「ゴドーを待ちながら」再読(その3)
「ゴドーを待ちながら」は学生のときに、図書館から借りて読んだだけだ。
なので手元にはない。
再読としているが、まだ再読していない。
学生のときだから、もう四十年近く前になる。
あらすじは憶えている。いまではその程度でしかない。
「ゴトーを待ちながら」の舞台は見ていない。
それでも、今回、ふと「ゴドーを待ちながら」が浮んできた。
あらすじはGoogleで検索すればすぐに出てくるので、そちらを参照してほしい。
「ゴドーを待ちながら」には、ウラディミールとエストラゴンという二人の浮浪者がいる。
この二人の浮浪者が、ゴドーを待ちつづけている。
しかも、この二人はゴドーに会ったことはない。
それなのに待ちつづけている。
ゴドーはGodotなので、英語の神(God)を意味しているともいわれているが、
そうなのかしれないし、他の解釈もできよう。
「ゴドーを待ちながら」をずっと以前に読んだ時、どう思ったのか、もう薄れてしまっている。
私にとって「ゴドーを待ちながら」はそういう存在でしかないのに、
今回思い出したのは、「ゴドーを待ちながら」がとても好きな知人がいるからかもしれない。
その知人は、Macのパスワードを、「ゴドーを待ちながら」につながる言葉にしている。
その知人と会ったわけでもない。
ここ数年会っていない。
知人の苗字はよくある。たまたま、同じ苗字を目にしたからなのか、
知人のこと、インターナショナルオーディオショウでのこと、
普段ならつながるはずのないことがつながっての「ゴドーを待ちながら」を思い出した。