンなりにスピーカーの動作を解析していった結果の、
あの時期の集大成ともいえる面ももっていた。

それだけにDS1000は、鳴らし方の難しいスピーカーシステムでもあった。

Date: 7月 13th, 2013
Cate: 神通力

オーディオにおける神通力(その1)

「終のスピーカー」のところで、神通力ということばを使った。
そんなものオーディオにはない、関係ない、という人もいよう。
神通力、説明できるのか、という人もいよう。

私もまだ神通力の正体がすべてわかっているわけではない。
それでも、あると確信できる体験をいくつもしてきている。

そのことから、いまはっきりといえることは、
神通力のひとつとしてあげられるのは、フォーカスする力、フォーカスしていくことである。
そのために絶対に必要なことは、審美眼であるはずだ。

私は、いまオーディオ評論家と名乗っている人たちの書くものをほとんど信用していない。
ステレオサウンドはもう買ってはいないし、これから先も買うことはないけれど、
手もとには揃っているし、読んではいる。

どうして、この人なのか? と思うことはある。よくある。
この記事(この機種)について、またこの人なのか? となることが多い。
別のひとだったら、もう少し音が伝わってくるかもしれないのに……、と思ってしまう。

なぜかといえば、その人が何にフォーカスしていこうとしているのかが、書いているものから感じとりにくい、
もしくはまったくといっていいほど感じられないからである。

フォーカスしていくのと正反対のところで、
オーディオをしているようにも見受けられる人が少なくないように感じるようになってきた。
以前も、もしかするとそうだったのかもしれない。
昔はインターネットがなかった。
いまはインターネットがこれだけ普及しているから、目につくようになっただけ、かもしれない。

でも、それだけではなさそうである。

Date: 7月 13th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その2)

オーディオにも神通力といえるものはある。

瀬川先生にとって「終のスピーカー」となったJBL・4345を譲られた方、
その人の話をある人を通じてきいたことがある。
瀬川先生が亡くなられて半年間は、ほんとうにいい音で鳴っていたそうである。
ところがパタッと精彩を欠いた音に変ってしまったそうで、
そうなるともうどうやっても、それまでの音は戻ってこなかった、と。
(この人はオーディオマニアではない人だからこそ、その話は信じられる)

同じような話は別の人からもきいたことがある。
譲ってもらったスピーカーは、半年ぐらいはいい音で鳴っていたけれど、
それ以降は前の所有者の神通力といえるものが消えてしまうのか、
それまで鳴っていた、いい音はもう聴けなくなってしまう。

だからこそ、半年過ぎた時から、自分の音にしていく過程が始まる、ともいえる。

オーディオとは、特にスピーカーとはそういうものだと私は思っている。
これから先もずっとそう思っていくことだろう。

岩崎先生が亡くなられてすでに36年が経っている。
半年どころの話ではない。
半年の72倍もの年月がたっているわけで、
岩崎先生にとってJBL・D130がどれほど特別なユニットであっても、
神通力は、もうまったく残っていない──、実は私はそう思っていた。

でも、それは私の間違いだったのかもしれない。
そのくらいSaxophone Colossusの鳴り方は違っていた。

Date: 7月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その21)

映画館を、私がホームシアターにおける現場(げんばではなく、げんじょう)と考えるのは、
なにも映画館が劇場(げきじょう)と呼ぶからではない。

なぜ映画館は劇場と書いて、げきば、とは読まず、げきじょう、と呼ぶのか。

「現場」をどう読む(呼ぶ)か。
そういえばある映画のコマーシャルで「事件は現場で起っている」というのがあった。
このセリフでは、げんばだった。

だが事件が起っている、つまり現在進行形の場合、げんば、ではなく、げんじょう、と呼ぶときいている。
現場(げんば)は過去形となったときである。

火事でも、火災が発生しているのであれば現場(げんじょう)であり、
火事がおさまった後は現場(げんば)である。

となると録音が行われている場は、録音現場(ろくおんげんじょう)であり、
録音が済んでしまえば、そこは録音現場(ろくおんげんば)となる。

Date: 7月 12th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その1)

「Harkness」が来て明日(7月13日)で二週間。
この二週間で、Saxophone Colossusを三回鳴らした。

一回目のときに、他のディスク(録音)とは明らかに鳴り方が違う! と感じた。
二回目のときも、やはりそう感じた。
三回目の昨晩は、さらに強く感じていた。

これから何度となく鳴らしていくことになるであろうSaxophone Colossus。

いまは私のもとにある、このD130は、どれだけSaxophone Colossusを鳴らしてきたのだろうか。

岩崎先生のところにC40が届いたのは1967年の4月ごろである。
10年間、岩崎先生は鳴らされていたことになる。

その10年間、つねにメインスピーカーであったわけではない。
その後、あれだけの数のスピーカーを手に入れ、鳴らされていた。
それでもD130ソロで聴いていると、Saxophone Colossusの鳴り方は、どこか特別なものを感じる。

それは先入観とか思い入れとか、そういったことではなく、
このD130に、あえていえば、染みついている、とでもいいたくなるほどだ。

Date: 7月 11th, 2013
Cate: wearable audio

wearable audio(その3)

もしステレオサウンドから離れることなく仕事を続けていたら、
ボディソニックの存在を思い出すこともなかったかもしれない。

25でステレオサウンドを辞め、27のときに左膝を骨折した。
八ヵ月後の28のときに、左膝に入っていたプレートを取り除く手術のため、もう一度入院した。

いまだったらiPhoneをもって入院するだろうが、
当時(1990年ごろ)はそんなものはなかった。
入院のあいだの時間つぶしは、本を読むか、テレビを見るかだった。

本は家でも読める。
いまもだが、テレビはもうずっと所有していない。
だからテレビばかり見て、時間をつぶしていた。

9時消灯とはいえ、10時くらいまではイヤフォンをつけてテレビをみていることは黙認されていた。
骨折した時の入院は一ヵ月半くらいだったが、プレートを取り除くだけの入院だから、短い。
続きが気になるドラマはあまり見なかった。

そのときはNHKのニュースを見ていた。
水俣病の女性が登場していた。

消灯時間を過ぎていたから、部屋の電気は消されている。
ベッドに横になって、イヤフォンをつけて見ていた。

こんなにも涙はながれるものか、とおもっていた。
そして、このNHKのニュースを見るために、骨折したのかもしれない──、
そんなふうにも思っていた。