無人島に流されることに……(その8)
フリードリヒ・グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集について以前書いている。
録音は決してよくない。
それでもthe GULDA MOZART tapes のI集とII集で聴けるモーツァルトは、ほんとうに素晴らしい。
聴いていて、ふと思ったことがある。
グルダのハイドンを聴いていないことに気がついた。
グルダ、ハイドンで検索してみても、ほとんどヒットしない。
私がグルダの聴き手として怠慢ゆえに聴いていないだけでもなさそうである。
(その7)を書く数ヵ月前に、the GULDA MOZART tapesを聴いていて、
グルダのハイドンを聴いてみたい、と思っていた。
と同時に、the GULDA MOZART tapes のI集とII集にあたる録音は、
グレン・グールドだと、どれなのか、とも思った。
すぐに、ハイドンだ、と思った。
そう思ったからこそ、グルダのハイドンを無性に聴きたくもなったわけだ。
グールドもモーツァルトは録音している。
黒田先生は《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》と書かれていた。
そういえるし、五味先生もグールドのモーツァルトは高く評価されていた。
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暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
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そのとおりだとおもう。
それでも、グルダのthe GULDA MOZART tapes のI集とII集を聴いていると素直になれる。
録音がよくないこともあって、これでいいだろう、と素直におもうところがある。
グールドのモーツァルトだと、そうはいかないところが、私にはある。
もっと何かを求めようとしている自分に気づく。