Date: 3月 25th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ARTURO TOSCANINI -PHILHARMONIA ORCHESTRA- BRAHMS(その2)

TIDALで聴くことができる“ARTURO TOSCANINI – PHILHARMONIA ORCHESTRA – BRAHMS”も、
おそらくはテスタメントのマスタリングが使われているのだろう。

今日、二十年分ぐらいに、トスカニーニとフィルハーモニアのブラームスを聴いた。
昔聴いた音が驚くほど鮮明になっているわけではないが、
特に不満はないぐらいによくなっていると感じた。

そのこともあってだろう、昔聴いた印象よりも、ずっといい。
福永陽一郎氏がいわれるように、素晴らしいブラームスである。

オーケストラがイギリスということもあるのだろう、
自発的なしなやかさが、NBC交響楽団とのブラームスに加わっているような感じがする。

そしてMQAのよさは、トスカニーニの指揮の特徴をうまく引き出しているのではないだろうか。
トスカニーニの指揮の特徴は、これまでに聴いた録音だけでなく、
トスカニーニについて書かれた文章からも、知識として得ているところがある。

確か、福永陽一郎氏は、トスカニーニ/フィルハーモニアのブラームスでは、
トスカニーニの最良のところが発揮されている、と書かれていた、と記憶している。

今日、MQAで聴いて、そうだそうだ、と首肯けた。
トスカニーニの最良のところを、今日、再発見したのではないだろうか。

TIDALにMQAで配信されていなかったら、
テスタメント盤かワーナーのボックスのどちらかを、いつかは買っただろう。

どちらであっても、昔私が聴いた盤よりはいい音なのだろう。
そう思いながらもMQAで、今日聴けて幸いだった。

Date: 3月 25th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ARTURO TOSCANINI -PHILHARMONIA ORCHESTRA- BRAHMS(その1)

福永陽一郎氏の「私のレコード棚から──世界の指揮者たち」(音楽之友社)。
トスカニーニを、これほど貶した文章は、他で読んだことがない。

福永陽一郎氏は、トスカニーニ/NBC交響楽団の録音をまったくといっていいくらいに、
全否定されていたけれど、
トスカニーニとフィルハーモニアによるブラームスの録音だけは、絶賛されていた。

1980年代のレコード芸術の特集、名曲・名盤でも、
福永陽一郎氏はブラームスの交響曲のところで、
トスカニーニ/フィルハーモニア盤を、高く評価されていた。

どちらも手元にないので正確な引用ではないが、
トスカニーニに関しては、フィルハーモニアとのブラームスだけを聴いていればいい──、
そんな感じのことを書かれていたはずだ。

ここまで書かれていると、興味がわく。
そのころアナログディスクで、トスカニーニ/フィルハーモニアのブラームスは出ていた。

買って聴いた。
演奏の前に、音が貧相だったのが気になった。

福永陽一郎氏のように断言できるほど、当時はトスカニーニの演奏を聴いていたわけではなかった。
でもトスカニーニが残した録音のなかでも、フィルハーモニアとのブラームスは、たしかにいい。

あとすこしだけ音が良好であったならば……、そう感じてもいた。

当時、トスカニーニはRCA専属だったため、
フィルハーモニアとの演奏の録音は発売できずに、
プロデューサーのウォルター・レッグがマスターテープを所有したままだった。

それでもなんらかのコピーがレコードとして発売になっていた。
2000年に、イギリスのテスタメントが、
ようやくレッグ所有のマスターテープを元にCD復刻をした。

2020年、フィルハーモニア創立75周年のCDボックスが、ワーナーから発売になった。
トスカニーニのブラームスも含まれていた。
このボックスでも、テスタメントによるマスタリングが使われている。

気にはなっていたが、どちらも買わないままだった。
さきほどTIDALで検索してみた。

あった。
トスカニーニ/フィルハーモニアによるブラームスが、MQA(44.1kHz)であった。

TIDALを使うようになってすぐに検索したときは、なかった(私の見落しかもしれないが)。
それが、いまはある。

Date: 3月 24th, 2021
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(iPhone+218・その17)

インターネットで検索、
検索結果のURLをクリック。
そのウェブサイトで、またリンク先をクリックすることはままある。

つまりはネットサーフィンである。
インターネットが普及しだしたころは、ネットサーフィンがあたりまえに使われていたけれど、
いつのころからはすっかり死語になっているようだ。

私がインターネットを始めたのは1997年だった。
そのころはまだGoogleがなかった。

ヤフー(そのころはディレクトリによる検索だった)、それからgooを使っていた

それでもネットサーフィンしてしまった、といえるぐらいにあれこれ、
いろんなウェブサイトを見てまわっていた。

いまはそんなことは、ほぼない。
なのにこんなことを書いているのは,TIDALで、あれこれ検索しては、
いろんな音楽を聴いていて、これはネットサーフィンそのものだ、と思ったからだ。

roonがあれば、それはGoogleが登場したのと同じくらいに、
より深く広くネットサーフィンができるようになるのだろうが、
いま私がやっているTIDALでのネットサーフィンは、Google以前のそれに近い。

おもしろいもので、スピーカーで聴いていると、
TIDALでのネットサーフィンは、ほぼやらない。

TIDALでのネットサーフィンをついやってしまうのは、
きまってiPhoneとヘッドフォンで聴いているときである。

なぜなのか、いまのところよくわからない。

Date: 3月 23rd, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その2)

二ヵ月ほど前、ある繁華街にいた。
私の前を、あるカップルが歩いていた。

20代なかばごろのように見えた二人だった。
男のほうが、あるビルを指さして、
「ここ、けっこう有名なジャズ喫茶なんだ」と相手の女性に話しかけた。

「じゃ、話せないんだ」と女性。
それでジャズ喫茶に関する会話は終っていた。

男性は、そのジャズ喫茶に彼女と二人、入ってみたかったのかもしれない。
そんな感じにみえた。

けれど、女性の一言で、あっさり却下された。

ジャズ喫茶では黙って、音楽(ジャズ)を聴いていなければならない、
そういう認識が一般的なのだろうか。

そうだから「じゃ、話せないんだ」で、ジャズ喫茶に関する会話は終ったわけだ。

この若い二人のジャズ喫茶への認識は、どこからの影響なのだろうか。
何によってつくられたものなのだろうか。

そういうジャズ喫茶があるのは事実だが、
そうではないジャズ喫茶も、東京にはある。

Date: 3月 23rd, 2021
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その11)

すべてのマンガがそうだとはいわないが、
マンガのなかには、バックグラウンドに音楽が流れているように感じる作品がある。

いまの時代、マンガの数はとにかく多い。
マンガ雑誌だけでなくウェブでも公開の場が広がったことにより、
いったいどれだけのマンガがあるのかは、もうわからない。

なので音楽を感じさせる、
音楽が通底しているとなんとなく感じられるマンガが、
全体のどの程度の割合なのかも私にはわからない。

それでも描き手が意識しているのかどうかすらも私にはわからないが、
音楽が流れていると感じるマンガが昔からあるのだけは確かにいえる。

ただ、そのマンガにしても、すべての人がそう感じるかといえば、これもまたなんともいえない。

コマとコマとをつないでいくのが、音のない音楽のようにも感じる。

そういえば、萩尾望都が、こう語っている。
     *
漫画は、読み進めている内は思考するところは働いていなくて、じゃあ何が動いているんだっていったら、音楽を聴くような情動系がずーっと働いている感じがします。
(「萩尾望都 少女マンガ界の偉大なる母」より)
     *
世の中には、マンガを頭から否定する人がいる。
音楽好きを自称している人であってもだ。

それはそれでいい。
おそらく、そういう人は、マンガから音楽、
それがなにかの音楽なのかは、ほとんどの場合、わからないけれど、
確かに感じるものが流れていることをまったく感じとれないのであろう。

念のため書いておくが、
だからといってマンガから音楽を感じとれるかどうかが、
音楽の聴き手としてどうかということではない。

Date: 3月 22nd, 2021
Cate: audio wednesday

喫茶茶会記とaudio wednesday(その1)

2020年12月31日に閉店した喫茶茶会記。
移転先は長野県茅野市、5月上旬には再開予定。

正式にオープンしたら、できるだけ早いうちにaudio wednesdayを再開する。
水曜日になるのか、別の曜日になるのか、
それによって名称も変るかもしれないが、夏が訪れる前にはやりたいと考えている。

Date: 3月 22nd, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その9)

アメリカで録音されたのであればアメリカ盤を、
イギリスで録音されたのであればイギリス盤を買えば、
インターネットを介したデータの受け渡しが行われないか、といえば、
おそらく違うはずだ。

録音スタジオ、マスタリングのスタジオとプレス工場が同じ敷地内にあれば、
そうかもしれないが、たいていは違う場所にある。

そうなればアメリカ国内においても、スタジオからプレス工場へのデータは、
インターネットを介して行われているとみたほうがいい。

ヨーロッパになると、各国にプレス工場があるわけではなく、
やはりインターネットを介して行われているはずだ。

それは日本でも同じはずである。
日本で録音した場合でも、つまり日本にマスターがあっても、
プレス工場にはインターネットを介してデータが送られる。

インターネットを介しての音楽データは信用できない、と主張している人は、
こういうことを想像しないのだろうか。

つまり輸入盤しか買わないとしても、インターネットとまったく無縁でつくられるディスクは、
まったくないとはいわないが、ほとんどないといっていい。

もちろん、どの世界にも例外はあるから、
インターネットをまったく介さずに製造されるディスクもあるとは思う。
それでも、それらはごく少数なのではないのか。

勘違いしないでほしいのは、
デジタルはそういうことで音は変化しない、といいたいのではない。

Date: 3月 21st, 2021
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その28)

現代真空管アンプをどうイメージしていくか。
こまかな回路構成について後述するつもりなのだが、NFBをどうするのか。

私は出力管が三極管ならばかけないという手もあると考えるが、
ビーム管、五極管ともなるとNFBをかけることを前提とする。

NFBはほとんどの場合、出力トランスの二次側巻線から初段の真空管へとかけられる。
信号経路とNFB経路とで、ひとつのループができる。
このループのサイズを、いかに小さく(狭く)していくかは、
NFBを安定にかける以上に、
真空管アンプ全盛時代とは比較にならないほどアンプを囲む環境の悪化の点でも、
非常に重要になってくる。

プッシュプルアンプならば、初段、位相反転回路、出力段、出力トランス、
これらをどう配置するかによって、ループの大きさは決ってくる。

信号経路をできるだけストレートにする。
初段、位相反転回路、出力段、出力トランスを直線状に並べる。
こうするとNFBループは長く(大きく)なってしまう。

初段、位相反転回路、出力段、出力トランス、
これらを弧を描くように配置していくのが、ループのサイズを考慮するうえでは不可欠だ。

QUAD IIのこれらのレイアウトを、写真などで確認してほしい。
しかもQUAD IIは、出力トランスと電源トランスを、シャーシーの両端に配置している。

やや細長いシャーシー上にこういう配置にすることで、
重量がどちらかに偏ることがない。

出力トランスと電源トランスの干渉を抑えるうえでも、
この二つの物理的な距離をとるのは望ましい。

Date: 3月 20th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その8)

1982年にCDが登場し、録音もデジタル方式に大半が移行していても、
海外から日本のレコード会社にマスターテープのコピーが送られてくることにかわりはなかった。

変ったのは、マスターがデジタルになったことぐらいだろう。
インターネットが普及し始めたころでも、それはかわらなかったはずだ。

かわってきたのは、常時接続が当り前になり、
高速回線が普及してからだろう。

さまざまな業界でデジタル化がすすみ、データの受け渡しは、
以前は光磁気ディスクやCD-Rなどにコピーして、
それらを相手先に届けるのはアルバイトだったり、
バイク便を使ってだったりだった。

いまではインターネットを介してのデータの受け渡しが当り前である。
原稿にしてもそうだし、もっとデータ量の大きなファイルであっても、
以前ならば何かにコピーして渡していたのが、
簡単に短時間で相手先に届くのが、いまのインターネットである。

そういう時代に、レコード会社がマスターテープのコピーを、
日本のレコード会社に送るだろうか。

コピーをつくるのにも時間とお金がかかる。
それを日本に送るのにもお金と、けっこうな時間がかかる。

いまでは、元のデータのコピーをつくることなく、クリックだけでわずかな手間と時間で送れる。
そんな時代なのだから、日本でMQA-CD、SACDを製造するにあたって、
マスターテープのコピーが、モノとして送られてくることはないと考えた方がいい。

元となるマスターが、インターネットを介して日本のレコード会社に送られてくる。
海外と日本のレコード会社間の光ファイバー回線が、
オーディオ用の特殊な回線であるなんてことは、もちろんない。

その経路は、TIDALのストリーミングで聴く際とほぼ同じはずである。
少し考えれば、すぐにわかることである。

ストリーミングやファイルのダウンロード、
つまりインターネットを介しての音楽データは信用できない、と主張している人は、
このことをどう捉えるのだろうか。

もしかすると、だから輸入盤しか買わない、というかもしれない。
いいそうである。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その5)

ジェイムズ・レヴァインとメトロポリタン歌劇場管弦楽団とのワーグナー、
かなり期待して買って聴いたものだった。
もう三十年以上の前のことだ。

ひどくがっかりしたことだけを憶えている。
こちらの聴き方が悪いのか、と思い、聴き直しても印象は変らなかった。

特にケチをつけるような出来ではなかった。
だからといって、いいワーグナーを聴いた、という感触もなかった。

高く評価する人もいるのは知っている。
私の片寄った聴き方では、レヴァインとMETによるワーグナーはつまらなかった。

レヴァインの「ワルキューレ」にがっかりした私は、
そこでレヴァインを聴くのをやめてしまった。

熱心な人は、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」も聴いたのだろうが、
私はそこまでの情熱はもう持てなかった。

やめてしまったのに、ある理由がある。
ちょうどそのころ黒田先生が「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」といわれていた。
それは軽い感じで話されたのではなく、
怒りがこもった「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」だった。

「ワルキューレ」以前のレヴァインも、それほど熱心に聴いていたわけではなかったから、
黒田先生のいわれる《最近のレヴァイン》は聴いていなかった。

なので、黒田先生がそこまで強い口調でいわれるのをきいて、
少しとまどいもあった。

でも「ワルキューレ」は、そうだった、と思った。
やっつけ仕事である。

だからといって雑な演奏なわけではない。
才能のある人のやっつけ仕事であるわけだから、始末が悪い。

やっつけ仕事になってしまった理由は、モーツァルトのいうとおりだろう。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
レヴァインから愛が消えてしまったと捉えているのは私ぐらいかもしれないにしてもだ。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その13)

部屋を横長に使うのか、縦長に使うのか。
私は、ほとんどの場合、横長に使う。

長辺側にスピーカーシステムを設置して、
左右のスピーカー間をできるだけ離せるようにするためだ。

それよりもスピーカーを後の壁から離すことのほうが重要と考える人もいて、
そういう人は縦長に部屋を使う。

人それぞれだから、
それにそれぞれに事情があって、
そこにしかスピーカーが置けない、ということだってあるから、
どちらがいい(悪い)とは決めつけないが、
私が望む音は、横長で使うほうが出てくることが多い。

左右にできるだけスピーカーを離す。
そんなことをすれば、中抜けが起るのではないか、という人がいる。

中央に定位する音が稀薄になるのは、私だってイヤだ。
イヤどころか、中央に定位する音は、しっかりあってほしい。

オーディオに興味を持ち始めた中学二年のころ、
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティこそ望むことではないのか、
そんなことを考えていた。

スピーカーをできるだけ離して、しかも中央に定位する音がハイ・リアリティであってほしい。
そのための必須条件が、分離してはいけないアースの一本化である。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その7)

インターネットを介しての音楽鑑賞に、懐疑的、否定的な人はいる。
どのくらいいるのはわからないが、少なくないと感じている。

先日、ある人から、こんなことを耳にした。
その人がたまたま読んだオーディオ関係の個人サイトに、
インターネットを介しての音楽、
それがストリーミングであろうと、ファイルをダウンロードしてのことであろうと、
伝送経路のクォリティを考えると、
とうていハイクォリティは望めない、という趣旨のことが書かれていた、とのことだ。

世の中に完璧な技術はないわけだから、
インターネットのベースになっている光ファイバーにしても、
完璧なわけでなはい。

それにTIDALのように海外にサーバーがあれば、かなり離れたところにあって、
そこから自分の部屋までの伝達経路を考えたら、気が遠くなる……らしい。

当然中継地点にブースターもあるだろう。
そのクォリティも当然音質に影響してくる。

もっといえば光ファイバーの設置の仕方も、そういうことに関係してくる──。

そう主張する人は、だからMQA-CD、SACD、Blu-Ray Audioなどに期待する、そうだ。

その話を聞いていて面白いな、と思っていた。
どんな人が、そんなことを主張しているのかは知らないが、
その人はMQA-CD、SACD、Blu-Ray Audioなどの物理メディアのマスターは、
海外レーベルからどうやって送られてくると思っているのだろうか。

アナログディスク全盛時代は、
マスターテープのコピーが海外から送られてきて、日本のレコード会社でカッティングしていた。
一部のレコード会社はメタル原盤を輸入して、プレスのみ日本で、ということをやっていた。

その場合、マスターテープのコピーにしても、メタル原盤にしても、
いわゆるモノが海外から送られてくるわけだ。

おそらく、いまもそうやって日本のレコード会社に届くのだ、とその人は思っているのだろう。

Date: 3月 18th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Alice Ader(その1)

2010年、最初に購入したCDの一枚が、
アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」である。

このことは別項「AAとGGに通底するもの」にも書いている。
この「フーガの技法」で、アリス・アデールというフランスのピアニストを知った。

アデールの「フーガの技法」は、友人にもすすめた。
彼も、アデールの「フーガの技法」を聴いて、感動した、という連絡があった。

クラシックをメインに聴いていない友人に、
いつもお世話になっているから誕生日のプレゼントに贈ろう、と、
翌々年くらいに思い、注文しようとしたところ、入手できなかった。

いまはまた入手できるようになっている。
それにしてもアデールのディスクは、そう多くないというか少ない。

2010年1月、「フーガの技法」を聴いてから、
ほかの演奏も聴いてみたいと思ったものの、
タワーレコードもHMVでも、見当たらなかった。

なので、ずっとアリス・アデールに関しては「フーガの技法」だけしか聴いてこなかった。

ここまで書けば、察しのいい方ならば、またTIDALか、と思われるだろう。
そうTIDALである。

昨晩、ふとアリス・アデールはあるのか、と検索したら、
「フーガの技法」だけでなく、モンボウ、モーツァルト、スカルラッティ、ラヴェル、
ムソルグスキー、フランクなどがある。

これらのCDは、日本でも現在入手できるのかと検索してみたら、
数枚は入手できるようだ。
でも半分にも満たなかった。

とにかくTIDALがあれば、アリス・アデールが聴ける。
昨晩は、だからアリス・アデールを二時間ほど聴いていた。

今日、早起きする必要がなかったなら、すべての録音を聴き通したいほどだった。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その6)

一年前に、
シゲティのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのLPが出た。
そのときに、MQAで聴けないものか、と書いた。

昨秋、TIDALに入った。
シゲティのアルバムはTIDALにもある。
けれどMQAでは、いまのところ聴けない。
そんな日が早くきてほしい、とおもっているところに、
SACDが近々発売になる、というメールがタワーレコードの新譜案内のメールに載っていた。

案内には、Vanguard Classic提供のハイビット・ハイサンプリングのマスターをもとに、とある。
期待できそうだ。
と同時に、ならばそのままMQAでTIDALで配信を始めてくれれば、さらに嬉しい。

TIDALもあるから、聴けるバッハの無伴奏の数は多い。
それでもくり返し聴くのは、ここ十年以上そう変っていない。

シゲティをよく聴く。
だからSACDの登場は、待ってました! という心境だ。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その32)

いい音、
それも再生音でのいい音とは、どういうことなのか。

いろいろこまかなことを書いていけば、きりがないほどにあるように感じている。
それでも、菅野先生が提唱されたレコード演奏。

この考えに賛同する人もいれば、無関心な人、完全否定する人もいる。
それでも、いい音ということに関していえば、
レコード演奏と呼べる音は、やはり、いい音である。

では、レコード演奏と呼べる音、
再生音でのいい音とは、簡潔にいうならば、
花が咲いた音だと、最近思うようになってきた。

そして、どこかオーディオマニアは、つぼみのままで、あれこれいいすぎたり、
こだわりすぎているようにも感じている。

懸命につぼみを大きくしようとしたり、きれいにしようとしたりする。
花を咲かせてこそ、いい音であり、
それこそレコード演奏と呼べる音だ、といいたい。

つぼみを愛でるのも、趣味といえばそうである。
つぼみのまま楽しむのも、人それぞれだから、そういう趣味もあっていい。

それでも、花を咲かせたい。
そういう音でこそ、好きな音楽を聴きたいものである。