Archive for 10月, 2018

Date: 10月 13th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その17)

ティラミス(Tiramisù)というイタリアのデザートが、
日本で知られるようになったのは1990年ごろと記憶している。

いまではすっかり定着してしまったティラミスの語源( Tirami su!) は、
イタリア語で「私を引っ張り上げて」である。
これが転じて「私を元気付けて」という意味もあるときいているが、
私がそのころ耳にしたのは、「私を気持ちよくさせて」という意味もある、ということだった。

引っ張り上げては、上に上げるわけで、つまりはそういうことか、と納得した。
「私を気持ちよくさせて」に、そういった性的意味があるのかどうかは別として、
ティラミス(私を気持ちよくさせて)が流行りはじめたころの日本は、
バブル期でもあった。

おもしろい偶然だな、といまになって思っている。
雑誌もこのころから変りはじめたのかもしれない、とも思う。

雑誌が変ったのか、読者も変ったのか。
少なくとも読者は雑誌に「私を気持ちよくさせて」ということを求めはじめたのではないのか。
その要求に、雑誌側も応えるようになってきた──、
少なくともステレオサウンドは、そうであるように感じる。

読者を気持ちよくさせること自体は悪いとはいわないが、
結局、それが読者の「私を不快にさせないで」を生み出すことになっていった──、
そんな気もしている。

ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記に、
読者であるavcat氏がツイートした件は、つまるところ、その程度のことから発している。

Date: 10月 13th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その9)

今月末にはヘッドフォン祭があり、11月にはインターナショナルオーディオショウがある。
秋のオーディオ関連のイベントが活発になる。

私が行くのは、いつも東京でのオーディオショウだけだった。
今年は、大阪のハイエンドオーディオショウにも行く予定でいる。

先日、別項で書いた大阪行きの日程を、
こちらのわがままで大阪ハイエンドオーディオショウの日程にあわせてもらった。

東京でのオーディオショウは、
OTOTEN、ヘッドフォン祭、インターナショナルオーディオショウなどがあり、
来場者がつくる雰囲気は決して同じではない。

OTOTENも国際フォーラムで開催されるようになって、
インターナショナルオーディオショウとの雰囲気の違いは、
これまで会場が違っていただけではないことが、はっきりした。

東京と大阪では、違うのだろうか。
そんなことを含めて、楽しみにしている。

Date: 10月 12th, 2018
Cate: audio wednesday

第95回audio wednesdayのお知らせ(再びULTRA DAC)

11月の94回audio wednesdayもまだなのに、
12月の、95回audio wednesdayについて。

9月にメリディアンのULTRA DACを聴いた。
この日、東京にいなかった人、仕事で無理だった人が、常連の方でも三人いる。

ULTRA DACをぜひ聴きたい、と、三人の声である。
すでに聴いた人(私も含めて)は、もう一度聴きたいと思っている。

喫茶茶会記の店主、福地さんもその一人だ。

12月5日のaudio wednesdayは、再びULTRA DACである。

9月のaudio wednesdayとは、スピーカーがバッフルが違う。
音はずいぶん違う。

その音で、ULTRA DACが聴ける。
以前書いているように、今年一年を通じてのテーマは、
アルテックでイタリアオペラを聴く、である。

今年最後のaudio wednesdayで、イタリアオペラがうまく鳴ってくれそうな予感だ。

Date: 10月 12th, 2018
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その19)

仲良しチームと周りの人に呼ばれている私を含む三人。
今日は、新しい人を加えて四人で会っていた。

少し飲みすぎて、この時間でもかなりアルコールが残っている。
ブログを書くのも面倒に感じるくらいに、まだ酔っている。

四人で会っていて盛り上った。
帰り際に「もう一軒よりももう一回」ということばがあった。

そうだな、と思ってきいていた。
「もう一回」は再会を約束することばでもある。

再会というと少し大袈裟すぎるように受け止められがちだが、
再会を約束して、きちんとまた会う。

それだけのことだ。
でも、そのことをきちんとしていくのが、幸福なのだろう。

Date: 10月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その16)

ステレオサウンドがつまらない、と書いてきている。
私はそう感じているけれど、
いや、とても面白いじゃないか、という人がいるのは知っている。

先日もSNSで、そういう人たちがいた。
誰が、どれを面白いと感じてもいい。

けれど、その人たちの発言を見ていると、
そういうのを面白い、というのかと、と思う。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
雑誌に何を求めるのか。

いまのステレオサウンドを面白い、という人たちは、
気持ちよくさせてくれれば、と思っているように感じた。

自分が鳴らしているスピーカーシステム、アンプ、CDプレーヤーなどが、
ステレオサウンドの誌面で高く評価される。

このことを嬉しく思わない人は、まずいないだろう。
でも、もういい大人なんだから……、ともつぶやきたくなる。

使っているスピーカーシステムが、高く評価される。
さらには新しい音とか、ハイエンドオーディオを代表する、とか、
そんなふうなことが書いてあったら、
そのスピーカーを使っている自分も、
ハイエンドオーディオファイルの一人だ、と思えるのだろうか。

読者を気持よくさせる。
それも雑誌の役目なのだろうか。

気持よくさせてくれる雑誌ならば、面白いというのだろうか。

Date: 10月 11th, 2018
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その1)

昨晩公開した「Cinema Songs」で、
黒田先生が《なんとなくモジモジしながら》薬師丸ひろ子の「花図鑑」を買われたことを書いた。

この《なんとなくモジモジしながら》という気持は、付加価値かもしれない──、
書き終って、ふと思った。

黒田先生は、以前ベイシティ・ローラーズのレコードを買ったときのことも書かれていた。
レコード店の店員に、「贈り物ですか」ときかれた、と書いてあった。

以前は、レコード(LPにしてもCDにしても)は、そうやって買うしかなかった。
クラシックのレコードなら、
作曲家別だったり、演奏家別だったりする分け方をされた多くのレコードを一枚一枚、
ジャケットを見て、手にとって、レジまで持っていく。

レジにはとうぜん店員という人がいる。
馴染みのレコード店なら、顔なじみの店員がいるし、
初めてのレコード店、めったに行かないレコード店ならば、
見知らぬ人が店員としてレジにいる。

人がいるから、《なんとなくモジモジしながら》「花図鑑」を買うことになる。
誰もいないレジで、客が自分でバーコードを読み込ませて──、という、
無人レジであったならば、《なんとなくモジモジしながら》ということはない。

インターネットでの購入でも、それはない。
宅急便で届くわけだが、配達する人は、そのダンボール箱の中身が、何なのかは知りようがない。
顔を合わせる人には、何も知られることなく買物ができるのがいまの時代であり、
顔を合せずには買うことができなかった時代を生きてきた。

だから《なんとなくモジモジしながら》という黒田先生の気持はわかる。
そういう気持だけではない。

イタリア・チェトラから、
フルトヴェングラーとミラノ・スカラ座による「ニーベルングの指環」が出た。
私にとって、初めての「ニーベルングの指環」の全曲盤だった。

銀座の山野楽器で買ったときは、少し誇らしい気持があった。
いまみたいにCDボックスの一枚あたりの値段の安さなんてことは、
そのころは考えられないほどに、レコード一枚の値段は、決して安くはなかった。

「ニーベルングの指環」全曲盤ともなると、枚数も多いし、重いし、高かった。
やっと買える(買えた)という気持があったのは、いまも忘れない。

顔を合わせて買うからこそ生じる買い手の気持、
これは、個人的な意味での付加価値かも、とおもう。

Date: 10月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その1)

ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、こう書かれている。
     *
 薬師丸ひろ子の「花図鑑」というコンパクトディスクを買ってきた(イースト・ワールド CA32・1260)。やはり、堂々と買う,というわけにはいかず、なんとなくモジモジしながら買った。なぜモジモジしたのか、自分でよくわからない。自分が、レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層から完璧にはずれたところにいることを意識しての、買うときのモジモジであったかしれなかった。
 いずれにしろ、たとえモジモジしながらでも、どうしてもこのコンパクトディスクが、ぼくはききたかった。ひとつは、なにを隠そう、ぼくは薬師丸ひろ子のファンだからである。特に彼女の、どことなく危なっかしい、それでいて若い女の人ならではの輝きの感じられる声が、ぼくは大好きである。それに、もうひとつ、この「花図鑑」をどうしてもきいてみたい理由があった。中田喜直と井上陽水が、ここで作品を提供しているのをしったからである。あの中田喜直とあの井上陽水が、薬師丸ひろ子のために、どんな曲を書いたのか、それをきいてみたかった。
 よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
 音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
 薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
 決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
 しかし、それは、どうでもいい。中田喜直と井上陽水が薬師丸ひろ子のために書いた歌は、それぞれの作曲者の音楽的特徴をあきらかにしながら、しかも薬師丸ひろ子の持味もいかしていて、素晴らしかった。モジモジしながらでも、このコンパクトディスクを買ってよかった、と思った。
     *
黒田先生は1938年生れだから、私より25上である。
黒田先生は「花図鑑」を《なんとなくモジモジしながら》買われた。

80号は1986年に出ている。
黒田先生は48歳、私は23。

薬師丸ひろ子は1964年生れ。
私は《レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層》に含まれていた、だろう。
それでも黒田先生の《なんとなくモジモジしながら》という気持は、わかる。

いまはamazonを筆頭に、インターネットで簡単に注文でき自宅に届く。
《なんとなくモジモジしながら》ということを味わうことは、もうない時代でもある。

いわば、こっそり買える時代だ。
でも、薬師丸ひろ子のCinema Songsは、それでは買わなかった。
レコード店で買った。

《なんとなくモジモジしながら》ということはなかったけれど、
それでも堂々と買う、ともいいきれなかった。

Date: 10月 10th, 2018
Cate: 楷書/草書

楷書か草書か(その7)

音である以上、手本となる音は消えてしまう。
見たい(聴きたい)ときに、すぐそこにあるわけではない。

オーディオの臨書は、そこが決定的に難しい。
それでも、なんとか臨書的なことはできないものか。

システム全体となると、
もう一度、その音を聴くには、同じ人にセッティングしてもらうか、
その人のレベルに肩を並べるくらいまで腕をあげるか、である。

けれど、もう少し範囲を狭くしたらどうだろうか。
たとえばグラフィックイコライザーである。
同じモデルを二台用意する。

一台を、きちんとした実力のある人に調整してもらう。
どの帯域をどれだけ動かしたのかは、
フロントパネルをブラインドフォールドしてしまう。

そのうえで、もう一台のグラフィックイコライザーを自分でいじって、
同じ音になるように調整していく。

これだともう一度、手本となる音を聴きたければ、
ブラインドフォールドしたグラフィックイコライザーを接続すれば、すぐに聴ける。

その音を確認したら、また自分での調整に戻る。
これを何度もくり返していけば、そうとうに実力、
つまり聴く力は身につくはずだ。

それでも、グラフィックイコライザーをきちんと調整できる人は、
ほんとうに少ない。

腕が自信がある──、
そんなことを豪語している人であっても、
ただ自分の好きな音に、音のバランスを無視して仕上げていたりする。

そういう調整がされたグラフィックイコライザーは、臨書における手本にはならない。

Date: 10月 10th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・ある誘い)

facebookの友達申請。
私は、オーディオ好き、音楽好きということがわかれば、
面識のない方からの友達申請であっても、メッセージがなくとも承認している。

面識のある人のみ、としている人、
顔写真がプロフィールにあって、メッセージを送ってくること、など、
承認するかどうか、人によって違う。

SNS(Social Networking Service)を、
SES(Social Experiment System)ぐらいに捉えている私は、
そんなこまかなことはいわずに、ほぼ全員承認するようにしている。

なので、まだ一度も会ったことのない人のほうが多い。
そういう人は多い、と思う。

今日、facebookでつながっている人(面識はない)から、
facebookの機能を介しての電話があった。

あるお誘いの電話だった。
たいへん興味深い誘いであった。

SESと思っているくらいだから、本格的な冬が来る前に大阪に行くことにした。

Date: 10月 10th, 2018
Cate: audio wednesday

第94回audio wednesdayのお知らせ(歌謡曲を聴く)

11月のaudio wednesdayのテーマは、「歌謡曲を聴く」。
歌謡曲としているが、厳密な意味での歌謡曲だけ、ということではなく、
広く日本語の歌を聴こう、というテーマである。

私が持っていく予定のディスクは、グラシェラ・スサーナ以外では、
薬師丸ひろ子の「Cinema Songs」である。

薬師丸ひろ子の歌は、「セーラー服と機関銃」が最初だった。
私と同世代(近い世代)の人ならば、そうであるはずだ。

シングル盤、LPを買うことはなかった。
私が最初買った薬師丸ひろ子のディスクは「花図鑑」。

いまはユニバーサルミュージックから出ている(当時は東芝EMIだった)。
「Cinema Songs」はビクターから出ている。
黒田先生が、ステレオサウンドに連載されていた「ぼくのディスク日記」で知った。

それからぽつぽつ買うようになった。
今年になって、20年ぶりのアルバム「エトワール」がビクターから出た。

でも持っていく予定は「Cinema Songs」である。
一曲目をアルテックで聴いてみたいからだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 10月 9th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(BLUE:Tokyo 1968-1972・その3)

別項「楷書か草書か」で臨書のことを少し書いた。
臨書もまた「うつす」行為である。

書の勉強をしているわけではない。
ただ少しばかり、いまごろになって書の世界に興味を持ち始めたところである。

そしてオーディオの世界との共通するところをつよく感じてもいる。

書の世界には「卒意の書」ということばがある。
書の世界での「卒意」と茶の世界の「卒意」は意味が違うようなのだが、
書の世界の「卒意」の対語は作為である。

辞書には、心のままであること、
特に書では、人に見せるなどの意図を持たず、心のままに、とある。

オーディオマニアならば、いい音を出したい、鳴らしたい、とおもう。
オーディオメーカーの人ならば、
いいアンプを、いいスピーカーシステムを、とおもっていることだろう。

いいアンプとは、いい音のするアンプということであり、
いいスピーカーシステムとは、いい音のするスピーカーシステムということのはずだ。

メーカーによるアンプにしろスピーカーにしろ、
それらは市場で売られていき、メーカーに利益をもたらすモノであるから、
そこでは、いい音であることのアピールもまた必要なのはわかる。

けれど「どうだ、いい音だろう」といわんばかりの音がないわけではない。
あからさまに「どうだ、いい音だろう」といっている音もあれば、
控えめではあっても、自信たっぷりの、暗にそういっている音もあるような気がする。

それに、それらのオーディオ機器は、音づくりということを謳っていたりする。
この音づくりこそ、作為の音へと向うのではないのか。
卒意の音とは反対の方向(違う方向)に行くのではないのか。

その2)で書いている写真、
偶然にも野上さんの「BLUE:Tokyo 1968-1972」と同時期に見ている。

対照的である。
誰の写真なのかは明かさないが、野上さんの写真とは対照的だったから、
その写真だけを見る以上に、つよい作為を、
いいかえればナルシシズムを感じた。

Date: 10月 9th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その33)

ホーンを取り付けたバッフルを、エンクロージュアの上にどう置くのか。
そのまま置くことが、まずある。

バッフルの下辺が天板に全面接触している状態である。
まずこれを基本として、エンクロージュア天板とバッフル下辺とのあいだに、何かを挿んでいく。

材質、形状、大きさによっても音は変る。
やみくもにやっても、どれがいいのかはわかりにくくなる。

まず材質を決めた方がいい。
金属なのか木なのか。
どちらが求める音なのか(近いのか)。

どちらかに決めて、大きさを変えていく。
大きさ(おもに高さ)が変れば、天板とバッフル下辺とのスペースが広くなっていく。
この空間(すきま)が、音に影響してくる。
ここでも二つ以上のパラメーターを変化させていることを自覚しておくべきである。

さらに……、とどれだけでも細かなことは書けるけれど、
まずは作ることが大事である。
今回は、これまでの経験から少し(2cm弱)バッフルを浮している。

バッフルの両端にそのためのスペーサー(半球状の木)をかましている。
これで前二点、そしてドライバーを支持している部材にも同じスペーサーをかまして、後一点。
バッフルを含むホーンと支持部材を含むドライバーは、この三点支持である。

三点支持のメリットは確かにある。
その良さを活かすには、三点支持内に、支えるモノがおさまっていることである。

ホーンとドライバーは、真上からみれば、三角形的である。
つまりもっとも三点支持が活きるのは、ここのところだといえよう。

Date: 10月 8th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その9)

いまでこそ、グレン・グールドのハイドンは、
私にとってなくてはならない一枚なのだけど、最初からそうだったわけではない。

20代の前半は、ハイドンもいいけれど……、といったところがあった。
やっぱりグールドはバッハ、ブラームス、モーツァルトと思い込もうとしていたフシがある。

以前書いているように27のときに左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

当時はiPhoneなどなかった。
CDウォークマンも持っていなかった。
音楽を聴けるわけではなかった。

入院して一ヵ月ぐらい経ったころだったか、
ハイドンのピアソナタを口ずさんでいるじぶんに気づいた。
松葉杖をついて歩いている時に、口ずさんでいる。

もちろんグールドの演奏を口ずさんでいた。
ハイドンを、私はグールドの演奏で初めて聴いた。

その後、ブレンデルを聴いている。
ブレンデルの演奏を聴いていて、なんて変った演奏なんだろう、と感じるほど、
グールドのハイドンは聴いていた。

そうやって聴いていたグールドのハイドンを、
退院が近くなったころに、口ずさんでいた。
まだまだリハビリは必要だったけれど、治りつつあるのを感じていたのかもしれない。

そのときのハイドンである。
ハイドンよりも、バッハは、もっと多く聴いていたのに、
バッハを口ずさむことは退院するまでおとずれなかった。
グールドのハイドンの置き位置が、変った。

Date: 10月 7th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その2)

黒田先生の「レコード・トライアングル」は、本である。
magazineではなく、bookとしての単行本であるが、
そこに収められている文章は、すべてなんらかの雑誌に書かれたものをである。

「レコード・トライアングル」のあとがきにあるように、
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》ともいえる。

つまり書き下しではない。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》は、
どこかで読んだことのある文章が、いくつも載っていたりする。
読み手にとって、初めての書き手の文章ならば、そうではないけれど、
興味・関心をもって読んできている書き手の文章ならば、
けっこうな数は、いつかどこかで読んできた文章でもある。

「レコード・トライアングル」のような本は、
いわば雑誌と本の中間にあるような存在なのか、といえそうだし、
そう受け止める人もいるんだろうけれど、
私にとっては、一冊の単行本である。

書き下しであろうがなかろうが、まったく関係ない。
それにすべての文章をすでになんらかの雑誌に掲載されていた時に読んでいたとしても、
一冊の本としてまとめられ、一気に読める(読む)ことの楽しさ、
それにともなう発見は、雑誌掲載時にはなかなかできないことでもある。

雑誌に掲載されているときは、他の書き手の文章といっしょに、である。
そして、つねに掲載時の「いま」を同時に読んでいる、ともいえよう。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》におさめられている文章は、
比較的最近に書かれたもの、数年前の文章、もっと以前の文章でもある。

一冊に本にまとめられるときに、手直しがまたくないわけではないが、
掲載時と大きく変っていたりはしない。

なにがいいたいかのだが、結局私にとって、雑誌も単行本も、
本として受け止めている。

私にとって書店で売られているのは、本であり。
雑誌には広告が入っているから信用できない、とか、
書き下しの本が、格上だとか、そんなことは考えたこともない。

そのうえで、ステレオサウンドは、
以前は確かにオーディオ評論の本だっことについて書いていきたい。

Date: 10月 7th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その8)

フリードリヒ・グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集について以前書いている。
録音は決してよくない。
それでもthe GULDA MOZART tapes のI集とII集で聴けるモーツァルトは、ほんとうに素晴らしい。

聴いていて、ふと思ったことがある。
グルダのハイドンを聴いていないことに気がついた。

グルダ、ハイドンで検索してみても、ほとんどヒットしない。
私がグルダの聴き手として怠慢ゆえに聴いていないだけでもなさそうである。

その7)を書く数ヵ月前に、the GULDA MOZART tapesを聴いていて、
グルダのハイドンを聴いてみたい、と思っていた。

と同時に、the GULDA MOZART tapes のI集とII集にあたる録音は、
グレン・グールドだと、どれなのか、とも思った。

すぐに、ハイドンだ、と思った。
そう思ったからこそ、グルダのハイドンを無性に聴きたくもなったわけだ。

グールドもモーツァルトは録音している。
黒田先生は《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》と書かれていた。

そういえるし、五味先生もグールドのモーツァルトは高く評価されていた。
     *
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
     *
そのとおりだとおもう。
それでも、グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集を聴いていると素直になれる。
録音がよくないこともあって、これでいいだろう、と素直におもうところがある。

グールドのモーツァルトだと、そうはいかないところが、私にはある。
もっと何かを求めようとしている自分に気づく。