Archive for 8月, 2018

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その9)

このことはavcat氏だけではなく、
ハイエンドオーディオを標榜している人たちの中にも感じていることなのだが、
どうも「毒」というものに対して、強い拒絶反応があるのではないか。

このことは若いから、とか、聴く音楽のジャンルに関係している、とか、
そんなこととはほほ無関係に、「毒」を強く拒絶する人がいるし、
増えて来つつあるように感じてもいる。
そういう音の追求もある。

毒をもたない音は、薬にもならない。
そんなふうに考える人(私を含めて)も、当然いる。
「毒」こそが音の美へと転換できる、
それこそが再生音楽(オーディオ)だ、と考えているからだ。

(その7)でリンクした木谷美咲氏の『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』、
ここで私が興味深いと感じたのは、園芸と盆栽について以上に、
盆栽と緊縛について触れられているところだ。

『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』を知る数週間前、
電車の中で、小学生二人の会話が聞こえてきた。
マンガの話のようだった。

そのマンガ(タイトルまではわからなかった)には、ヒーローが登場するようなのだが、
いわゆるヒーローものではなく、Hとエロだからこそのヒーローらしい。

ヒーローはheroである。
heroはHとero(エロ)に分けられる。
どうも、これにひっかけての、ちょっと風変わりなヒーローもののマンガのようである。

エッチな人、という、このエッチは変態のローマ字書き(hentai)の頭文字をとったもの。
そこにエロが加わったのがヒーローとするという視点は、少なくとも私は、今回初めて知った。

これだけだったら他愛ないことで終っていただろうが、
『日本の独自文化「盆栽」と「緊縛」の密接な関係』がそれに続いたし、
その前にはavcat氏へのステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪の件もあったから、
印象に残ることになった。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その10)

1980年代の終りに、マークレビンソンのコントロールアンプNo.26が、
プリント基板を一般的なガラスエポキシからテフロン製に変更したNo.26Sを出した。

プリント基板以外の変更点はなかった、と記憶している。
テフロン基板のNo.26Sは話題になった。
そのくらい音の違いは大きかった。

テフロン基板は音がいい、ともいわれていたようだ。
でも、自作したことのある人で、ガラスエポキシ基板を指で弾いた音を聞いている人ならば、
テフロン基板が音がいい、というよりも、
ガラスエポキシ基板の音が悪いことを知っているのではないか。

私はテフロン基板の電気特性よりも、
このガラスエポキシ基板のいやな音がしないからこその音の違いではないかと思っている。

つまり半導体アンプでも、部品が取り付けられているプリント基板によって、
それだけ音の違いが生じる。
まして真空管は、よりその影響を受けやすい。

そこにガラスエポキシのプリント基板は、私だったら絶対に使わない。
聴感上のS/N比を、わざと悪くしたい人は使えばよい。

部品点数の多いアンプを、バラツキなく製造するということではプリント基板のメリットは大きい。
けれど真空管ハーモナイザーは、いわゆるアンプではない。
それがなけれは音が鳴らせないというモノではない。
あえて追加するものに、
しかもハーモナイザーと名付けているモノに、ガラスエポキシのプリント基板は、ない。

真空管ハーモナイザーを名のらせるのなら、
真空管の固定、つまりソケットをどこに取り付けるのか。
このことに無頓着であっていいはすがない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その16)

グッドマンの12インチのフルレンジといえば、
五味先生がタンノイの前に鳴らされていたのもそうだった──、
と7月のaudio wednesdayで、AXIOM 402の音を聴いていて思い出していた。

五味先生はグッドマンについて、
《私の場合、最初に愛情をもってそばに置いたのは、グッドマンの12吋だった》
と、「オーディオ人生(4)」(ステレオサウンド 24号)に書かれている。

このころの五味先生は《グッドマンでうまく鳴るような、そういうレコードしか買わなかった》とある。
グッドマンの12吋でうまく鳴り、忘れ難いレコードとして、
《ヘンデルの〝コンチェルト・グロッソ〟第八番(ハ短調)であり、ヴィヴァルディの〝ヴィオラ・ダ・モーレ〟だった。どちらも英デッカ10吋盤で、ヴィヴァルディの方はS氏所蔵のものを借りて聴いた》、
この二枚をまず挙げられている。

そしてモーツァルトのピアノ協奏曲についても触れられている。
     *
 ピアノの音は、人声とともにスピーカー・エンクロージァの性能を知る上では最も直截に答の出るもので、残念ながらグッドマンではピアノの低音が思わしくなかった。でも他にスピーカーが無いのだから鳴り方に不満があるからとピアノ曲を聴かぬわけにはいかない。
 K四六六はクララ・ハスキルの演奏で、ハスキルの弾くモーツァルトなら無条件で一度は聴いてみようというのが私の考えで、同じ女流ピアニストでもリリー・クラウスとは大分、違うと思っている。K四六六は、戦前、シュナーベルの弾いたのがあり、ベートーヴェン弾きの彼が、ベートーヴェン自身のこの曲に寄せたカデンツァをなぞっていたかどうか、当時中学生の私にそれの分るわけはなく、兎に角、第一楽章冒頭のあの低弦音による異様に暗い出だしばかりは、一度耳にしたら忘れ難くて、モーツァルトにもこんな暗い音楽があるのかと、当時おもっていた。スタンダールの言う「モーツァルトの音楽の基底にあるものは、”tristesse”(かなしみ)だ」などと知る年頃でもなかったのである。何にせよ、モーツァルトのピアノ協奏曲にK四六六のあることだけは、でも、おぼえていて、S氏宅でハスキルの演奏を聴かされたとき、K四六六は彼女のものを買おうと思ったのを忘れない。
 グッドマンの音は、かさねて言うが所詮グランド・ピアノのそれではなく、果して、ハスキルの演奏を再現していてくれたかどうか、今では覚束ない。しかしこの曲が、貧乏つづきで次第に生活の苦しかったモーツァルトの、いわば苦境時代に成ったことを解説で知り、やはりそうかと思った。
 モーツァルトはもうぼくらの手の届かぬ大天才と私は思っていたし、事実それに違いはないのだが、幾多の彼の名作をLPのおかげで聴けるようになって、あまりな多作に私は疑問をいだき始めていたのだ。「モーツァルトは天才でいる暇さえなかった、〝天才〟に追いまくられた彼は速記者にすぎない。だからこそ、あれだけの作品をあの年齢で残せたのだ。そうとでも思わねば、大天才がこんな悲痛な奏べをうむわけがない」と。音楽青年めいたドグマにきまっているが、ハスキルの弾く小ロンドふうな第二楽章(ロマンツェ)を聴いていると、そんなモーツァルト像が私の前に浮んで来た。私は天才ではないし、文章の大変遅い、遅筆な小説家だが《早すぎるモーツァルト》のこの tristesse に不思議な勇気を教えられたことを忘れない。
 グッドマン時代はつまり、レコードを聴くことがすべて小説家たる私の在り方に関わっていたわけになる。こういう聴き方は、今から想えば他愛のない、むしろ滑稽なものだが、音楽は、メタフィジカルなジャンルに属する芸術——もしくはそのような何かであり、時にそれは倫理学書をひもとくに似た心の粛正と、感銘を与えてくれる、とそのころ私は考えていた。事実そして多くのものを音楽から得た。それだけに、単なる好き心でグレード・アップを企画したことはないし、スピーカーの音色ひとつにも時に歓喜し、時に絶望して今日のオートグラフにたどり着いたのである。怪我の功名だったのか。
     *
また一度、audio wednesdayで、グッドマンの12インチを鳴らしてみよう。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: オーディオ評論

はっきりと書いておく

オーディオは楽しい。
いくつになっても楽しい。
けれど、オーディオ雑誌がつまらなくなって、もうどのくらい経つか。
オーディオ評論が色褪てしまって、ずいぶん経つ。

オーディオはいまも楽しい。
これから楽しいはずだ。
オーディオ雑誌は、今後も期待できそうにない。
オーディオ評論に関してもそうだ。

オーディオは楽しいのに、なぜそうなってしまったのか、
さらにそうなっていくのか。

その理由は、はっきりとしている。
瀬川先生がもういないからだ。

何をバカなことを書いている、と思う人には、
どれだけ言葉を費やして説明しても無駄だ。

オーディオは楽しい。
なのにオーディオ雑誌、オーディオ評論が……、と感じている人は、
その理由を考えてみればいい。
いくつか思いつくだろう。

そのいくつか思いついた理由を、さらにどうしてそうなったのか、と考えてみればいい。

瀬川冬樹がいなくなった。
オーディオ雑誌は、そこからつまらなくなっていった。
オーディオ評論は色褪るだけである。

このことがわからない人に、
おもしろいオーディオ雑誌はつくれない、
オーディオ評論は書けない。
はっきりしていることだ。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: デザイン

SG520とC240(その2)

C240以前のアキュフェーズのコントロールアンプは、C200(S)とC220だった。
C200はフロントパネル下部にヒンジドパネルを、
C220はフロントパネル中央にサブパネルをもつ。

C240は、プッシュポタンを多用したデザインでも話題になった。
ボタンの数は57、レバースイッチは1、ボリュウムを含む回転式は4、
そしてヒンジドパネルもサブパネルも、C240にはない。

C240の四年後に登場したC280にはヒンジドパネルがある。

実をいうと、そのころはC240にヒンジドパネルがないことを、特に意識していたわけではなかった。
瀬川先生のデザインということは、割と早くから知っていた。
それでもヒンジドパネルがないことにもちろん気づいていたけれど、
そのことを深く考えもしなかった。

C240とペアとなるパワーアンプのP400にもヒンジドパネルはない。
P400以前のP250、P300にはヒンジドパネルはある。

チューナーのT104にもない。
T100にはある。

C240、P400、T104のシリーズは、ヒンジドパネルを省いている。
この意味を考えるようになったのは、
SG520とC240を比較するようになったからである。

SG520はマークレビンソンのLNP2登場まで瀬川先生が使われていたこと、
C240は瀬川先生のデザインであること。
このふたつの事柄を、なぜかそれまで結びつけようとは思わなかった。

関係のない、二つの事柄としか捉えていなかった。
それが、ある日、あっ、そうだ! と気づいた。

C240は、SG520をメインのコントロールアンプとして使われていた瀬川先生のデザインなんだ、と。

Date: 8月 5th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

ネットワークの試み(その14)

かなり以前からいわれているノウハウ的なことので、
古くからスピーカーユニットを組み合わせてシステムの自作に苦労してきた方ならば、
それもコーン型ウーファーとホーン型のトゥイーター、スコーカーという組合せならば、
私が書くことは、いわば常識といえることである。

それでも、いまでは知らない方も少なくないようだから書いておく。
このことはステレオサウンドでも、菅野先生、井上先生が発言されたり書かれている。

例えばウーファーもスコーカーもトゥイーター、すべてコーン型で、
振動板の素材も同じというのであれば、
ネットワークの苦労はかなり減る、といえる。

ところがコーン型とホーン型とでは、そうはいかない。
それぞれのユニットからの音色に違いがありすぎる。

結局、クロスオーバー付近の音を、いかにうまく抜くか、である。
つまりウーファーのカットオフ周波数と、
トゥイーター(スコーカー)のカットオフ周波数を、離すわけだ。

うまく抜くことで、それぞれのユニットの音色がうまく混じり合ってくれることがある。

以前試した直列型ネットワークでは、このことはやっていなかった。
まずは喫茶茶会記のシステムでの直列型ネットワークの音を確かめたかったからで、
コイズミ無線製のネットワークとの比較、
さらにコイズミ無線製のネットワークに手を加えた音との比較を元に、
今回(というか今年になって)の直列型ネットワークは、あいだを抜いている。

抜く(離す)といっても、どのくらいにするのかは、音を聴いて判断することであり、
一概にこのくらいとはいえない。

それにスロープ特性も関係してくることだし、その他の要因も無視できない。
無責任のようだが、カット&トライしかない。

今回は直観で決めている。
うまくいっているようだ。

もちろん、もっといいコイルの値、コンデンサーの値はあろう。
でも、いまはそれを追求する前に、いくつかやっておくことがある。

Date: 8月 5th, 2018
Cate: デザイン

SG520とC240(その1)

JBLのコントロールアンプのSG520とアキュフェーズのC240。
私が並べて、そのデザインを比較してみたいコントロールアンプである。

コントロールアンプのデザインで、それに続くデザインに大きな影響を与えたのは、
マランツのModel 7がよく知られている。

SG520は、どうだろうか。
そのデザインは、発表当時、話題になったことは知っている。
いまもコントロールアンプのデザインの傑作のひとつに挙げられる。

私も一時期SG520は使っていた。
SG520はグラフィックコントローラーとも呼ばれていた。
1964年にSG520のデザインは、大きな衝撃だっただろう。

そういえばSG520以前にヒンジドパネルを採用したオーディオ機器はあったのだろうか。
詳細に調べたわけではないが、SG520はかなり早い時期からヒンジドパネルを採用していた。
少なくとも、私の中では、SG520のデザインについて、ヒンジドパネルのことをまず語りたくなる。

SG520はロータリー式のレベルコントロールも入力セレクターはない。
スライド式のボリュウム、バランサー、トーンコントロールに、
ボタンによる入力セレクターとモード切替え、
それまでのコントロールアンプを見慣れた目には、新鮮だったはずだ。

SG520は瀬川先生も使われていた。
瀬川先生はModel 7も使われていた。

アキュフェーズのC240は、瀬川先生のデザインによるコントロールアンプである。

Date: 8月 5th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

ネットワークの試み(その13)

その8)で書いたことを、先日のaudio wednesdayでは試した。
audio wednesdayでは、6dBスロープの直列型ネットワークを使っている。
audio wednesday以外では、コイズミ無線製の12dBスロープのネットワークである。

スロープ特性も違うし、並列型と直列型の違いもあり、パーツも違う。
それに直列型であっても、スピーカーの教科書に載っている結線とは、また少し違う。

これだけ違うのだから、二つのネットワークの音はずいぶん違う。
audio wednesdayでは、もうコイズミ無線のネットワークに戻すことはない。
いま使っている直列型ネットワークには、それだけの手応えを感じている。

自宅のシステムなら、音を聴いて駒かな変更も加えていけるが、
なにしろ自分のシステムではなく、月一回だけの音出しだから、
いわば一発勝負で、コイル、コンデンサーの値は決定している。

これらパーツの配置にしても、これでいこう、という感じで決めている。
ほんとうは、これらを含めて、音を聴きながらじっくり検討を加えたいところだが、
一発決めにしては、まぁ、うまく鳴っている、と感じている。

それでもあれこれいじりたいわけで、
8月のaudio wednesdayで、少し変更を加えた。
直列型ネットワークではトゥイーターとウーファーを一本のワイヤーで結ぶ。

具体的にいえばアルテックのドライバーのマイナス端子とウーファーのプラス端子を結線する。
ユニットを、このように直列接続するから直列型ネットワークである。

ここを銀の単線に変更したのが、先日のaudio wednesdayでの音である。

Date: 8月 4th, 2018
Cate: Wilhelm Furtwängler

フルトヴェングラーのことば(その1)

フルトヴェングラーの「音と言葉」。
「アントン・ブルックナーについて」という章で、こう書いてある。
     *
もう二十年以上も前になりますが、あらゆる世界の国々の全音楽文献をあさって、最も偉大な作品は何かという問合せが音楽会全般に発せられたことがありました。この質問は国際協会(グレミウム)によって丹念に調査されたうえ、回答されました。人々の一致した答えは、──『マタイ受難曲』でもなければ、『第九シンフォニー』でも、『マイスタージンガー』でもなく、オペラ『カルメン』ということに決定されました。こういう結果が出たのも決して偶然ではありません。もう小粋(エレガンス)だとか、「申し分のない出来」とか、たとえば「よくまとまっている」とかいうことが第一級の問題として取り上げられるときは、『カルメン』は例外的な高い地位を要求するに値するからです。しかしそこにはまた我々ドイツ人にとってもっとふさわしい、もっとぴったりする基準もあるはずです。
(新潮文庫・芳賀檀 訳より)
     *
「アントン・ブルックナーについて」は1939年だから、20年前というと1919年以前。
ニイチェが亡くなったのが1900年。
ニイチェの「ワーグナーの場合」のこと。

そんなことも考えながら、もっとふさわしい基準、もっとぴったりする基準、
名曲はオーディオの名器にも置き換えられる。

いろんなことにつながっていき、いろんなことを考えさせられる。

Date: 8月 4th, 2018
Cate: 再生音, 背景論

「背景」との曖昧な境界線(その2)

「ミッション:インポッシブル」のアクションシーンを、
どんなに説明してもCGだ、といいはる人が面白いのは、
ジャッキー・チェンは凄い、というところにもある。

ジャッキー・チェンはCGを使わずにアクションシーンをこなしている。
そういって褒める。

ならば「ミッション:インポッシブル」のトム・クルーズもそうであるのに、
こちらは何度もいうように、CGだ、と彼の頭の中ではそうなっていて、
例えCGではないシーンがあっても、それはスタントマンが演じている、とまでいう。

私も20代のころ(つまり1980年代)は、ジャッキー・チェンの映画はよく観ていた。
ジャッキー・チェンはよくやっている、と感心するのは、
エンディングでのNGシーンが映し出されるからでもある。

本編では一度でうまくやっているシーンでも、実際はそうではない。
何度も何度も同じシーンをくり返して、やっとうまくいくのを観ている。
おそらく、「ミッション:インポッシブル」をすべてCGといいはる人も、そうなのだろう。

1980年代は、いまのようなCGの技術はなかった。
生身のアクションシーンであった。
だから、みんな、凄いと素直に信じる。

ところがいまは違ってきている。
ジャッキー・チェンは、いまもアクションシーンをやっているようだが、
仮にCGでアクションシーンをつくっていたとしても、
「ミッション:インポッシブル」はCGといいはる人には、CGは使っていない、ということになる。

彼の判断基準は、ジャッキー・チェンのNGシーンと、
いくらなんでもそんなシーンは実際にはやっていないはず、という彼の思い込み、
それに想像力のそこまで及んでいないことによってつくられているといえそうだ。

Date: 8月 4th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その9)

真空管をいくつか交換してみてまず気づくのは、S/N比の変化である。
物理的なS/N比は、使用真空管によって違ってくる。

それに真空管ハーモナイザーを使うということは、使わない状態よりもS/N比的には不利である。
S/N比が向上する、ということはない。

その劣化をわずかでも抑えるために、よりノイズの少ない真空管を選別するという方法もあれば、
シールドケースを使う、という方法もある。

シールドケースは効果的に思っている人もいるようだが、
構造的にはむしろ使わない方がいいことが多い。

一般的なシールドケースは、真空管の頭をスプリングで押さえつける。
このスプリングが共鳴の元で、鳴っているし、
スプリングを使っているシールドケースは外側の金属ケースも、
指で弾くと安っぽい音がしがちだ。

この手のシールドケースを真空管にかぶせると、
中高域にイヤなキャラクターがのる。
あきらかに聴感上のS/N比が悪くなる。

実測すれば、シールドケースがきちんとシールドとして機能しているならば、
物理的なS/N比は若干向上しようが、機械的な雑共振のせいで、
聴感上のS/N比は、くり返すが確実に悪くなる。

探せばスプリングを使っていないシールドケースというモノもある。
以前、それについて書いているので、ここでは省略する。

この聴感上のS/N比の点からすれば、真空管ハーモナイザーに疑問がある。
なぜプリント基板の上に真空管が乗っているのか、と。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(中心周波数・その3)

グラフィックイコライザーの評価は、バンド数とその中心周波数だけで決るわけではない。
同じバンド数と同じ中心周波数であっても、
回路構成、その他によって音は違ってくるし、
イコライザーはなにより使いこなしが、非常に重要なオーディオ機器である。

使いこなしに長けていれば、
中心周波数の設定にそれほど細かくこだわる必要はないのかもしれない。
ただ、同条件での比較が難しいから、なんともいえない。

私が知る範囲では、ビクターのSEA7070だけが、中心周波数の違いがどう影響するのかを、
まったく同条件で比較できる。

SEA7070は1977年に登場した11バンドのグラフィックイコライザーである。
価格は135,000円。

中心周波数は31.5Hz、63Hz、125Hz、250Hz、500Hz、1kHz、2kHz、4kHz、8kHz、16kHz。
これもテクニクスと同じ、他の多くのグラフィックイコライザーと同じで、
もうひとつの中心周波数は1kHzと考えていい製品だ。

SEA7070は、それぞれの中心周波数を1/3オクターヴずつ上にも下にも変えられる。
つまり31.5Hzは25Hzと40Hzに、63Hzは50Hzと80Hzに、125Hzは100Hzと160Hzに、
250Hzは200Hzと315Hzに、500Hzは400Hzと630Hzに、1kHzは800Hzと1.25kHzに、
2kHzは1.6kHzと2.5kHzに、4kHzは3.15kHzと5kHzに、8kHzは6.3kHzと10kHzに、16kHzは12.5kHzと20kHz、
というふうに変えられる。

つまりSAEのMark 27と同じ二つ目の中心周波数のグラフィックイコライザーにもなる。
実際は630Hzと640Hzというスペック上の違いはあるが、
40万の平方根の632.455Hzの近似値であるのは同じだ。

SEA7070のようなグラフィックイコライザーは、他になかった、と記憶している。
SEA7070は使ったことがない。
だから、SEA7070が優れたグラフィックイコライザーなのかどうかは、私には判断できないが、
少なくとも中心周波数のもつ意味を徹底的に探ろうとするのであれば、
SEA7070に代るモノはない。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管バッファーという附録(その8)

真空管ハーモナイザーは、ネジを締めるだけとは半完成品である。
半完成品としたことで、これを購入した人は、
完成品を買うよりも、内部をあれこれいじってみよう、という気持になるであろう。

買った人のどのくらいなのかはわからないが、
真空管を交換してみよう、と思った人はけっこうな数ではないだろうか。

実際に交換した人はそこからは減るだろうが、それでも少なくはないだろう。
なにしろ真空管は一本だけだ。

これが三本も四本も使ったモノならば、話は違ってこようが、一本である。
しかもポピュラーな真空管である。

真空管の専門店に行けば、いくつかのブランドのECC82が売っている。
予算に余裕があれば、真空管全盛時代の未使用品も購入できる。

もっとも昔のテレフンケン、シーメンスのECC82として売っていても、
偽物も、残念ながら存在する。
よくいわれているダイヤマークにしても、1980年代から偽造されていた。

これだけでホンモノだ、と簡単に信用しない方が賢明だ。
結局、見分けるには、ホンモノを見て記憶するしかない。
もしくは、見分けられる人に頼むぐらいしかない。

それでも真空管はトランジスターと違い、差し替えが簡単である。
それに真空管のピン、ソケットといった接点のクリーニングも効果的である。
いろいろ試してみると、それだけで楽しくなる。

最初は一本だけだったECC82が、二本、三本……、と増えていくかもしれない。
もっといいECC82があるはず、と思うからだ。

気づくと、真空管ハーモナイザーの価格よりもずっと注ぎ込んでしまっていた……、
そういうことになった人もいよう。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その2)

タンノイのスピーカーにはKT88のプッシュプルアンプ。
これには異論がある、という人は多いかもしれない。

私だって、乱暴な書き方なのはわかっていても、
ジャディスのJA80で鳴らしたGRFメモリーの音は、
もう聴く機会はない、と諦めていたグラドのSignature IIの音を、
もう一度聴くことが叶った、と思わせてくれた。

この音が、私にとって、タンノイにはKT88プッシュプルという組合せを、
決定づけてしまった。

もっと長い時間聴いていたい、と思わせる音ほど、
短い時間しか聴けなかったりする。
このときのタンノイとジャディスの音もそうだった。

もっと聴きたい、と思っていただけに、よけいに印象深い音として記憶されているのだろう。

マッキントッシュのMC275、マイケルソン&オースチンのTVA1、
ウエスギ・アンプのU·BROS3、ジャディスのJA80、
こうやって書き並べていくと、
アメリカ、イギリス、日本、フランスと国がバラバラなのに気づく。

ジャディスだけがモノーラルで、あとはステレオ機。
トランスと真空管のレイアウトも、それぞれ違う。
MC275とU·BROS3は似ていると思われるかもしれないが、
トランスの順序、内部配線の仕方を比較すると、違いは大きい。
それにTVA1とJA80はプリント基板による配線である。

この四機種を同時比較したことはない。
タンノイのスピーカーで比較試聴すれば、それぞれの違いははっきりする。
そうなると、これら四機種のKT88プッシュプルに共通して感じている良さは、
あくまでも個人的に感じている良さではあるが、それは否定されてしまうかもしれない。

それでも、あえて書けば、意外にもこれらのアンプのフレキシビリティは高い、と感じている。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: 再生音, 背景論

「背景」との曖昧な境界線(その1)

ミッション:インポッシブル」(Mission: Impossible)の最新作、
「フォールアウト」が今日から公開されている。

「ミッション:インポッシブル」は私ぐらいの世代、私より上の世代にとっては、
「スパイ大作戦」を思い出させる。

「スパイ大作戦」の好きな方のなかには、
「ミッション:インポッシブル」を認めていない人がいるのも知っているけれど、
「ミッション:インポッシブル」は「ミッション:インポッシブル」で楽しめばいい、と思う。

私も一作目からずっと観てきている。
今回の「フォールアウト」も、トム・クルーズのアクションが撮影時から話題になっていた。

先日、仕事関係の人と「ミッション:インポッシブル」のことが話題になった。
前作「ローグ・ネイション」の冒頭の離陸する飛行機に、
トム・クルーズ扮するイーサン・ハントがしがみつくシーンがある。

このシーンを、話していた人は、
「あれ、CGだよ。トム・クルーズが実際にやっているわけないでしょ」と断言していた。

メイキングビデオを見れば、実際にやっているのがわかる、といっても、
そのメイキングビデオすらも、CGで作った、と言い張る。
あんな危険なこと、やるわけないでしょ、がその人の主張するところだった。

そういえば数年前も同じことを経験している。
サントリーの燃焼系アミノ式というスポーツドリンクのCMがそうだった。
このとき話していたのは、私よりも若い人だった。

彼は、CMでやっている運動を、すべてCGによるものだ、といっていた。
私は、違う、といったけれど、これも平行線のまま。

「ミッション:インポッシブル」について話していた人は、もう60代なかばの人。
世代は関係ないのだろう。

難度の高いアクションシーンを実際にやっての撮影と、
ブルーバックを使っての撮影にCGによる映像を合成したもの、
すべてを見分けられるかといえば、まず無理である。

CG合成の例を見ていると、
ふだんの何気ないシーンがCGであったりして驚くことがある。

そういう時代の映画を、われわれはいま観ている。