Archive for 3月, 2020

Date: 3月 24th, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その20)

3月のaudio wednesdayでいっしょに聴いていたHさんも、
この日のカラスの「カルメン」の鳴り方はよかった、と感じられていたようだった。

Hさんは、ULTRA DACでのマリア・カラスも聴かれている。

まだまだだ、と思うところはけっこうある。
それでもULTRA DACと218の価格、
2,500,000円と125,000円、
ULTRA DACは218の二十台分である。

これだけの違いがあるのだから、
ULTRA DACでは通常のCD、218ではMQA Studioというハンディキャップをつけている。

それでも……、というところがあるのも事実だ。
けれど、別の意味で、それでも! といいたくなる音が、この日は聴けた。

218といっても、手を加えた218なのだから、
その自慢をしたいのではなく、ここでいいたいのは、
何もしないで、ただひたすら鳴らして聴くことの重要さである。

ひどい音が鳴ってきたからといって、
それをその場しのぎでごまかすようなことをしていたら、
もしくは、そのひどい音でなんとか聴けるようなソースばかりを鳴らしていたら、
この日のように、短時間での大きな変化は無理であろう。

とはいっても、いいかげんなセッティングではダメである。
きちんとしたセッティングがなされていれば、
鳴らすことの大切さがわかるはずである。

何かをすることだけが使いこなしではない。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その8)

4月に開催予定だった春のヘッドフォン祭2020の中止が決まった。
延期ではなく中止である。
年二回開催されているから、秋は行われるだろうが、
先の見通しは誰にもわからないのだから、もしかすると……、という可能性も考えられる。

やはり4月開催予定だった北陸オーディオショウも中止を発表。
各地で予定されているオーディオショウは他にもある。
それらがどうなるのかは、まだわからない。

6月6日と7日開催のOTOTENは、いまのところ何もアナウンスしていない。
開催予定のようである。

4月と6月とでは、状況も変化しているかもしれない。
よい方向なのか悪い方向なのか。

収束の方向に向わなければ、OTOTENも中止になるかもしれない。
そうなると秋のインターナショナルオーディオショウもどうなるのかなんともいえない。

OTOTENとインターナショナルオーディオショウがもし中止になれば、
オーディオ業界への影響は決して小さくないはずだ。

これを機にストリーミング中継を真剣に考えていくべきではないのか。
OTOTENもインターナショナルオーディオショウも、東京で開催される。
遠くから来場する人もいるが、やはり来れない人のほうが多い。

無観客でのコンサートの中継も行われたのだから、
オーディオショウも、そんな中継では微妙な音の違いを伝えられないと決めつけるのではなしに、
柔軟に取り組んでいく必要はあると思う。

人気のブースは人でいっぱいになる。
音を鳴らす環境としては、
つまり音を聴いてもらうには、決していいとはいえないブースも少なくない。
ならば、いっそのこと無観客で、マイクロフォンを立てての中継もありではないだろうか。

最良の位置と思えるところにマイクロフォンを立てる。
日本でも5Gが開始になる。

人が集まってこそのオーディオショウなのはわかっている。
それでも、今回のようなケースが、これからも発生することも十分あるし、
来られない人が大勢いるということも考えてほしい。

Date: 3月 23rd, 2020
Cate: 使いこなし

喫茶茶会記のスピーカーのこと(その19)

3月のaudio wednesdayで最初にかけたのは、
コンドラシンとアルゲリッチによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲だった。

コンドラシンによる「シェエラザード」とのカップリングのSACDだ。
各機器の結線が終った段階で、
すぐにでも音を鳴らしたかったので、まず「シェエラザード」をかけた。
鳴らしながら、スピーカーのガタとり、位置の微調整などをやって、
チャイコフスキーにを鳴らした。

「シェエラザード」もよい鳴り方とはいえなかったけれど、
チャイコフスキーは、さらにひどく感じた。

そのがさつな音から、二時間弱。
途中でメリディアンの218を使うようになったけれど、それ以外はなにもしなかった。
とにかく、鳴ってくる音の変化を聴いていただけだった。

それでもオーディオのおもしろいところは、
そうやって鳴らしたあとで、(その18)で書いているように、
MCD350からiPhoneにかえて、レネー・ゼルウィガーによる“Over The Rainbow”を鳴らしてみると、
最初の音からは想像できないほど、まともになっている。

もちろん2月のaudio wednesdayの音にはまだまだではあるけれど、
こういう変化が音に現れてくるなら、音楽が、その魅力を伝える鳴り方へと変っていく。

いくつか鳴らした後に、マリア・カラスの「カルメン」をかけた。
MQA Studio、96kHz、24ビットでの音は、まだまだ不備のある音ではあっても、
聴き惚れるくらいにまで変っていた。

何度も書いているように、
マリア・カラスの「カルメン」に関しては、
ULTRA DACで、通常のCDをshortフィルターで再生した音が、
私にとっての、喫茶茶会記での音のひとつの基準になっている。

その音に、218でどこまで迫れるかも、私にとって挑戦である。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: 映画

JUDY(その5)

越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。

別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。

ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。

私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。

Date: 3月 22nd, 2020
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(「コンサートは死んだ」のか・その1)

コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。

グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。

コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。

人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。

そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。

私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。

とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。

新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。

そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。

これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。

Date: 3月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その12)

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。

聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。

誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。

それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。

まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。

青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。

若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。

そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。

いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。

彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。

一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。

でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。

青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。

Date: 3月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その11)

青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。

具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。

そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。

多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。

ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。

とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。

青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。

目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。

どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。

そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。

むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その7)

私と同世代、近い世代のオーディオマニアで、
若いころJBLに憧れていた──、そしてJBLのスピーカーを鳴らしている。

けれど、アルテックのスピーカーを、四十代、五十代になって聴いて、
JBLに憧れてはいたけれど、自分が求めていた音は、
JBLよりもアルテックだったのではないか──、
そういう人を、いまのところ三人知っている。

三人が多いのか少ないのかは、なんともいえないが、
この三人のオーディオマニアの気持はわかる、というか、
わかるところがある。

JBLがほんとうに輝いていた時代がある。
その時代を十代のころ、もしくはハタチ前後のころに体験していた人にとって、
アルテックはライバルなのはわかっていても、
輝きは乏しかっただけでなく、輝きを失い始めているような感じさえしていた。

だからこそ、いつかはJBL、と思っていたはずだ。
私もそうだった。

それに、そのころ、少なくとも私が住んでいた熊本では、
JBLを聴く機会は当り前のようにあったけれど、
アルテックのスピーカーとなると、熊本で聴いたことは一度だけだった。

三人のうちの一人は、私よりも少し上だが、
若いころアルテックを聴く機会はなかった、といっていた。
そして、JBLを鳴らしている。

JBLの輝きが強すぎた時代には、
アルテックはくすんでしまったように見えてしまっていた。

聴く機会がなかった、少なかった、ということは、
オーディオ業界全体も、そんなふうに見ていたのかもしれない。

けれど四十代、五十代になって、何かの機会でアルテックの音を聴く。
そこで、もしかすると……、と思ってしまった人を、三人知っているわけだ。

Date: 3月 19th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その6)

私と同世代のオーディオマニアにとって、
JBLというスピーカーは、輝いて見えていた。

もちろんアンチJBLの人が少なからずいるのは、
アンチ・カラヤンの人が少なからずいるのと同じかもしれない。

1970年代後半、中学生、高校生だった私の目には、
JBLのスタジオモニターだけでなく、
パラゴンも、過去のモデルとはなっていたがハーツフィールドも、
なにか特別な存在のように映っていた。

JBLのライバル的スピーカーメーカーといえるのが、
アルテックとタンノイだった。

同じアメリカのスピーカーメーカー、それも西海岸のメーカーであり、
その成り立ちをたどっていくと、どちらも同じウェスターン・エレクトリックにたどりつく。

JBLとアルテックは、確かに、あの当時ライバル同士だった。
JBLが4343、4350などのスタジオモニターを出していたころ、
アルテックはどうだったかというと、プロ用としてはA5、A7が現役モデルであったし、
604-8Gを搭載した620、612などだった。

輝いて見える、という点では、
JBLがアルテックよりもはるかに上だった。

私と同じようにそう見ていた人は少なくない、はずだ。

アルテックは、4343の成功に刺激されてだろう、
604-8Hを中心とした4ウェイのスタジオモニター6041を出してきた。

アルテックらしい、といえるし、おもしろい製品ではあったが、
4343ほどの完成度というか、洗練されていたスピーカーではなかった。

4343には4341というモデルがその前にあったし、
上級機として4350があったのだから、6041とはベースが違う。

6041はII型になったが、
4341が4343になったような変更ではなかった。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その22)

誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。

エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。

エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。

どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。

これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。

アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。

そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。

どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: 映画

JUDY(その4)

越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。

中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。

ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。

そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。

もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。

映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。

映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。

最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。

映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。

なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。

そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。

しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。

これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。

Date: 3月 18th, 2020
Cate: audio wednesday

第111回audio wednesdayのお知らせ(218+α)

4月1日のaudio wednesdayは、
メリディアンの218に、いくつかのオーディオ用アクセサリーを、
あれこれ試しながらの試聴になる。

オーディオ用アクセサリーと書いてしまったが、
オーディオ用アクセサリーとして市販されているモノは、一つだけ持っていく。

あとはオーディオ用と謳っているモノではない。

ただ、メインとなるモノが、まだ海外から届いていない。
予定ではそろそろ届くはずなのだが、
もしかすると今回は間に合わないかもしれない。

テーマがテーマだけに、しっかりと試聴してもらいたい、と考えている。
そのため、最初の二時間(19時から21時まで)は、ディスクに一枚に絞る。

どれにしようかと迷っていたが、
別項で触れているアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲にするつもりでいる。

おもに四楽章と五楽章を鳴らし、
あいだに一楽章をはさんでいく予定でいる。

とにかく開始からほぼ二時間は、このディスク以外はかけない。
218+αのテーマを一段落してからの21時以降、
さまざまなディスクをかけていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 3月 17th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その11)

別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。

218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。

音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。

その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。

私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その10)

iPhone(スマートフォン)でインターネットに接続していると、
さまざまな広告が表示される。

それらの広告で知ったのが、リコーフォトアカデミーだった。

ゼミナール、教養講座、ワークショップ、基礎講座が組まれている。
詳しいことは、リコーフォトアカデミーのサイトをご覧いただきたい。

カメラーメーカーの、こういう取り組みを知ると、
オーディオメーカーは? とやはり思ってしまう。

オーディオメーカーは、各地で試聴会を行っている。
東京では、今年は6月にOTOTEN、11月にはインターナショナルオーディオショウがある。

とにかく音は、そういう場で聴ける。
けれど、リコーフォトアカデミーのような取り組みを行っているメーカーはあるのだろうか。

リコーフォトアカデミーのページには、こうある。
     *
「カメラの使い方については一通り理解しているが思うような写真が撮れない」「自分のテーマが見つけられない」「なかなか写真が上達しない」写真を趣味として真剣に取り組んでいくと、このような悩みにぶつかる方も多いのではないでしょうか。

リコーフォトアカデミーでは、様々な被写体に対する撮影テクニックだけでなく、何をテーマとして何を表現するのか、という写真の本質を学べるカリキュラムを中心に、写真を生涯の趣味として楽しんでいくためのヒントとなる講座を幅広く開講いたします。
     *
このことは、オーディオにそっくりあてはまる。

Date: 3月 16th, 2020
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その3)

先週、二日ほどアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲を、
それこそくり返し聴いていた。

モバイルバッテリーでいろいろ試すためのディスクとして、
このディスクを選んだからである。

アバドの幻想は、ステレオサウンドで、当時試聴ディスクだったから、
試聴室ではCDでよく聴いていたし、
自宅ではLPで、飽きずに聴いていたものだ。

幻想交響曲に、特に思い入れはないから、
くり返し聴くのがわかっていたからの選曲である。

とはいっても、アバドの幻想交響曲を聴くのは、そのころ以来である。
三十年は優に経っている。

それだけの長いあいだ聴いていなくても、
第一楽章が鳴ってくると、おもしろいもので、そうだった、と思い出す。

試聴でよく聴いていたのは、いうまでもなく第四楽章であり、
第五楽章もけっこう聴いていた。

第一楽章から最後まで通して聴いたのは、数えるくらいしかない。
アバドの幻想を愛聴盤としている人からすれば、ひどい聴き方と誹られよう。

そんな聴き方ではあったが、
モバイルバッテリーのあれこれを試したあとは、通しで聴いた。

聴き終って、
アバドとウィーンフィルハーモニーとによるベートーヴェンの三番を無性に聴きたくなった。